ロシアが忘れた教訓、アフガンツィ

 ウクライナ国連大使が2月28日の国連総会・緊急特別会合で読みあげた、死亡したロシア兵の携帯に残された母親とのメッセージが、今も波紋を広げている。

兵士:「ママ、もうクリミアにはいないんだ。演習はしていないんだ」
母親:「それならどこにいるの?パパが荷物の送り先を尋ねてるの」
兵士:「荷物を送れるわけないよ」
母親:「なに言ってるの?なにがあったの?」
兵士:「ママ、ウクライナにいるんだよ」

 そして兵士は母親に惨状を伝える。
兵士:「本当に戦争が起きているんだ。怖いよ。僕らは町中を爆撃していて、市民でさえ標的にしている」「歓迎されるって聞かされていたのに、彼らは装甲車の下に身を投げ出して、僕らを通そうとしない」「僕らのことをファシストと呼ぶんだ。ママ、本当につらいよ」

 最後のメッセージが送られた直後、兵士は死亡したと大使は伝えた。事情も分からぬまま戦地に送り込まれている様子から、ロシア軍の指揮系統の乱れが指摘されるようになった。

 ロシア軍の全面侵攻に続く無差別砲撃で、民間人の被害が続出し、難民の数は300万人にまで膨れあがっている。ウクライナ軍の戦死者も数千人に達したとされる。一方でロシア側の被害も大きく、米国防省の推定で死者は少なくとも7000人を超え、戦車430両、装甲車1375両が破壊された。

 ロシア軍は当初、首都を含む戦略的要衝を数日で制圧するシナリオを描き、国境周辺に集結させた連合機動部隊をウクライナの幹線道路を使って進軍させた。しかし長く伸びた隊列はウクライナ軍の奇襲攻撃で身動きがとれなくなり、前線に残された部隊の燃料や食料不足に対応することすらできなかった。 

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スティンガーミサイルの攻撃を受け炎上するロシアの戦闘ヘリMi24。ウクライナ陸軍が3月5日に公開したツイッターの映像から

 ウクライナ軍の反撃では、2、3人のチームで攻撃が可能な携帯用の対戦車ミサイル「ジャベリン」や地対空ミサイル「スティンガー」、トルコ製ドローン「バイラクタルTB2]が威力を発揮しているという。待ち伏せ攻撃後ただちに移動するゲリラ戦で戦車や戦闘機・戦闘ヘリを撃破する映像がウクライナ軍により次々と公開されている。こうした最新兵器のウクライナ軍への投入は開戦前から何度も報道されていたのだから、ロシア軍上層部の戦略決定の混乱や兵士の士気低下は予想を上回るものなのかもしれない。戦争の長期化でウクライナはさらに大きな犠牲を強いられることになるが、これからロシアが失うものも計り知れない。ロシアは「アフガンツィ」の悪夢を忘れてしまったのだろうか。

 ソ連がアフガンからの撤退を言及しだすのは、ペレストロイカが進んでいた1987年秋ころから。アメリカがアフガンゲリラにスティンガーを提供したことで制空権を失い始め、敗戦ムードは濃厚だった。翌88年1月にカブールを訪れたゴバルチョフ政権のシュワルナゼ外相は同年末までに撤退したい考えを明らかにしていた。実際に撤退が完了する89年2月までの10年間、ソ連は延べ62万人の兵士をアフガンに駐留させ、戦死者約1万4000人、負傷者約5万人をだした。その上、軍事介入で年間50億ドルを費やしたとされ、ソ連解体の間接的な要因になった。 

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ソ連戦勝記念日パレードに参加する帰還兵のアフガンツィ。「Afghantsi」より

 戦地から続々と戻ってくるアフガン帰還兵はソ連でアフガンツィと呼ばれていた。彼らの多くが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患い、社会適応を困難にさせていた。故郷に帰れば英雄扱いされると聞かされていたが、人々は長い報道規制で戦争の実態をほとんど知らない。民間人の虐殺について尋ねられることも彼らを苛立たせた。モスクワ発の当時のニューヨーク・タイムズ(1988年2月14日付)によると、アフガンツィの多くが戦場で経験した悪夢から逃れるため麻薬に手を出し、暴力的な行動が批判の的になっていた。また障害を抱える負傷兵は社会から阻害され、故郷に戻らず保養施設での生活を望んでいたという。

 この記事と同時期に彼らの実情を取材した「アフガンツィ(Afghantsi)」(ピーター・コスミンスキー監督、1988年)というイギリスのドキュメンタリー映画がある。帰還兵だけでなく、撤退前のアフガンのソ連軍陣地を訪ねて兵士たちのインタビューも行った珍しい作品だ。カブール近郊の陣地でインタビューに応じた軍曹(Valodya Penchuk)はこう語っていた。

「私たちの車列の先頭を走っていた車両が(待ち伏せ攻撃で)やられた。(攻撃を受けた)車に駆け寄ると、親友だった運転兵にまだ息はあったけど、顔がほとんどえぐられ、胸も負傷していた。彼が助からないのは一目で分かった。その後、指揮官が村を攻撃する許可をだした。50メートルほどの距離から撃ち続け、村を破壊し尽くした。手の震えが止まらなかったけど無我夢中で撃ち続けた。(攻撃を受けた)車輌の中は血だらけになっていて、見ているだけで怖くなった。車両には50発くらいの弾丸が撃ち込まれていた。長距離射程の自動小銃で撃ってきたようだ」

 徴用されて間もないこの軍曹は、「こんな殺し合いはうんざりだ」とうつろな表情で話していた。

 カメラはカブールにあるソ連軍の病院で治療中の負傷兵(Nikolai Chekan)も撮影している。死線をさまよった戦場での衝撃から抜け出せない様子で、「こんな忌まわしい戦争がいったい何のためになるんだ」と話す。そして、こう続けた。「銃を撃つということが実際になにを意味するのか分かるようになると…、銃を撃ちながら、自分が生きているかどうかも疑わしくなるような苦痛を受けた後は、他の人たちを二度と傷つけたくないと思うようになる」

 第2次世界大戦(ソ連では「大祖国戦争」)戦勝記念日の5月9日。ソ連の街をパレードする高齢になった英雄の退役軍人に続き、青のベレー帽と縞柄シャツが特徴の空挺部隊の制服を着たアフガンツィも非公式にパレードに参加していた。そのうちの一人(Yuri Shaginov)は、故郷に戻れば必要な福祉はなんでも与えられると聞かされていたのに、現実はまったく違ったと不満を漏らした。そして辛い過去の体験を語る元軍曹(Alexander Solomin)の言葉から、アフガンツィたちが抱える悩みがはっきり伝わってきた。

「戦争中にどちらが正しいか悪いかなんて区別することなどできないし、(戦争と)関係のない(民間)人なのかどうかも分からない。名誉ある戦いなんてできるのだろうか。なにより女性や子供たちが犠牲になってしまい、それ自体がひどいことだ。この戦争は未熟な政治家の誤った決断がもたらしたに違いない。いずれ分かるかもしれないが、いったい誰に責任があるのか知りたい」

 映画には戦死した兵士(Valodya)の母親(Nina Penchukova)のインタビューもある。

「彼はアフガニスタンにいることを私に伝えませんでした。モンゴルに移動したと言っていたのです。私を動揺させたくなかったのだと思います。私をひどく悲しめることを分かっていたから。手紙ではこう言っていました」

 彼女は涙ぐみ、息子の手紙を読みあげた。

「ママ、どうか許してください。本当のことを言わなくてはなりません。僕はアフガニスタンにいます」

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戦死した息子の手紙を読み上げる母親。「Afghantsi」より