DMZルポ① 米軍基地を抱える韓国で何が起きているのか

週刊金曜日』2018年4月6日号

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北緯38度の村

 非武装地帯(DMZ)から近い北緯38度にある京畿道抱川市の永平(ヨンピョン)川は、朝鮮戦争が起きるまで村を南北に隔てる国境だった。1953年の休戦協定で韓国領に組み込まれたが、今も軍の駐屯地が多く、緊張感が漂う。
 1月2日夜、川の北側の夜味里(ヤミリ)という村に、戦車の機関銃に使われる口径12・7ミリの弾丸が23発も落下する事故があった。5キロメートル先にある米軍「ロドリゲス射撃場(永平射撃場)」から飛んできたことが分かり、安全が確認されるまで訓練は中断されたが、住民の不安は消えない。
 夜味里周辺では民家や畜舎に落下する流れ弾の事故が3年間で16件発生し、被弾して負傷した住民もいる。射撃場ゲート前でテントを張り抗議活動を続ける住民代表の李吉淵氏は、事故の背景をこう説明する。
「戦車の機関銃には弾丸を200発装填できる。一回の訓練ですべて使い切り、多くが標的のコンクリート壁に当たり跳ね返る跳飛弾となり、村に向かったに違いない。的を外し、そのまま村に飛んできた流れ弾もあるはずだ。在韓米軍兵士は6カ月から1年サイクルで国外の部隊から循環配置され、戦闘能力を向上させるため射撃場での訓練が欠かせないようだ。その上、日本、アラスカ、グアムの米軍基地からも、海軍を除く陸・空・海兵の米兵が続々とやってくる。見ず知らずの私たち住民などまったく考慮せず、昼夜を問わず好きな時間に訓練をするので、爆音や振動で耳を悪くしたり睡眠障害を訴える住民が多い。射撃場がある山では訓練で発生した山火事が1年に20回以上起きている」
 機関銃の弾丸だけでなく、迫撃砲や対戦車砲の演習弾も飛んでくる。1日で2万発の射撃訓練が行われた日もあった。もっとも多いのが対戦車攻撃を想定した攻撃ヘリ「AH64(アパッチ)」の訓練で、イラク戦争の際は、米兵のほとんどがこの射撃場での訓練を経て戦場に送り込まれた。ヘリが標的めがけ降下する進路の真下に小学校があり、騒音で授業が頻繁に中断する。今は廃校が検討されているという。
 広大な射撃場は茶色のフェンスに囲まれ、中の様子を伺い知ることはできない。敷地内から流れる小川がテントの真横を通り、村の田んぼへとつながっていた。
「雨が降れば、弾薬や金属の有害物質で汚染された水が用水路に流れ込んでしまう」
 李氏はこう語り溜息をついた。

北朝鮮危機で事故増加へ 

 1954年に造成されたロドリゲス射撃場は広さ1322万平方メートル。アジアにある米軍の射撃場で最も大きく、米軍はここで年間300日近く射撃訓練を行う。在韓米軍は、主力となる陸軍第8軍隷下の第2歩兵師団が、ソウル南方の京畿道平沢市に新たに建設された「キャンプ・ハンフリーズ」への移転をほぼ完了させたが、北朝鮮の長射程砲に対応する部隊「210火力旅団」とロドリゲス射撃場だけは、DMZに近い前線地域に残留させた。
 住民がテントの抗議を始めたのは被害が増えだした2年半前。15年末には対戦車ミサイルが教会の集会施設を直撃する事故が起き、この時も訓練が一時中断した。だが、1週間後の16年1月6日に北朝鮮が4回目の核実験を実施したため、なにごともなかったように再開されてしまう。同時期は在日米軍でも事故が増えていた。一昨年にくらべ昨年は25件に倍増、今年に入っても事故やトラブルが相次いだ。一触即発だった北朝鮮危機と無縁ではなさそうだ。
 ところが、金正恩朝鮮労働党委員長が「新年の辞」で平昌冬季五輪参加の意向を表明すると、半島情勢は一変した。金氏に非核化の意思があることが分かると、4月末の南北首脳会談に続き史上初の米朝首脳会談が実現する見込みとなり、3月26日に中朝首脳会談が電撃的に行われた。4月1日からはじまった米韓合同軍事演習「フォールイーグル」の規模も縮小され、非戦と非核に向けた対話のテーブルが準備されつつある。
 しかし一連の南北和解の流れとは逆に、ロドリゲス射撃場は訓練再開に向け動き出す。五輪開催中の2月、韓国国防部(省)の宋永武長官とマイケル・ビルズ米第8軍司令官が住民代表らに再発防止策を伝え、理解を求めた。だが、住民が求める射撃場の閉鎖や移転には答えようとしなかった。
「安全対策といってもコンクリート壁の除去や射撃角度の制限くらいで、どうせ事故は繰り返される。閉鎖が無理なら住民の集団移住を考えてもらいたい」(李氏)
 移住を希望する被害住民は1万人近くにも増え、国も対策のとりようがないのが実情だ。

