原爆で途絶えた王朝の血脈

 ソウルから約20キロ東の京畿道南楊州市に朝鮮王朝末期の2人の王が眠る王墓がある。第26代高宗の「洪陵」と第27代純宗の「裕陵」が隣り合わせにあるので、一般的には「洪裕陵」と呼ばれている。朝鮮王朝は日清戦争後に国号を大韓帝国に改め、日露戦争後に日本に外交権を奪われる。高宗は朝鮮王朝最後の王であり、大韓帝国初代皇帝でもある。その高宗の跡を継いだ純宗の在位期間は、わずか3年。大韓帝国が日本に併合されることで500年続いた王朝の幕は引かれることになる。

 2人の王が眠る洪裕陵には、高宗の正室だった明成皇后(ミョンソンファンフ)も葬られている。彼女は大韓帝国が成立する直前に死亡しているので、生前は皇后ではなく閔妃(ミンビ)と呼ばれていた。閔妃はロシアを利用して日本を排除しようとしたため、宮城に乱入した日本の守備隊や大陸浪人に惨殺されるという、前代未聞の事件の犠牲になった。その閔妃と高宗の間に生まれたのが純宗だ。

 洪裕陵と日本の因縁はこれにとどまらない。洪陵の背後にある「英園」には、「王朝最後の皇太子」になった英親王(ヨンチンワン)の墓がある。子がなかった純宗が大韓帝国皇帝に即位した1907年、高宗の側室から生まれた9歳の彼が皇太子になった。英親王の名は垠(ウン)、皇太子名は懿愍太子といった。同年10月、皇太子時代の大正天皇が、桂太郎東郷平八郎など陸海軍大将を随行して訪韓し、英親王と会見している。その2カ月後、英親王は人質として日本に連れていかれた。

 英園には英親王の妃、方子妃も一緒に葬られていた。方子妃の旧姓は梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)。昭和天皇の皇太后良子妃の従妹にあたる。日本皇族の方子妃は韓国併合後の1920年に政略結婚で李王家に嫁がされた。英親王と方子妃の結婚式は、その前年の1919年に予定されていたが、譲位した高宗の急死と、その葬儀に合わせて起こった大規模な抗日独立運動「3・1運動」のため1年延期された。高宗の死には側近による毒殺説があり、日本当局が関与したとする噂も流れていた。

 渡日した英親王は皇族の一員である「朝鮮王族」として特別待遇されたが、朝鮮に帰ることは許されず、方子妃と一緒に韓国への帰国を果たすのは、終戦後の1963年になってからのことである。英親王は1970年、方子妃は1989年にソウルで亡くなった。方子妃の葬儀には、日本から三笠宮崇仁親王夫妻が参列していた。

 筆者が洪陵を初めて訪ねたのは2002年の春だった。洪陵は一般公開されているが、英園は非公開となっていたため、文化財庁の許可をとり、高宗の封墳(古墳のように盛り土をした墓)の裏手にある小さな門から英園に入った。しばらくすると英親王と方子妃の封墳が現れ、歴史に翻弄された2人の人生を思わずにはいられなかった。案内してくれた職員によると、英親王と方子妃の命日には日本の関係者が墓参にくることもあるという。

 英園を訪ねた理由はもう一つあった。英園のさらに裏手にあるという徳恵翁主(トッケオンジュ)の墓の存在を確認することだった。朝鮮王朝では王妃から生まれた王女を公主、側室から生まれた王女を翁主と呼ぶ。高宗の一人娘で英親王より15歳年下の徳恵翁主は王朝最後の王女としても知られる。

 徳恵翁主も12歳の時に一人で日本に連れていかれた。学習院在学中にホームシックから早発性痴呆(統合失調症)を患ったといわれ、症状がやや回復した18歳の時、旧対馬藩主直系の宗武志(そうたけゆき)伯爵と無理やり結婚させられた。彼女は戦後、東京世田谷にある精神科専門病院の都立松沢病院に入院させられ、本人が知らぬまま協議離婚もすまされていた。英親王と方子妃が韓国に帰国する際、身寄りのない彼女を見るに忍びず、一緒に連れて帰ることになったという。徳恵翁主は方子妃が亡くなる直前に韓国で亡くなっていた。

 英園の封墳の裏手は枯れ木が散らばり、人が通った形跡はまったくなかった。付近の住民が敷地内に生えるウドを採りに無断で侵入することはあっても、その先にある徳恵翁主の墓参りをする人はいない。誰にも知られずひっそりたたずむ墓は、流転の王女がたどりつけた最後の安住の地だったのかもしれない。

 徳恵翁主の墓のすぐ近くに、碑石に名のないもう一つの墓があった。高宗の第2王子で、英親王の兄にあたる義親王(ウィチンワン)の墓だ。米国留学経験のある義親王は朝廷内でもっとも国際情勢に精通した人物だった。日韓併合後も水面下で抗日独立運動家たちと接触し、1919年11月に中国への亡命を試みるが、現在の中朝国境を渡ったところで日本の官憲に拘束されてしまう。その後の彼は徹底的な監視対象になり、一族は没落。戦後は彼の墓所がある土地まで人手に渡り、90年代になってここに移葬されたという。

 純宗には子がなく、皇太子の英親王は日本皇族と政略結婚したばかりか、義親王まで監視対象になったことで、李王家の血脈は途絶えたかに見えた。ところが王室再興の望みを託された人物が一人だけいた。義親王の2男、李鍝(イウ)。彼の墓がどこにあるのか探した結果、同じ南楊州市にある興宣大院君(テウォングン)の墓所と同じ場所にあることが分かり、そこも訪ねてみた。

 興宣大院君の本名は李昰応(イハウン)といい、高宗の実父にあたる。大院君とは王の父に贈られる尊称で、幼くして即位した高宗の摂政として絶大な権力を振るった。大院君の長男、つまり高宗の兄の家系が1917年に途絶えたため、李鍝が養子になって家督を継ぐことになった。李鍝は朝鮮の貴族女性と結婚していたので、王室再興を目指す抗日民族勢力が彼に期待を寄せるのも無理はなかった。

 李鍝は陸軍士官学校卒業後、太平洋戦争末期に陸軍中佐にまで昇進したが、命運はそこで尽きる。広島の第2総軍司令部に勤務していた1945年8月6日朝、いつものように馬に乗って出勤途中、原爆に遭遇してしまうのだ。爆心地から約300メートルの相生橋(あいおいばし)あたりで被爆したとみられ、手当の甲斐なく息を引き取った。
(拙著『誰も教えてくれない韓国の「反日」感情』より)

李鍝の死を報じる『毎日新報』




 

 

統一教会とは何なのか

 統一教会については過去に何度か記事にしたことがあるので、ここで紹介することにした。少し内容が古くなっているが、教祖・文鮮明(ムンソンミョン)亡き後の教団の理解に少しでも役立てばと思う。

 ちょうど山上徹也容疑者の母親が入信した98年頃(教団側の説明)、筆者はたまたま知り合った女性信者の救出に関わったことがある。プライバシーのため詳しいことは書けないが、親に内緒で合同結婚式に参加して韓国人男性と結婚していた彼女は、日本で「脱会」を真剣に考え始めていた。3年ぶりに親に再会することもできた。ところが教団の仲間と接した直後から音信不通になる。その時の苦い経験から、この異様な宗教団体を調べる気になったのかもしれない。

 統一教会は、数知れない家庭崩壊の上に富を築き上げてきたことが批判される宗教団体だ。言うまでもなく、被害者をもっとも多く出してきたのが日本。見当違いな逆恨みにより不条理な死を遂げた安倍元首相の冥福を祈る一方、教団を公然と利用してきた日米韓の政治家たちの脇の甘さも指摘しないわけにはいかない。

 山上容疑者は「教団の関係者に安倍元首相が寄せたメッセージを見て、殺害を決意した」と供述しているという。メッセージとは、昨年9月12日に「世界平和統一家庭連合」(1997年に「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)から改名)と関連団体「天宙平和連合(UPF)」が共催した「シンクタンク2022 希望前進大会」に寄せられたビデオメッセージのことで、トランプ前大統領も同様の基調演説を行っている。

 このイベントは「神統一韓国のための連帯および韓半島平和サミット組織委員会発足」というテーマで開催され、海外の大物政治家が賛辞を送っていることから、韓国メディアもニュースとして報じている。さらに今年2月に開かれた同委員会のイベントを、公営放送KBSが午後のメインニュースで流したのを見て驚いた(「韓半島平和会議、‟平和統一支持”宣言」<https://news.kbs.co.kr/news/view.do?ncd=5394987>)。

 同委員会の共同組織委員長を務めるフンセン・カンボジア首相と元国連事務総長潘基文(パンギムン)が会場に現れ、訪韓したマイク・ペンス前米国副大統領まで舞台に登場した。この他にも海外から多くの賓客が招かれ、日本からは元環境相原田義昭の姿もあった。イベントの中心人物は統一教会で神格化が一気に進む韓鶴子(ハンハクチャ)総裁。教団が世界平和をリードする有力団体という印象を与えかねない、問題をはらんだ報道だった。

統一教会のイベントに登場したペンス前米副大統領。KBSニュースより



 

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統一教会文鮮明氏 「全米・寿司ビジネス」の剛腕 (『SAPIO』2008年3月12日号)


「トゥルー・ワールド・フーズ」に関しては、最近になり『ニューヨークタイムズ』が「The Untold Story of Sushi in America」(2021年11月7日付)と題して詳しく報じている。

www.nytimes.com

 

 

統一教会が貪る「2018年平昌五輪」(『新潮45』2013年11月号)

 ソウルから約六〇キロ北東の京畿道加平群雪岳面松山里の一帯に、「世界平和統一家庭連合」(一九九七年に「世界基督教統一神霊協会」から改名)、あの統一教会が建設した広大な聖地がある。八〇〇万坪におよぶ敷地に、ルネッサンス様式の白亜の「天正宮博物館」をはじめ、「天宙清平修練院」、「清心国際病院」、「清心神学大学院」、そして昨年三月に完成した二万五〇〇〇人収容可能の「清心平和ワールドセンター」が次々と姿を現す。
 八月二二日午後、その一角にある教団の高齢者福祉施設「清心ビレッジ」のロビーで、同教団の日本人牧師に近づいた五〇代の日本人女性が、五リットルのプラスチック容器にいれたシンナーを牧師と自分にかけ、ライターで火をつけた。二人はすぐ病院に搬送されたが、ともに大やけどを負い意識不明の重体に陥った。
 女性は合同結婚式で韓国人男性と結婚したが、数年前に離婚し、韓国で一人暮らをしていたという。
 韓国在住の日本人女性信者は約一万人。布教目的で嫁不足の農村に嫁がされるケースが多く、各地で問題が頻発している。昨年八月には、生活苦と介護疲れから韓国人の夫を絞め殺す事件も発生している。
 しかし、今回の事件はまったく別の意味で注目された。事件翌日、清心平和ワールドセンターで国内外の信者約二万人を集め、教祖文鮮明(ムンソンミョン)の一周忌追悼行事が予定されていたからだ。
 文鮮明は昨年九月に死亡。その数年前から、教団は教祖の息子たちによる後継者争いが原因で分裂し、脱会者が相次ぐ事態に直面していた。日本人女性の犯行も、教団の分裂と関係があるのではないかと疑われたのだ。

王子の乱

 文鮮明は二三歳年下の韓鶴子(ハンハクチャ)(70)との間に七男六女をもうけた。いずれも米国育ちで、薬物依存症の長男が心臓麻痺で死亡、高校生だった次男が深夜のハイウェイ運転中に交通事故死、六男がラスベガスのホテルから飛び降り自殺するなど、不運が続いた。そして、事実上の長男となった三男の文顕進(ムンヒョンジン)(44)が九〇年代半ばに米国から帰国し、父親公認の後継者と目されるようになった。
 当時、顕進の岳父の郭錠煥(クァクジョンファン)は、統一教会の企業群「統一グループ」を統括し教団資産を管理する「世界基督教統一神霊協会維持財団(統一財団)」の理事長の座にあり、文鮮明に次ぐ教団ナンバー2の実力者だった。だが、九七年に発生したアジア通貨危機の影響で、統一重工業や韓国チタニウムなどグループの主力四社が相次いで経営破綻。米国で銃器会社を経営していた四男の文国進(ムングッチン)(43)に理事長職を譲ると、盤石に見えた後継体制が一気に揺らぎ始めた。
 教団経営の実権を握った国進は、米国から呼び寄せた七男の文亨進(ムンヒョンジン)(36)を宗教指導者に祭り上げ、兄の顕進に対しては、米国に本部を置く「統一教会世界財団(UCI)」の会長職以外の肩書はすべて奪い取った。韓国で「王子の乱」と呼ばれるこの骨肉の戦いに敗れた顕進は、UCIを基にワシントンで設立した「GPF財団」という宗教団体を通し、統一教会と袂を分かつことになる。
 顕進が率いるUCIは全米の鮮魚卸売市場を独占する「トゥルー・ワールド・フーズ」を含め六つの会社を傘下におく「トゥルー・ワールド・グループ」(本社ニュージャージー州エリザベス)の実質的オーナーである。また、ソウル江南地区にあるマリオットホテルおよび隣接する複合施設「セントラルシティー」の運営権も持つ(昨年一〇月にサムソン財閥系「新世界百貨店」に合わせて約九〇〇億円で売却)。さらに、米国の航空会社「ワシントンタイムズ航空」を傘下に収めるが、同社は母親の韓鶴子が理事長を務める「世界平和統一家庭連合宣教会」を相手に約一八億円を横領したとして、告訴までしている。
 一家の泥沼の財産争奪戦はこれにとどまらない。最大の争点となっているのが、国会議事堂など国の中枢機関が集中するソウル汝矣島にある統一財団の土地だ。LG電子本社とMBC放送局に挟まれた都心一等地にある一万四〇〇〇坪の土地は、日本で霊感商法の被害が続出した七〇年代に文鮮明が購入した曰くつきの物件だ。

