80年の歳月を経て輝くチャップリンの名演説

 ちょび髭に山高帽、大きなドタ靴、そしてステッキという戯けたキャラクターで世界じゅうの人々に愛されたチャールズ・チャップリン。社会や政治の風刺を取り込んだ哀愁に満ちたドタバタ喜劇を「リトル・トランプ」(小さな放浪者)として演じ続け、映画史上に残る数々の名作を残した。その中でも名作中の名作がヒトラーを風刺した『独裁者』だ。製作に2年かけ、1940年9月にニューヨークで初めて封切られた時、アメリカはまだ第2次世界大戦に参戦すらしていなかった。ナチのプロパガンダ映画を作ったことで知られるドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールが1938年11月に訪米した時にニューヨークで公開された『意志の勝利』を観て、「ヒトラーは笑いものにされねばならない」と思ったのが、この映画を作る動機になったという。リーフェンシュタールがニューヨークを訪れた5日後、ドイツではユダヤ人迫害が本格的に始まる事件「クリスタルナートゥ」が起きていたが、映画を観た人たちはファシズムの危うさより、迫力ある映像芸術の世界に圧倒されていたという。チャップリンはそれにガマンならなかったようだ。

 この映画を観た人も多いだろうから、あらすじを説明する必要もないと思う。チャップリンアドルフ・ヒトラーならぬ独裁者アデノイド・ヒンケル、そしてゲットーで床屋を営むユダヤ人の一人二役を演じ、結末のシーンでは床屋が独裁者に入れ替わり、兵士たちに向かって平和と博愛を訴える5分間の名演説を行う。不条理な戦争報道に毎日のように接している今、チャップリンの演説を改めて読み返してみると、80年以上が過ぎてもまったく色あせず、むしろ輝きを増している。戦争のない世界を願いつつ、その全訳をここで紹介しておきたい。

(※米軍のアフガン撤退から始めた本ブログも、ひとまずお休みさせていただきます)

 

『独裁者』より

 悪いけど皇帝になんかなりたくない。私には関わりのないことだし、誰かを支配したり征服したいなどとは思わない。できることなら、みんなを助けてあげたい。ユダヤ人も、そうでない人も、黒人も、白人も。みんなで助け合いたい。人間とはそういうものだ。誰もが互いに不幸になるためではなく、幸せになるために生きていきたいはずだ。互いに憎んだり軽蔑したりしたくはない。世界は人々のためにある。この良き大地は豊かで、分け隔てなく恵みを与えてくれる。人生は自由で美しいものなのに、私たちは道を失ってしまった。

 欲が人の魂を毒し、憎しみによって世界は閉ざされ、悲惨、殺戮へと私たちを進ませている。私たちはスピードというものを生み出したけど、その中に閉じ込められてしまった。豊かさをもたらす機械が、私たちを貧しくさせている。知識は私たちを皮肉にさせ、知恵は私たちを厳しく、そして冷酷にした。多くのことを考えられるようになったけど、多くのことを感じないようになってしまった。機械より大切なのは人々への愛だ。賢さより大切なのは、優しさや思いやりなんだ。こうした思いがなければ、この世の中は暴力で満ちあふれ、なにもかも失ってしまうだろう。

 飛行機やラジオは人と人との距離を近くしてくれた。こうした発明により、人々の良心に訴え、世界の人々に訴え、すべての人がひとつになることを訴えることができる。今もこうして、私の声が世界中の何百万もの人々に届いている。罪もない人たちを拷問し、投獄させるシステムの犠牲となり、絶望の淵に追いやられた何百万もの男性や女性、そして小さな子供たち。

  私の声を聞くことができた人たちに伝えたい。決して絶望しないでほしい。今、私たちに襲いかかっている不幸は、いずれ消え去るであろう、人間の進歩を恐れる者の貪欲であり憎悪にすぎない。憎しみは消え去り、独裁者たちは死ぬ。人々から奪いとられた権利は、人々のもとに戻されるだろう。人の命には限りがあるけど、自由が滅びることなどない。

 兵士たちよ! 獣たちに身を捧げてはならない。あなたたちを見下し、奴隷にし、人生まで思いのままにする者たちは、あなたたちが何をし、考え、感じるかを指図している! あなたたちを訓練し、食事を制する者たちは、あなたたちを家畜のように扱い、弾のように使い捨てにするだけだ。

 そんな自然でない機械のような考えや心をもつ者たちに身を捧げてはならない! あなたたちは機械じゃない! あなたたちは家畜じゃない! あなたたちは人間だ! 人々を愛す心をもつ人間だ! 憎んではいけない! 憎しみは愛されない者だけが持つ。愛されず、自然でない者たちがだ! 兵士たちよ! 奴隷として闘うな! 自由のために闘え!

 ルカによる福音書17章には「神の国はあなたがたの間にある」と書かれてある。ひとりの人間にではなく、ある集団の人間たちにでもなく、すべての人間にだ! あなたたちの中にあるのだ! あなたたちは力を持っている。機械を生み出す力、幸せを生み出す力! あなたたちは人生を自由にし、美しくし、その人生を素晴らしい冒険にする力を持っている。

 その力を民主主義の名のもとに使い、みながひとつになろう。新しい世界のために闘おう。人々に働く機会を与え、若者たちに未来と老後の安定を与える良識のある世界のために。あの獣たちも、こんな約束をして権力を手に入れてきた。しかし彼らは嘘つきだ! 彼らは約束を果たすことも、果たすつもりもない!

 独裁者たちは自分たちを自由にする代わり、人々を奴隷にしてしまう。今こそ約束を果たすため闘おう! 世界を自由にするため、国と国の障壁を取り払うため、貪欲や憎しみ、不寛容を失くすために闘おう! 科学と進歩がすべての人を幸せへと導く、理性のある世界のために闘おう。兵士たちよ! 民主主主義の名のもとにひとつになろう!

 

 

アゾフ連隊「非ナチ化」めぐるジレンマ

 8年前の2014年5月2日、黒海に面したウクライナ南部の港湾都市オデーサで、この日のサッカー競技に合わせ街を練り歩いていた群衆と、市内中心部に集まっていたロシア系住民との間で小競り合いがあり、拳銃の発砲や投石などの大乱闘になった。数千人の群衆に取り囲まれたロシア系住民のうち約300人が旧共産党本部ビルにたてこもり、原因不明の出火により42人の死者を出す惨事となった。これに先立つ2月、首都キーウでは、親ヨーロッパ派市民の大規模な抗議運動でロシア寄りのヤヌコビッチ政権が倒れる「マイダン革命」が起きていた。翌3月、ウクライナのEU接近を警戒するロシアが南部のクリミア半島を占領し、4月には東部ドンバス地方で親ロ派武装勢力が「ドネツク民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を一方的に宣言する事態へと発展した。

 オデーサの暴動はこうした不穏な情勢の最中に起きた。同市のロシア系住民は人口の約3割。彼らがテントをはって続けていた反マイダン革命の集会に、サッカーの熱狂的ファンや右翼団体「右派セクター(Pravy Sektor)」活動家を含む群衆がはち合わせ暴動になったのだが、双方の一部が武装していたとの目撃証言もあり、意図的な衝突だった可能性もある。事件はロシアで「ウクライナナチスが(ロシア系同胞住民を)生きたまま焼き殺した」とセンセーショナルに報じらた。そしてウクライナ侵攻の直前、ウラジミール・プーチン大統領も事件について触れ、「悪魔の仕業である犯罪を犯した者はまだ処罰されていない。誰も捜そうとしないが、我々は(犯人たちの)名前を知っている」とオデーサ侵攻を示唆したともとれる発言をした。

 2月24日の侵攻以来、ウクライナ軍の抵抗を見誤ったロシア軍は死者1万人、負傷者3万人を出したうえ戦力の20%を喪失したとされる。首都占領を諦め撤退した北部地域で次々と戦争犯罪の実態が明らかになるなか、ロシア軍が新たに戦力を集中させた東部戦線に取り残された住民たちの安否が懸念される。ウクライナ北東にある都市ハリコフは無差別砲撃でゴーストタウンと化し、ロシア軍に完全に包囲されたアゾフ海港湾都市マリウポリでも、都市インフラの90%が破壊され、すでに2万人近い市民が犠牲になっているとの情報もある。ロシアは第2次大戦戦勝記念日「勝利の日」記念式典の5月9日までにマリウポリを制圧し、東部ドンバス地方と南部クリミア半島をつなぐ「回廊」を確保するのが当面の目標になったようだ。

 その後も戦争が続くなら、次に主要なターゲットとなるのがクリミア半島北西のムィコラーイウであるらしい。3月初めに同半島に近いドニエプル川河口の都市へルソンを占領したロシア軍が、さらにムィコラーイウへ進軍している理由は、その先にあるオデーサを最終的に占領するためだ。オデーサの西でモルドバと国境を接するドニエストル川沿いにはロシア影響下の分離主義者が実効支配する「トランスニストリア」がある。黒海沿岸の中心都市オデーサはウクライナの貿易拠点であり、同国の海軍本部も置かれる。ドンバスからクリミア半島、そしてオデーサまでの黒海沿岸をすべて占領されれば、ウクライナは国として機能を果たせなくなる。

マイダン革命後に頭角を現すアゾフ

 一連の危機の出発点は2013年11月21日にキーウの独立広場(マイダン)で起きた市民のデモだった。当時のヤヌコヴィッチ政権が、EUが域外国と包括的な協力関係を結ぶための連合協定の署名を見送ると、大統領退陣を求める大規模な抗議運動に発展。翌年2月に発生したデモ隊と武装警察の激しい衝突を経てヤヌコヴィッチ政権を倒すマイダン革命につながった。デモで主要な役割を果たしたのは極右政党「スヴォボーダ(Svoboda=自由)」や設立されたばかりの右派セクターだった。武装解除を拒否した右派セクターが議会に向け行進を始めたのが政権打倒の決定打になった。暫定政権ではスヴォボーダ議員が国会議長に選出されている。革命直後、右派セクター代表のドゥミトゥロ・ヤロシュ(Dmytro Yarosh)は親ロシアの抗議活動を封じ込め「国を浄化する」と米誌「ニューズウィーク」に語っていた。一連の実力行使のクライマックスとなるのが、5月に起きたオデーサの暴動だったのだ。

 マイダン革命は、もう一つの重要な右翼団体を誕生させている。ドンバス地方の紛争で最大の激戦地になったマリウポリで名をあげた準軍事組織「アゾフ大隊」だ。創設者のアンドゥリイ・ビレツキー(Andriy Biletsky)はマイダン革命後に恩赦で釈放された一人で、前政権のウクライナ警察はビレツキー率いる右翼団体ウクライナ愛国者」をネオナチのテログループとして監視していた。もともとのメンバーは北東部の都市ハルキウにあるサッカーチームの熱狂的なウルトラスや民族主義運動の活動家たちだったと言われ、アゾフ海マリウポリ義勇兵として出撃する頃からアゾフ大隊と名乗りだした。戦場ではウクライナ正規軍が撤退するなか最後まで戦い抜き、マリウポリ奪還をもたらすなど戦果を挙げ、2014年11月に国軍の国家警備隊に組み込まれる。正式に軍の組織になってからは「アゾフ連隊」と呼ばれている。本部をマリウポリにおき、キーウの独立広場に近いビルで隊員募集のリクルートセンター「コサックハウス」を運用している。