韓国版「思いやり予算」も

 昨年6月30日にワシントンで行われた米韓首脳会談後の共同記者会見で、ドナルド・トランプ大統領は「韓国における米軍のプレゼンスの公正な費用分担に向け協力している。費用の分担は極めて重要」と述べ、韓国が負担する在韓米軍駐留経費の増額を示唆した。さらに11月7日にソウルで行われた二度目の首脳会談では、韓国の武器購入を高く評価し、その額が数十億ドルに及ぶと強調した。
 在韓米軍地位協定(SOFA)は、「施設・区域」を韓国が無償で提供し、駐留経費はすべて米国が負担すると定めている(5条1項、2項)。しかし、両国は91年から日本の「思いやり予算」に当たる防衛費分担額を決める「特別協定」を定期的に結び、米軍基地の韓国人職員の労務費(現金)▽軍事施設建設費(現金と現物)▽軍需支援費(現物)を地位協定の例外措置とし、韓国側が負担してきた。昨年の拠出額は約950億円。韓国政府は駐留経費総額の約50%と推定している。現協定は今年末に期限を迎えるため、3月中旬に第10回協定に向けた交渉が始まった。
 一方、日本政府の思いやり予算は17年度予算案で1946億円。これに周辺対策、土地や施設の賃料などを加えた「在日米軍駐留関連経費」を基に計算すると、負担率は9割を超える。北朝鮮危機は解消されておらず、米国が韓国に大幅な増額を求めるのは必至だ。だが、経費の算定基準は恣意的で負担率も実態を反映していないと「平和・統一研究所」の朴琦鶴所長は指摘する。
「米軍支援のため『KATUSA(カトゥサ)』と呼ばれる韓国軍兵士が米軍指揮下に配置される。兵員数は在韓米軍兵力の12・6%の約3600人になり、国防部予算から支払われる給与は特別協定の労務費に組み込まれるべきだ。
 また、米軍の弾薬が韓国軍の貯蔵施設に保管され、維持費用に年間1000億ウォン(約100億円)かかるが、これも軍需支援費から外されている。土地の賃料や周辺対策費など間接支援も計算に含まれていない。
 特に問題なのが、軍事建設費として支払われた分担金をキャンプ・ハンフリーズの基地移転事業に転用してきたことだ。韓米は特別協定とは別に『連合土地管理計画(LPP)』を結び、米国が全額負担することで合意したのに、実際には韓国側が総事業費108億ドルの9割以上を負担する結果になった。これらを合わせば、負担率は少なくとも77%になる」