建設が中断した汝矣島の工事現場(当時)。2013年撮影

 李明博政権時代、この土地に隣接した場所で「ソウル国際金融センター」(56階)の建設が決まり、ソウル市が同地域を「国際金融中心地」に指定。再開発の目玉となるのが、教団の土地に建設される二棟の超高層ビル(72階と56階)と複合商業施設だった。
 顕進の後ろ盾であった郭錠煥が統一財団理事長だった〇五年、教団は海外のデベロッパーとの間で、この土地の九九年間の地上権設定契約を結んでいる。ところが、顕進失脚後、契約相手の金融投資会社「Y22」の大株主がUCIであることが判明し、国進は狼狽した。契約無効を訴え一〇年一〇月に地上権登記抹消訴訟を起こし、すでに四分の一の工程を終えていた工事を中断させるのだが、逆に、Y22側に工事中断による損害賠償訴訟を起こされ、窮地に追い詰められた。
 国進は理事長就任直後の〇六年に、Y22と契約内容を微修正する再契約を結んでおり、裁判に勝つ見込みはない。一審、二審で統一財団敗訴の判決が下され、近く最高裁が同様の判決を下す見込みだ。損害賠償額は約五〇〇億円にのぼると見積もられ、教団は巨大な負債を課されることになりそうだ。

認知症を患うメシア

 組織を分裂させた息子たちの財産争いが続くなか、教団に君臨する教祖の文鮮明はいったいなにをしていたのか。先述の地上権登記抹消訴訟が起こされる四カ月前、滅多に姿を現すことのない文鮮明の動画が一時ネットに流された。
 聖地、天正宮博物館で暮らす文鮮明をとらえた一五分の映像には、教祖が七男の亨進を後継者に指名する「宣布文」を書く様子が映し出されていた。
 だが、九〇歳の文鮮明認知症を罹っているようにしか見えず、〝メシア〟と崇められた姿とはほど遠い。その教祖に向かって、夫人の韓鶴子がこう詰め寄る場面がある。
「(統一教会)世界本部会長(亨進)だけに従わなくてはならないと書かれないのですか? それがお父様(文鮮明)のお言葉ではありませんか? 統一の食口(シック)(信者)はみな、世界宣教本部の公文の指示事項だけを認めよとサインしてくださること……、イヤですか?」
 その宣布文に、文鮮明は拙い文字でこう書き記していた。
<天宙平和統一連合本部も絶対唯一の本部だ。その代身者、相続者は文亨進だ。その他の人は異端者で爆破者である。以上の内容は父母様の宣布文である>
「異端者で爆破者」とは、教団から〝サタン〟と宣言された三男の顕進と郭錠煥を指すようだ。また、文中の天宙平和統一連合は、文鮮明が〇五年に米国で設立した統一教会の下部組織のことで、正式名称に「統一」の文字は入らない。だが、傍らにいる夫人は意に介さず、亨進に与えられた最高位職である「世界本部会長」の文字を書くよう何度も催促していた。文鮮明が「なぜそんなにしつこく言うのか、え?」とくってかかったり、夫人が呆れた表情でため息をつく姿まで映し出された。
 要するに夫人は、弟の亨進の宗教的権威を確立するため、教祖直筆による後継者指名の公文を書かせていたのだ。宣布文は教団のホームページに掲載され、その動かぬ証拠として動画がネットに流されたのだ。教団関係者によると、撮影したのは亨進の妻らしい。
 動画が撮影された二年後の昨年九月、文鮮明は老衰で死亡。韓国に残された資産は少なくとも約一〇〇〇億円と見積もられる。遺言となった宣布文もあり、国進と亨進による二人三脚の教団運営が始まるかに見えた。
 ところが、教祖が死んだ直後、権力構造に再び異変が起きる。教団が最高指導者の亨進を米国に帰国させたうえ、すべての役職を解いて失脚させてしまうのだ。指示したのは、宣布文で亨進を後継者に指名させた母親の韓鶴子とみられる。
 解任された後、彼は信者に宛てた手紙で、その時の心境を打ち明けている。
「真のお母様(韓鶴子)は、私たちに米国教会の責任を持つ地位(米国統一教会総会長)から引き下がるよう指示されました。私と妻は、解任事由に対してなんの説明も案内もなく解任指示を受け、少なからず驚きました。この度の辞任要求は、真のお父様(文鮮明)が亡くなってから三回目のものでした。こうした決定に傷つかなかったと言えば嘘になります」
 亨進が解任された翌月の今年三月、統一財団理事長兼統一グループ会長の国進も電撃的に解任される。汝矣島の土地をめぐる訴訟の責任が、表向きの解任理由だ。
 結局、三人の息子が一掃される形で後継者争いは終結したが、母親が自分の息子たちを追放した理由がはっきりしない。
 今年になって教団を脱会した元信者によると、解任劇で主導的役割を果たしたのは、文鮮明に四〇年間奉仕した金孝律(キムヒョユル)(家庭連合宣教会財団副理事長)という人物を中心にした古参幹部グループだという。金孝律はワシントンタイムズ航空の横領事件で顕進が起こした裁判の被告でもある。元信者が声を潜めて語る。
文鮮明が死去する直前、四男と七男が、金孝律に後継に関する遺言を聞き取るよう頼んだらしいのですが、逆にその事実を暴露された。それが彼らの失脚の直接的な原因になったといわれます。三男の顕進を失脚させたのも彼だったようです。実は、文総裁は金孝律という人物を、あまり信用していなかったと複数の幹部が証言しています。彼が近しかったのは夫人の韓鶴子です。教祖なき教団で、今後、信者が増える見込みはないと考えた古参幹部らは、韓国語もろくにできない息子たちより、夫人を飾りに教団経営を維持するしか道はないと判断したのでしょう」
 企業論理を優先し、教祖の意向を無視して実権を握った金孝律グループ。「王子の乱」に次ぐ彼ら「宦官の乱」により、図らずも韓鶴子が最高指導者の地位に躍り出た。冒頭の追悼行事に息子は一人も参加できず、今後、彼らの復帰が認められることもなさそうだ。

五輪会場となるスキー場

 国進が在職中に断行したリストラにより、二二社に削減された統一グループも、今は一三社しか残っていない。飲料水の「一和」や自動車部品製造の「TIC」、建設業の「ソンウォン建設」や「一信石材」などだが、そのなかで将来を有望視されているのがレジャー産業の「一尚(イルサン)海洋産業」と「龍平(ヨンピョン)リゾート」だ。一尚海洋産業は、韓国南海岸にあるリゾート地の麗水で昨年開催された万国博覧会(海洋博)に合わせ、韓国政府が「国際海洋観光団地」に指定した一帯で、高級ホテルやゴルフ場の「ジ・オーションリゾート」を運営している。
 教団がレジャー産業に本格的に乗り出すのは、韓流ドラマ『冬のソナタ』のロケ現場になった龍平リゾートを買収してからのことだ。〇三年に親会社の経営不振で九割以上の株が売りだされた時、統一グループの「世界日報社」が約一八〇億円でまるごと買い取り、後に統一財団が大株主になった。韓国政府が招致を進めていた平昌冬季五輪で、同リゾートが会場になることを見越しての先行投資だったが、一八年の開催決定により、土地の値上がりによる宿泊施設の分譲販売などが伸び、今年上半期だけで約二五億円の売上をあげた。
 平昌冬季五輪の主な競技は、地元の江原道が開発した「アルペンシアリゾート」で開催されるが、すぐ近くの龍平リゾートでもハイライトとなるアルペンスキー大回転や回転が行われる。韓国で最初にリフト施設を整備した龍平リゾートには、海抜一四五八メートルの頂上から滑降する九面のスロープがあり、ゲレンデには高級ホテルやコンドミニアムが建ち並ぶ。
 平昌冬季五輪の経済効果は約五兆円と見込まれ、その最大の受益者は統一教会だ。失脚前の亨進は経済紙とのインタビューでこう語っていた。
「龍平リゾートやジ・オーションリゾートなど、統一グループが運営するレジャー施設の統合経営を通して、世界的水準の総合リゾート網を構築する」

天正宮。2008年撮影

 万博特需に次ぐ五輪特需。教団が狙う次なるレジャー利権は、どうやら北朝鮮にある。
 今年七月二七日、北朝鮮で自動車を生産する統一教会系企業「平和自動車」の朴相権(パクサンゴン)社長が、平壌で開かれた「戦勝節(朝鮮戦争休戦協定日の北朝鮮側呼称)」六〇周年の式典に招かれ、金正恩(キムジョンウン)第一書記と面会する異例の待遇を受けた。式典参加後、朴社長は北朝鮮東海岸の元山市近くにある馬息嶺(マシクリョン)(海抜七六八メートル)で建設が進むスキー場を訪ね、写真やビデオを韓国メディアに紹介している。
 今年二月に実施された三度目の核実験以降、北朝鮮は休戦協定白紙化宣言や開城工業団地の稼働中断など、挑発をエスカレートさせてきた。戦争も辞さない強硬姿勢の一方で、国内では大規模なスキー場の建設をしていたわけだが、その狙いがどこにあるのか、北朝鮮の意を汲んで動く朴社長に注目が集まった。なにしろ朴社長は、この二〇年間に二一五回も訪朝するほど北朝鮮指導部からの信頼は厚い。
 今回の訪朝の二カ月前、北朝鮮最高人民会議常任委員会で「経済開発区法」が制定されている。経済特区とは別に、金剛山白頭山、七宝山、開城、平壌、元山の六つの地区を観光特区に指定し、外国人観光客を誘致するのが狙いだ。なかでも金正恩が熱を入れているのが元山(ウォンサン)特区で、その中心となる施設が馬息嶺スキー場である。
 朴社長によると、元山特区開発には朝鮮人民軍兵士三〇万人が動員され、元山市内にある空軍の葛麻空港もすでに民間転用され、名を「元山空港」に改めたという。
 幅四〇~一二〇メートルのスロープ四面にホテルも併設される馬息嶺スキー場は、年内完成を目指し急ピッチで工事が進んでおり、八月末に日本の一部メディアにも現場が公開された。その数日後、北朝鮮の国際五輪委員会(IOC)委員が、馬息嶺スキー場で平昌冬季五輪の南北分散開催が可能だと発言するに至り、北朝鮮の描くシナリオが次第に明らかになってくる。
 サッカーワールドカップと異なり、オリンピックはIOC規定により開催国の都市で行わねばならない。だから、南北共催や分散開催はあり得ない。ただ、平昌冬季五輪が開催されれば、ついでに馬息嶺スキー場の国際的な知名度があがるのは間違いなく、観光客誘致も夢ではない。
 平昌の二月の降雪量は過去一〇年間の平均で三七・一センチ。長野五輪の会場になった白馬村に比べるとかなり少ない。また、地球温暖化の影響で降雪量は毎年減少傾向にあり、〇九年は平均を一〇・八センチも下回った。同じことが開催年に起きないとも限らないので、韓国気象庁ヨウ化銀などを使った人工降雨の実験を繰り返しているが、成功率はあまり高くないようだ。
 それに比べ約二〇〇キロ北にある馬息嶺には雪不足の懸念がない。馬息嶺は日本統治時代の一九三〇年、日本人が朝鮮で最初のスキー選手権大会を開催した場所としても知られ、恵まれた立地条件は推して知るべしである。分散開催が無理でも、南北宥和が進めば、韓国人スキー客が押し寄せてくるのは明らかだ。
 北朝鮮は馬息嶺スキー場を避暑地としても活用し、年に二五〇日運営する計画らしい。一人当たりの入場料五〇ドル、一日の訪問客を平均五〇〇〇人と想定しているので、年間売上はざっと六二五〇万ドルに達する。
 開城工業団地で働く労働者約五万三〇〇〇人の年間賃金から当局が横取りする額は約八〇〇〇万ドル。中断している金剛山観光では年間約四〇〇〇万ドルの収益をあげていた。それに匹敵する新たな金づるが生まれるのは、もはや時間の問題のようだ。
 この北朝鮮レジャー利権に、統一教会はどう食い込むつもりなのか。