 アゾフ連隊を特集した米誌「タイム」(2021年1月7日号)のインタビューに応じたビレツキーは、アゾフ大隊の創設が「長い地下活動の末に我々を呼び起こした」出来事だったと振り返る。ビレツキーは政党「国家の軍(National Corps)」を発足するためアゾフ連隊を離れた格好だが、組織は地方都市で警察と協力する自警団を組織したり、出版社を通じたプロパガンダに力を入れるなど連携がとられる。政界における影響力はほとんどないものの、他の右翼団体の勢いが衰える一方で、「アゾフ運動」とも呼ばれる彼らの活動は危機の中にあってますます影響力を増そうとしている。

 このアゾフ連隊がネオナチと関連づけて語られることが多い理由は、過去のビレツキーの発言に起因する。ビレツキーは2010年に出した声明書でナチス・ドイツのプロパンガンダを引用し、「(ウクライナ民族主義者は)生存をかけた最後の十字軍において、ユダヤ人率いるウンターメンシに対抗し、世界の白人国家を導かねばならない」などと訴えていた。ナチスが多様したドイツ語のウンターメンシという言葉は非アーリア人の「劣った人々」を意味し、ユダヤ人、ロマ人(いわゆるジプシー)、そして皮肉にもスラブ人をも含んでいたが、白人至上主義者のビレツキーがナチスを公然と信奉していたのは紛れもない事実だ。ビレツキーはアゾフの紋章にナチス親衛隊(シュッツシュタッフェル=SS)の精鋭「第2SS装甲師団ダス・ライヒ」のヴォルフス・アンゲル(Wolfsangel)を採用した。ヴォルフス・アンゲルはドイツ伝来の狼狩りの罠を意匠化したものだが、ナチスのSSを意識したのは明らかだ。もう一つ彼らが多様する意匠がネオナチのシンボルのように使われる「ソネンラード(Sonnerad)」。稲妻のような形のジークルーネあるいはカギ十字を放射状に構成して黒い太陽を描いたもので、ナチス親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーがSS高官用に考案したものだという。

 アゾフ連隊の訓練要員アレックスなる軍曹は米紙「USAトゥデイ」(2015年3月10日付)に、隊員の中でナチ信奉者は半数を上回らないと答えていたが、同連隊のスポークスマンはその数を1割か2割と修正している。ヴォルフス・アンゲルやソネンラードはウクライナナチスのイメージとして広く認識されているわけではなく、ロシア軍と果敢に戦う同連隊の評判を知り志願した若者たちのほうが多いらしい。だがビレツキーの過激な信条がアゾフ運動に受け継がれている疑いは拭いきれない。

テロの主役は白人至上主義者に

 アゾフ連隊も米陸軍の訓練を受けてきた部隊の一つだ。前述したネオナチの背景が問題になり、米下院が2015年7月に援助を中断する修正案を可決したことがあるが、同年12月に援助再開を認める修正案が可決され、引き続き米軍の支援を受けてきた。2018年にもアゾフ連隊への援助禁止を含む国防支出法案が成立しているが、実際に軍事支援が止まることはなかった。さらに米議会では2019年暮れ、米国市民をリクルート・訓練してきたアゾフをテロ組織として指定するよう議員40人が国務省に求めたこともある。しかし、これも実現には至っていない。日本の公安調査庁も「ネオナチ組織がアゾフ大隊を結成した」と記載した過去のHP上の情報が誤って拡散しているとして、4月8日付で同記述を削除したと発表した。

 プーチンは2014年のマイダン革命はファシストによるクーデターであり、「ナツィキ(リトル・ナチ)」に支配されたウクライナの「非ナチ化」が必要だとする国内向けの主張を繰り返してきた。ウクライナは民主国家であり、大統領はユダヤ系のゼレンスキーだ。非ナチ化というフレーズは第2次大戦のトラウマを悪用して侵攻を正当化するプロパガンダにすぎない。ロシアはマリウポリで徹底抗戦を続けるアゾフ連隊の殲滅を非ナチ化の最大の成果として利用するものとみられ、化学兵器の使用まで憂慮されている。民間人殺害を繰り返すロシアのジェノサイドを防ぐのがなにより優先される今、アゾフ連隊にネオナチの影があるとしても、彼らの過去の言動が問題視される状況ではないだろう。

 しかし戦後まで見据えるなら、見過ごしてはならないことがある。テロリストグループの調査で知られる元FBI捜査官のアリ・ソーファン(「ソーファン・センター(The Soufan Center)」代表)によると、アメリカの白人至上主義で主導的役割を果たすグレッグ・ジョンソンが2018年にウクライナを訪れ、「国家の軍」が主催した様々なイベントに参加していた。またアゾフ連隊はフェースブックなどSNSを駆使して世界の右派団体と接触しており、南カリフォルニアを拠点にする武装組織「RAM(Rise Above Movement)」との関係も取りざたされている。RAMはFBIが白人至上主義の過激派グループに指定した組織だ。

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アゾフ連隊を表紙にしたソーファン・センターの報告書「White Supremacy Extremism」


 ソーファン・センターが出した2019年の報告書「White Supremacy Extremism」は、2019年までの6年間にウクライナを訪れた外国人は50カ国から1万7000人になると指摘する。その多くに白人至上主義との関連があるのか確認されたわけではないが、彼らと信条を共有するアゾフ連隊で軍事訓練を受けた義勇兵らによる国際的なネットワークが構築される恐れがあると警告する。ここ数年、アメリカの白人至上主義者たちが連携を強めているのが、イギリス、ドイツ、スウェーデン、フランス、そしてポーランドなど中東欧諸国だという。アメリカが軍事支援したアフガンゲリラにアラブ各国から義勇兵が殺到し、混迷を深めたアフガニスタンを聖域とした揚げ句、アルカイーダを結成して米同時多発テロを起こしたように、ウクライナで戦闘経験を積んだ義勇兵が自国に戻り白人至上主義のテロを起こすことも十分に考えられる。今やテロの主役はイスラムのジハーディストたちでなく白人至上主義の過激派に移りつつある。

 

未解決事件になったアンネ・フランク「密告者」捜し

アンネの日記」で知られるユダヤ人少女アンネ・フランクの隠れ家をナチス・ドイツに通報した密告者を特定したとして話題を呼んだ書籍『アンネ・フランクへの裏切り(The Betrayal of Anne Frank:An Investigation)』(HarperCollins)。そのオランダ語版の出版社アンボ・アンソス(Ambo Anthos)が23日までに、信憑性に疑義が生じたとして書籍を回収すると発表した。今年1月の出版直後からずさんな調査内容とセンセーショナリズムが問題になり、歴史家らが検証した結果「評価対象になり得ない」と厳しく批判され、販売中止に追い込まれた。著者のカナダ人作家ローズマリー・サリバン(Rosemary Sullivan)は、調査は米連邦捜査局FBI)の元捜査官が主導し、現代の調査技術を駆使して徹底的に行われたと主張するが、明確な証拠もなく憶測で密告者を特定していた。ヨーロッパのユダヤ人団体や密告者と名指しされた人物の子孫は版元のハーパーコリンズ(米「ニューズ・コープ」の子会社)に英語版の販売中止を求めているが、明確な返答は得られていないようだ。


 アンネの家族はナチスが台頭した1930年代にドイツからオランダに逃れ、第2次大戦でオランダがドイツ軍に占領されるとアムステルダムの倉庫で潜伏生活を始めた。2年以上続く隠れ家での生活は1944年8月4日、匿名の密告者の通報を受けたゲシュタポ(秘密警察)の捜索で終止符が打たれ、父親、母親、姉とともにドイツ占領下のポーランドにあったアウシュビッツ収容所に送られてしまう。戦後、唯一の生存者となった父親のオット―・フランクが、隠れ家での生活を綴ったアンネの日記の存在を知り、1947年に『アンネの日記』として出版されることになる。15歳で死んだ聡明な少女の記録は人々に深い感動を与え、ホロコーストの悲劇を象徴する書物になった。

1940年にアムステルダムで撮影されたアンネ・フランク

 それから75年後に出版された本が話題になった理由は、アンネを死に追いやった密告者が他ならぬユダヤ人だったという衝撃的な内容をテーマにしているためだ。密告者捜しは、オランダの映画製作者ティジス・バイエンス(Thijis Bayens)とメディアプロデューサーのピーター・ファンツウィスク(Pieter van Twisk)の2人が企画し、信頼性を高めるためFBIの元捜査官ビンス・パンコーク(Vince Pankoke)に調査が依頼された。調査過程をドキュメンタリーにする予算を捻出するため大手出版社ハーパーコリンズとのコラボが実現し、アムステルダム市の補助金も得ている。心理学者、戦争犯罪の調査官、歴史家などの調査チームを構成して6年かけて密告者を絞り込んでいったという。南米コロムビアの麻薬カルテルの捜査が専門だったパンコークは、米CBS放送の時事番組「60ミニュッツ」(1月16日放映)に出演し、「これが犯罪なら警察による捜査がされるべきだ。だから私たちは未解決事件として取り組むことになった」と語っている。

 オランダの捜査当局は過去2回、フランク一家の潜伏先を密告した人物が誰だったのか調べたことがある。パンコークの調査チームが発見した当時の捜査関係者の「走り書き」には、「ユダヤ人の潜伏先リストをナチスに手渡したアーノルド・ファンデンベルフにオットー・フランクは裏切られた」と書かれてあったという。オットー・フランクが匿名の人物から得たメモの内容を捜査関係者が書き残したものと思われる。アムステルダムで公証人をしていたファンデンベルフ(1950年に癌で病死)という人物は、ユダヤ人を管理するためナチス・ドイツが設立させた「(アムステルダムユダヤ人評議会」に属していた。同評議会は1943年9月に解散に追い込まれ、ナチスに協力したメンバーも収容所送りになるのだが、ファンデンベルフとその家族は収容所に送られずアムステルダムで生き残っていたことが分かった。

 調査チームに参加したオランダ警察の心理分析官ブラム・ファンメール(Bram van Meer)は「評議会メンバーはガス室送りを免れるためナチスに(密告情報を)提供したのかもしれない」と「60ミニュッツ」で語っている。しかしファンデンベルフがユダヤ人の潜伏先リストを知っていたという証拠は見つからなかったという。調査チームがファンデンベルフを密告者と特定した唯一の証拠は、捜査関係者の走り書きということになる。