分担金を米国が不正投資

 日韓ではGDP(国内総生産)に差があり、負担は韓国にさらに重くのしかかる。しかも分担金は転用されたばかりか、米国防省所属の金融機関「コミュニティバンク(CB)」に預けられ、営利行為を禁じる地位協定に反して投資された上、巨額の利子まで生んでいた。本来なら返済されるべき不用額は現時点で1兆ウォン(約1000億円)に上る。
 今後の交渉で負担増額の根拠にされかねないのが、在韓米軍が昨年4月に配備した高高度迎撃ミサイルシステム「THAAD(サード)」の扱いだ。配備に約10億ドル、年間200万ドルの運営費がかかる。「北朝鮮特需」に沸く米軍需企業大手ロッキード・マーチン社が開発した最新鋭の武器だが、北朝鮮の多様なミサイルに対応しきれず、韓国防衛における迎撃能力に疑問符がつく代物だ。
 分担金が不正使用されたキャンプ・ハンフリーズは、米軍の海外の基地で最大規模(1467万平方メートル)を誇り、第8軍司令部や滑走路など主要な軍事施設の他、学校、病院、商店など米兵と家族のための施設を含めると513棟の建物が並ぶ。メディアには公開されないが、核攻撃に耐える巨大な地下バンカー「陸海空戦区指揮所(CP TANGO)」も作られ、半島有事の際は後方支援を担う在日米軍7基地を指揮下におく司令部に変身する。グアム、沖縄に並ぶアジア太平洋地域の米戦略拠点を、韓国がまるごと提供したようなものだ。米国をここまで思いやるのも韓国と日本しかない。
 この基地移転事業に伴う米軍基地の統廃合からロドリゲス射撃場を除外したのは、米側の強い要請によるものだった。昨年10月の米韓安保協議会議で、米国は射撃場を存続させた韓国側の努力を高く評価しており、施設の軍事的重要さを裏付けている。しかし、その「努力」は住民の犠牲で成り立っていた。

ドロ沼の武器購入

 韓国の負担は米国の武器購入でも増え続けている。トランプ氏の「数十億ドル」発言が憶測を呼び、地上監視偵察機「ジョイント・スターズ」や海上配備型弾道弾迎撃ミサイル「SM3」などの最先端武器が“ショッピングリスト”に浮上。韓国軍は21年までにロッキード・マーチン社のステルス戦闘機「F35A」を40機導入するが、さらに20機を追加で購入すると報じられだした。1機当たり1億ドル、締めて60億ドルの大商いだ。
 盧武鉉政権で国防長官政策補佐官を務めた金鍾大議員(野党・正義党)に膨れ上がる防衛費の実態について尋ねた。
「F35Aは既存のF15戦闘機に比べ速度が約半分、攻撃装備も不十分で戦闘機能は逆に落ちる。ステルス機能があるから、先制攻撃で敵地に単独で侵入して核・ミサイル施設を精密打撃するなら効果的かもしれないが、開戦とほぼ同時に北のレーダー網は電子戦で麻痺し、制空権は奪われている。ほとんど出番はないだろう。
 同盟国に負担を強いる米国の強引な武器売却には、別の思惑もある。北朝鮮危機を追い風に韓日米一体の軍事同盟を作りあげ、安保を提供する米国の覇権秩序を揺るぎないものにする政治的意味合いが濃い」
 巨額の武器購入には韓国側にも事情がある。金氏が続ける。
文在寅政権が軍事力を強化しているのは、単に北朝鮮の脅威に対応するだけでなく、米軍主導の現在の戦時作戦統制権を、韓米同盟の枠組みを崩さないまま韓国軍が取り戻す必要があるからだ。そのためには、米側が条件とする軍指揮能力を高めるしかない。南北和解による平和を目指す以上、自主国防は避けて通れない現実であり、米国の最先端武器を購入するジレンマに陥る構造的な問題を抱えている」
 現在の休戦状態を終戦に変える平和協定への道筋が見えれば、在韓米軍、そして在日米軍の理不尽な主張がまかり通ることもなくなるだろう。

 

脱アフガンで加速する米軍再編

 

「アフガン陸軍が戦意を失っていたのは事実だ。しかし、それはパートナーのはずのアメリカに見捨てられた思い、なによりバイデン大統領の(撤退)発言から数カ月続いた、我々に対する軽視と不誠実がもたらしたものだ」

 アフガニスタン陸軍の元中将サミ・サダトゥ氏は、米紙ニューヨークタイムズ(8月25日付)への寄稿文でこう述べ、米国に「裏切られた」口惜しさをにじませた。「英国防衛アカデミー」を卒業したサダトゥ氏は、アフガン南部の激戦地で苦戦を強いられながら最後までタリバンと戦った。