北に貢ぎ続ける教団

 統一教会北朝鮮の因縁は古く、教団草創期にまで遡る。
 平安北道定州郡生まれの文鮮明は、一九四八年、女性信者に対し性的に淫らな儀式を行っていたとして朝鮮労働党当局に拘束され、収容所送りとなるが、朝鮮戦争のどさくさで脱獄。避難先の釜山で布教活動に入り、戦後ソウルで「世界基督教統一神霊会」を立ち上げた。その時掲げた教義が共産主義に勝つという「勝共」だった。六八年には「国際勝共連合」を結成して本格的な勝共運動を始め、日本でも信者を議員秘書として送り込むなど政界に深く入り込んだ。
 一方で、七〇年代から九〇年代はじめにかけ、日本で大理石の壺や多宝塔を使った霊感商法で荒稼ぎをし、現在の経済基盤を築いたとされる。
 だが、共産圏国家の連鎖崩壊が現実となり、「勝共」が色褪せてしまうと、文鮮明は教義を「統一」に修正し始める。北朝鮮との接点を模索するうち、マダム朴の異名を持つ在米韓国人女性実業家の朴敬允(パクキョンユン)と知り合い、水面下の交渉が始まった。こうして実現したのが九一年一一月の文鮮明金日成(キムイルソン)会談で、意気投合した二人は〝義兄弟の契り〟まで結んだ。
 この時の会談で、金主席が「世界的な組織網を持つ文総裁が金剛山開発をしてくれることを望む」と語ったことが、教団が北朝鮮の観光事業をてがけるきっかけとなった。統一教会と朴敬允は、北朝鮮の「アジア太平洋平和委員会」(対韓国戦略を担う労働党統一戦線部傘下の機関)と共同出資して「金剛山国際グループ」を設立し、金剛山観光事業が動き出した。社長に就任したのは朴相権だった。
 九四年一月、文鮮明側近の朴普熙(パクポヒ)が、霊感商法で訴えられた日本の統一教会系企業「ハッピーワールド」幹部を連れ金日成を表敬訪問し、金剛山観光の妥当性調査報告書を提出。二日後、内閣に相当する政務院が、金剛山開発予定地の五〇年間の土地利用権、第三者との合弁権などを金剛山国際グループに与える委任状を出す。この合意のため巨額の裏金が北朝鮮に渡ったと、後に朴敬允は明らかにしている。
 だが、事業は思うように進まなかった。北朝鮮で核開発疑惑が発覚し、クリントン政権が核施設の限定爆撃を計画するなど、観光どころではない。状況に変化が生まれるのは、九八年初めに太陽政策を掲げる金大中政権が発足してからだ。同年六月、韓国最大の財閥、現代グループ創業者の鄭周永が訪朝を果たし、一一月から「現代峨山」による金剛山観光が始まるのである。
 契約を反故にされた統一教会は、それでも北に貢ぎ続けた。同時期に教団の平和自動車が北朝鮮国営の「朝鮮連峰(リョンボン)総会社」と七対三の比率で出資し、南北合弁の「平和自動車総会社」の設立に合意。理事長(社長)に朴相権、副理事長にハッピーワールド幹部の小柳定夫を就任させた。初期五年間の投資額は三億ドルに達し、日米の教団資金がつぎ込まれたと考えられている。
 平安南道南浦市に工場を建設した平和自動車総会社は、イタリアのフィアット社の部品をノックダウン生産で売り出し、〇八年から黒字を出し続けている。乗用車の「フィパラン(口笛)」やミニバスの「三千里」は今まで約一万台を売りさばいた。教団はこの他にも、自動車部品会社や注油所、平壌市内の普通江ホテルなどの現地法人も運営することになる。

冬季五輪前に金剛山観光再開

 昨年末、朴社長はその平和自動車総会社を含むすべての株を、北朝鮮に無償で譲渡してしまう。教団の説明によれば、株譲渡は生前の文鮮明の意思を尊重し、総裁に就任した韓鶴子が朴社長に指示したのだという。
 先述の戦勝節式典で金正恩が朴社長を厚遇した背景には、こうした事情があり、その見返りが馬息嶺スキー場の利権である可能性は十分にある。
 同舟相救う統一教会北朝鮮。彼らの当面の目標は金剛山観光の再開だ。〇八年に韓国人女性観光客が北朝鮮兵士に射殺された事件を機に、観光は中断されたままになっている。続く一〇年に発生した韓国海哨戒艦沈没事件により、韓国政府は開城工業団地を除く南北の人的・物的交流を全面的に中断する「五・二四措置」を発表した。
 二年前の金正日誕生パーティーに朴敬允とともに参加した朴社長は、朝鮮労働党統一戦線部長の金養建(キムヤンゴン)書記に、「現代グループに与えた金剛山観光の独占権を破棄しようと思います。その仕事を手伝ってもらいたい」と相談されていた。だが、同措置が解除されない限り、馬息嶺スキー場どころか金剛山観光にも目途がたたない。
 北朝鮮は九月二五日に予定されていた南北離散家族の再会事業をテコに、同措置を解除させようとしたが、韓国側の消極的な態度に業を煮やし、強硬姿勢に逆戻りしている。挑発は宥和を引き出す常套手段なので、韓国政府が無条件で措置解除のカードを切ることはないが、五輪開催中に軍事挑発でもされたらたまったものではない。遠からず朴槿恵(パククネ)政権は観光再開に踏み切るしかなさそうだ。
 金剛山観光は〇四年に陸路ツアーが始まってから観光客が増え始め、現代峨山の売り上げも年間二〇〇万ドル以上に達したことがあった。統一教会がスキー観光を独占すれば、同規模の利益がもたらされ、瀕死の教団が息を吹き返すことになりかねない。

 

郭錠煥元会長が7月19日、ソウル市内で記者会見し、安倍元首相の殺害事件は教団の逸脱した活動に原因があるとして謝罪した。


 

 

文鮮明から「セウォル号」まで 韓国はキリスト教カルト天国 (『新潮45』2014年9月号)

教祖の変死体

 ソウルオリンピックの開催を翌年に控えた一九八七年八月二九日、ソウル近郊の龍仁(ヨンイン)市にあった工芸品製作会社「五大洋(オデヤン)」で三二体の死体が発見された。カルト宗教の指導者とされる女性社長が女性従業員とともに集団自殺を図ったとのことだが、他殺の疑いがあった。当時AP通信社ソウル支局の写真記者だった筆者は慌てて現場に駆けつけ、死体が置かれていた社員食堂の屋根裏にあがった。三五度を超す暗く密閉された空間に、女性たちの死体は肩を寄せ合うように仰向けに並んでいた。
 五大洋は三〇%を超す高利回りで債権者から金を集める実質的な金融会社で、当時のレートで約三〇億円もの借入金が返済不能に陥っていた。それが自殺の動機とされたが、警察は消えた金の流れを解明せず、事件二日後に遺族の同意もなしに死体を焼却してしまう。軍事政権下だった韓国は、反政府デモに続く大規模な労働争議で騒然としていて、当局は社会不安を助長する事件を嫌った。
 真相は闇に葬られ、民主化の象徴として同年暮れに実施された一六年ぶりの大統領選挙で、全斗煥(チョンドゥファン)大統領の後継者に指名された陸軍出身の盧泰愚(ノテウ)が当選した。その四年後、事件は思わぬ展開をみせる。五大洋の元社員六人が、集団自殺が起きる直前に別の社員四人を宗教的理由で殺害し、死体を埋めたと自首したのだ。
 自首を機に始まった再捜査は難航を極めた。すでに銀行の帳簿は破棄され、五大洋から消えた金の行方は一向につかめなかった。だが、検察は押収資料から不可解な送金を発見する。送金先の「三友トレーディング」を経営するのは、俗に救援派と呼ばれる「キリスト教福音浸礼会」を率いる兪炳彦(ユビョンオン)だった。在任中の全大統領とのパイプも太く、健康食品や船舶事業など、一五企業に二〇〇〇人を超す従業員を有す実業家でもあった。五大洋の社長と従業員も教団の信者だったが、兪と事件との関わりは証明できず、集団自殺の捜査は打ち切られた。その後、詐欺罪で実刑四年を宣告された兪が経営の表舞台に登場することもなくなる。
 あの奇怪な事件から二七年。約三〇〇人もの犠牲者を出したセウォル号の実質的オーナーとして兪が指名手配され、三週間後の六月一二日、南部の順天市の梅畑で腐敗した死体となって発見された。五月二五日夜に潜伏先の別荘を検察に急襲され、隠し部屋に身を潜ませた後、深夜に脱出。一人で付近の山野を逃げ回っていたようだ。遺体発見時、遺留品には複数の手がかりが残されていたにもかかわらず、警察はホームレスと思い込んで見逃してしまい、国立科学捜査研究院のDNA鑑定により、一ヵ月以上過ぎた七月二一日になって本人と確認する大失態を演じた。
 梅畑でほぼ白骨化した状態で見つかった死体は、靴を脱いだまま仰向けに横たわり、遺留品には所持金がなかった。野原を獣のように彷徨いながら側近の助けを待っていたに違いないが、現場付近は捜査員が血眼になって兪を探し回っていた。何度も雨に打たれ、冷え込む夜に低体温症で身動きがとれなくなって死亡したものと思われる。
 不可解なのは、教祖が野垂れ死にするのを待っていたかのように、DNA鑑定後に関係者が次々と自首し、兪の逃亡と教団は無関係であると主張しだすのだ。セウォル号事故の巨額の補償請求が始まろうとするなか、教団の維持に兪は邪魔な存在でしかなかった。

殺人を厭わぬ宗教団体

 京都生まれの兪炳彦は、終戦直後に家族とともに帰国し、中部の大邱(テグ)市で育った。六〇年代初め、所属する地元の宗派組織から牧師職を剥奪された権信燦(クォンシンチャン)とともに活動を始める。布教対象に選んだのは、サムスン財閥の母体となる「第一毛織」の女工たちだったと言われる。サムスン創業者の李秉喆(イビョンチョル)は、大邱で設立した同社の女工たちが起こしたストライキに憤慨し、大量解雇を断行した。この事件を機に非(無)労組経営がサムスンの社是となるのだが、路頭に迷った女工たちの受け皿となって規模を拡大させたのが救援派だった。
 兪は巧みな弁舌で「事業こそ教会であり、神に仕えることである」と唱え、献金で企業買収の資金を集め、信者に低賃金労働を強いて利益をあげていった。著名な芸能人を広告塔にして信者を大幅に増やし、ピーク時に一〇万人を超す教団の指導者となった兪は、自らイエスと名乗り始めるようになる。
 そんな兪の悪行を追跡していた人物が一人いた。カルトに警鐘を鳴らし続けた「国際宗教問題研究所」の卓明煥(タクミョンファン)。九〇年代初め、韓国最大のカルトだった統一教会に孤立無援で立ち向かい、歌手の桜田淳子やオリンピック新体操選手の山崎浩子の入信騒ぎで社会問題化した時には、彼の助言が日本の統一教会対策に役立った。そんな卓を一躍有名にしたのが他ならぬ五大洋事件である。八七年の事件発生直後から犯行の背後に救援派があると主張し、警察の捜査に疑問を投げかけた。彼は九四年二月に自宅前で殺害されるのだが、遺書ともなった『世称・救援派の正体』にはこう記されていた。
<刻々と身辺に危険が迫るなか、なにがあろうと私には自殺を選ぶなんの理由もなく、もし身辺に異常あれば、セモ(兪の会社)の兪炳彦の仕業であることを明らかにし、その罪状をここに付す。>
 集団自殺四年後の信者らの不可解な自首は、他殺の疑いを提起し続けていた卓の追及をかわすための工作だったと考えられている。だが、犯行当時に兪は服役中で、犯人は彼に恨みをもつ別のカルト信者だったことが判明する。
 父の遺志を受け継ぎカルト宗教の調査活動を続ける月刊『現代宗教』の卓志元(タクチウォン)所長に事情を尋ねた。
「逮捕されたのは大聲教会の朴潤植(パクジュンシク)牧師の運転手で、後に死刑を宣告されましたが、私たち遺族は彼に手引きをした真犯人は別にいると考え、無期懲役減刑する嘆願書を提出しました。疑惑の渦中にあった朴潤植という人は陸軍少領(少佐)出身で、信者も予備役の人が多い。彼自身、教会に軍服姿で現れ、信者が敬礼したりする。犯人も元特殊部隊員でした。“お言葉の父”と名乗って自らを神格化し、九一年にキリスト教団体の総会で異端と糾弾されています」
 その時の異端決議文に、こんな記述がある。
<イブが蛇(サタン)と性行為を結んでカインを産んだという統一教会に似た性的モチーフを持ち、堕落した後に人間に月経が生まれ、月経がある女性の立場から脱出させるのが救援であるとした。>
 本人は否定しているが、朴はセックスと反共を教義化した統一教会の元信者だった可能性がある。こうした極右のカルトは少なくなく、駐韓日本大使館前の反日デモなどに信者が動員されることもあるという。

六人に一人がカルト信者

 韓国ではカルトを一般的に「似而非(サイビ)」と呼び、正当なキリスト教から外れているという意味では「異端」や「小宗派」などと呼ばれる。キリスト教の信者数はプロテスタント(改新教/基督教)とカトリック(天主教)合わせて全人口の約二八%に当たる一三八〇万人。プロテスタントはさらに教派により監理教会(メソジスト)や長老派教会(プレスビテリアン)などに分かれるが、韓国でもっとも大きな教派団体は「大韓イエス教長老会」の〝合同〟(保守派)と〝統合〟(リベラル派)の二派だ。また、単一教会で世界最大規模となる信者数約八〇万人の「汝矣島(ヨイド)純福音教会」のように、単独で教団を形成する場合もある。
 異端判定はこうした教派や教会団体で個別に行われる。大韓イエス教長老会(統合)が運営する「異端似而非対策委員会」の担当官によると、同教派が異端に指定した教会や教団は現時点で六〇ある。卓志元所長の説明でも、自らを神と名乗る教祖が二〇人、再臨のイエスであると主張する者が五〇人もいる。
 なぜ韓国のプロテスタント教会にはカルトが蔓延るのか。ソウル郊外の九里(クリ)市を拠点にカルト対策に取り組む「韓国基督教異端相談所」の申鉉郁(シンヒョンウク)所長を訪ねた。
「日本では統一教会が知られているでしょうが、韓国人の信者数は一万五〇〇〇人ほどに落ち込み、日本人信者の半分にもなりません。一〇万人を超える勢いのある巨大カルト教団は、海外からきたエホバの証人などを除けば四派に絞られます。ハナニム教会、新天地、万民中央教会、そして救援派です。救援派には三つの勢力があり、兪炳彦のキリスト教福音浸礼会には二万人います。この四派で合わせて五〇万人。この他にも中小の様々なカルトがあり、プロテスタント系の異端信者数は少なく見積もって一五〇万人になるでしょう。プロテスタントの人口が九〇〇万人近くになるので、六人に一人がカルト信者という尋常ではない数字です。その実態は、信教の自由という名のもとに横行する合法的な詐欺です。
 プロテスタントは日本の植民地支配と朝鮮戦争後の焼け野原から始まった高度経済成長期に合わせて、韓国で爆発的に広まりました。教皇を頂点とした伝統や組織を重んじるカトリックとは異なり、プロテスタント教会には神以外に主がいません。信者の増加は金に直結するため、きちんとした教義の裏付けもないまま、勝手な聖書解釈が横行するようになったのです。すべてのカルトが教祖型の集団で、自らがこの時代の救援者であり、再臨のイエスだと言い張り、金儲けの手段として教義が書きなおされました」
 その最たる例が統一教会。二年前に教祖の文鮮明(ムンソンミョン)が死に、かつての勢いはなくなったとはいえ、韓国のカルトの源流となり、日本に及ぼした被害も計り知れない。だが、セックスを教義に結びつけた文の邪悪な発想は、驚くほど幼稚なものだった。サタンである蛇の誘惑で禁断の果実を口にしたイブが、アダムとともにエデンの園を追放されるという旧約聖書『創世記』の話を曲解し、イブがサタンと性交したため人は原罪をかかえ、イエスでさえ救えなかった人類を、東方に再臨した文が救うというおとぎ話のような内容だ。汚れた女性が教祖の文と性交することで清められる「血分け」の儀式が、あの合同結婚式へと発展した。