 ではオットー・フランクは家族を死に追いやった密告者の情報を知りながら、なぜ真相を突き止めようとしなかったのか。パンコークはその理由をこう結論づけている。

「彼はアーノルド・ファンデンベルフがユダヤ人であることを知っていた。戦争直後のこの時期、(オランダには)反ユダヤ主義がまだ根強く残っていた。おそらくオットーは、ファンデンベルフの問題を提起することが(反ユダヤ主義感情に)火に油を注ぐことにしかならないと感じていたのだろう。しかしここで留意すべきは、(ファンデンベルフが)ユダヤ人だったということは、彼も自らの命を守るため、自分の力ではどうにもならない立場をナチスに強いられていたことだ」(「60ミニュッツ」)

 ユダヤ人がユダヤ人を裏切ったという話を不快に思う人も多いのではないかと問われたチジス・バイエンスは、むしろ「そうなることを望んでいる」と答え、こう続ける。「なんとも奇妙なことをナチ政権は実際に行い、こんな酷いことを人々にさせていたことが分かると思う。この問題の本質は『私ならどうしただろうか?』にある。それこそが問われている」(同)

 調査チームが根拠にした匿名のメモ……。しかしメモの存在は研究者の間ですでに広く知られていたという。オランダの歴史学者デービッド・バーナウ(David Barnouw)は2003年の著書『誰がアンネ・フランクを裏切ったのか?(Wie verraadde Anne Frank?)』でファンデンベルフに触れ、メモの内容を踏まえた上でも彼が密告者である証拠はなく、調査対象から外したと明らかにしている。またアムステルダムユダヤ人評議会がユダヤ人の潜伏先リストを持っていたとする調査チームの主張にも疑念が生じている。同評議会の歴史に詳しい研究者ローリエン・バステンハウト(Laurien Vastenhout、Institute for War,Holocaust and Genocide Studies)は「ニューヨークタイムズ」(1月18日付)のインタビューに、「なぜ隠れ家にいる人たちがユダヤ人評議会に自分の居場所を知らせる必要があるのか?」と答えている。同紙によると、調査チームが得たリストの存在に関する情報は、すべてナチ協力者の証言に基づくものだった。またホロコーストの研究で知られるアムステル大のヨハネス・ホーウィンク・ティンカートゥ(Johannes Houwink ten Cate)教授はAFP通信(2月11日付)のインタビューに、ファンデンベルフと家族はフランク一家がナチスに捕まる数カ月前の1944年初めに隠れ家での潜伏生活に入っていたことから、「彼が(潜伏した後になって)自分の隠れ家を放棄する危険を犯す必要があるのか?」と疑問を投げかけた。ユダヤ人絶滅を目指していたナチス当局が協力者を庇護するとも考えにくい。ファンデンベルフを密告者と考える根拠はほとんどないのが現実だ。

 なにかと議論の多いユダヤ人の問題に関しては「ホロコーストの倒置(Holocaust inversion)」という研究テーマもあるという。反ユダヤ主義の実態を調べた『人々が愛す亡きユダヤ人(People Love Dead Jews)』(2021年)の著者ダラ・ホーン(Dara Horn)はニューヨークタイムズに「非ユダヤ人の(読者や)視聴者を惹きつける理由は、自分の責任として考えなくてもいいから」と指摘する。

 戦後の戦犯裁判で起訴された1万5000人のオランダ人のうち、ナチスに加担してユダヤ人の隠れ家を密告した人が1割いたという。そのうち152人に死刑判決(執行は40人)が下されているが、ユダヤ人も1人いた。ホロコースト生存者の様々な証言から、保身からナチスに協力したユダヤ人がいたのは誰も否定しない事実だ。しかし調査チームはいったい何のため、アンネ・フランクの密告者を「未解決事件」として特定するに至ったのだろうか。本来なら「アンネ・フランクを死に追いやったのは、ナチスに協力したオランダ人だけでなく一部のユダヤ人の協力があった可能性もある」と説明されるべきところを、「アンネ・フランクを死に追いやったのはユダヤ人だった」と倒置され、ユダヤ人がユダヤ人を裏切ったという印象が強められた。ホロコーストという重大な人権問題をスキャンダラスな犯罪小説のようにしたのは「売れる」と思ったためだろうか。

 フランク一家がオランダからアウシュビッツに送られた翌月の1944年10月、アンネと姉のマルゴの2人はドイツ国内にあるベルゲン・ベルゼン収容所に再移送されている。ここでは食料不足から餓死者が続出していた上、ポーランドからの移送者の激増によりチフスまで広がり、毎日数千人が死亡する悲惨な状況にあった。アンネ姉妹がチフスに感染して死ぬのは1945年2月。2カ月後にイギリス軍が解放するまでに犠牲になった人は5万人に及ぶ。

 アンネと同時期にベルゲン・ベルゼン収容所に収監されていたオランダ系ユダヤ人の生存者で、戦後にオーストラリアに移民したエディ・ボアス(Eddy Boas)は、ローカル紙(The Australian Jewish News)に載せた寄稿文でこう述べている。

「1940年5月から1945年5月までに、私の家族やアンネの家族を含む10万7000人のオランダ系ユダヤ人が家を追い出され、すべてドイツの収容所に送られた。そのうち生き残れたのは5000人。10万2000人が殺害された。人口比では西欧諸国のなかで最も多い。私たちはオランダの官僚や警察、そして隣人に裏切られたのだ」

 生存者たちは解放後のオランダに戻っても、以前住んでいた家に住むことすら認められなかったという。このブログ(https://beh3.hatenablog.com/entry/2022/03/04/130837)で紹介したこともあるイスラエルドキュメンタリー映画製作者ボリス・マフッシールの「失われたホロコーストを探して」を観ると、ウクライナでも同じことが起きていた。戦前はユダヤ系住民がマジョリティーだった街や村からユダヤ人が一掃され、彼らの住居は隣人だったウクライナ人たちの家になった。虐殺されたユダヤ人たちが着ていた大量の服は闇市場で売り買いされたという。同様のことはポーランドでも起きている。生き残れたユダヤ人たちが経営していた工場に戻ると、すでに人手に渡り、門前払いにされたという。誰が彼らを殺害したのか捜し出すより、なぜ彼らは殺されたのかが問題なのではないか。

 

 

ロシアが忘れた教訓、アフガンツィ

 ウクライナ国連大使が2月28日の国連総会・緊急特別会合で読みあげた、死亡したロシア兵の携帯に残された母親とのメッセージが、今も波紋を広げている。

兵士:「ママ、もうクリミアにはいないんだ。演習はしていないんだ」
母親:「それならどこにいるの?パパが荷物の送り先を尋ねてるの」
兵士:「荷物を送れるわけないよ」
母親:「なに言ってるの?なにがあったの?」
兵士:「ママ、ウクライナにいるんだよ」

 そして兵士は母親に惨状を伝える。
兵士:「本当に戦争が起きているんだ。怖いよ。僕らは町中を爆撃していて、市民でさえ標的にしている」「歓迎されるって聞かされていたのに、彼らは装甲車の下に身を投げ出して、僕らを通そうとしない」「僕らのことをファシストと呼ぶんだ。ママ、本当につらいよ」

 最後のメッセージが送られた直後、兵士は死亡したと大使は伝えた。事情も分からぬまま戦地に送り込まれている様子から、ロシア軍の指揮系統の乱れが指摘されるようになった。

 ロシア軍の全面侵攻に続く無差別砲撃で、民間人の被害が続出し、難民の数は300万人にまで膨れあがっている。ウクライナ軍の戦死者も数千人に達したとされる。一方でロシア側の被害も大きく、米国防省の推定で死者は少なくとも7000人を超え、戦車430両、装甲車1375両が破壊された。

 ロシア軍は当初、首都を含む戦略的要衝を数日で制圧するシナリオを描き、国境周辺に集結させた連合機動部隊をウクライナの幹線道路を使って進軍させた。しかし長く伸びた隊列はウクライナ軍の奇襲攻撃で身動きがとれなくなり、前線に残された部隊の燃料や食料不足に対応することすらできなかった。 

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スティンガーミサイルの攻撃を受け炎上するロシアの戦闘ヘリMi24。ウクライナ陸軍が3月5日に公開したツイッターの映像から

 ウクライナ軍の反撃では、2、3人のチームで攻撃が可能な携帯用の対戦車ミサイル「ジャベリン」や地対空ミサイル「スティンガー」、トルコ製ドローン「バイラクタルTB2]が威力を発揮しているという。待ち伏せ攻撃後ただちに移動するゲリラ戦で戦車や戦闘機・戦闘ヘリを撃破する映像がウクライナ軍により次々と公開されている。こうした最新兵器のウクライナ軍への投入は開戦前から何度も報道されていたのだから、ロシア軍上層部の戦略決定の混乱や兵士の士気低下は予想を上回るものなのかもしれない。戦争の長期化でウクライナはさらに大きな犠牲を強いられることになるが、これからロシアが失うものも計り知れない。ロシアは「アフガンツィ」の悪夢を忘れてしまったのだろうか。

 ソ連がアフガンからの撤退を言及しだすのは、ペレストロイカが進んでいた1987年秋ころから。アメリカがアフガンゲリラにスティンガーを提供したことで制空権を失い始め、敗戦ムードは濃厚だった。翌88年1月にカブールを訪れたゴバルチョフ政権のシュワルナゼ外相は同年末までに撤退したい考えを明らかにしていた。実際に撤退が完了する89年2月までの10年間、ソ連は延べ62万人の兵士をアフガンに駐留させ、戦死者約1万4000人、負傷者約5万人をだした。その上、軍事介入で年間50億ドルを費やしたとされ、ソ連解体の間接的な要因になった。 

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ソ連戦勝記念日パレードに参加する帰還兵のアフガンツィ。「Afghantsi」より

 戦地から続々と戻ってくるアフガン帰還兵はソ連でアフガンツィと呼ばれていた。彼らの多くが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患い、社会適応を困難にさせていた。故郷に帰れば英雄扱いされると聞かされていたが、人々は長い報道規制で戦争の実態をほとんど知らない。民間人の虐殺について尋ねられることも彼らを苛立たせた。モスクワ発の当時のニューヨーク・タイムズ(1988年2月14日付)によると、アフガンツィの多くが戦場で経験した悪夢から逃れるため麻薬に手を出し、暴力的な行動が批判の的になっていた。また障害を抱える負傷兵は社会から阻害され、故郷に戻らず保養施設での生活を望んでいたという。

 この記事と同時期に彼らの実情を取材した「アフガンツィ(Afghantsi)」(ピーター・コスミンスキー監督、1988年)というイギリスのドキュメンタリー映画がある。帰還兵だけでなく、撤退前のアフガンのソ連軍陣地を訪ねて兵士たちのインタビューも行った珍しい作品だ。カブール近郊の陣地でインタビューに応じた軍曹(Valodya Penchuk)はこう語っていた。

