ウクライナで風化するホロコーストの記憶

 ロシア軍の侵攻が「いつでも起きうる」なか、渦中のウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は「(危機を煽る)情報はパニックを助長するだけ」と市民に冷静になるよう呼びかけてきた。米国を後ろ盾にロシアの侵略を防ぐ一方で、危機の長期化で破綻寸前の経済も救わねばならず、難しい舵取りを迫られている。

 ゼレンスキーは政治とは無縁の俳優・コメディアンだったが、2015年に放映された政治風刺ドラマ「国民の僕」で主人公を演じ一躍有名になり、政界に躍り出た。ドラマは、高校の歴史教師が図らずも大統領に転身し、政治腐敗の温床となる新興財閥「オリガリヒ」と対決して国民的英雄になる、といった内容だった。2019年の大統領選では現実の腐敗政治の打破を掲げ、70%以上の得票率で地滑り的な勝利を収めている。そして今、老練で抜け目ないプーチンとバイデンと渡り合う44歳のコメディアン出身の政治家の決断が、この国の運命を左右しようとしている。

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ドラマ「国民の僕」

 ゼレンスキーがユダヤウクライナ人であることは広く知られている。ヨーロッパでは今も反ユダヤ主義の感情が根強く残っているのが現実だが、ウクライナの大統領選では彼の出自はほとんど問題になっていない。当時の世論調査ユダヤ系住民を同胞と考えないと答えた人は5%にすぎず、他の東欧諸国に比べると著しく少ない。ゼレンスキー本人も「私がユダヤ人であるという事実は、私の性格のうちの20番目の問題でしかない」とジョークを飛ばしているほどだ。同国の現首相もユダヤ系であり、ウクライナイスラエル以外でユダヤ人が大統領と首相になった唯一の国でもある。

 そんなゼレンスキーの大統領選出馬に強く反発したのは、過去に反ユダヤ主義の先鋒を担ったウクライナ正教会民族主義者たちではなく、彼と同じユダヤ系住民たちだった。ロシア帝政時代末期のユダヤ人迫害から第2次大戦中のナチス・ドイツホロコーストに至るまで、ウクライナユダヤ人社会は想像を絶する甚大な被害を被ってきた。ウクライナ反ユダヤ主義が根絶されたという証拠はなく、もしゼレンスキーが国政運営で失敗すれば、批判の矛先がユダヤ人社会に向けられかねないと危惧しているのだ。

激減したユダヤ系住民

 2019年の当選直後、ゼレンスキーはナチス・ドイツを倒した戦勝記念日に合わせ、同国中部にある故郷のクリヴィー・リフ市の墓地を訪ね、祖父シモン・イヴァノビッチ・ゼレンスキーの墓前に花束を捧げた。祖父シモンの3人の兄弟と父親はホロコーストで殺害され、生き残ったシモンだけがソビエト赤軍兵士としてドイツ軍と戦った。ゼレンスキーはSNSでこう書き残している。「彼は戦い抜き、ウクライナナチスから守った英雄の一人として私の記憶の中に永遠に生き続けている。私たちの祖父の世代である元兵士たちが忘れられているのは悲しいことだ」

 現在のウクライナユダヤ系住民の数は、誰をユダヤ人とすべきか明確な基準もないので正確な統計はないが、ざっと8万人から35万人と推定されている。第2次大戦でドイツが進軍してきた1941年までは約270万人のユダヤ系住民がいたとされるが、戦後の1950年代後半の統計で84万人にまで激減。その後もソ連崩壊後の移民ラッシュで人口は減り続けた。それでもウクライナは世界で3番目か4番目にユダヤ系住民が多い国として知られる。

 二千年も前にイスラエルの地を追われディアスポラとなったユダヤ人たちが黒海北岸にある現在のウクライナに定住するようになったのは、9世紀から13世紀にかけ、この地に栄えたキエフ大公国に厚遇されたためだとされる。アシュケナージと呼ばれるユダヤ人たちは、ウクライナベラルーシポーランドリトアニアにまたがる広大な東ヨーロッパ大平原に定住していく。だが18世紀末、その多くが帝政ロシアの統治下に入ると、彼らの移動は極端に制限されるようになった。当時のロマノフ王朝のエカチェリーナ2世がユダヤ教徒の居住区(Pale of Settlement)を設定し、域外へのユダヤ人の移住を禁じたためだ。1897年のロシアの調査でユダヤ人の人口は約500万人にもなり、帝政時代末期のロシアは世界でもっともユダヤ人が多く住む国になっていた。ウクライナにある主要都市のオデッサやドゥニプロでは住民の3分の1以上をユダヤ人が占めていたという。