乱立するメシアたち

 日本で「摂理」として知られる「JMS」の鄭明析(チョンミョンソク)も、統一教会で学び、女性信者に強姦を繰り返した末に摘発され、懲役一〇年の実刑判決を下されている。そんな宗教を信じるほうにも問題があるが、どうやら血分けの教義にはカルト信者たちを惹きつける魔力があるようだ。そのルーツは一九二〇年代に遡る。
 現在の北朝鮮東部の元山(ウォンサン)にあった教会に通う劉明花(リュミョンファ)という女が、自分の体にイエスが入り込んだと主張し、各地を訪ね歩いてイエスが降臨する「降神劇」を演じた。朝鮮には古くから巫堂(ムーダン)と呼ばれる女のシャーマンがいて、「クッ」という祭儀を通して神を憑依させ、お告げをする土着の信仰がある。シャーマニズムキリスト教を合体させた新しい占いは、人々に難なく受け入れられた。こうして土着化したキリスト教を、太平洋戦争中に教義にしたのが「イスラエル修道院」を設立した金百文(キムベクムン)なる人物で、文はここで見聞きした血分けの教義を真似たと言われる。
 文と共にイスラエル修道院に通い、五〇年代末から八〇年代初めにかけ巨大カルト教団を築き上げた男がもう一人いる。「天父教」教祖の朴泰善(パクテソン)。やはり血分けによる混淫が社会問題化したが、信者たちに共同生活をさせる大規模な「信仰村」を各地に作り、最盛期には九〇万人もの信者の頂点に立つ神として君臨する。この統一教会と天父教の二大カルトから枝分かれして、無数の神や再臨のイエスが韓国に登場することになる。
 なかでも急速に勢力を拡大しているのが新天地という教団だ。正式名を「新天地イエス教証拠幕屋聖殿」といい、すでに日本にも進出しているようだ。老人、生活困窮者、障害者など社会的弱者は相手にせず、主婦や学生を標的にしてきたため、離婚や家出の被害が続出。一般の教会に潜入した覆面信者が教会をまるごと乗っ取る「山移し」に教派団体は警戒を強めている。
 新天地の被害者組織の代表でもある前出の申所長が語る。
「教祖は李萬熙(イマンヒ)といい、天父教の信仰村に住みついた元信者でした。天父教の力が弱まると教団から独立開業する教祖が乱立し、彼も渡り鳥のようについていきます。教祖らは期限を切った終末論を唱えて危機感を煽るのですが、期限日が過ぎてもなにごとも起きないので、信者の移動が繰り返されるのです。李萬熙も最後に仕えた教祖が唱えた八〇年三月一四日の終末日に狙いを定め、新天地を創設しました。彼らの世界にはギャンブルやアルコール中毒に似た教義中毒というものがあって、一度洗脳され救われた思いを経験すると、他のことは考えられなくなります」
 教団名にある幕屋聖殿とは、新約聖書の「ヨハネの黙示録」にある天国を象徴する場所を指し、新天地を信じるものだけがそこに導かれるのだという。黙示録七章に一二支族の一四万四〇〇〇人だけが神に救われるという予言が登場するが、ほとんどのカルトがこの話に便乗し、同じ数の信者数を獲得しようとする。新天地の信者数は現在約一三万人。目標達成が目前に迫ったため、信者認定の基準を厳しくしだした。
 新天地の本拠地は政府総合庁舎がある京畿道果川(クァチョン)市にある。だが、本殿はなく、同市のショッピングセンターの九階を間借りしていた。実際に立ち寄ってみると、机も椅子もない広いフロアーに信者たちが座りこんで礼拝をしていた。新天地は同市に聖地を建設するため巨額の献金を募ってきたが、建設が始まる気配はなく、教団ぐるみの詐欺だと指摘する声もある。

 

80年の歳月を経て輝くチャップリンの名演説

 ちょび髭に山高帽、大きなドタ靴、そしてステッキという戯けたキャラクターで世界じゅうの人々に愛されたチャールズ・チャップリン。社会や政治の風刺を取り込んだ哀愁に満ちたドタバタ喜劇を「リトル・トランプ」(小さな放浪者)として演じ続け、映画史上に残る数々の名作を残した。その中でも名作中の名作がヒトラーを風刺した『独裁者』だ。製作に2年かけ、1940年9月にニューヨークで初めて封切られた時、アメリカはまだ第2次世界大戦に参戦すらしていなかった。ナチのプロパガンダ映画を作ったことで知られるドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールが1938年11月に訪米した時にニューヨークで公開された『意志の勝利』を観て、「ヒトラーは笑いものにされねばならない」と思ったのが、この映画を作る動機になったという。リーフェンシュタールがニューヨークを訪れた5日後、ドイツではユダヤ人迫害が本格的に始まる事件「クリスタルナートゥ」が起きていたが、映画を観た人たちはファシズムの危うさより、迫力ある映像芸術の世界に圧倒されていたという。チャップリンはそれにガマンならなかったようだ。

 この映画を観た人も多いだろうから、あらすじを説明する必要もないと思う。チャップリンアドルフ・ヒトラーならぬ独裁者アデノイド・ヒンケル、そしてゲットーで床屋を営むユダヤ人の一人二役を演じ、結末のシーンでは床屋が独裁者に入れ替わり、兵士たちに向かって平和と博愛を訴える5分間の名演説を行う。不条理な戦争報道に毎日のように接している今、チャップリンの演説を改めて読み返してみると、80年以上が過ぎてもまったく色あせず、むしろ輝きを増している。戦争のない世界を願いつつ、その全訳をここで紹介しておきたい。

(※米軍のアフガン撤退から始めた本ブログも、ひとまずお休みさせていただきます)

 

『独裁者』より

 悪いけど皇帝になんかなりたくない。私には関わりのないことだし、誰かを支配したり征服したいなどとは思わない。できることなら、みんなを助けてあげたい。ユダヤ人も、そうでない人も、黒人も、白人も。みんなで助け合いたい。人間とはそういうものだ。誰もが互いに不幸になるためではなく、幸せになるために生きていきたいはずだ。互いに憎んだり軽蔑したりしたくはない。世界は人々のためにある。この良き大地は豊かで、分け隔てなく恵みを与えてくれる。人生は自由で美しいものなのに、私たちは道を失ってしまった。

 欲が人の魂を毒し、憎しみによって世界は閉ざされ、悲惨、殺戮へと私たちを進ませている。私たちはスピードというものを生み出したけど、その中に閉じ込められてしまった。豊かさをもたらす機械が、私たちを貧しくさせている。知識は私たちを皮肉にさせ、知恵は私たちを厳しく、そして冷酷にした。多くのことを考えられるようになったけど、多くのことを感じないようになってしまった。機械より大切なのは人々への愛だ。賢さより大切なのは、優しさや思いやりなんだ。こうした思いがなければ、この世の中は暴力で満ちあふれ、なにもかも失ってしまうだろう。

 飛行機やラジオは人と人との距離を近くしてくれた。こうした発明により、人々の良心に訴え、世界の人々に訴え、すべての人がひとつになることを訴えることができる。今もこうして、私の声が世界中の何百万もの人々に届いている。罪もない人たちを拷問し、投獄させるシステムの犠牲となり、絶望の淵に追いやられた何百万もの男性や女性、そして小さな子供たち。

  私の声を聞くことができた人たちに伝えたい。決して絶望しないでほしい。今、私たちに襲いかかっている不幸は、いずれ消え去るであろう、人間の進歩を恐れる者の貪欲であり憎悪にすぎない。憎しみは消え去り、独裁者たちは死ぬ。人々から奪いとられた権利は、人々のもとに戻されるだろう。人の命には限りがあるけど、自由が滅びることなどない。

 兵士たちよ! 獣たちに身を捧げてはならない。あなたたちを見下し、奴隷にし、人生まで思いのままにする者たちは、あなたたちが何をし、考え、感じるかを指図している! あなたたちを訓練し、食事を制する者たちは、あなたたちを家畜のように扱い、弾のように使い捨てにするだけだ。

 そんな自然でない機械のような考えや心をもつ者たちに身を捧げてはならない! あなたたちは機械じゃない! あなたたちは家畜じゃない! あなたたちは人間だ! 人々を愛す心をもつ人間だ! 憎んではいけない! 憎しみは愛されない者だけが持つ。愛されず、自然でない者たちがだ! 兵士たちよ! 奴隷として闘うな! 自由のために闘え!

 ルカによる福音書17章には「神の国はあなたがたの間にある」と書かれてある。ひとりの人間にではなく、ある集団の人間たちにでもなく、すべての人間にだ! あなたたちの中にあるのだ! あなたたちは力を持っている。機械を生み出す力、幸せを生み出す力! あなたたちは人生を自由にし、美しくし、その人生を素晴らしい冒険にする力を持っている。

 その力を民主主義の名のもとに使い、みながひとつになろう。新しい世界のために闘おう。人々に働く機会を与え、若者たちに未来と老後の安定を与える良識のある世界のために。あの獣たちも、こんな約束をして権力を手に入れてきた。しかし彼らは嘘つきだ! 彼らは約束を果たすことも、果たすつもりもない!

 独裁者たちは自分たちを自由にする代わり、人々を奴隷にしてしまう。今こそ約束を果たすため闘おう! 世界を自由にするため、国と国の障壁を取り払うため、貪欲や憎しみ、不寛容を失くすために闘おう! 科学と進歩がすべての人を幸せへと導く、理性のある世界のために闘おう。兵士たちよ! 民主主主義の名のもとにひとつになろう!

 

 

アゾフ連隊「非ナチ化」めぐるジレンマ

 8年前の2014年5月2日、黒海に面したウクライナ南部の港湾都市オデーサで、この日のサッカー競技に合わせ街を練り歩いていた群衆と、市内中心部に集まっていたロシア系住民との間で小競り合いがあり、拳銃の発砲や投石などの大乱闘になった。数千人の群衆に取り囲まれたロシア系住民のうち約300人が旧共産党本部ビルにたてこもり、原因不明の出火により42人の死者を出す惨事となった。これに先立つ2月、首都キーウでは、親ヨーロッパ派市民の大規模な抗議運動でロシア寄りのヤヌコビッチ政権が倒れる「マイダン革命」が起きていた。翌3月、ウクライナのEU接近を警戒するロシアが南部のクリミア半島を占領し、4月には東部ドンバス地方で親ロ派武装勢力が「ドネツク民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を一方的に宣言する事態へと発展した。

 オデーサの暴動はこうした不穏な情勢の最中に起きた。同市のロシア系住民は人口の約3割。彼らがテントをはって続けていた反マイダン革命の集会に、サッカーの熱狂的ファンや右翼団体「右派セクター(Pravy Sektor)」活動家を含む群衆がはち合わせ暴動になったのだが、双方の一部が武装していたとの目撃証言もあり、意図的な衝突だった可能性もある。事件はロシアで「ウクライナナチスが(ロシア系同胞住民を)生きたまま焼き殺した」とセンセーショナルに報じらた。そしてウクライナ侵攻の直前、ウラジミール・プーチン大統領も事件について触れ、「悪魔の仕業である犯罪を犯した者はまだ処罰されていない。誰も捜そうとしないが、我々は(犯人たちの)名前を知っている」とオデーサ侵攻を示唆したともとれる発言をした。

 2月24日の侵攻以来、ウクライナ軍の抵抗を見誤ったロシア軍は死者1万人、負傷者3万人を出したうえ戦力の20%を喪失したとされる。首都占領を諦め撤退した北部地域で次々と戦争犯罪の実態が明らかになるなか、ロシア軍が新たに戦力を集中させた東部戦線に取り残された住民たちの安否が懸念される。ウクライナ北東にある都市ハリコフは無差別砲撃でゴーストタウンと化し、ロシア軍に完全に包囲されたアゾフ海港湾都市マリウポリでも、都市インフラの90%が破壊され、すでに2万人近い市民が犠牲になっているとの情報もある。ロシアは第2次大戦戦勝記念日「勝利の日」記念式典の5月9日までにマリウポリを制圧し、東部ドンバス地方と南部クリミア半島をつなぐ「回廊」を確保するのが当面の目標になったようだ。

 その後も戦争が続くなら、次に主要なターゲットとなるのがクリミア半島北西のムィコラーイウであるらしい。3月初めに同半島に近いドニエプル川河口の都市へルソンを占領したロシア軍が、さらにムィコラーイウへ進軍している理由は、その先にあるオデーサを最終的に占領するためだ。オデーサの西でモルドバと国境を接するドニエストル川沿いにはロシア影響下の分離主義者が実効支配する「トランスニストリア」がある。黒海沿岸の中心都市オデーサはウクライナの貿易拠点であり、同国の海軍本部も置かれる。ドンバスからクリミア半島、そしてオデーサまでの黒海沿岸をすべて占領されれば、ウクライナは国として機能を果たせなくなる。