「私たちの車列の先頭を走っていた車両が(待ち伏せ攻撃で)やられた。(攻撃を受けた)車に駆け寄ると、親友だった運転兵にまだ息はあったけど、顔がほとんどえぐられ、胸も負傷していた。彼が助からないのは一目で分かった。その後、指揮官が村を攻撃する許可をだした。50メートルほどの距離から撃ち続け、村を破壊し尽くした。手の震えが止まらなかったけど無我夢中で撃ち続けた。(攻撃を受けた)車輌の中は血だらけになっていて、見ているだけで怖くなった。車両には50発くらいの弾丸が撃ち込まれていた。長距離射程の自動小銃で撃ってきたようだ」

 徴用されて間もないこの軍曹は、「こんな殺し合いはうんざりだ」とうつろな表情で話していた。

 カメラはカブールにあるソ連軍の病院で治療中の負傷兵(Nikolai Chekan)も撮影している。死線をさまよった戦場での衝撃から抜け出せない様子で、「こんな忌まわしい戦争がいったい何のためになるんだ」と話す。そして、こう続けた。「銃を撃つということが実際になにを意味するのか分かるようになると…、銃を撃ちながら、自分が生きているかどうかも疑わしくなるような苦痛を受けた後は、他の人たちを二度と傷つけたくないと思うようになる」

 第2次世界大戦(ソ連では「大祖国戦争」)戦勝記念日の5月9日。ソ連の街をパレードする高齢になった英雄の退役軍人に続き、青のベレー帽と縞柄シャツが特徴の空挺部隊の制服を着たアフガンツィも非公式にパレードに参加していた。そのうちの一人(Yuri Shaginov)は、故郷に戻れば必要な福祉はなんでも与えられると聞かされていたのに、現実はまったく違ったと不満を漏らした。そして辛い過去の体験を語る元軍曹(Alexander Solomin)の言葉から、アフガンツィたちが抱える悩みがはっきり伝わってきた。

「戦争中にどちらが正しいか悪いかなんて区別することなどできないし、(戦争と)関係のない(民間)人なのかどうかも分からない。名誉ある戦いなんてできるのだろうか。なにより女性や子供たちが犠牲になってしまい、それ自体がひどいことだ。この戦争は未熟な政治家の誤った決断がもたらしたに違いない。いずれ分かるかもしれないが、いったい誰に責任があるのか知りたい」

 映画には戦死した兵士(Valodya)の母親(Nina Penchukova)のインタビューもある。

「彼はアフガニスタンにいることを私に伝えませんでした。モンゴルに移動したと言っていたのです。私を動揺させたくなかったのだと思います。私をひどく悲しめることを分かっていたから。手紙ではこう言っていました」

 彼女は涙ぐみ、息子の手紙を読みあげた。

「ママ、どうか許してください。本当のことを言わなくてはなりません。僕はアフガニスタンにいます」

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戦死した息子の手紙を読み上げる母親。「Afghantsi」より

 

 

チャイコフスキーとワーグナーにつきまとう雑音

 ロシアのウクライナ侵攻を受けチャイコフスキーの演奏を取りやめる動きが相次いでいる。特に問題にされているのが大序曲『1812年(1812 Overture)』。ナポレオン率いるフランス軍を撃退したロシア軍の勇壮さをたたえる曲であるため、時期的に適切でないと判断されたようだ。同様の動きは欧米でもあり、イギリスのカーディフフィルハーモニー交響楽団は3月18日に予定されていたチャイコフスキーの演奏をドボルザークなどの曲目に変更する決定をしている。「現在のロシアによるウクライナ侵攻に鑑み、大序曲1812年を含むプログラムは適切でない」と説明されたが、文化にまで及ぶ過剰な反応への批判も少なくない。

 そもそも1812年は、ナポレオンの侵略から祖国を守る英雄的な抵抗を称えているのであり、210年後の現在のウクライナが経験している抵抗にこそ相応しい曲だという。チャイコフスキーを絶賛することとプーチンの侵略とはなんの関係もないはずだ。音楽愛好家の間では常識のようだが、チャイコフスキーの曽祖父ヒョードル・チャイカウクライナ東部ポルタバに住んでいたコサックで、チャイカは「カモメ」を意味する。チャイカをロシア風に上品に改名したのがチャイコフスキー。この大作曲家がウクライナを心から愛していたのも周知の事実だ。演奏を中止するより、むしろウクライナのために演奏してもいいのではないか。

 チャイコフスキーの演奏中止で引き合いに出されるのが、イスラエルワーグナーの演奏が事実上禁止されていることだ。ドイツの精神風土を賞揚するワーグナーの作品はナチズムと深く結びついた過去があるため、イスラエルではタブー視されている。しかし、こちらは少し事情が異なる。

 イスラエルフィルハーモニー交響楽団の終身音楽監督だったズービン・メータが1981年、アンコールでワーグナーの演奏をしようとしたことがある。選んだ曲はワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』のクライマックスで演じられる悲壮感漂う「リーベストード(Liebestod=愛の死)」だった。ニューヨーク・タイムズ(1981年10月17日付)によると、彼は演奏に先立ち客席に向かってこう語りかけたという。「私たちは今夜、リヒャルト・ワーグナーの曲を演奏しようと思います。できることならこの場に留まって欲しいのですが、留まることを強要するものではまったくありません」。しかし観客の一人が突然、ステージの指揮台に近づいて上着を脱ぎ、体に深く刻まれた傷を見せ「この体の上でワーグナーを演奏しろ」と叫んだため会場は騒然となった。ホロコーストの生存者であり第1次中東戦争イスラエルの独立のため戦った英雄の極端な行動で、ワーグナーの演奏は中止に追い込まれた。

 筆者は90年代にイスラエルに長期滞在したことがあり、多くのイスラエル人と親交を深める機会があった。テルアビブにあった音楽アカデミーを訪ねた時、学校の先生が「今では弦楽の逸材はアジアの人たちが占めるようになり、ユダヤ人とストリングを結びつける時代は終わりつつありますね」と語っていたのを思い出す。当時、ズービン・メータとワーグナーの問題が再燃していたこともあり、少し尋ねてみると、ワーグナーにあまり拒否感を持っていないようだった。それほど神経質になる問題ではないと思い、デザイナーをしていた女性との雑談で「もうワーグナーを演奏してもいいのじゃないですか?」と尋ねると、ものすごい剣幕で「レイプをした連中をどうやって許せというの!」と怒られてしまった。ワーグナーを演奏するかどうかはイスラエル人が決めることで、外野がとやかく言う話ではなかった。

「音楽におけるユダヤ性」

 最近はイスラエルでもラジオやテレビでワーグナーがたまに聞けるようになったらしいが、コンサートホールでの演奏はあり得ない。ワーグナーが問題にされ続けるのも、ホロコーストの傷がいまだに癒えていないためだ。ヒトラーワーグナーのオペラ『リエンツィ(Rienzi)』に触発され政治家を志したといわれ、ナチの集会やプロパガンダ映像でワーグナーの曲目を積極的に使った。ナチを視覚的に美化したレニ・リーフェンシュタールの記録映画『意志の勝利(Triumph of the will)』(1934年)でも『ニュルンベルグマイスタージンガー(Die Meistersinger)』が高揚感を高めている。ヒトラーが崇拝したワーグナーユダヤ人たちのトラウマに直結する悪夢のような存在だ。

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1869年に実名で刊行された「音楽におけるユダヤ性」

 リヒャルト・ワーグナーはナポレオンがロシアで大敗を喫した1813年に生れ、帝政ドイツ時代の1883年に死亡している。ドイツで反ユダヤ主義が台頭するのは1870年代末からなので、ワーグナーが生きた時代、ドイツはユダヤ人にとり平和な場所だった。音楽家として実績を積んでいた当時のワーグナーは、ドイツ音楽界で成功を収めていたユダヤ系の作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンやジャコモ・マイアベーアに反感を募らせていたと言われ、ユダヤ人の芸術性を否定する問題の論文「音楽におけるユダヤ性」(1850年)を偽名で音楽誌に載せた(1869年に実名で刊行)。ユダヤ人に対する偏見に満ちた表現が随所に見られ、反ユダヤ主義の先駆けになったと批判される一方で、論文のタイトルが示す通り、音楽におけるユダヤ性に対する反発あるいは嫌悪の表出にすぎないとも解釈され、評価が割れている。門外漢ではあるけど無理をして論文を読んでみると(https://hugoribeiro.com.br/area-restrita/Wagner-Judaism_music.pdf)、難解な表現が多く、音楽や時代背景の知識なしに到底理解できそうにない。概ねこんなことを言っているようだ。

「(我らヨーロッパの)社会の進化において、ユダヤ人たちに残された唯一の仕事、すなわち労働の対価でもない高利貸しによる金が、実質的な高潔さの特権へと変質しようとしている」
ユダヤ人が話すヨーロッパの言語は学びとっただけのものであり、彼ら生来の言葉ではない」ばかりか、「(ロシア帝国内で移住が禁止される「ペール」の外にいる)ユダヤ人は世代を継ぎ、この国(ドイツ)の言葉を異邦人として話している」
「歌とは感情を極限にまで高めるものであり、音楽は感情を語りかけるものだ」
「外国の言葉をもとに詩を生み出すことは、最高峰の天才をもってしても今のところ不可能である。我らヨーロッパの芸術と文明が、その発達にまったく寄与していない外国の言葉を使うユダヤ人に委ねられている」

 ドイツ固有の文化と芸術における異邦人であるユダヤ人の影響に警鐘を鳴らし、ユダヤ人自らがユダヤ性を否定してドイツ文化に完全に同化することを促す形をとっており、批判の矛先はメンデルスゾーンマイアベーアに向けられている。メンデルスゾーン家はヨーロッパでも有数の規模を誇る銀行を運営する実業家の家系であり、マイアベーアも同様だった。音楽界にはびこる金儲け主義に我慢がならなかったのかもしれないが、ユダヤ性の問題に対する批判は、ユダヤ人に対する敵意に裏付けられているとしか思えないほど辛辣だ。

 数々の不朽の名作を残したワーグナー西洋音楽史に残る巨人であり、メンデルスゾーンより高い評価を得ている。しかし作品と人物を切り離すことはできず、特にイスラエルの人たちがワーグナーを受け入れるのは容易いことではない。ただ、ナチが作り上げたワーグナー像とユダヤ性を批判したワーグナーの音楽は本質的に異なり、否定的な側面を乗り越え、あえて演奏すべきだと考えるユダヤ人音楽家も少なくないと言う。これからどれほど時間がかかるか分からないが、いずれイスラエルフィルがワーグナーを演奏する日が訪れるのかもしれない。

 