 カブール崩落後、バイデン氏は「アフガン軍自らが戦う意思のない戦争で、米国の軍隊が戦うことも死ぬこともできない」と述べ、敵前逃亡をしたアフガニスタンの軍と政府を強く批判していた。しかし、実際の戦場で指揮をとったサダトゥ氏の認識は異なる。

 彼はアフガン軍が総崩れになった原因を3つあげた。トランプ政権が昨年2月のタリバンとの協議で、米軍の撤収を既成事実とし、劣勢だったタリバンが勢いを取り戻した▽戦闘継続に不可欠な米民間軍事会社による兵站および整備支援の中断▽ガニ政権に蔓延する腐敗が招いた軍指揮系統の乱れ。そして、アフガニスタンの現状を無視したバイデン氏の拙速な撤退発言が、事態を急速に悪化させたというのだ。なかでも兵站支援の中断は致命的だった。1万7000人いた軍事会社スタッフが7月までに撤収し、ハイテク兵器のソフトウェアや兵器システムがまともに使えなくなったからだ。骨抜きの軍隊ではタリバンに勝てるはずがなかった。

 それでも撤退は正しかったとバイデン氏は主張し、「米国の国益にならない紛争に関わってきた過去の過ちを繰り返さない」と国民に訴えた。だが、この発言は同盟国の不信を招き、ジェイク・サリバン大統領補佐官が「(米軍は韓国や欧州に)内戦ではなく潜在的な外部の敵のため駐留しており、アフガニスタンとは根本的に異なる」と火消しに走った。韓国の場合、外部の敵、つまり北朝鮮の挑発を抑止するため在韓米軍は存在していることになる。

 ところが8月末、米下院軍事委員会の2022会計年度国防権限法案(NDAA)で、在韓米軍の「削減」を制限する条項が取り除かれ、憶測を呼んだ。この条項は、在韓米軍の削減を公言するトランプ前大統領の一方的な決定を阻止するため、同委員会が当時のNDAAに「在韓米軍の兵員数は2万2000~2万8500人の水準を下回ってはならない」と歯止めをかけたもの。トランプ氏は当時、米朝首脳会談を演出する一方で、韓国を安全保障に「ただ乗り」していると批判。在韓米軍の撤退までちらつかせ、米軍駐留経費の韓国側負担を5倍に引き上げる無茶な要求をした。バイデン氏はこれを「ゆすり」と表現し、米韓の同盟関係を回復させた。その削減制限が削除されたのだ。その理由を、同委員会は「国防省が任務達成に必要な兵力を判断し、在外米軍の編成を行うため、在韓米軍の兵員数を明示しなかった」と説明した。

 米国防省はバイデン氏の大統領就任直後から、在外米軍の態勢見直しを図る「グローバル・ポスチャー・レビュー(GPR)」の検討に入り、近々、結果が公表される見込みだ。中国に対抗するため、インド・太平洋地域を一つの戦区に拡大させ、在日米軍や在韓米軍も域内の状況に応じ、より柔軟に活用させる見通しだという。

 かつてない米軍再編が進む中、国益にならないアフガニスタンは早々にお払い箱にされたわけだが、逆に、米陸軍の在外基地で最大規模の「キャンプ・ハンフリーズ」を抱える在韓米軍、5万人以上の米軍兵士が駐留する在日米軍の役割は一層強くなりそうだ。米中が衝突すれば紛争に巻き込まれる。域内の安定を乱す中国には断固とした姿勢を示すべきだが、国益とは何なのか、もう一度見直す必要がある。



カブール空港と興南港、二つの「ミラクル」

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興南港で「メレディス・ビクトリー」に乗船できた避難民(ShareAmericaから)