マイダン革命後に頭角を現すアゾフ

 一連の危機の出発点は2013年11月21日にキーウの独立広場(マイダン)で起きた市民のデモだった。当時のヤヌコヴィッチ政権が、EUが域外国と包括的な協力関係を結ぶための連合協定の署名を見送ると、大統領退陣を求める大規模な抗議運動に発展。翌年2月に発生したデモ隊と武装警察の激しい衝突を経てヤヌコヴィッチ政権を倒すマイダン革命につながった。デモで主要な役割を果たしたのは極右政党「スヴォボーダ(Svoboda=自由)」や設立されたばかりの右派セクターだった。武装解除を拒否した右派セクターが議会に向け行進を始めたのが政権打倒の決定打になった。暫定政権ではスヴォボーダ議員が国会議長に選出されている。革命直後、右派セクター代表のドゥミトゥロ・ヤロシュ(Dmytro Yarosh)は親ロシアの抗議活動を封じ込め「国を浄化する」と米誌「ニューズウィーク」に語っていた。一連の実力行使のクライマックスとなるのが、5月に起きたオデーサの暴動だったのだ。

 マイダン革命は、もう一つの重要な右翼団体を誕生させている。ドンバス地方の紛争で最大の激戦地になったマリウポリで名をあげた準軍事組織「アゾフ大隊」だ。創設者のアンドゥリイ・ビレツキー(Andriy Biletsky)はマイダン革命後に恩赦で釈放された一人で、前政権のウクライナ警察はビレツキー率いる右翼団体ウクライナ愛国者」をネオナチのテログループとして監視していた。もともとのメンバーは北東部の都市ハルキウにあるサッカーチームの熱狂的なウルトラスや民族主義運動の活動家たちだったと言われ、アゾフ海マリウポリ義勇兵として出撃する頃からアゾフ大隊と名乗りだした。戦場ではウクライナ正規軍が撤退するなか最後まで戦い抜き、マリウポリ奪還をもたらすなど戦果を挙げ、2014年11月に国軍の国家警備隊に組み込まれる。正式に軍の組織になってからは「アゾフ連隊」と呼ばれている。本部をマリウポリにおき、キーウの独立広場に近いビルで隊員募集のリクルートセンター「コサックハウス」を運用している。

 アゾフ連隊を特集した米誌「タイム」(2021年1月7日号)のインタビューに応じたビレツキーは、アゾフ大隊の創設が「長い地下活動の末に我々を呼び起こした」出来事だったと振り返る。ビレツキーは政党「国家の軍(National Corps)」を発足するためアゾフ連隊を離れた格好だが、組織は地方都市で警察と協力する自警団を組織したり、出版社を通じたプロパガンダに力を入れるなど連携がとられる。政界における影響力はほとんどないものの、他の右翼団体の勢いが衰える一方で、「アゾフ運動」とも呼ばれる彼らの活動は危機の中にあってますます影響力を増そうとしている。

 このアゾフ連隊がネオナチと関連づけて語られることが多い理由は、過去のビレツキーの発言に起因する。ビレツキーは2010年に出した声明書でナチス・ドイツのプロパンガンダを引用し、「(ウクライナ民族主義者は)生存をかけた最後の十字軍において、ユダヤ人率いるウンターメンシに対抗し、世界の白人国家を導かねばならない」などと訴えていた。ナチスが多様したドイツ語のウンターメンシという言葉は非アーリア人の「劣った人々」を意味し、ユダヤ人、ロマ人(いわゆるジプシー)、そして皮肉にもスラブ人をも含んでいたが、白人至上主義者のビレツキーがナチスを公然と信奉していたのは紛れもない事実だ。ビレツキーはアゾフの紋章にナチス親衛隊(シュッツシュタッフェル=SS)の精鋭「第2SS装甲師団ダス・ライヒ」のヴォルフス・アンゲル(Wolfsangel)を採用した。ヴォルフス・アンゲルはドイツ伝来の狼狩りの罠を意匠化したものだが、ナチスのSSを意識したのは明らかだ。もう一つ彼らが多様する意匠がネオナチのシンボルのように使われる「ソネンラード(Sonnerad)」。稲妻のような形のジークルーネあるいはカギ十字を放射状に構成して黒い太陽を描いたもので、ナチス親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーがSS高官用に考案したものだという。

 アゾフ連隊の訓練要員アレックスなる軍曹は米紙「USAトゥデイ」(2015年3月10日付)に、隊員の中でナチ信奉者は半数を上回らないと答えていたが、同連隊のスポークスマンはその数を1割か2割と修正している。ヴォルフス・アンゲルやソネンラードはウクライナナチスのイメージとして広く認識されているわけではなく、ロシア軍と果敢に戦う同連隊の評判を知り志願した若者たちのほうが多いらしい。だがビレツキーの過激な信条がアゾフ運動に受け継がれている疑いは拭いきれない。

テロの主役は白人至上主義者に

 アゾフ連隊も米陸軍の訓練を受けてきた部隊の一つだ。前述したネオナチの背景が問題になり、米下院が2015年7月に援助を中断する修正案を可決したことがあるが、同年12月に援助再開を認める修正案が可決され、引き続き米軍の支援を受けてきた。2018年にもアゾフ連隊への援助禁止を含む国防支出法案が成立しているが、実際に軍事支援が止まることはなかった。さらに米議会では2019年暮れ、米国市民をリクルート・訓練してきたアゾフをテロ組織として指定するよう議員40人が国務省に求めたこともある。しかし、これも実現には至っていない。日本の公安調査庁も「ネオナチ組織がアゾフ大隊を結成した」と記載した過去のHP上の情報が誤って拡散しているとして、4月8日付で同記述を削除したと発表した。

 プーチンは2014年のマイダン革命はファシストによるクーデターであり、「ナツィキ(リトル・ナチ)」に支配されたウクライナの「非ナチ化」が必要だとする国内向けの主張を繰り返してきた。ウクライナは民主国家であり、大統領はユダヤ系のゼレンスキーだ。非ナチ化というフレーズは第2次大戦のトラウマを悪用して侵攻を正当化するプロパガンダにすぎない。ロシアはマリウポリで徹底抗戦を続けるアゾフ連隊の殲滅を非ナチ化の最大の成果として利用するものとみられ、化学兵器の使用まで憂慮されている。民間人殺害を繰り返すロシアのジェノサイドを防ぐのがなにより優先される今、アゾフ連隊にネオナチの影があるとしても、彼らの過去の言動が問題視される状況ではないだろう。

 しかし戦後まで見据えるなら、見過ごしてはならないことがある。テロリストグループの調査で知られる元FBI捜査官のアリ・ソーファン(「ソーファン・センター(The Soufan Center)」代表)によると、アメリカの白人至上主義で主導的役割を果たすグレッグ・ジョンソンが2018年にウクライナを訪れ、「国家の軍」が主催した様々なイベントに参加していた。またアゾフ連隊はフェースブックなどSNSを駆使して世界の右派団体と接触しており、南カリフォルニアを拠点にする武装組織「RAM(Rise Above Movement)」との関係も取りざたされている。RAMはFBIが白人至上主義の過激派グループに指定した組織だ。

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アゾフ連隊を表紙にしたソーファン・センターの報告書「White Supremacy Extremism」


 ソーファン・センターが出した2019年の報告書「White Supremacy Extremism」は、2019年までの6年間にウクライナを訪れた外国人は50カ国から1万7000人になると指摘する。その多くに白人至上主義との関連があるのか確認されたわけではないが、彼らと信条を共有するアゾフ連隊で軍事訓練を受けた義勇兵らによる国際的なネットワークが構築される恐れがあると警告する。ここ数年、アメリカの白人至上主義者たちが連携を強めているのが、イギリス、ドイツ、スウェーデン、フランス、そしてポーランドなど中東欧諸国だという。アメリカが軍事支援したアフガンゲリラにアラブ各国から義勇兵が殺到し、混迷を深めたアフガニスタンを聖域とした揚げ句、アルカイーダを結成して米同時多発テロを起こしたように、ウクライナで戦闘経験を積んだ義勇兵が自国に戻り白人至上主義のテロを起こすことも十分に考えられる。今やテロの主役はイスラムのジハーディストたちでなく白人至上主義の過激派に移りつつある。

 

未解決事件になったアンネ・フランク「密告者」捜し

アンネの日記」で知られるユダヤ人少女アンネ・フランクの隠れ家をナチス・ドイツに通報した密告者を特定したとして話題を呼んだ書籍『アンネ・フランクへの裏切り(The Betrayal of Anne Frank:An Investigation)』(HarperCollins)。そのオランダ語版の出版社アンボ・アンソス(Ambo Anthos)が23日までに、信憑性に疑義が生じたとして書籍を回収すると発表した。今年1月の出版直後からずさんな調査内容とセンセーショナリズムが問題になり、歴史家らが検証した結果「評価対象になり得ない」と厳しく批判され、販売中止に追い込まれた。著者のカナダ人作家ローズマリー・サリバン(Rosemary Sullivan)は、調査は米連邦捜査局FBI)の元捜査官が主導し、現代の調査技術を駆使して徹底的に行われたと主張するが、明確な証拠もなく憶測で密告者を特定していた。ヨーロッパのユダヤ人団体や密告者と名指しされた人物の子孫は版元のハーパーコリンズ(米「ニューズ・コープ」の子会社)に英語版の販売中止を求めているが、明確な返答は得られていないようだ。


 アンネの家族はナチスが台頭した1930年代にドイツからオランダに逃れ、第2次大戦でオランダがドイツ軍に占領されるとアムステルダムの倉庫で潜伏生活を始めた。2年以上続く隠れ家での生活は1944年8月4日、匿名の密告者の通報を受けたゲシュタポ(秘密警察)の捜索で終止符が打たれ、父親、母親、姉とともにドイツ占領下のポーランドにあったアウシュビッツ収容所に送られてしまう。戦後、唯一の生存者となった父親のオット―・フランクが、隠れ家での生活を綴ったアンネの日記の存在を知り、1947年に『アンネの日記』として出版されることになる。15歳で死んだ聡明な少女の記録は人々に深い感動を与え、ホロコーストの悲劇を象徴する書物になった。

1940年にアムステルダムで撮影されたアンネ・フランク

 それから75年後に出版された本が話題になった理由は、アンネを死に追いやった密告者が他ならぬユダヤ人だったという衝撃的な内容をテーマにしているためだ。密告者捜しは、オランダの映画製作者ティジス・バイエンス(Thijis Bayens)とメディアプロデューサーのピーター・ファンツウィスク(Pieter van Twisk)の2人が企画し、信頼性を高めるためFBIの元捜査官ビンス・パンコーク(Vince Pankoke)に調査が依頼された。調査過程をドキュメンタリーにする予算を捻出するため大手出版社ハーパーコリンズとのコラボが実現し、アムステルダム市の補助金も得ている。心理学者、戦争犯罪の調査官、歴史家などの調査チームを構成して6年かけて密告者を絞り込んでいったという。南米コロムビアの麻薬カルテルの捜査が専門だったパンコークは、米CBS放送の時事番組「60ミニュッツ」(1月16日放映)に出演し、「これが犯罪なら警察による捜査がされるべきだ。だから私たちは未解決事件として取り組むことになった」と語っている。

 オランダの捜査当局は過去2回、フランク一家の潜伏先を密告した人物が誰だったのか調べたことがある。パンコークの調査チームが発見した当時の捜査関係者の「走り書き」には、「ユダヤ人の潜伏先リストをナチスに手渡したアーノルド・ファンデンベルフにオットー・フランクは裏切られた」と書かれてあったという。オットー・フランクが匿名の人物から得たメモの内容を捜査関係者が書き残したものと思われる。アムステルダムで公証人をしていたファンデンベルフ(1950年に癌で病死)という人物は、ユダヤ人を管理するためナチス・ドイツが設立させた「(アムステルダムユダヤ人評議会」に属していた。同評議会は1943年9月に解散に追い込まれ、ナチスに協力したメンバーも収容所送りになるのだが、ファンデンベルフとその家族は収容所に送られずアムステルダムで生き残っていたことが分かった。

 調査チームに参加したオランダ警察の心理分析官ブラム・ファンメール(Bram van Meer)は「評議会メンバーはガス室送りを免れるためナチスに(密告情報を)提供したのかもしれない」と「60ミニュッツ」で語っている。しかしファンデンベルフがユダヤ人の潜伏先リストを知っていたという証拠は見つからなかったという。調査チームがファンデンベルフを密告者と特定した唯一の証拠は、捜査関係者の走り書きということになる。

 ではオットー・フランクは家族を死に追いやった密告者の情報を知りながら、なぜ真相を突き止めようとしなかったのか。パンコークはその理由をこう結論づけている。

「彼はアーノルド・ファンデンベルフがユダヤ人であることを知っていた。戦争直後のこの時期、(オランダには)反ユダヤ主義がまだ根強く残っていた。おそらくオットーは、ファンデンベルフの問題を提起することが(反ユダヤ主義感情に)火に油を注ぐことにしかならないと感じていたのだろう。しかしここで留意すべきは、(ファンデンベルフが)ユダヤ人だったということは、彼も自らの命を守るため、自分の力ではどうにもならない立場をナチスに強いられていたことだ」(「60ミニュッツ」)

 ユダヤ人がユダヤ人を裏切ったという話を不快に思う人も多いのではないかと問われたチジス・バイエンスは、むしろ「そうなることを望んでいる」と答え、こう続ける。「なんとも奇妙なことをナチ政権は実際に行い、こんな酷いことを人々にさせていたことが分かると思う。この問題の本質は『私ならどうしただろうか?』にある。それこそが問われている」(同)