ソ連が消したユダヤ人虐殺の記録『ブラック・ブック』

バビ・ヤールの悲劇

 ロシアのウクライナへの全面侵攻が始まり1週間が過ぎた。ウクライナ側の抵抗で進軍は遅れているが、首都キエフの占領は避けられない見通しだという。ウクライナは第2次世界大戦でドイツに国を奪われた時も悲惨な体験をしているが、その傷も癒えぬまま、新たな戦禍に巻き込まれてしまった。ロシアの侵攻が激しさを増す今、80年以上も前のナチス・ドイツの侵略について語る時ではないかもしれないが、戦争につきまとう犯罪に警鐘を鳴らすためにも、当時なにが起きたのが振り返っておきたい。

 キエフナチス・ドイツに占領されたのは独ソ戦開始から3カ月後の1941年9月19日のことだ。南部戦線の要衝を失ったソ連軍は総崩れとなり、ウクライナ東部でも劣勢を強いられていく。このキエフ陥落から3日後、市内の主だったビルの壁に新聞が張りだされ、ユダヤ人、共産主義者共産党委員、パルチザンは殲滅されると告げられた。その翌日、中心地の広場などに集められたユダヤ人に見せしめの集団暴行がされ、ユダヤ人の老人や子どもの死体がドニエプル川を流れているのを多くのキエフ市民が目撃している。市内各地にあったシナゴークに集まった人たちはドイツ軍とその指揮下に入ったウクライナの警察に取り囲まれ、一人残らず連れ去られた。街を走る街宣車は「共産主義者パルチザンユダヤ人がどこにいるかゲシュタポと警察に通報せよ」と警告し続け、ユダヤ人らしき通行人は映画館などの公共施設にかたっぱしから閉じ込められていく。彼らはその後、集団で殺害されたものとみられる。

 外出を控えていた人たちも次から次と家から連れ出され、もはや逃げ場を失っていた。あるユダヤ人の家族は地下室に数日隠れていたが、母親が2人の子どもを地方に連れ出そうと街に出たところドイツ軍に捕まってしまう。2人の子どもは母親の目の前で首を切られ、泣き叫ぶ母親と駆けつけた父親もその場で相次いで射殺された。この他にも、家に隠れていた高齢の女性が3階の窓から放り投げられるなど、残虐な殺害がいたるところで目撃されている。しかし一連の殺戮は大量虐殺の序章でしかなかった。ドイツ軍占領から1週間たった9月27日から28日にかけ、街のいたるところに次のような張り紙が出される。

キエフのカイク(ユダヤ人)は包囲されている! 9月29日月曜日の午前7時までに、所持品、所持金、書類、貴重品、防寒服を持参し、ユダヤ人墓地の隣にあるドロゴジスカヤ通りに集まれ。姿を見せなかった者は死刑に処す。隠れているカイクは死刑に処す。

 29日早朝、指定された場所にキエフユダヤ人たちが続々と集まってきた。地方で強制労働をさせられるものと思って集まったのだが、移送が死を意味することを確信していた人たちの多くは、その日のうちに自殺したという。そしてドイツ軍の厳重な警備のなかで、近郊にあるバビ・ヤールという谷に向かう数万人の死の行進が始まった。

 証言によると、バビ・ヤールに着いた群衆はドイツ軍が設置したバリアの前で待たされ、30人から40人ずつ「登録」のためバリア内に連れていかれた。そこで老若男女を問わず全裸にされると、持参した旅券や証明書などの書類、衣類、貴重品が没収され、処刑場であり死体処理場でもある谷に連れていかれた。機関銃の一斉射撃で人々は谷底に転げ落ち、小さな子どもたちは生きたまま投げ捨てられた。貴重品や脱ぎ捨てられた大量の服はどこかに持ち去られたが、没収された書類はその場で捨てられ、あたり一面に散乱していたという。流れ作業のような冷酷な処刑は延々と続き、29日から30日のたった2日間で3万人以上もの人が犠牲になった。ナチス・ドイツが行ったホロコーストの中でも最も残虐な戦争犯罪が、このバビ・ヤール大虐殺だ。

 犠牲者の数があまりにも多いため、奇跡的に生き残った人の証言も何例か残されている。4歳の娘を連れていたエリナ・エフィモヴナ・ボロジャンスキーという女性の場合、深夜になって処刑場の前に立たされた。射撃の号令が出る直前、彼女は死体が積み重なる谷に娘を突き落とし、続いて自分も飛び降りた。射撃音とともに射殺された人たちが次々と落ちてきて、2人は死体の中に埋まってしまう。処刑はその後も何度も繰り返され、彼女は娘が死体の下敷きになって圧死しないよう、血まみれの死体の中で隙間を作るのにありったけの力を注いだ。誰かが死体の上を歩き回って銃剣でとどめを刺しているようだった。彼女はあたりが静まり返ってから死体の山からはい出し、娘を連れて数キロ離れた民家の住民に助けを乞い、生き延びることができた。

「本は破壊された」

 ナチス・ドイツユダヤ人虐殺を告発するため、戦争末期の1944年から終戦直後の1946年にかけソ連で作成された『ブラック・ブック(The Black Book)』という本がある。ロシア西部、ウクライナベラルーシラトビアリトアニアエストニアなどドイツが占領したソビエト連邦内で収集された被害者や生存者の手紙、日記、メモ、証言などをもとに、40人以上の作家やジャーナリストが執筆にあたり、当時の著名なソ連ユダヤ人作家、イリヤ・エレンブルグ(Iliya Ehrenburg)とヴァシリー・グロスマン(Vasily Grossman)が編集を担った。上記のキエフとバビ・ヤールに関する内容は、同書のウクライナの章で最初に紹介される「キエフ、バビ・ヤール(Kiev,Babi Yar)」という記事から引用したもので、執筆者のレフ・オゼロフ(Lev Ozerov)教授はキエフ生れのユダヤ人の詩人・翻訳者であり、後にバビ・ヤールの詩も残している。

 戦争犯罪の記録で埋め尽くされたブラック・ブックは、ホロコーストの現場で起きた事実を知る上で第一級の史料として知られる。ところがソ連は、自らの成果であるはずのブラック・ブックの出版を禁じ、ユダヤ人大量虐殺の歴史的事実を隠蔽した。600万人のホロコースト犠牲者のうち270万人もの人がソ連で犠牲になったにもかかわらず、体制正当化のプロパガンダにさえ使わなかったのだ。

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イリヤ・エレンブルグ The Mystery of the Black Bookより

 ブラック・ブック編集の中心人物だったエレンブルグは、独ソ戦開戦当初からドイツ軍の犯罪とユダヤ人の悲劇、レジスタンス活動に関する記事を書いていたため、赤軍兵士たちが戦場で入手した日記やメモ、写真などの資料が彼のもとに送り届けられるようになったという。彼自身がドイツ兵捕虜の尋問もしている。出版を目指したエレンブルグはモスクワの「ユダヤ人反ファシスト委員会」(JAFC:Jewish Anti-Fascist Committee)の傘下に文芸委員会を立ち上げ、グロスマンの参加により編集が本格化していく。未完成ながら本の編集が終わったのは1944年の初めで、内容の一部はソ連の雑誌に掲載されたという。エレンブルグは当初から複数の言語への翻訳を意図し、特に英語版の出版に向け米国のユダヤ人団体との接触も果たしていた。

 だがJAFC文芸委員会の活動は突如、中止に追い込まれる。エレンブルクは共産党機関紙「プラウダ」で、ファシストのドイツと民主国家のドイツ(東ドイツ)を区別しなかったとして厳しく批判された。エレンブルクは当時、編集に参加した知人への手紙にこう記している。

ロゾブスキー(ソビエト情報局長)はブラック・ブックの出版をJAFCに委ねることに決めた。したがって私が出版の準備のため作った文芸委員会の活動は中止になる。君が委員会に参加してくれたことには心から感謝している。君が成し遂げた仕事が歴史から消え去ることはないと確信している。

 ソ連は当時、戦時中に設立した「非常国家委員会」(Extraordinary Commission of Ascertain and Investigate the War Crimes of the Fascist-German Invaders and Their Accomplices)の解散を命じ、ユダヤ人絶滅政策を含むドイツの戦争犯罪に関する調査を中止させていた。東ドイツ共産主義陣営に組み込んだソ連にとり、過去のナチスの犯罪は政治的な価値を失い、むしろドイツとの善隣友好に障害になると考えたようだ。

 文芸委員会の解散後、JAFCは原稿になんらかの修正を加えることでロシア語版の印刷にこぎつけている。しかしロシア語版は「JAFCが解散させられた1948年末、本は“破壊”された」とエレンブルクが書き残しており、ソ連での出版の道は完全に閉ざされたばかりか、その痕跡さえ消されてしまう。

 だが同種の修正版は1946年に米国、イスラエルルーマニアユダヤ人団体にも送られていた。イスラエルではホロコースト犠牲者を追悼する国立記念館「ヤド・ヴァシェム」で出版が準備されるが、失われていた文章が多く、ロシア語による同書の復元に時間がかかった。ソ連各地域の人たちの犯罪の加担に関する資料も実質的に残っておらず、不十分な面もあるという。冒頭の記述はその英語版を閲覧して引用した(https://archive.org/details/TheBlackBookOfSovietJewry/mode/1up?view=theater)。

ブラック・ブックに潜むミステリー

 イスラエルドキュメンタリー映画製作者ボリス・マフッシール(Boris Maftsir)が2014年から始めたプロジェクト「失われたホロコーストを探して」(https://holocaustinussr.com/)を通して、旧ソ連地域で起きた知られざるホロコーストの実態に迫る作品を相次いで発表している。旧ソ連ラトビアで生まれたマフッシールはシオニズム活動でKGBに逮捕され服役した経験があり、ユダヤ人社会を抑圧したソ連に関心を持ち続けている。前述した通り、ソ連ユダヤ人虐殺の事実を実質的に隠蔽したため、ソ連の影響下にあった東欧諸国ではホロコーストの実態があまり知られてこなかった。ソ連崩壊後に本格的な研究が始まるものの、全容解明にはほど遠いのが現実だという。

 マフッシールはかつての虐殺現場をくまなく歩きまわり、高齢になった目撃者たちに、その時なにが起きたのか尋ねていく。ユダヤ人虐殺を担ったドイツの機動殺害部隊「アイザッツグルッペン」が西ウクライナ各地で犯した虐殺を追った「The Road to Babi Yar」(2018年)や、ドイツと同盟関係にあったルーマニア軍のウクライナ侵攻の過程で起きた虐殺に迫る「Beyond the Nistru」(2016年)など、耳を疑う虐殺の数々が証言され、戦争犯罪の恐ろしさを改めて思い知らされる。

 シリーズ「失われたホロコーストを探して」は最新作「The Mystery of the Black Book」(2019年 予告編 https://www.youtube.com/watch?v=Zvb4RmrnruI)でブッラク・ブックにも焦点を当てた。まだオンラインで公開されていないので内容を確認していないが、題名が示す通り、ブラック・ブックがソ連で出版禁止になった謎に迫る作品であるようだ。東西冷戦下の東ドイツとの善隣友好が出版禁止の背景とされてきたが、それだけで歴史に残る貴重な史料を葬り去ったとは考えにくい。そこにはユダヤ人を排除するソ連、そして今に続くロシアの思惑が見え隠れする。