 ユダヤ人の迫害は長い歴史の中で絶え間なく起きてきたが、19世紀末から20世紀初めにかけ、ウクライナを中心とする帝政ロシア南部の広範囲で「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ暴動が頻発し、事態は急速に悪化した。ポグロムはロシア語で「破滅させる」という意味があり、ユダヤ人に対する経済的、社会的、政治的な反感が暴動に発展したと言われる。特にロシア革命で混乱していた1917年から1921年まで、ウクライナユダヤ人は1000件以上のポグロムで約3万人の犠牲者を出した。この時期にウクライナを去ったユダヤ人は数知れず、この地にルーツがある逸材も多く輩出されることになった。映画監督のスティーブン・スピルバーグ、歌手のボブ・ディラン、指揮者のレナード・バーンスタイン、科学者のカール・セーガンといった人たちがよく知られるが、ウクライナ危機で陣頭指揮をとるアントニー・ブリンケン米国務長官もその一人だ。昨年1月に国務長官に指名された際、ブリンケンは就任受託演説で「私の祖父モーリス・ブリンケンはロシアのポグロムから逃れアメリカに来た。私の母ベラ・ブリンケンは共産主義ハンガリーから逃れてアメリカに来た」と述べ、アメリカが国際社会で担うべき使命を強調した。現在のウクライナの首都キエフで育ったモーリス・ブリンケンは子供の頃の20世紀初頭、父親に連れられニューヨークに渡ったというから、ブリンケン長官は米国で4代目に当たる。

 しかしウクライナユダヤ人を激減させたのはポグロムではなく、第2次大戦中の2年間に起きたホロコーストだ。およそ600万人のホロコースト犠牲者のうち100万人近い人たちがウクライナで殺害されているのだ。にもかかわらず、虐殺の実態は解明されたとは言い難いのが実情だ。戦後すぐ、ソ連ではホロコーストの実態を調べた500ページに及ぶ報告書が作成されたが、ホロコーストは特定の民族ではなくソビエト市民に対する虐殺だったと強調する当局が出版を認めなかった。ユダヤ人の被害が匿名化されたため、真相究明のための追跡調査や教育が行われてこなかったのだ。日の目を見ることがなくなった報告書は「ブラックブック」として知られ、そこにはナチ当局と協力したウクライナ人の役割も指摘されてあったという。

ユダヤ人と共産主義を結びつけたデマ

 なぜウクライナポーランドに次ぐ大規模なホロコーストが起きたのか。その前に第1次大戦を機に混迷を深めたウクライナの歴史について簡単に触れておきたい。

 第1次大戦中の1917年に起きた「2月革命」でロシア帝国が崩壊したのに続き、「10月革命」でボリシェヴィキソビエト政権が誕生すると、ウクライナではキエフを首都とする「ウクライナ人民共和国」の独立が宣言された。同国はドイツとオーストリアの連合国側と同盟を結ぶが、連合国の敗退によりソビエト赤軍の介入を防ぐことができなくなった。そしてボリシェヴィキの傀儡政権「ウクライナソビエト社会主義共和国」の樹立を受け、ウクライナ人民共和国政府は亡命を余儀なくされる。

 一方、西ウクライナでは別の動きがあった。第1次大戦後に独立を果たしたポーランドが、かつての領土だったベラルーシ西部とウクライナ西部を取り戻すため、ロシア革命後の混乱に乗じて西ウクライナに侵攻。これに対しウクライナ人は「西ウクライナ人民共和国」の独立を宣言するが、ボリシェヴィキとの戦いが続く東方のウクライナ人民共和国に支援に応じる余裕はなく、短命に終わっている。この結果、西ウクライナガリツィア地方はポーランド領、同ブコビア地方はルーマニア領に編入された。そして西ウクライナを除く他の地域は1922年のソビエト連邦の結成によりソ連領に組み込まれることになり、独立の希望は絶たれてしまった。

 だがウクライナをめぐる領土争奪戦はヒトラー政権の誕生で再開する。ソ連と不可侵条約を結んだドイツが1939年9月にポーランドに侵攻すると(第2次大戦勃発)、ソ連ポーランド領に編入された西ウクライナを前述のウクライナソビエト社会主義共和国に併合。ルーマニア領のブコビアも併合したため、ウクライナのほぼ全域がソ連に組み込まれた。続いて独ソ戦が勃発し、今度は西からドイツ軍が攻め込み、ソ連軍はウクライナから撤退していく。

 悲劇はドイツ進軍の過程で次から次と起きた。特にポーランドに近い西ウクライナガリツィア地方は伝統的にユダヤ人が多く住んでいたため、生まれ育った故郷の街や村々が大量虐殺の現場となる凄惨なホロコーストが繰り返された。虐殺はガリツィアからウクライナ全土へと広がり、ドイツ侵攻から3カ月過ぎた1941年9月29日から30日にかけ、キエフ近郊のバビ・ヤール(Babi Yar)という峡谷に集められた3万人以上のユダヤ人が集団虐殺される事件も発生している。

 しかし進駐してきたドイツ軍だけで、短期間のうち100万人もの人を殺害するのは容易なことではない。ソビエトからの独立を目指すウクライナ人も、ナチス・ドイツの犯罪に少なからず協力したと言われる。「ユダヤ人は共産主義者であり、共産主義者ユダヤ人」というデマがユダヤ人虐殺を正当化した。ゼレンスキーの祖父のように赤軍兵士となりドイツと戦ったユダヤ人がいたのも事実だが、虐殺されたユダヤ系住民たちと共産主義はなんの関係もなかった。

 戦後、ユダヤ人が住んでいた街や村からユダヤ人の姿は消え、虐殺に加担したウクライナ人たちも多くを語ろうとしなかった。ユダヤ人被害を匿名化させたソ連の政策もあり、ウクライナホロコーストの記憶は風化していった。

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バビ・ヤールの惨劇を描いたArbit Blatasの「Babi Yar」