 調査チームが根拠にした匿名のメモ……。しかしメモの存在は研究者の間ですでに広く知られていたという。オランダの歴史学者デービッド・バーナウ(David Barnouw)は2003年の著書『誰がアンネ・フランクを裏切ったのか?(Wie verraadde Anne Frank?)』でファンデンベルフに触れ、メモの内容を踏まえた上でも彼が密告者である証拠はなく、調査対象から外したと明らかにしている。またアムステルダムユダヤ人評議会がユダヤ人の潜伏先リストを持っていたとする調査チームの主張にも疑念が生じている。同評議会の歴史に詳しい研究者ローリエン・バステンハウト(Laurien Vastenhout、Institute for War,Holocaust and Genocide Studies)は「ニューヨークタイムズ」(1月18日付)のインタビューに、「なぜ隠れ家にいる人たちがユダヤ人評議会に自分の居場所を知らせる必要があるのか?」と答えている。同紙によると、調査チームが得たリストの存在に関する情報は、すべてナチ協力者の証言に基づくものだった。またホロコーストの研究で知られるアムステル大のヨハネス・ホーウィンク・ティンカートゥ(Johannes Houwink ten Cate)教授はAFP通信(2月11日付)のインタビューに、ファンデンベルフと家族はフランク一家がナチスに捕まる数カ月前の1944年初めに隠れ家での潜伏生活に入っていたことから、「彼が(潜伏した後になって)自分の隠れ家を放棄する危険を犯す必要があるのか?」と疑問を投げかけた。ユダヤ人絶滅を目指していたナチス当局が協力者を庇護するとも考えにくい。ファンデンベルフを密告者と考える根拠はほとんどないのが現実だ。

 なにかと議論の多いユダヤ人の問題に関しては「ホロコーストの倒置(Holocaust inversion)」という研究テーマもあるという。反ユダヤ主義の実態を調べた『人々が愛す亡きユダヤ人(People Love Dead Jews)』(2021年)の著者ダラ・ホーン(Dara Horn)はニューヨークタイムズに「非ユダヤ人の(読者や)視聴者を惹きつける理由は、自分の責任として考えなくてもいいから」と指摘する。

 戦後の戦犯裁判で起訴された1万5000人のオランダ人のうち、ナチスに加担してユダヤ人の隠れ家を密告した人が1割いたという。そのうち152人に死刑判決(執行は40人)が下されているが、ユダヤ人も1人いた。ホロコースト生存者の様々な証言から、保身からナチスに協力したユダヤ人がいたのは誰も否定しない事実だ。しかし調査チームはいったい何のため、アンネ・フランクの密告者を「未解決事件」として特定するに至ったのだろうか。本来なら「アンネ・フランクを死に追いやったのは、ナチスに協力したオランダ人だけでなく一部のユダヤ人の協力があった可能性もある」と説明されるべきところを、「アンネ・フランクを死に追いやったのはユダヤ人だった」と倒置され、ユダヤ人がユダヤ人を裏切ったという印象が強められた。ホロコーストという重大な人権問題をスキャンダラスな犯罪小説のようにしたのは「売れる」と思ったためだろうか。

 フランク一家がオランダからアウシュビッツに送られた翌月の1944年10月、アンネと姉のマルゴの2人はドイツ国内にあるベルゲン・ベルゼン収容所に再移送されている。ここでは食料不足から餓死者が続出していた上、ポーランドからの移送者の激増によりチフスまで広がり、毎日数千人が死亡する悲惨な状況にあった。アンネ姉妹がチフスに感染して死ぬのは1945年2月。2カ月後にイギリス軍が解放するまでに犠牲になった人は5万人に及ぶ。

 アンネと同時期にベルゲン・ベルゼン収容所に収監されていたオランダ系ユダヤ人の生存者で、戦後にオーストラリアに移民したエディ・ボアス(Eddy Boas)は、ローカル紙(The Australian Jewish News)に載せた寄稿文でこう述べている。

「1940年5月から1945年5月までに、私の家族やアンネの家族を含む10万7000人のオランダ系ユダヤ人が家を追い出され、すべてドイツの収容所に送られた。そのうち生き残れたのは5000人。10万2000人が殺害された。人口比では西欧諸国のなかで最も多い。私たちはオランダの官僚や警察、そして隣人に裏切られたのだ」

 生存者たちは解放後のオランダに戻っても、以前住んでいた家に住むことすら認められなかったという。このブログ(https://beh3.hatenablog.com/entry/2022/03/04/130837)で紹介したこともあるイスラエルドキュメンタリー映画製作者ボリス・マフッシールの「失われたホロコーストを探して」を観ると、ウクライナでも同じことが起きていた。戦前はユダヤ系住民がマジョリティーだった街や村からユダヤ人が一掃され、彼らの住居は隣人だったウクライナ人たちの家になった。虐殺されたユダヤ人たちが着ていた大量の服は闇市場で売り買いされたという。同様のことはポーランドでも起きている。生き残れたユダヤ人たちが経営していた工場に戻ると、すでに人手に渡り、門前払いにされたという。誰が彼らを殺害したのか捜し出すより、なぜ彼らは殺されたのかが問題なのではないか。

 

 

ロシアが忘れた教訓、アフガンツィ

 ウクライナ国連大使が2月28日の国連総会・緊急特別会合で読みあげた、死亡したロシア兵の携帯に残された母親とのメッセージが、今も波紋を広げている。

兵士:「ママ、もうクリミアにはいないんだ。演習はしていないんだ」
母親:「それならどこにいるの?パパが荷物の送り先を尋ねてるの」
兵士:「荷物を送れるわけないよ」
母親:「なに言ってるの?なにがあったの?」
兵士:「ママ、ウクライナにいるんだよ」

 そして兵士は母親に惨状を伝える。
兵士:「本当に戦争が起きているんだ。怖いよ。僕らは町中を爆撃していて、市民でさえ標的にしている」「歓迎されるって聞かされていたのに、彼らは装甲車の下に身を投げ出して、僕らを通そうとしない」「僕らのことをファシストと呼ぶんだ。ママ、本当につらいよ」

 最後のメッセージが送られた直後、兵士は死亡したと大使は伝えた。事情も分からぬまま戦地に送り込まれている様子から、ロシア軍の指揮系統の乱れが指摘されるようになった。

 ロシア軍の全面侵攻に続く無差別砲撃で、民間人の被害が続出し、難民の数は300万人にまで膨れあがっている。ウクライナ軍の戦死者も数千人に達したとされる。一方でロシア側の被害も大きく、米国防省の推定で死者は少なくとも7000人を超え、戦車430両、装甲車1375両が破壊された。

 ロシア軍は当初、首都を含む戦略的要衝を数日で制圧するシナリオを描き、国境周辺に集結させた連合機動部隊をウクライナの幹線道路を使って進軍させた。しかし長く伸びた隊列はウクライナ軍の奇襲攻撃で身動きがとれなくなり、前線に残された部隊の燃料や食料不足に対応することすらできなかった。 

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スティンガーミサイルの攻撃を受け炎上するロシアの戦闘ヘリMi24。ウクライナ陸軍が3月5日に公開したツイッターの映像から

 ウクライナ軍の反撃では、2、3人のチームで攻撃が可能な携帯用の対戦車ミサイル「ジャベリン」や地対空ミサイル「スティンガー」、トルコ製ドローン「バイラクタルTB2]が威力を発揮しているという。待ち伏せ攻撃後ただちに移動するゲリラ戦で戦車や戦闘機・戦闘ヘリを撃破する映像がウクライナ軍により次々と公開されている。こうした最新兵器のウクライナ軍への投入は開戦前から何度も報道されていたのだから、ロシア軍上層部の戦略決定の混乱や兵士の士気低下は予想を上回るものなのかもしれない。戦争の長期化でウクライナはさらに大きな犠牲を強いられることになるが、これからロシアが失うものも計り知れない。ロシアは「アフガンツィ」の悪夢を忘れてしまったのだろうか。

 ソ連がアフガンからの撤退を言及しだすのは、ペレストロイカが進んでいた1987年秋ころから。アメリカがアフガンゲリラにスティンガーを提供したことで制空権を失い始め、敗戦ムードは濃厚だった。翌88年1月にカブールを訪れたゴバルチョフ政権のシュワルナゼ外相は同年末までに撤退したい考えを明らかにしていた。実際に撤退が完了する89年2月までの10年間、ソ連は延べ62万人の兵士をアフガンに駐留させ、戦死者約1万4000人、負傷者約5万人をだした。その上、軍事介入で年間50億ドルを費やしたとされ、ソ連解体の間接的な要因になった。 

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ソ連戦勝記念日パレードに参加する帰還兵のアフガンツィ。「Afghantsi」より

 戦地から続々と戻ってくるアフガン帰還兵はソ連でアフガンツィと呼ばれていた。彼らの多くが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患い、社会適応を困難にさせていた。故郷に帰れば英雄扱いされると聞かされていたが、人々は長い報道規制で戦争の実態をほとんど知らない。民間人の虐殺について尋ねられることも彼らを苛立たせた。モスクワ発の当時のニューヨーク・タイムズ(1988年2月14日付)によると、アフガンツィの多くが戦場で経験した悪夢から逃れるため麻薬に手を出し、暴力的な行動が批判の的になっていた。また障害を抱える負傷兵は社会から阻害され、故郷に戻らず保養施設での生活を望んでいたという。

 この記事と同時期に彼らの実情を取材した「アフガンツィ(Afghantsi)」(ピーター・コスミンスキー監督、1988年)というイギリスのドキュメンタリー映画がある。帰還兵だけでなく、撤退前のアフガンのソ連軍陣地を訪ねて兵士たちのインタビューも行った珍しい作品だ。カブール近郊の陣地でインタビューに応じた軍曹(Valodya Penchuk)はこう語っていた。

「私たちの車列の先頭を走っていた車両が(待ち伏せ攻撃で)やられた。(攻撃を受けた)車に駆け寄ると、親友だった運転兵にまだ息はあったけど、顔がほとんどえぐられ、胸も負傷していた。彼が助からないのは一目で分かった。その後、指揮官が村を攻撃する許可をだした。50メートルほどの距離から撃ち続け、村を破壊し尽くした。手の震えが止まらなかったけど無我夢中で撃ち続けた。(攻撃を受けた)車輌の中は血だらけになっていて、見ているだけで怖くなった。車両には50発くらいの弾丸が撃ち込まれていた。長距離射程の自動小銃で撃ってきたようだ」

 徴用されて間もないこの軍曹は、「こんな殺し合いはうんざりだ」とうつろな表情で話していた。

 カメラはカブールにあるソ連軍の病院で治療中の負傷兵(Nikolai Chekan)も撮影している。死線をさまよった戦場での衝撃から抜け出せない様子で、「こんな忌まわしい戦争がいったい何のためになるんだ」と話す。そして、こう続けた。「銃を撃つということが実際になにを意味するのか分かるようになると…、銃を撃ちながら、自分が生きているかどうかも疑わしくなるような苦痛を受けた後は、他の人たちを二度と傷つけたくないと思うようになる」

 第2次世界大戦(ソ連では「大祖国戦争」)戦勝記念日の5月9日。ソ連の街をパレードする高齢になった英雄の退役軍人に続き、青のベレー帽と縞柄シャツが特徴の空挺部隊の制服を着たアフガンツィも非公式にパレードに参加していた。そのうちの一人(Yuri Shaginov)は、故郷に戻れば必要な福祉はなんでも与えられると聞かされていたのに、現実はまったく違ったと不満を漏らした。そして辛い過去の体験を語る元軍曹(Alexander Solomin)の言葉から、アフガンツィたちが抱える悩みがはっきり伝わってきた。

「戦争中にどちらが正しいか悪いかなんて区別することなどできないし、(戦争と)関係のない(民間)人なのかどうかも分からない。名誉ある戦いなんてできるのだろうか。なにより女性や子供たちが犠牲になってしまい、それ自体がひどいことだ。この戦争は未熟な政治家の誤った決断がもたらしたに違いない。いずれ分かるかもしれないが、いったい誰に責任があるのか知りたい」

 映画には戦死した兵士(Valodya)の母親(Nina Penchukova)のインタビューもある。

「彼はアフガニスタンにいることを私に伝えませんでした。モンゴルに移動したと言っていたのです。私を動揺させたくなかったのだと思います。私をひどく悲しめることを分かっていたから。手紙ではこう言っていました」

 彼女は涙ぐみ、息子の手紙を読みあげた。

「ママ、どうか許してください。本当のことを言わなくてはなりません。僕はアフガニスタンにいます」

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戦死した息子の手紙を読み上げる母親。「Afghantsi」より

 

 

チャイコフスキーとワーグナーにつきまとう雑音

 ロシアのウクライナ侵攻を受けチャイコフスキーの演奏を取りやめる動きが相次いでいる。特に問題にされているのが大序曲『1812年(1812 Overture)』。ナポレオン率いるフランス軍を撃退したロシア軍の勇壮さをたたえる曲であるため、時期的に適切でないと判断されたようだ。同様の動きは欧米でもあり、イギリスのカーディフフィルハーモニー交響楽団は3月18日に予定されていたチャイコフスキーの演奏をドボルザークなどの曲目に変更する決定をしている。「現在のロシアによるウクライナ侵攻に鑑み、大序曲1812年を含むプログラムは適切でない」と説明されたが、文化にまで及ぶ過剰な反応への批判も少なくない。

 そもそも1812年は、ナポレオンの侵略から祖国を守る英雄的な抵抗を称えているのであり、210年後の現在のウクライナが経験している抵抗にこそ相応しい曲だという。チャイコフスキーを絶賛することとプーチンの侵略とはなんの関係もないはずだ。音楽愛好家の間では常識のようだが、チャイコフスキーの曽祖父ヒョードル・チャイカウクライナ東部ポルタバに住んでいたコサックで、チャイカは「カモメ」を意味する。チャイカをロシア風に上品に改名したのがチャイコフスキー。この大作曲家がウクライナを心から愛していたのも周知の事実だ。演奏を中止するより、むしろウクライナのために演奏してもいいのではないか。

 チャイコフスキーの演奏中止で引き合いに出されるのが、イスラエルワーグナーの演奏が事実上禁止されていることだ。ドイツの精神風土を賞揚するワーグナーの作品はナチズムと深く結びついた過去があるため、イスラエルではタブー視されている。しかし、こちらは少し事情が異なる。