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The Mystery of the Black Bookより

 

ウクライナで風化するホロコーストの記憶

 ロシア軍の侵攻が「いつでも起きうる」なか、渦中のウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は「(危機を煽る)情報はパニックを助長するだけ」と市民に冷静になるよう呼びかけてきた。米国を後ろ盾にロシアの侵略を防ぐ一方で、危機の長期化で破綻寸前の経済も救わねばならず、難しい舵取りを迫られている。

 ゼレンスキーは政治とは無縁の俳優・コメディアンだったが、2015年に放映された政治風刺ドラマ「国民の僕」で主人公を演じ一躍有名になり、政界に躍り出た。ドラマは、高校の歴史教師が図らずも大統領に転身し、政治腐敗の温床となる新興財閥「オリガリヒ」と対決して国民的英雄になる、といった内容だった。2019年の大統領選では現実の腐敗政治の打破を掲げ、70%以上の得票率で地滑り的な勝利を収めている。そして今、老練で抜け目ないプーチンとバイデンと渡り合う44歳のコメディアン出身の政治家の決断が、この国の運命を左右しようとしている。

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ドラマ「国民の僕」

 ゼレンスキーがユダヤウクライナ人であることは広く知られている。ヨーロッパでは今も反ユダヤ主義の感情が根強く残っているのが現実だが、ウクライナの大統領選では彼の出自はほとんど問題になっていない。当時の世論調査ユダヤ系住民を同胞と考えないと答えた人は5%にすぎず、他の東欧諸国に比べると著しく少ない。ゼレンスキー本人も「私がユダヤ人であるという事実は、私の性格のうちの20番目の問題でしかない」とジョークを飛ばしているほどだ。同国の現首相もユダヤ系であり、ウクライナイスラエル以外でユダヤ人が大統領と首相になった唯一の国でもある。

 そんなゼレンスキーの大統領選出馬に強く反発したのは、過去に反ユダヤ主義の先鋒を担ったウクライナ正教会民族主義者たちではなく、彼と同じユダヤ系住民たちだった。ロシア帝政時代末期のユダヤ人迫害から第2次大戦中のナチス・ドイツホロコーストに至るまで、ウクライナユダヤ人社会は想像を絶する甚大な被害を被ってきた。ウクライナ反ユダヤ主義が根絶されたという証拠はなく、もしゼレンスキーが国政運営で失敗すれば、批判の矛先がユダヤ人社会に向けられかねないと危惧しているのだ。

激減したユダヤ系住民

 2019年の当選直後、ゼレンスキーはナチス・ドイツを倒した戦勝記念日に合わせ、同国中部にある故郷のクリヴィー・リフ市の墓地を訪ね、祖父シモン・イヴァノビッチ・ゼレンスキーの墓前に花束を捧げた。祖父シモンの3人の兄弟と父親はホロコーストで殺害され、生き残ったシモンだけがソビエト赤軍兵士としてドイツ軍と戦った。ゼレンスキーはSNSでこう書き残している。「彼は戦い抜き、ウクライナナチスから守った英雄の一人として私の記憶の中に永遠に生き続けている。私たちの祖父の世代である元兵士たちが忘れられているのは悲しいことだ」

 現在のウクライナユダヤ系住民の数は、誰をユダヤ人とすべきか明確な基準もないので正確な統計はないが、ざっと8万人から35万人と推定されている。第2次大戦でドイツが進軍してきた1941年までは約270万人のユダヤ系住民がいたとされるが、戦後の1950年代後半の統計で84万人にまで激減。その後もソ連崩壊後の移民ラッシュで人口は減り続けた。それでもウクライナは世界で3番目か4番目にユダヤ系住民が多い国として知られる。

 二千年も前にイスラエルの地を追われディアスポラとなったユダヤ人たちが黒海北岸にある現在のウクライナに定住するようになったのは、9世紀から13世紀にかけ、この地に栄えたキエフ大公国に厚遇されたためだとされる。アシュケナージと呼ばれるユダヤ人たちは、ウクライナベラルーシポーランドリトアニアにまたがる広大な東ヨーロッパ大平原に定住していく。だが18世紀末、その多くが帝政ロシアの統治下に入ると、彼らの移動は極端に制限されるようになった。当時のロマノフ王朝のエカチェリーナ2世がユダヤ教徒の居住区(Pale of Settlement)を設定し、域外へのユダヤ人の移住を禁じたためだ。1897年のロシアの調査でユダヤ人の人口は約500万人にもなり、帝政時代末期のロシアは世界でもっともユダヤ人が多く住む国になっていた。ウクライナにある主要都市のオデッサやドゥニプロでは住民の3分の1以上をユダヤ人が占めていたという。

 ユダヤ人の迫害は長い歴史の中で絶え間なく起きてきたが、19世紀末から20世紀初めにかけ、ウクライナを中心とする帝政ロシア南部の広範囲で「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ暴動が頻発し、事態は急速に悪化した。ポグロムはロシア語で「破滅させる」という意味があり、ユダヤ人に対する経済的、社会的、政治的な反感が暴動に発展したと言われる。特にロシア革命で混乱していた1917年から1921年まで、ウクライナユダヤ人は1000件以上のポグロムで約3万人の犠牲者を出した。この時期にウクライナを去ったユダヤ人は数知れず、この地にルーツがある逸材も多く輩出されることになった。映画監督のスティーブン・スピルバーグ、歌手のボブ・ディラン、指揮者のレナード・バーンスタイン、科学者のカール・セーガンといった人たちがよく知られるが、ウクライナ危機で陣頭指揮をとるアントニー・ブリンケン米国務長官もその一人だ。昨年1月に国務長官に指名された際、ブリンケンは就任受託演説で「私の祖父モーリス・ブリンケンはロシアのポグロムから逃れアメリカに来た。私の母ベラ・ブリンケンは共産主義ハンガリーから逃れてアメリカに来た」と述べ、アメリカが国際社会で担うべき使命を強調した。現在のウクライナの首都キエフで育ったモーリス・ブリンケンは子供の頃の20世紀初頭、父親に連れられニューヨークに渡ったというから、ブリンケン長官は米国で4代目に当たる。

 しかしウクライナユダヤ人を激減させたのはポグロムではなく、第2次大戦中の2年間に起きたホロコーストだ。およそ600万人のホロコースト犠牲者のうち100万人近い人たちがウクライナで殺害されているのだ。にもかかわらず、虐殺の実態は解明されたとは言い難いのが実情だ。戦後すぐ、ソ連ではホロコーストの実態を調べた500ページに及ぶ報告書が作成されたが、ホロコーストは特定の民族ではなくソビエト市民に対する虐殺だったと強調する当局が出版を認めなかった。ユダヤ人の被害が匿名化されたため、真相究明のための追跡調査や教育が行われてこなかったのだ。日の目を見ることがなくなった報告書は「ブラックブック」として知られ、そこにはナチ当局と協力したウクライナ人の役割も指摘されてあったという。

ユダヤ人と共産主義を結びつけたデマ

 なぜウクライナポーランドに次ぐ大規模なホロコーストが起きたのか。その前に第1次大戦を機に混迷を深めたウクライナの歴史について簡単に触れておきたい。

 第1次大戦中の1917年に起きた「2月革命」でロシア帝国が崩壊したのに続き、「10月革命」でボリシェヴィキソビエト政権が誕生すると、ウクライナではキエフを首都とする「ウクライナ人民共和国」の独立が宣言された。同国はドイツとオーストリアの連合国側と同盟を結ぶが、連合国の敗退によりソビエト赤軍の介入を防ぐことができなくなった。そしてボリシェヴィキの傀儡政権「ウクライナソビエト社会主義共和国」の樹立を受け、ウクライナ人民共和国政府は亡命を余儀なくされる。

 一方、西ウクライナでは別の動きがあった。第1次大戦後に独立を果たしたポーランドが、かつての領土だったベラルーシ西部とウクライナ西部を取り戻すため、ロシア革命後の混乱に乗じて西ウクライナに侵攻。これに対しウクライナ人は「西ウクライナ人民共和国」の独立を宣言するが、ボリシェヴィキとの戦いが続く東方のウクライナ人民共和国に支援に応じる余裕はなく、短命に終わっている。この結果、西ウクライナガリツィア地方はポーランド領、同ブコビア地方はルーマニア領に編入された。そして西ウクライナを除く他の地域は1922年のソビエト連邦の結成によりソ連領に組み込まれることになり、独立の希望は絶たれてしまった。

 だがウクライナをめぐる領土争奪戦はヒトラー政権の誕生で再開する。ソ連と不可侵条約を結んだドイツが1939年9月にポーランドに侵攻すると(第2次大戦勃発)、ソ連ポーランド領に編入された西ウクライナを前述のウクライナソビエト社会主義共和国に併合。ルーマニア領のブコビアも併合したため、ウクライナのほぼ全域がソ連に組み込まれた。続いて独ソ戦が勃発し、今度は西からドイツ軍が攻め込み、ソ連軍はウクライナから撤退していく。

 悲劇はドイツ進軍の過程で次から次と起きた。特にポーランドに近い西ウクライナガリツィア地方は伝統的にユダヤ人が多く住んでいたため、生まれ育った故郷の街や村々が大量虐殺の現場となる凄惨なホロコーストが繰り返された。虐殺はガリツィアからウクライナ全土へと広がり、ドイツ侵攻から3カ月過ぎた1941年9月29日から30日にかけ、キエフ近郊のバビ・ヤール(Babi Yar)という峡谷に集められた3万人以上のユダヤ人が集団虐殺される事件も発生している。

 しかし進駐してきたドイツ軍だけで、短期間のうち100万人もの人を殺害するのは容易なことではない。ソビエトからの独立を目指すウクライナ人も、ナチス・ドイツの犯罪に少なからず協力したと言われる。「ユダヤ人は共産主義者であり、共産主義者ユダヤ人」というデマがユダヤ人虐殺を正当化した。ゼレンスキーの祖父のように赤軍兵士となりドイツと戦ったユダヤ人がいたのも事実だが、虐殺されたユダヤ系住民たちと共産主義はなんの関係もなかった。

 戦後、ユダヤ人が住んでいた街や村からユダヤ人の姿は消え、虐殺に加担したウクライナ人たちも多くを語ろうとしなかった。ユダヤ人被害を匿名化させたソ連の政策もあり、ウクライナホロコーストの記憶は風化していった。

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バビ・ヤールの惨劇を描いたArbit Blatasの「Babi Yar」

 

 

