原爆で途絶えた王朝の血脈

 ソウルから約20キロ東の京畿道南楊州市に朝鮮王朝末期の2人の王が眠る王墓がある。第26代高宗の「洪陵」と第27代純宗の「裕陵」が隣り合わせにあるので、一般的には「洪裕陵」と呼ばれている。朝鮮王朝は日清戦争後に国号を大韓帝国に改め、日露戦争後に日本に外交権を奪われる。高宗は朝鮮王朝最後の王であり、大韓帝国初代皇帝でもある。その高宗の跡を継いだ純宗の在位期間は、わずか3年。大韓帝国が日本に併合されることで500年続いた王朝の幕は引かれることになる。

 2人の王が眠る洪裕陵には、高宗の正室だった明成皇后(ミョンソンファンフ)も葬られている。彼女は大韓帝国が成立する直前に死亡しているので、生前は皇后ではなく閔妃(ミンビ)と呼ばれていた。閔妃はロシアを利用して日本を排除しようとしたため、宮城に乱入した日本の守備隊や大陸浪人に惨殺されるという、前代未聞の事件の犠牲になった。その閔妃と高宗の間に生まれたのが純宗だ。

 洪裕陵と日本の因縁はこれにとどまらない。洪陵の背後にある「英園」には、「王朝最後の皇太子」になった英親王(ヨンチンワン)の墓がある。子がなかった純宗が大韓帝国皇帝に即位した1907年、高宗の側室から生まれた9歳の彼が皇太子になった。英親王の名は垠(ウン)、皇太子名は懿愍太子といった。同年10月、皇太子時代の大正天皇が、桂太郎東郷平八郎など陸海軍大将を随行して訪韓し、英親王と会見している。その2カ月後、英親王は人質として日本に連れていかれた。

 英園には英親王の妃、方子妃も一緒に葬られていた。方子妃の旧姓は梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)。昭和天皇の皇太后良子妃の従妹にあたる。日本皇族の方子妃は韓国併合後の1920年に政略結婚で李王家に嫁がされた。英親王と方子妃の結婚式は、その前年の1919年に予定されていたが、譲位した高宗の急死と、その葬儀に合わせて起こった大規模な抗日独立運動「3・1運動」のため1年延期された。高宗の死には側近による毒殺説があり、日本当局が関与したとする噂も流れていた。

 渡日した英親王は皇族の一員である「朝鮮王族」として特別待遇されたが、朝鮮に帰ることは許されず、方子妃と一緒に韓国への帰国を果たすのは、終戦後の1963年になってからのことである。英親王は1970年、方子妃は1989年にソウルで亡くなった。方子妃の葬儀には、日本から三笠宮崇仁親王夫妻が参列していた。

 筆者が洪陵を初めて訪ねたのは2002年の春だった。洪陵は一般公開されているが、英園は非公開となっていたため、文化財庁の許可をとり、高宗の封墳(古墳のように盛り土をした墓)の裏手にある小さな門から英園に入った。しばらくすると英親王と方子妃の封墳が現れ、歴史に翻弄された2人の人生を思わずにはいられなかった。案内してくれた職員によると、英親王と方子妃の命日には日本の関係者が墓参にくることもあるという。

 英園を訪ねた理由はもう一つあった。英園のさらに裏手にあるという徳恵翁主(トッケオンジュ)の墓の存在を確認することだった。朝鮮王朝では王妃から生まれた王女を公主、側室から生まれた王女を翁主と呼ぶ。高宗の一人娘で英親王より15歳年下の徳恵翁主は王朝最後の王女としても知られる。

 徳恵翁主も12歳の時に一人で日本に連れていかれた。学習院在学中にホームシックから早発性痴呆(統合失調症)を患ったといわれ、症状がやや回復した18歳の時、旧対馬藩主直系の宗武志(そうたけゆき)伯爵と無理やり結婚させられた。彼女は戦後、東京世田谷にある精神科専門病院の都立松沢病院に入院させられ、本人が知らぬまま協議離婚もすまされていた。英親王と方子妃が韓国に帰国する際、身寄りのない彼女を見るに忍びず、一緒に連れて帰ることになったという。徳恵翁主は方子妃が亡くなる直前に韓国で亡くなっていた。

 英園の封墳の裏手は枯れ木が散らばり、人が通った形跡はまったくなかった。付近の住民が敷地内に生えるウドを採りに無断で侵入することはあっても、その先にある徳恵翁主の墓参りをする人はいない。誰にも知られずひっそりたたずむ墓は、流転の王女がたどりつけた最後の安住の地だったのかもしれない。

 徳恵翁主の墓のすぐ近くに、碑石に名のないもう一つの墓があった。高宗の第2王子で、英親王の兄にあたる義親王(ウィチンワン)の墓だ。米国留学経験のある義親王は朝廷内でもっとも国際情勢に精通した人物だった。日韓併合後も水面下で抗日独立運動家たちと接触し、1919年11月に中国への亡命を試みるが、現在の中朝国境を渡ったところで日本の官憲に拘束されてしまう。その後の彼は徹底的な監視対象になり、一族は没落。戦後は彼の墓所がある土地まで人手に渡り、90年代になってここに移葬されたという。

 純宗には子がなく、皇太子の英親王は日本皇族と政略結婚したばかりか、義親王まで監視対象になったことで、李王家の血脈は途絶えたかに見えた。ところが王室再興の望みを託された人物が一人だけいた。義親王の2男、李鍝(イウ)。彼の墓がどこにあるのか探した結果、同じ南楊州市にある興宣大院君(テウォングン)の墓所と同じ場所にあることが分かり、そこも訪ねてみた。

 興宣大院君の本名は李昰応(イハウン)といい、高宗の実父にあたる。大院君とは王の父に贈られる尊称で、幼くして即位した高宗の摂政として絶大な権力を振るった。大院君の長男、つまり高宗の兄の家系が1917年に途絶えたため、李鍝が養子になって家督を継ぐことになった。李鍝は朝鮮の貴族女性と結婚していたので、王室再興を目指す抗日民族勢力が彼に期待を寄せるのも無理はなかった。

 李鍝は陸軍士官学校卒業後、太平洋戦争末期に陸軍中佐にまで昇進したが、命運はそこで尽きる。広島の第2総軍司令部に勤務していた1945年8月6日朝、いつものように馬に乗って出勤途中、原爆に遭遇してしまうのだ。爆心地から約300メートルの相生橋(あいおいばし)あたりで被爆したとみられ、手当の甲斐なく息を引き取った。
(拙著『誰も教えてくれない韓国の「反日」感情』より)

李鍝の死を報じる『毎日新報』