 カブール国際空港で米軍が8月14日から30日まで実施した退避作戦は、同盟国の搬送を合わせ、12万3000人もの人を国外に送り出す大規模なものだった。26日の自爆テロで犠牲者が出たとはいえ、米軍の作戦遂行能力の高さに改めて驚かされる。退避作戦は場当たり的に実施されたのではなかった。米軍は有事に備え、米国の民間人を迅速かつ安全に海外に退避させる「非戦闘員退避作戦(Non-combatant Evacuation Operation)」の訓練を実施している。約2万8000人の米軍兵士が駐屯する在韓米軍にも、韓国に住む約20万人の米国人を在日米軍施設などに搬送する定期退避訓練がある。毎年2回行われ、春の訓練を「フォーカスド・パッセージ(Focused Passage)」、秋の訓練を「コレージャス・チャネル(Courageous Channel)」と呼ぶ。北朝鮮が5回目の核実験を行った2016年から、民間人を実際に退避させ話題を呼んだ。
 しかし、アフガニスタンの場合、退避させる民間人の大半が現地の難民だったので、混乱が生じ、空港は断末魔の様相を呈した。そして、遠く離れた韓国で、彼らの命懸けの脱出劇をじっと見守っていた人たちがいた。71年前の1950年12月に米軍が朝鮮戦争で実施した「興南撤収作戦」による生存者、そしてその家族たちだ。
 朝鮮戦争は1950年6月25日、朝鮮人民軍の奇襲攻撃で始まった。国連安保理はただちに北朝鮮の侵略を非難し、米軍を中心とする国連軍を結成。9月にソウルを奪還、10月には平壌占領を果たすのだが、同月、中国が「抗美援朝、保家衛国」(米国に対抗し朝鮮を支援し、中国を防衛する)のスローガンを掲げ、朝鮮への出兵を決断していた。北朝鮮中部山岳地帯の奥深く、長津湖まで進軍していた米第1海兵師団をはじめとする国連軍は、突如現れた12万人もの中国軍に取り囲まれ、氷点下30度の極寒の戦場で約1万7000人の死傷者を出す甚大な被害を被った。撤退を余儀なくされた米軍は、前線各地の約10万人の残存兵力を北朝鮮東部の興南港に集結させ、軍艦や輸送船で韓国に退避する決断を下す。これが同年12月15日からクリスマスイブの24日まで実施された米国史上最大の退避作戦、興南撤収作戦だ。
 退避を困難にさせたのは、興南港に押し寄せた約30万人の北朝鮮避難民の処遇だった。10万人を超す兵員に加え600万トンに及ぶ武器や装備もあり、避難民まで搬送するのは不可能に思えた。だが、米軍はカブール空港をはるかに上回る大混乱の中、避難民の搬送を始め、結果的に約9万1000人を韓国に脱出させる。その中で最大の規模となったのが、大量のガソリンや軍需品を放棄し、定員59人に1万4000人をすし詰めにして出港した貨物船「メレディス・ビクトリー(Meredith Victory)」だ。後に「奇跡の船(Ship of Miracles)」と呼ばれる同船で脱出できた避難民の中には、文在寅大統領の両親もいた。
 この時のミラクルが意識されたのか、韓国政府がアフガニスタンから現地スタッフとその家族390人を脱出させた作戦は「ミラクル」と名づけられた。手柄を横取りしようとする政府高官らのパフォーマンスで冷や水を浴びたが、韓国政府の努力は国内外で一応の評価を得ている。その一方で、ミラクルを心から喜べない人たちもいる。他ならぬ同胞の難民、脱北者たちだ。文在寅政権になり、韓国に入国できた脱北者の減少傾向が続き、昨年はコロナ禍もあり229人にまで激減している。政権がアピールしたくない人道援助にはミラクルは起きず、彼らは見捨てられたままだ。

 

 

 

 

バーミヤン、大仏破壊と名もなきハザラ人の死

 

 米国史上最長の戦争に終止符が打たれ、アフガニスタンから銃声が遠ざかった。戦争の犠牲者は米軍兵士2461人、多国籍軍兵士1144人、アフガニスタン政府軍や警察官は約7万5000人に上る。タリバン側も5万人以上が死に、民間人の犠牲も5万人近くになると見積もられる。その上、数百万人の難民を生み出す悲惨な戦争になった。
 戦争の引き金となったのは2001年の同時多発テロだが、その兆候は、事件4年前の1997年初めにあった。前年にカブールを占領したタリバンバーミヤンの大仏を破壊すると言い出したためだ。直後の同年5月、まだ地元ハザラ人勢力の支配下にあったアフガニスタン中部のバーミヤンを訪ねることができた。