 イスラエルフィルハーモニー交響楽団の終身音楽監督だったズービン・メータが1981年、アンコールでワーグナーの演奏をしようとしたことがある。選んだ曲はワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』のクライマックスで演じられる悲壮感漂う「リーベストード(Liebestod=愛の死)」だった。ニューヨーク・タイムズ(1981年10月17日付)によると、彼は演奏に先立ち客席に向かってこう語りかけたという。「私たちは今夜、リヒャルト・ワーグナーの曲を演奏しようと思います。できることならこの場に留まって欲しいのですが、留まることを強要するものではまったくありません」。しかし観客の一人が突然、ステージの指揮台に近づいて上着を脱ぎ、体に深く刻まれた傷を見せ「この体の上でワーグナーを演奏しろ」と叫んだため会場は騒然となった。ホロコーストの生存者であり第1次中東戦争イスラエルの独立のため戦った英雄の極端な行動で、ワーグナーの演奏は中止に追い込まれた。

 筆者は90年代にイスラエルに長期滞在したことがあり、多くのイスラエル人と親交を深める機会があった。テルアビブにあった音楽アカデミーを訪ねた時、学校の先生が「今では弦楽の逸材はアジアの人たちが占めるようになり、ユダヤ人とストリングを結びつける時代は終わりつつありますね」と語っていたのを思い出す。当時、ズービン・メータとワーグナーの問題が再燃していたこともあり、少し尋ねてみると、ワーグナーにあまり拒否感を持っていないようだった。それほど神経質になる問題ではないと思い、デザイナーをしていた女性との雑談で「もうワーグナーを演奏してもいいのじゃないですか?」と尋ねると、ものすごい剣幕で「レイプをした連中をどうやって許せというの!」と怒られてしまった。ワーグナーを演奏するかどうかはイスラエル人が決めることで、外野がとやかく言う話ではなかった。

「音楽におけるユダヤ性」

 最近はイスラエルでもラジオやテレビでワーグナーがたまに聞けるようになったらしいが、コンサートホールでの演奏はあり得ない。ワーグナーが問題にされ続けるのも、ホロコーストの傷がいまだに癒えていないためだ。ヒトラーワーグナーのオペラ『リエンツィ(Rienzi)』に触発され政治家を志したといわれ、ナチの集会やプロパガンダ映像でワーグナーの曲目を積極的に使った。ナチを視覚的に美化したレニ・リーフェンシュタールの記録映画『意志の勝利(Triumph of the will)』(1934年)でも『ニュルンベルグマイスタージンガー(Die Meistersinger)』が高揚感を高めている。ヒトラーが崇拝したワーグナーユダヤ人たちのトラウマに直結する悪夢のような存在だ。

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1869年に実名で刊行された「音楽におけるユダヤ性」

 リヒャルト・ワーグナーはナポレオンがロシアで大敗を喫した1813年に生れ、帝政ドイツ時代の1883年に死亡している。ドイツで反ユダヤ主義が台頭するのは1870年代末からなので、ワーグナーが生きた時代、ドイツはユダヤ人にとり平和な場所だった。音楽家として実績を積んでいた当時のワーグナーは、ドイツ音楽界で成功を収めていたユダヤ系の作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンやジャコモ・マイアベーアに反感を募らせていたと言われ、ユダヤ人の芸術性を否定する問題の論文「音楽におけるユダヤ性」(1850年)を偽名で音楽誌に載せた(1869年に実名で刊行)。ユダヤ人に対する偏見に満ちた表現が随所に見られ、反ユダヤ主義の先駆けになったと批判される一方で、論文のタイトルが示す通り、音楽におけるユダヤ性に対する反発あるいは嫌悪の表出にすぎないとも解釈され、評価が割れている。門外漢ではあるけど無理をして論文を読んでみると(https://hugoribeiro.com.br/area-restrita/Wagner-Judaism_music.pdf)、難解な表現が多く、音楽や時代背景の知識なしに到底理解できそうにない。概ねこんなことを言っているようだ。

「(我らヨーロッパの)社会の進化において、ユダヤ人たちに残された唯一の仕事、すなわち労働の対価でもない高利貸しによる金が、実質的な高潔さの特権へと変質しようとしている」
ユダヤ人が話すヨーロッパの言語は学びとっただけのものであり、彼ら生来の言葉ではない」ばかりか、「(ロシア帝国内で移住が禁止される「ペール」の外にいる)ユダヤ人は世代を継ぎ、この国(ドイツ)の言葉を異邦人として話している」
「歌とは感情を極限にまで高めるものであり、音楽は感情を語りかけるものだ」
「外国の言葉をもとに詩を生み出すことは、最高峰の天才をもってしても今のところ不可能である。我らヨーロッパの芸術と文明が、その発達にまったく寄与していない外国の言葉を使うユダヤ人に委ねられている」

 ドイツ固有の文化と芸術における異邦人であるユダヤ人の影響に警鐘を鳴らし、ユダヤ人自らがユダヤ性を否定してドイツ文化に完全に同化することを促す形をとっており、批判の矛先はメンデルスゾーンマイアベーアに向けられている。メンデルスゾーン家はヨーロッパでも有数の規模を誇る銀行を運営する実業家の家系であり、マイアベーアも同様だった。音楽界にはびこる金儲け主義に我慢がならなかったのかもしれないが、ユダヤ性の問題に対する批判は、ユダヤ人に対する敵意に裏付けられているとしか思えないほど辛辣だ。

 数々の不朽の名作を残したワーグナー西洋音楽史に残る巨人であり、メンデルスゾーンより高い評価を得ている。しかし作品と人物を切り離すことはできず、特にイスラエルの人たちがワーグナーを受け入れるのは容易いことではない。ただ、ナチが作り上げたワーグナー像とユダヤ性を批判したワーグナーの音楽は本質的に異なり、否定的な側面を乗り越え、あえて演奏すべきだと考えるユダヤ人音楽家も少なくないと言う。これからどれほど時間がかかるか分からないが、いずれイスラエルフィルがワーグナーを演奏する日が訪れるのかもしれない。

 

ソ連が消したユダヤ人虐殺の記録『ブラック・ブック』

バビ・ヤールの悲劇

 ロシアのウクライナへの全面侵攻が始まり1週間が過ぎた。ウクライナ側の抵抗で進軍は遅れているが、首都キエフの占領は避けられない見通しだという。ウクライナは第2次世界大戦でドイツに国を奪われた時も悲惨な体験をしているが、その傷も癒えぬまま、新たな戦禍に巻き込まれてしまった。ロシアの侵攻が激しさを増す今、80年以上も前のナチス・ドイツの侵略について語る時ではないかもしれないが、戦争につきまとう犯罪に警鐘を鳴らすためにも、当時なにが起きたのが振り返っておきたい。

 キエフナチス・ドイツに占領されたのは独ソ戦開始から3カ月後の1941年9月19日のことだ。南部戦線の要衝を失ったソ連軍は総崩れとなり、ウクライナ東部でも劣勢を強いられていく。このキエフ陥落から3日後、市内の主だったビルの壁に新聞が張りだされ、ユダヤ人、共産主義者共産党委員、パルチザンは殲滅されると告げられた。その翌日、中心地の広場などに集められたユダヤ人に見せしめの集団暴行がされ、ユダヤ人の老人や子どもの死体がドニエプル川を流れているのを多くのキエフ市民が目撃している。市内各地にあったシナゴークに集まった人たちはドイツ軍とその指揮下に入ったウクライナの警察に取り囲まれ、一人残らず連れ去られた。街を走る街宣車は「共産主義者パルチザンユダヤ人がどこにいるかゲシュタポと警察に通報せよ」と警告し続け、ユダヤ人らしき通行人は映画館などの公共施設にかたっぱしから閉じ込められていく。彼らはその後、集団で殺害されたものとみられる。

 外出を控えていた人たちも次から次と家から連れ出され、もはや逃げ場を失っていた。あるユダヤ人の家族は地下室に数日隠れていたが、母親が2人の子どもを地方に連れ出そうと街に出たところドイツ軍に捕まってしまう。2人の子どもは母親の目の前で首を切られ、泣き叫ぶ母親と駆けつけた父親もその場で相次いで射殺された。この他にも、家に隠れていた高齢の女性が3階の窓から放り投げられるなど、残虐な殺害がいたるところで目撃されている。しかし一連の殺戮は大量虐殺の序章でしかなかった。ドイツ軍占領から1週間たった9月27日から28日にかけ、街のいたるところに次のような張り紙が出される。

キエフのカイク(ユダヤ人)は包囲されている! 9月29日月曜日の午前7時までに、所持品、所持金、書類、貴重品、防寒服を持参し、ユダヤ人墓地の隣にあるドロゴジスカヤ通りに集まれ。姿を見せなかった者は死刑に処す。隠れているカイクは死刑に処す。

 29日早朝、指定された場所にキエフユダヤ人たちが続々と集まってきた。地方で強制労働をさせられるものと思って集まったのだが、移送が死を意味することを確信していた人たちの多くは、その日のうちに自殺したという。そしてドイツ軍の厳重な警備のなかで、近郊にあるバビ・ヤールという谷に向かう数万人の死の行進が始まった。

 証言によると、バビ・ヤールに着いた群衆はドイツ軍が設置したバリアの前で待たされ、30人から40人ずつ「登録」のためバリア内に連れていかれた。そこで老若男女を問わず全裸にされると、持参した旅券や証明書などの書類、衣類、貴重品が没収され、処刑場であり死体処理場でもある谷に連れていかれた。機関銃の一斉射撃で人々は谷底に転げ落ち、小さな子どもたちは生きたまま投げ捨てられた。貴重品や脱ぎ捨てられた大量の服はどこかに持ち去られたが、没収された書類はその場で捨てられ、あたり一面に散乱していたという。流れ作業のような冷酷な処刑は延々と続き、29日から30日のたった2日間で3万人以上もの人が犠牲になった。ナチス・ドイツが行ったホロコーストの中でも最も残虐な戦争犯罪が、このバビ・ヤール大虐殺だ。

 犠牲者の数があまりにも多いため、奇跡的に生き残った人の証言も何例か残されている。4歳の娘を連れていたエリナ・エフィモヴナ・ボロジャンスキーという女性の場合、深夜になって処刑場の前に立たされた。射撃の号令が出る直前、彼女は死体が積み重なる谷に娘を突き落とし、続いて自分も飛び降りた。射撃音とともに射殺された人たちが次々と落ちてきて、2人は死体の中に埋まってしまう。処刑はその後も何度も繰り返され、彼女は娘が死体の下敷きになって圧死しないよう、血まみれの死体の中で隙間を作るのにありったけの力を注いだ。誰かが死体の上を歩き回って銃剣でとどめを刺しているようだった。彼女はあたりが静まり返ってから死体の山からはい出し、娘を連れて数キロ離れた民家の住民に助けを乞い、生き延びることができた。

「本は破壊された」

 ナチス・ドイツユダヤ人虐殺を告発するため、戦争末期の1944年から終戦直後の1946年にかけソ連で作成された『ブラック・ブック(The Black Book)』という本がある。ロシア西部、ウクライナベラルーシラトビアリトアニアエストニアなどドイツが占領したソビエト連邦内で収集された被害者や生存者の手紙、日記、メモ、証言などをもとに、40人以上の作家やジャーナリストが執筆にあたり、当時の著名なソ連ユダヤ人作家、イリヤ・エレンブルグ(Iliya Ehrenburg)とヴァシリー・グロスマン(Vasily Grossman)が編集を担った。上記のキエフとバビ・ヤールに関する内容は、同書のウクライナの章で最初に紹介される「キエフ、バビ・ヤール(Kiev,Babi Yar)」という記事から引用したもので、執筆者のレフ・オゼロフ(Lev Ozerov)教授はキエフ生れのユダヤ人の詩人・翻訳者であり、後にバビ・ヤールの詩も残している。

 戦争犯罪の記録で埋め尽くされたブラック・ブックは、ホロコーストの現場で起きた事実を知る上で第一級の史料として知られる。ところがソ連は、自らの成果であるはずのブラック・ブックの出版を禁じ、ユダヤ人大量虐殺の歴史的事実を隠蔽した。600万人のホロコースト犠牲者のうち270万人もの人がソ連で犠牲になったにもかかわらず、体制正当化のプロパガンダにさえ使わなかったのだ。

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イリヤ・エレンブルグ The Mystery of the Black Bookより

 ブラック・ブック編集の中心人物だったエレンブルグは、独ソ戦開戦当初からドイツ軍の犯罪とユダヤ人の悲劇、レジスタンス活動に関する記事を書いていたため、赤軍兵士たちが戦場で入手した日記やメモ、写真などの資料が彼のもとに送り届けられるようになったという。彼自身がドイツ兵捕虜の尋問もしている。出版を目指したエレンブルグはモスクワの「ユダヤ人反ファシスト委員会」(JAFC:Jewish Anti-Fascist Committee)の傘下に文芸委員会を立ち上げ、グロスマンの参加により編集が本格化していく。未完成ながら本の編集が終わったのは1944年の初めで、内容の一部はソ連の雑誌に掲載されたという。エレンブルグは当初から複数の言語への翻訳を意図し、特に英語版の出版に向け米国のユダヤ人団体との接触も果たしていた。

 だがJAFC文芸委員会の活動は突如、中止に追い込まれる。エレンブルクは共産党機関紙「プラウダ」で、ファシストのドイツと民主国家のドイツ(東ドイツ)を区別しなかったとして厳しく批判された。エレンブルクは当時、編集に参加した知人への手紙にこう記している。

ロゾブスキー(ソビエト情報局長)はブラック・ブックの出版をJAFCに委ねることに決めた。したがって私が出版の準備のため作った文芸委員会の活動は中止になる。君が委員会に参加してくれたことには心から感謝している。君が成し遂げた仕事が歴史から消え去ることはないと確信している。

