未解決事件になったアンネ・フランク「密告者」捜し

アンネの日記」で知られるユダヤ人少女アンネ・フランクの隠れ家をナチス・ドイツに通報した密告者を特定したとして話題を呼んだ書籍『アンネ・フランクへの裏切り(The Betrayal of Anne Frank:An Investigation)』(HarperCollins)。そのオランダ語版の出版社アンボ・アンソス(Ambo Anthos)が23日までに、信憑性に疑義が生じたとして書籍を回収すると発表した。今年1月の出版直後からずさんな調査内容とセンセーショナリズムが問題になり、歴史家らが検証した結果「評価対象になり得ない」と厳しく批判され、販売中止に追い込まれた。著者のカナダ人作家ローズマリー・サリバン(Rosemary Sullivan)は、調査は米連邦捜査局FBI)の元捜査官が主導し、現代の調査技術を駆使して徹底的に行われたと主張するが、明確な証拠もなく憶測で密告者を特定していた。ヨーロッパのユダヤ人団体や密告者と名指しされた人物の子孫は版元のハーパーコリンズ(米「ニューズ・コープ」の子会社)に英語版の販売中止を求めているが、明確な返答は得られていないようだ。


 アンネの家族はナチスが台頭した1930年代にドイツからオランダに逃れ、第2次大戦でオランダがドイツ軍に占領されるとアムステルダムの倉庫で潜伏生活を始めた。2年以上続く隠れ家での生活は1944年8月4日、匿名の密告者の通報を受けたゲシュタポ(秘密警察)の捜索で終止符が打たれ、父親、母親、姉とともにドイツ占領下のポーランドにあったアウシュビッツ収容所に送られてしまう。戦後、唯一の生存者となった父親のオット―・フランクが、隠れ家での生活を綴ったアンネの日記の存在を知り、1947年に『アンネの日記』として出版されることになる。15歳で死んだ聡明な少女の記録は人々に深い感動を与え、ホロコーストの悲劇を象徴する書物になった。

1940年にアムステルダムで撮影されたアンネ・フランク

 それから75年後に出版された本が話題になった理由は、アンネを死に追いやった密告者が他ならぬユダヤ人だったという衝撃的な内容をテーマにしているためだ。密告者捜しは、オランダの映画製作者ティジス・バイエンス(Thijis Bayens)とメディアプロデューサーのピーター・ファンツウィスク(Pieter van Twisk)の2人が企画し、信頼性を高めるためFBIの元捜査官ビンス・パンコーク(Vince Pankoke)に調査が依頼された。調査過程をドキュメンタリーにする予算を捻出するため大手出版社ハーパーコリンズとのコラボが実現し、アムステルダム市の補助金も得ている。心理学者、戦争犯罪の調査官、歴史家などの調査チームを構成して6年かけて密告者を絞り込んでいったという。南米コロムビアの麻薬カルテルの捜査が専門だったパンコークは、米CBS放送の時事番組「60ミニュッツ」(1月16日放映)に出演し、「これが犯罪なら警察による捜査がされるべきだ。だから私たちは未解決事件として取り組むことになった」と語っている。

 オランダの捜査当局は過去2回、フランク一家の潜伏先を密告した人物が誰だったのか調べたことがある。パンコークの調査チームが発見した当時の捜査関係者の「走り書き」には、「ユダヤ人の潜伏先リストをナチスに手渡したアーノルド・ファンデンベルフにオットー・フランクは裏切られた」と書かれてあったという。オットー・フランクが匿名の人物から得たメモの内容を捜査関係者が書き残したものと思われる。アムステルダムで公証人をしていたファンデンベルフ(1950年に癌で病死)という人物は、ユダヤ人を管理するためナチス・ドイツが設立させた「(アムステルダムユダヤ人評議会」に属していた。同評議会は1943年9月に解散に追い込まれ、ナチスに協力したメンバーも収容所送りになるのだが、ファンデンベルフとその家族は収容所に送られずアムステルダムで生き残っていたことが分かった。

 調査チームに参加したオランダ警察の心理分析官ブラム・ファンメール(Bram van Meer)は「評議会メンバーはガス室送りを免れるためナチスに(密告情報を)提供したのかもしれない」と「60ミニュッツ」で語っている。しかしファンデンベルフがユダヤ人の潜伏先リストを知っていたという証拠は見つからなかったという。調査チームがファンデンベルフを密告者と特定した唯一の証拠は、捜査関係者の走り書きということになる。

 ではオットー・フランクは家族を死に追いやった密告者の情報を知りながら、なぜ真相を突き止めようとしなかったのか。パンコークはその理由をこう結論づけている。

「彼はアーノルド・ファンデンベルフがユダヤ人であることを知っていた。戦争直後のこの時期、(オランダには)反ユダヤ主義がまだ根強く残っていた。おそらくオットーは、ファンデンベルフの問題を提起することが(反ユダヤ主義感情に)火に油を注ぐことにしかならないと感じていたのだろう。しかしここで留意すべきは、(ファンデンベルフが)ユダヤ人だったということは、彼も自らの命を守るため、自分の力ではどうにもならない立場をナチスに強いられていたことだ」(「60ミニュッツ」)