シャルロッテ・サロモンの「人生?あるいは劇場?」

 認知症を患った老人の日常を描いたフローリアン・ゼレール監督の映画『ファーザー』を観ると、記憶を失いつつある老人の身の回りで起きる不条理な世界を疑似体験することで、認知症の人が抱く不安がどういうものなのか理解できるようになる。映画の舞台はロンドンのアパートメント。娘(オリヴィア・コールマン)と暮らす父(アンソニー・ホプキンス)は、目の前で起きる出来事に疑心暗鬼になりながら、それも現実として受けとめるしかない日々をすごしていた。同居する娘の夫の何気ない言葉に潜む敵意も妄想となって現れては消える。見ず知らずの男性が自宅で娘の夫だと主張したり、その妻だという娘まで別人なのだ。記憶はますます混乱し、現実に抗う力まで次第に失われていく。

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 静まり返ったアパートメントの暮らしも彼の記憶のようにぼやけていた。近くの道路を走る自動車の音がかすかなホワイトノイズとなって室内に響き、外の世界と断絶した孤独な老人の暮らしが浮き彫りになる。ところが映画では、こんな退屈な生活を美しく感じさせる音楽が繰り返し流されていた。ジョルジュ・ビゼーのオペラ『真珠採り』で歌われる「耳に残るは君の歌声」。この曲と認知症の父がどう結びつくのかよく分からないまま、呪いにでもかけられたように不安渦巻く映像の世界に引き込まれてしまった。

 オペラ『真珠採り』のあらすじは以下のようなものだ。今はスリランカと呼ばれるセイロン島の浜辺の村で、真珠採りのズルガとナディールの2人が美しい女性レイラをめぐって恋敵となり、友情も恋愛も破綻。長く村を離れていたナディールが故郷に戻り、レイラのいない村で友情は復活するのだが、そこへベールで顔を覆った巫女が現れる。漁夫たちの安全と大漁を祈るため呼ばれた巫女はレイラだった。それに気づかぬズルガは、彼女に顔を見せないことを誓わせ、誓いに背けば死刑になると告げてしまう。だが漁夫たちの無事を祈る巫女の歌声を聴いたナディールは、それがレイラであることに気づき動揺する。ナディールがかつてレイラと過ごした日々を想い歌うのが、神々しい愛の歓喜の追憶「耳に残るは君の歌声」だ。おそらくゼレール監督は、かけがえのない人生の記憶を失った認知症の父の存在を際立たせるため、この曲を選んだのではないか。

 この映画には、静まり返った部屋や廊下だけが映し出される場面がある。娘の書斎と思われるシーンになった時、思わず息をのんだ。書棚に並ぶ本の中に一冊だけ、表紙が見えるように横に置かれた本があり、そこに描かれてあった絵に見覚えがあったからだ。妻が神保町の古本屋で見つけたシャルロッテ・サロモンの展示会カタログにあった、この画家の自画像だ。不思議な絵に魅せられ迷わず買ったという。映画で書棚に飾られてあったのは分厚い英語版画集『CHARLOTTE SALOMON LIFE? OR THEATRE?』のようだ。ナディールのアリア同様、画集にも意味があるに違いないが、単なる偶然なのかもしれない。しかしシャルロッテの悲劇は、父を失いつつある娘の悲痛、そして自らの人生の記憶すら消し去られる父の不安な生き様と、どうしても共鳴してしまう。

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シャルロッテ・サロモンの自画像

現実と空想が結びつく物語

 シャルロッテ・サロモンは医師アルベルト・サロモンと妻フランツィスカの娘として1917年にベルリンで生まれた。ドイツ社会に同化した裕福なユダヤ系の家庭に育つが、幼いころに母親が自殺し、父アルベルトは同じユダヤ系のオペラ歌手パウラ・リントベルクと再婚している。シャルロッテは大学進学に備える中等教育機関ギムナジウムを経て、1935年暮れに「純粋応用芸術総合公立学校」に入学した。17世紀に創設されたプロイセン王立芸術アカデミーの流れをくむ大学で、父が第1次大戦に軍医として参戦した経歴があったため、1・5%しか認められないユダヤ系学生の入学資格を得ることができたのだという。

 しかしユダヤ系住民がおかれた状況は当時、悪化の一途をたどっていた。第1次大戦で屈辱的な敗北を喫したドイツは巨額の賠償金を課せられた上、1929年のニューヨーク株式市場暴落で始まる「大恐慌」の影響で、1932年までに600万人もの失業者を出していた。希望を失った国民に、栄光の祖国復活を訴える「国家社会主義ドイツ労働者党」(通称ナチ)の新しい指導者アドルフ・ヒトラー総統の演説は広く浸透していく。同年の選挙でナチは最大の政党となり、翌1933年にヒトラーが首相に任命される。政府はただちに非常事態を宣言し、街にあふれる無職の若者たちをナチ民兵の「突撃隊(SA)」に組み込み、出版、言論、結社の自由を奪っていく。さらに秘密国家警察「ゲシュタポ」を組織して批判者を根こそぎにし、瞬く間にヒトラー独裁の「第三帝国」を作り上げた。

 ユダヤ人に対する迫害の尖兵となるのもSAだった。1933年4月1日、ユダヤ系企業や店舗の前でSAが威嚇するように立ちはだかるボイコット運動が公然と実施され、店舗のショーウィンドーに「Juda(ユダ)」と落書きされ、ドアには「ダビデの星」がペンキで描かれた。その1週間後、ナチは公務員の採用を「アーリア人」に限定する法案を通し、公立学校や大学のユダヤ人教員が一斉に解雇される。シャルロッテの父アルベルトもユダヤ人であることを理由に教授の職を失い、妻のパウラも舞台に立つことを許されなくなった。

 シャルロッテが入学した1935年、ニュルンベルグで開催されたナチの党大会で人種理論を制度化する法律が発表されている。「ニュルンベルグ法」として知られるこの法律は、ユダヤ人をドイツ国民とみなさず、選挙権をはく奪した上、ユダヤ人とドイツ人との結婚をも禁じた。1936年のベルリン・オリンピックはこうした不穏な空気の中で開催されるのだが、国際社会はナチの人権侵害に気づかず、あるいは目を瞑り、ドイツ復興を祝う平和の祭典に競って参加した。そして1938年11月9日の夜、ユダヤ人青年のドイツ人高官暗殺を機に反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生し、ユダヤ人の住宅やシナゴーグが次々と襲撃、放火されていく。およそ3万人のユダヤ人が理由もなく連行され、事件後はユダヤ人コミュニティーに巨額の賠償金の支払いを命じる政令まで出されている。この事件は割られた店のガラスが通りに散乱していた様子から「クリスタルナートゥ(水晶の夜)」と呼ばれ、ドイツ人のユダヤ人迫害を過激化させるきっかけとなった。

 クリスタルナートゥで父アルベルトも収容所に送られたが、レジスタンスの力を得てオランダに脱出できた。シャルロッテは事件後の1939年1月に祖父母がいる南仏ヴィルフランシュに逃れていた。しかし同年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻第2次大戦が勃発。翌1940年6月にパリが占領されると、シャルロッテの祖母は将来を悲観して自殺してしまう。

 この頃からシャルロッテは過去の辛い経験を克服するため絵を描き始める。2年間で1325枚に及んだ自叙伝的作品「人生?あるいは劇場?」はこうして生まれた。1枚しか残っていない自画像もこの頃に描かれたようだ。文学的なテキストと混ぜ合わされた一連の絵は、音楽とも結びつけて表現され、物語の主人公であり語り手である彼女の現実と空想が共存する不思議な世界を作り出している。選ばれた音楽の中にはクリストフ・グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』やバッハの旋律、ビゼーの『カルメン』もあるという。彼女は自分の作品を、死を征服するためのもの、自殺から身を守るための手段と書き残している。

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父アルベルトとシャルロッテ

消せない命の証

「人生?あるいは劇場?」を描き終えた1942年の秋、フランスの地中海沿岸はイタリア軍に占領され、ユダヤ人難民の摘発が始まっていた。人目につく行動は避けるべきなのに、シャルロッテはこの頃知り合ったオーストリア人男性と恋愛し、翌年に結婚式まであげている。そして、この男性の短絡的な行動が命取りになった。婚姻証明の手続きのため役所を訪れた男性は、アーリア人種はユダヤ人女性と結婚できないと告げられて逆上し、担当官と言い争ってしまうのだ。シャルロッテの存在を知ったゲシュタポが捜索に乗り出し、2人はただちに連行され、国外の収容所に移送された。彼女は26歳、妊娠4カ月だった。

 ドイツは占領地のポーランド南部のオシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に強制収容所を開設し、被収容者の激増に対応するため、1941年10月までに隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)に300以上の施設からなる広大なアウシュヴィッツ第2強制収容所=ビルケナウを建設した。翌1942年1月20日、ベルリン郊外の邸宅で悪名高い「ヴァンゼー会議」が開かれ、「ユダヤ人問題の最終的解決」が討議される。ドイツからユダヤ人を排除する方法を、国外での強制収容と強制労働、最終的に殺害するための組織的かつ具体的な方策がこの場で確認された。ヨーロッパ全域にいた1000万人を超えるユダヤ人の絶滅を目指す狂気が制度化されていくのだ。

 シャルロッテの移送先はビルケナウだったのだろう。アウシュヴィッツの象徴として映画などで再現される収容所まで延びる鉄道引込み線は、シャルロッテが移送された当時はまだなかったので、おそらく貨車駅で降ろされ、その場で労働力になるかどうか判別されたものと思われる。女性、子ども、高齢者は「価値なし」と判断され、その多くがそのままガス室で処分されていた。妊婦だったシャルロッテは事情が分からぬまま移送直後に殺害されたに違いない。その不安や恐怖、残酷さは、当事者でなければとても理解できるものではない。

「人生?あるいは劇場?」はアンネ・フランクの日記に比べられることがあるが、シャルロッテの場合、失われた過去に意味を与える芸術を生み出したという点が根本的に異なる。彼女の絵にみなぎる目映いばかりの愛の歓喜の追憶は、誰にも奪い取ることができなかった。

 

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写真家・飯山達雄が見た満州引揚者の惨状

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写真集『朝鮮の山』より

 戦前・戦後にかけ活躍した飯山達雄(1904年~1993年)という写真家がいた。父に連れられ併合(1910年)直後の朝鮮に移住した飯山は、朝鮮総督府鉄道局に就職後、金剛山登山ルートの開拓など朝鮮半島の観光開発に従事し、写真家そして登山家として知られるようになる。飯山が主力メンバーとなり立ち上げた「朝鮮山岳会」は朝鮮の未踏峰に挑み続け、その成果は飯山の写真集『朝鮮の山』(朝鮮山岳会、1943年)に結実した。韓国のスポーツメーカーの事務所を訪ねた時、希少本となったこの写真集を見せてもらったことがある。中朝国境の白頭山から半島南端の済州島に聳える漢拏山まで、朝鮮の名だたる山々を収めた写真集は今に至るまでこの一冊しかない。朝鮮山岳会の後身とも言える韓国山岳会で飯山のことを知らない人はいないはずだ。