 ソ連は当時、戦時中に設立した「非常国家委員会」(Extraordinary Commission of Ascertain and Investigate the War Crimes of the Fascist-German Invaders and Their Accomplices)の解散を命じ、ユダヤ人絶滅政策を含むドイツの戦争犯罪に関する調査を中止させていた。東ドイツ共産主義陣営に組み込んだソ連にとり、過去のナチスの犯罪は政治的な価値を失い、むしろドイツとの善隣友好に障害になると考えたようだ。

 文芸委員会の解散後、JAFCは原稿になんらかの修正を加えることでロシア語版の印刷にこぎつけている。しかしロシア語版は「JAFCが解散させられた1948年末、本は“破壊”された」とエレンブルクが書き残しており、ソ連での出版の道は完全に閉ざされたばかりか、その痕跡さえ消されてしまう。

 だが同種の修正版は1946年に米国、イスラエルルーマニアユダヤ人団体にも送られていた。イスラエルではホロコースト犠牲者を追悼する国立記念館「ヤド・ヴァシェム」で出版が準備されるが、失われていた文章が多く、ロシア語による同書の復元に時間がかかった。ソ連各地域の人たちの犯罪の加担に関する資料も実質的に残っておらず、不十分な面もあるという。冒頭の記述はその英語版を閲覧して引用した(https://archive.org/details/TheBlackBookOfSovietJewry/mode/1up?view=theater)。

ブラック・ブックに潜むミステリー

 イスラエルドキュメンタリー映画製作者ボリス・マフッシール(Boris Maftsir)が2014年から始めたプロジェクト「失われたホロコーストを探して」(https://holocaustinussr.com/)を通して、旧ソ連地域で起きた知られざるホロコーストの実態に迫る作品を相次いで発表している。旧ソ連ラトビアで生まれたマフッシールはシオニズム活動でKGBに逮捕され服役した経験があり、ユダヤ人社会を抑圧したソ連に関心を持ち続けている。前述した通り、ソ連ユダヤ人虐殺の事実を実質的に隠蔽したため、ソ連の影響下にあった東欧諸国ではホロコーストの実態があまり知られてこなかった。ソ連崩壊後に本格的な研究が始まるものの、全容解明にはほど遠いのが現実だという。

 マフッシールはかつての虐殺現場をくまなく歩きまわり、高齢になった目撃者たちに、その時なにが起きたのか尋ねていく。ユダヤ人虐殺を担ったドイツの機動殺害部隊「アイザッツグルッペン」が西ウクライナ各地で犯した虐殺を追った「The Road to Babi Yar」(2018年)や、ドイツと同盟関係にあったルーマニア軍のウクライナ侵攻の過程で起きた虐殺に迫る「Beyond the Nistru」(2016年)など、耳を疑う虐殺の数々が証言され、戦争犯罪の恐ろしさを改めて思い知らされる。

 シリーズ「失われたホロコーストを探して」は最新作「The Mystery of the Black Book」(2019年 予告編 https://www.youtube.com/watch?v=Zvb4RmrnruI)でブッラク・ブックにも焦点を当てた。まだオンラインで公開されていないので内容を確認していないが、題名が示す通り、ブラック・ブックがソ連で出版禁止になった謎に迫る作品であるようだ。東西冷戦下の東ドイツとの善隣友好が出版禁止の背景とされてきたが、それだけで歴史に残る貴重な史料を葬り去ったとは考えにくい。そこにはユダヤ人を排除するソ連、そして今に続くロシアの思惑が見え隠れする。

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The Mystery of the Black Bookより

 

ウクライナで風化するホロコーストの記憶

 ロシア軍の侵攻が「いつでも起きうる」なか、渦中のウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は「(危機を煽る)情報はパニックを助長するだけ」と市民に冷静になるよう呼びかけてきた。米国を後ろ盾にロシアの侵略を防ぐ一方で、危機の長期化で破綻寸前の経済も救わねばならず、難しい舵取りを迫られている。

 ゼレンスキーは政治とは無縁の俳優・コメディアンだったが、2015年に放映された政治風刺ドラマ「国民の僕」で主人公を演じ一躍有名になり、政界に躍り出た。ドラマは、高校の歴史教師が図らずも大統領に転身し、政治腐敗の温床となる新興財閥「オリガリヒ」と対決して国民的英雄になる、といった内容だった。2019年の大統領選では現実の腐敗政治の打破を掲げ、70%以上の得票率で地滑り的な勝利を収めている。そして今、老練で抜け目ないプーチンとバイデンと渡り合う44歳のコメディアン出身の政治家の決断が、この国の運命を左右しようとしている。

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ドラマ「国民の僕」

 ゼレンスキーがユダヤウクライナ人であることは広く知られている。ヨーロッパでは今も反ユダヤ主義の感情が根強く残っているのが現実だが、ウクライナの大統領選では彼の出自はほとんど問題になっていない。当時の世論調査ユダヤ系住民を同胞と考えないと答えた人は5%にすぎず、他の東欧諸国に比べると著しく少ない。ゼレンスキー本人も「私がユダヤ人であるという事実は、私の性格のうちの20番目の問題でしかない」とジョークを飛ばしているほどだ。同国の現首相もユダヤ系であり、ウクライナイスラエル以外でユダヤ人が大統領と首相になった唯一の国でもある。

 そんなゼレンスキーの大統領選出馬に強く反発したのは、過去に反ユダヤ主義の先鋒を担ったウクライナ正教会民族主義者たちではなく、彼と同じユダヤ系住民たちだった。ロシア帝政時代末期のユダヤ人迫害から第2次大戦中のナチス・ドイツホロコーストに至るまで、ウクライナユダヤ人社会は想像を絶する甚大な被害を被ってきた。ウクライナ反ユダヤ主義が根絶されたという証拠はなく、もしゼレンスキーが国政運営で失敗すれば、批判の矛先がユダヤ人社会に向けられかねないと危惧しているのだ。

激減したユダヤ系住民

 2019年の当選直後、ゼレンスキーはナチス・ドイツを倒した戦勝記念日に合わせ、同国中部にある故郷のクリヴィー・リフ市の墓地を訪ね、祖父シモン・イヴァノビッチ・ゼレンスキーの墓前に花束を捧げた。祖父シモンの3人の兄弟と父親はホロコーストで殺害され、生き残ったシモンだけがソビエト赤軍兵士としてドイツ軍と戦った。ゼレンスキーはSNSでこう書き残している。「彼は戦い抜き、ウクライナナチスから守った英雄の一人として私の記憶の中に永遠に生き続けている。私たちの祖父の世代である元兵士たちが忘れられているのは悲しいことだ」

 現在のウクライナユダヤ系住民の数は、誰をユダヤ人とすべきか明確な基準もないので正確な統計はないが、ざっと8万人から35万人と推定されている。第2次大戦でドイツが進軍してきた1941年までは約270万人のユダヤ系住民がいたとされるが、戦後の1950年代後半の統計で84万人にまで激減。その後もソ連崩壊後の移民ラッシュで人口は減り続けた。それでもウクライナは世界で3番目か4番目にユダヤ系住民が多い国として知られる。

 二千年も前にイスラエルの地を追われディアスポラとなったユダヤ人たちが黒海北岸にある現在のウクライナに定住するようになったのは、9世紀から13世紀にかけ、この地に栄えたキエフ大公国に厚遇されたためだとされる。アシュケナージと呼ばれるユダヤ人たちは、ウクライナベラルーシポーランドリトアニアにまたがる広大な東ヨーロッパ大平原に定住していく。だが18世紀末、その多くが帝政ロシアの統治下に入ると、彼らの移動は極端に制限されるようになった。当時のロマノフ王朝のエカチェリーナ2世がユダヤ教徒の居住区(Pale of Settlement)を設定し、域外へのユダヤ人の移住を禁じたためだ。1897年のロシアの調査でユダヤ人の人口は約500万人にもなり、帝政時代末期のロシアは世界でもっともユダヤ人が多く住む国になっていた。ウクライナにある主要都市のオデッサやドゥニプロでは住民の3分の1以上をユダヤ人が占めていたという。

 ユダヤ人の迫害は長い歴史の中で絶え間なく起きてきたが、19世紀末から20世紀初めにかけ、ウクライナを中心とする帝政ロシア南部の広範囲で「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ暴動が頻発し、事態は急速に悪化した。ポグロムはロシア語で「破滅させる」という意味があり、ユダヤ人に対する経済的、社会的、政治的な反感が暴動に発展したと言われる。特にロシア革命で混乱していた1917年から1921年まで、ウクライナユダヤ人は1000件以上のポグロムで約3万人の犠牲者を出した。この時期にウクライナを去ったユダヤ人は数知れず、この地にルーツがある逸材も多く輩出されることになった。映画監督のスティーブン・スピルバーグ、歌手のボブ・ディラン、指揮者のレナード・バーンスタイン、科学者のカール・セーガンといった人たちがよく知られるが、ウクライナ危機で陣頭指揮をとるアントニー・ブリンケン米国務長官もその一人だ。昨年1月に国務長官に指名された際、ブリンケンは就任受託演説で「私の祖父モーリス・ブリンケンはロシアのポグロムから逃れアメリカに来た。私の母ベラ・ブリンケンは共産主義ハンガリーから逃れてアメリカに来た」と述べ、アメリカが国際社会で担うべき使命を強調した。現在のウクライナの首都キエフで育ったモーリス・ブリンケンは子供の頃の20世紀初頭、父親に連れられニューヨークに渡ったというから、ブリンケン長官は米国で4代目に当たる。

 しかしウクライナユダヤ人を激減させたのはポグロムではなく、第2次大戦中の2年間に起きたホロコーストだ。およそ600万人のホロコースト犠牲者のうち100万人近い人たちがウクライナで殺害されているのだ。にもかかわらず、虐殺の実態は解明されたとは言い難いのが実情だ。戦後すぐ、ソ連ではホロコーストの実態を調べた500ページに及ぶ報告書が作成されたが、ホロコーストは特定の民族ではなくソビエト市民に対する虐殺だったと強調する当局が出版を認めなかった。ユダヤ人の被害が匿名化されたため、真相究明のための追跡調査や教育が行われてこなかったのだ。日の目を見ることがなくなった報告書は「ブラックブック」として知られ、そこにはナチ当局と協力したウクライナ人の役割も指摘されてあったという。

ユダヤ人と共産主義を結びつけたデマ

 なぜウクライナポーランドに次ぐ大規模なホロコーストが起きたのか。その前に第1次大戦を機に混迷を深めたウクライナの歴史について簡単に触れておきたい。

 第1次大戦中の1917年に起きた「2月革命」でロシア帝国が崩壊したのに続き、「10月革命」でボリシェヴィキソビエト政権が誕生すると、ウクライナではキエフを首都とする「ウクライナ人民共和国」の独立が宣言された。同国はドイツとオーストリアの連合国側と同盟を結ぶが、連合国の敗退によりソビエト赤軍の介入を防ぐことができなくなった。そしてボリシェヴィキの傀儡政権「ウクライナソビエト社会主義共和国」の樹立を受け、ウクライナ人民共和国政府は亡命を余儀なくされる。

 一方、西ウクライナでは別の動きがあった。第1次大戦後に独立を果たしたポーランドが、かつての領土だったベラルーシ西部とウクライナ西部を取り戻すため、ロシア革命後の混乱に乗じて西ウクライナに侵攻。これに対しウクライナ人は「西ウクライナ人民共和国」の独立を宣言するが、ボリシェヴィキとの戦いが続く東方のウクライナ人民共和国に支援に応じる余裕はなく、短命に終わっている。この結果、西ウクライナガリツィア地方はポーランド領、同ブコビア地方はルーマニア領に編入された。そして西ウクライナを除く他の地域は1922年のソビエト連邦の結成によりソ連領に組み込まれることになり、独立の希望は絶たれてしまった。

 だがウクライナをめぐる領土争奪戦はヒトラー政権の誕生で再開する。ソ連と不可侵条約を結んだドイツが1939年9月にポーランドに侵攻すると(第2次大戦勃発)、ソ連ポーランド領に編入された西ウクライナを前述のウクライナソビエト社会主義共和国に併合。ルーマニア領のブコビアも併合したため、ウクライナのほぼ全域がソ連に組み込まれた。続いて独ソ戦が勃発し、今度は西からドイツ軍が攻め込み、ソ連軍はウクライナから撤退していく。

 悲劇はドイツ進軍の過程で次から次と起きた。特にポーランドに近い西ウクライナガリツィア地方は伝統的にユダヤ人が多く住んでいたため、生まれ育った故郷の街や村々が大量虐殺の現場となる凄惨なホロコーストが繰り返された。虐殺はガリツィアからウクライナ全土へと広がり、ドイツ侵攻から3カ月過ぎた1941年9月29日から30日にかけ、キエフ近郊のバビ・ヤール(Babi Yar)という峡谷に集められた3万人以上のユダヤ人が集団虐殺される事件も発生している。

 しかし進駐してきたドイツ軍だけで、短期間のうち100万人もの人を殺害するのは容易なことではない。ソビエトからの独立を目指すウクライナ人も、ナチス・ドイツの犯罪に少なからず協力したと言われる。「ユダヤ人は共産主義者であり、共産主義者ユダヤ人」というデマがユダヤ人虐殺を正当化した。ゼレンスキーの祖父のように赤軍兵士となりドイツと戦ったユダヤ人がいたのも事実だが、虐殺されたユダヤ系住民たちと共産主義はなんの関係もなかった。

 戦後、ユダヤ人が住んでいた街や村からユダヤ人の姿は消え、虐殺に加担したウクライナ人たちも多くを語ろうとしなかった。ユダヤ人被害を匿名化させたソ連の政策もあり、ウクライナホロコーストの記憶は風化していった。

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バビ・ヤールの惨劇を描いたArbit Blatasの「Babi Yar」