 ユダヤ人がユダヤ人を裏切ったという話を不快に思う人も多いのではないかと問われたチジス・バイエンスは、むしろ「そうなることを望んでいる」と答え、こう続ける。「なんとも奇妙なことをナチ政権は実際に行い、こんな酷いことを人々にさせていたことが分かると思う。この問題の本質は『私ならどうしただろうか?』にある。それこそが問われている」(同)

 調査チームが根拠にした匿名のメモ……。しかしメモの存在は研究者の間ですでに広く知られていたという。オランダの歴史学者デービッド・バーナウ(David Barnouw)は2003年の著書『誰がアンネ・フランクを裏切ったのか?(Wie verraadde Anne Frank?)』でファンデンベルフに触れ、メモの内容を踏まえた上でも彼が密告者である証拠はなく、調査対象から外したと明らかにしている。またアムステルダムユダヤ人評議会がユダヤ人の潜伏先リストを持っていたとする調査チームの主張にも疑念が生じている。同評議会の歴史に詳しい研究者ローリエン・バステンハウト(Laurien Vastenhout、Institute for War,Holocaust and Genocide Studies)は「ニューヨークタイムズ」(1月18日付)のインタビューに、「なぜ隠れ家にいる人たちがユダヤ人評議会に自分の居場所を知らせる必要があるのか?」と答えている。同紙によると、調査チームが得たリストの存在に関する情報は、すべてナチ協力者の証言に基づくものだった。またホロコーストの研究で知られるアムステル大のヨハネス・ホーウィンク・ティンカートゥ(Johannes Houwink ten Cate)教授はAFP通信(2月11日付)のインタビューに、ファンデンベルフと家族はフランク一家がナチスに捕まる数カ月前の1944年初めに隠れ家での潜伏生活に入っていたことから、「彼が(潜伏した後になって)自分の隠れ家を放棄する危険を犯す必要があるのか?」と疑問を投げかけた。ユダヤ人絶滅を目指していたナチス当局が協力者を庇護するとも考えにくい。ファンデンベルフを密告者と考える根拠はほとんどないのが現実だ。

 なにかと議論の多いユダヤ人の問題に関しては「ホロコーストの倒置(Holocaust inversion)」という研究テーマもあるという。反ユダヤ主義の実態を調べた『人々が愛す亡きユダヤ人(People Love Dead Jews)』(2021年)の著者ダラ・ホーン(Dara Horn)はニューヨークタイムズに「非ユダヤ人の(読者や)視聴者を惹きつける理由は、自分の責任として考えなくてもいいから」と指摘する。

 戦後の戦犯裁判で起訴された1万5000人のオランダ人のうち、ナチスに加担してユダヤ人の隠れ家を密告した人が1割いたという。そのうち152人に死刑判決(執行は40人)が下されているが、ユダヤ人も1人いた。ホロコースト生存者の様々な証言から、保身からナチスに協力したユダヤ人がいたのは誰も否定しない事実だ。しかし調査チームはいったい何のため、アンネ・フランクの密告者を「未解決事件」として特定するに至ったのだろうか。本来なら「アンネ・フランクを死に追いやったのは、ナチスに協力したオランダ人だけでなく一部のユダヤ人の協力があった可能性もある」と説明されるべきところを、「アンネ・フランクを死に追いやったのはユダヤ人だった」と倒置され、ユダヤ人がユダヤ人を裏切ったという印象が強められた。ホロコーストという重大な人権問題をスキャンダラスな犯罪小説のようにしたのは「売れる」と思ったためだろうか。

 フランク一家がオランダからアウシュビッツに送られた翌月の1944年10月、アンネと姉のマルゴの2人はドイツ国内にあるベルゲン・ベルゼン収容所に再移送されている。ここでは食料不足から餓死者が続出していた上、ポーランドからの移送者の激増によりチフスまで広がり、毎日数千人が死亡する悲惨な状況にあった。アンネ姉妹がチフスに感染して死ぬのは1945年2月。2カ月後にイギリス軍が解放するまでに犠牲になった人は5万人に及ぶ。

 アンネと同時期にベルゲン・ベルゼン収容所に収監されていたオランダ系ユダヤ人の生存者で、戦後にオーストラリアに移民したエディ・ボアス(Eddy Boas)は、ローカル紙(The Australian Jewish News)に載せた寄稿文でこう述べている。

「1940年5月から1945年5月までに、私の家族やアンネの家族を含む10万7000人のオランダ系ユダヤ人が家を追い出され、すべてドイツの収容所に送られた。そのうち生き残れたのは5000人。10万2000人が殺害された。人口比では西欧諸国のなかで最も多い。私たちはオランダの官僚や警察、そして隣人に裏切られたのだ」

 生存者たちは解放後のオランダに戻っても、以前住んでいた家に住むことすら認められなかったという。このブログ(https://beh3.hatenablog.com/entry/2022/03/04/130837)で紹介したこともあるイスラエルドキュメンタリー映画製作者ボリス・マフッシールの「失われたホロコーストを探して」を観ると、ウクライナでも同じことが起きていた。戦前はユダヤ系住民がマジョリティーだった街や村からユダヤ人が一掃され、彼らの住居は隣人だったウクライナ人たちの家になった。虐殺されたユダヤ人たちが着ていた大量の服は闇市場で売り買いされたという。同様のことはポーランドでも起きている。生き残れたユダヤ人たちが経営していた工場に戻ると、すでに人手に渡り、門前払いにされたという。誰が彼らを殺害したのか捜し出すより、なぜ彼らは殺されたのかが問題なのではないか。