 しかし戦後の飯山は登山家としてより、文化人類学の研究者、あるいは冒険家として知られるようになる。朝鮮山岳会時代からの盟友であり、日本を代表する文化人類学者の泉靖一(東京大学教授)と歩調を合わせるように南米アマゾンやインカでの取材に明け暮れた。『未知の裸族ラピチ』(朝日新聞社、1967年)、『インカの秘宝』(読売新聞社、1969年)、『山族・海族』(毎日新聞社、1970年)、『秘境パタゴニア』(朝日新聞社、1970年)などの著書で知られ、日本の文化人類学の発展に少なからぬ貢献をした写真家だ。

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『未知の裸族ラピチ』

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アマゾンの村長と記念撮影する飯山達雄。『未知の裸族ラピチ』より

 そんな飯山の輝かしい履歴など何も知らず、1980年代末に彼と知り合った。東京赤坂にあった「国際関係共同研究所」という北朝鮮研究の先駆けとなる研究所が開催したシンポジウムに、飯山は賓客として招かれていた。この研究所には当時の防衛庁関係者も頻繁に出入りし、所長の崔書勉を知らない朝鮮半島担当記者はモグリと言われたほどだ。豊富な運営資金は戦後最大のフィクサーと呼ばれた許永中が提供したと聞く。研究所は日韓の政治と闇社会が結合した副産物でもあった。この研究所を知る知人がいたため、筆者もたまたまシンポジウムに参加する機会を得た。

 そのシンポジウムでこんな一幕が。司会を務める崔が飯山に向かって「本物の金日成を見た写真家の飯山先生がこの場におられます。当時の様子をお話し願えますか?」と尋ねたのだが、飯山はじっと黙ったまま。気まずい沈黙が流れ、崔は話題を変えざるを得なくなった。

「本物の金日成を見た」とはいったい何の話なのか。シンポジウム後に飯山を紹介してもらった。90歳近い高齢だった飯山はウイットとユーモアあふれる気さくな人柄で、金日成のことは「あれはどうでもいいことですよ」と笑ってはぐらかされた。その後、松屋銀座で開催された飯山の回顧展(たしかアマゾンの裸族ラピチの写真展だったと思う)で再会し、それ以来、東京小平の自宅に何度も呼んでもらった。あれほどの業績を残しておきながら、暮らしぶりは実に質素で、夫人には「あなたも写真をやられるの?」と気の毒そうな顔をされた。冒険人生で家族には散々迷惑をかけたのかもしれないが、陽気な飯山はあっけらかんと自慢のブラジルのガウチョ(カウボーイ)料理でもてなしてくれた。

「私は朝鮮に35年住んでいました。故郷は朝鮮にしかありません」と語る飯山の一言一言から、それまで想像していた朝鮮とは別の世界が浮かび上がり、新鮮な驚きがあった。現在のソウル中心街にある新世界百貨店本店(本館)は戦前、三越京城店だったが、その周辺は本町と呼ばれ、買い物がてらに本町に遊びに行くことを「本ブラ」と言っていたそうだ。京城帝大の泉靖一のことや山岳会の朝鮮人の友人、南米アマゾンの話題も尽きず、まるで少年のように語り続けていた。もっとも彼の朝鮮の友人たちは、当時の一握りの上流社会の人たちであり、植民地下の朝鮮人大衆の境遇についての知識や理解はほとんど持ち合わせていなかった。故郷になりえない朝鮮への望郷の思いは、彼の記憶の中で幻影のように霞んでいた。

 例の金日成についても尋ねてみたことがある。白頭山登山のため朝鮮人ガイドと山の麓を歩いていた時、異様な一団とすれ違い、頭目らしき男に睨みつけられたことがあったという。彼らが通り過ぎた後、それまで押し黙っていたガイドに「さっきの金日成ですよ」と告げられビックリしたと言う飯山は、何より写真を撮れなかったことを残念がった。馬賊のような荒々しい風貌でありながら、指導者らしい理知を備えた印象的な人物だったと飯山は語った。終戦後、ソ連北朝鮮に送り込んだ金日成よりかなり年長で、明らかに別人物だったという。抗日パルチザンの伝説になっていた「金日成」あるいは発音が同じ「金一星」という名前は、代を継いで使われたと考えられ、そのうちの一人だったのかもしれない。

 この他にも飯山から聞いた話で忘れられないのが戦争中の体験だ。軍の命令で資源調査の隊員に組み込まれ、中国の内蒙古でウラン鉱、ニューギニアで炭田の調査のため各地を転々。日本軍がなぜウラン鉱を探していたのかはっきりしないが、ニューギニアでは実際に炭田を発見している。奥地に入るほど原住民どうしでも言葉が通じず、4人くらいの通訳が必要になったらしい。朝鮮の京城に戻れたのは終戦の1週間ほど前。「軍人は大嫌いです。ひどい目にあわされましたから」と当時を振り返る。

 彼は鉄道局に勤務していたため、戦後は在留邦人の引揚げ事業に奔走した。その過程で米軍MPに逮捕され、取り調べで戦争中のウラン鉱調査などの過去が発覚してしまう。ホテルに1カ月近く監禁され、釈放される見通しもたたず、クリスマスイブで米兵らが飲んだくれているスキに脱走。凍結目前の漢江(ソウル市を東西に流れる河)の浅瀬を腰までつかって渡河し、山岳会の朝鮮の友人宅に身を寄せた。自宅に隠してあったネガフィルムや撮影記録を持ち出し、釜山へ、そして引揚船でようやく博多にたどり着いた。

満州バカヤロー」

 飯山の紹介が長くなったが、本題に移りたいと思う。彼の冒険人生の中ではほんの一瞬の出来事にすぎなかった、満州引揚者の記録についてである。飯山は内地に引揚げたはずの家族の行方を求め、終戦の翌年5月、福岡の二日市で引揚援護会の診療をしていた友人を訪ね、そこで引揚者たちの惨状を目の当たりにすることになる。大陸で凌辱され妊娠させられた婦人たちの胎児の牽出手術が絶えることなく続いていたのだ。軍人や軍属は米軍の配船でほとんどが引揚げを終えていたが、一般の在留邦人はオンボロ船を使ってノロノロと移送させるほかなく、朝鮮に70万人、満州と中国に100万人いたとされる民間人の多くが「敵国」に置き去りにされた。彼らの窮状を日本政府とGHQに訴えるため、飯山は満州に潜入することを決意する。在外同胞引揚援護会の手配で渤海湾にある満州の旧軍港、コロ島に向かったのは同年7月。カバンにカメラを忍ばせ、衛生兵を装って大陸を彷徨う邦人たちの消息を追った。その経緯は飯山の手記「終戦秘録 死地満州に潜入して」(『文藝春秋』1970年3月号)に詳しく記されている。

 満州中部の奉天(現在の瀋陽市)に着いた時、飯山は駅前で異様な姿をした2人を見かけた。麻のズタ袋に穴をあけて首と腕を通し、髪は坊主刈りにして顔に泥や墨を塗りたくっている。話しかけると、やはり日本人の婦人だった。彼女たちはチャムス(黒竜江省の町)でホテルを経営していたが、財産をすべて没収され、自宅の離れに邦人の女性や子供たちと引揚げの時期を待っていた。そこへソ連兵が乱入してきて連日のように凌辱地獄が繰り返され、着の身着のままで脱出。ひたすら南を目指したが、氷点下40度にもなる満州の荒野で次々と行倒れになり、彼女も2人の子どもを失った。やっとの思いで奉天にたどり着いたものの、食料もお金もない。襲われないよう男装をして、乞食のような暮らしで糊口を凌いでいた。一緒に身を潜めていた別の婦人も男装していたが、兵隊にビンタをくらわせられ、その悲鳴から女であることが分かるとその場で強姦された上、ピストルで射殺されたという。彼女によると、奉天市南郊にあるイナバ町という場所に1000体を超える日本人の遺体が穴の中に放り込まれていたという。飯山はそのイナバ町に向かった。

 大豆畑の中を通り抜けて荒地へ出ると、土砂のもり上がっている後方に穴が見えてきた。近づいていくと悪臭が鼻をつく。もり土の上に駆けあがってのぞくと、足もとに展開した、あまりの凄惨な光景に、私はギョッとした。直径五、六十メートルほどの穴の中には、およそ百体ほどの腐乱した死体が累々とおり重なり、白骨となっているものもかなりある。その穴の向こう側にも、またその先にも穴があるが、どれも一度埋めたものを、また掘りかえしたようだ。上段の遺体がみなハダカにされているところを見ると、多分、この付近の満人たちが掘りおこして、衣類を剥ぎとったのだろう――。(「終戦秘録 死地満州に潜入して」より)

 翌朝、飯山は婦人から聞いた別の場所を訪ねる。

 そこは生けるしかばねの餓鬼地獄だった。十九人の日本人孤児が、栄養失調のからだを、すり切れた畳の上に横たえている。ほとんどが北満から一カ月も二カ月もかかって歩いてきたのだという。両親たちは途中で略奪、暴行にあい、行え知らずになったり、目の前で殺された子もいた。
 孤児たちの世話はやはり北満からのがれてきた二人の婦人がめんどうを見ていたが、食料はもう底をつき、一日に、たった一碗のコーリャンおかゆがせいぜいだと言う。子供たちは痩せるだけ痩せ細ってろくに歩くこともできない。引揚船が来なければ消えてゆく運命を待つばかりである。
 その中に、十二、三歳になる男装の少女がいた。父は新京(長春)で徴兵にとられ、母は終戦発疹チフスに感染して死んでしまった。母の遺骨を持ってはいるが、日本の故郷がどこなのか、親類の住所も姓名もわからない――と寂しい目つきで遠い空を見つめた。
 戦争の責任は子供たちにはない。ただそうした時勢に生まれ合わせたというだけで、こうした餓鬼地獄を歩かされている。船さえくれば、この孤児たちは助かるかもしれないのだ。そう思うと私はムカムカとしてきて、日本の空に向って「早く船を回せ……」とどなりたくなった。(同)

 飯山はコロ島に戻り、500人ほどの引揚者と一緒に満州を後にした。出港のドラが鳴ると、突然「満州バカヤロー」と叫んだ男の子がいた。「オトウチャン……」と泣いた女の子もいた。悲しみと憤り、絶望と喜びで万感こみあげる出航となった。

 75年も前のこんな惨たらしい話を紹介したのは、戦争の残虐さや日本人の戦争被害を強調するためではない。他国を侵略した揚げ句に無謀な戦争まで引き起こし、敗戦後はなんの罪もない民間人を見殺しにした国家の背信を決して忘れてはならないと思ったからだ。タリバンの侵攻で空港に殺到したアフガン難民を救出するため、各国が先を争って輸送機を飛ばしたのは記憶に新しい。敗戦で大陸に置き去りにされた民間人たちは難民以外の何者でもないが、彼らを救おうとする者は誰もいなかった。飯山が決死の満州入りを果たしたのは、彼自身も外地の民間人だったからこそ、日本とGHQの無策、無責任に憤りをおぼえたからに他ならない。