https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/08/23/163759

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バーミヤンのハザラ人たち

 カブール内戦の際、当時のハザラ人組織「ヘズビ・ワフダテ・イスラミ(イスラム統一党)」は、北部パンジシール渓谷を拠点にするタジク人組織「ジャミアテ・イスラミ(イスラム協会)」と激しく争った。だが、タリバンが勢力を伸ばし始めると宿敵タジク人たちと北部同盟を結び、バーミヤンに立てこもる。バーミヤン滞在中、ヘズビ・ワフダットの指導者、カリム・ハリリに面会する機会があり、彼らの実情を尋ねると、「ハザラ人はどこからの援助も得られず、孤立無援の状況にある。農業改革を進めたいが、その技術すらない」と切実な思いを打ち明けられた。
 ハリリはジャミアテ・イスラミのヘリでバーミヤンを訪れていた。パイロットのタジク人たちが同じ宿に泊まっていたので、パンジシールの戦況を尋ねると、タリバンに占領される危険はないという。このままパンジシールに戻るので一緒に来いと誘われたのだが、バーミヤンで筆者の案内をしてくれたハザラ人青年が露骨に不快感を示した。後で理由を尋ねると、「私はカブール出身だ。あいつらがカブールでなにをしたのか知っているのか。ハザラを皆殺しにしたのはあいつらじゃないか。客なんかじゃない!」と吐き捨てるように答えた。怒りがおさまらないのか、彼はこう続けた。
「私の親戚も彼らに殺された。家に押し入ってきて、一人ずつナイフで喉を掻き切って殺すんだ。無抵抗の子供まで殺された。女はその場で強姦され、殺された。こいつらは人間じゃない!」
 ハザラ人は王政時代もムジャヒディーン時代も、そしてタリバン時代も虐げられ続けた。内戦で破壊され尽くされたカブール市内で、徹底した破壊ぶりが際立つのがハザラ人が多く住むダシュテバルチ地区だ。公開の場でハザラ人女性の頭の皮が剥がれるというおぞましい犯罪も多発したらしい。
 バーミヤンタリバンに占領されたのは翌1998年の9月。平和なバーミヤンの盆地で多くのハザラ人が虐殺されたという。タジク人に続きパシュトゥーン人も彼らを虫けらのように殺した。世界はアフガニスタンで起きていた殺戮を知らず、無関心だった。大仏が爆破されるのは、それから2年半後。同時多発テロ半年前の2001年2月のことだった。バーミヤンといえば文化遺産の大仏破壊ばかり連想されがちだが、大仏と共に暮らしてきたハザラ人たちの犠牲を忘れてはならない。

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盆地の北側にある崖に彫られた西大仏(手前)。1キロ先に東大仏がある

仏の里

 ハザラとはどう意味なのか、ハザラ人に聞くと、ハザールという言葉が「千」という意味なので、たくさんいるという意味ではないかと答えた。ヒンドゥークシュ山脈の盆地にあるバーミヤンに仏教王国が栄えたのは6世紀から8世紀にかけて。インド求法の旅にでた唐僧、玄奘三蔵が訪ねたことでも広く知られる。玄奘が残した『大唐西域記』の「梵衍那国(バーミヤン)」に巨大な大仏がある仏の里の様子が描写されている。西暦630年のことだったという。それから約100年後の726年には新羅僧の慧超もバーミヤンを訪れ、『往五天竺国伝』の「犯引国(バーミヤン)」に簡単な記述を残した。慧超によると、「バーミヤンの王は胡人で、他国に服従せず、強力な軍隊があり、諸国はこの地をあえて侵略しようとしない」という。だが、慧超が訪れた約50年後、バーミヤンアッバース朝イスラム勢力に征服されてしまう。バーミヤンを支配するイスラム王朝は転々と変わり、ガズナ朝のスルタン・マフムードがアフガニスタンの支配者となった11世紀初め、大仏の顔が削がれたという。
 慧超の記録にある「胡人」はペルシャ系民族で、東洋系の顔だちをしたハザラ人ではない。住民に変化をもたらしたのはジンギスカンモンゴル帝国。1221年、バーミヤン攻略の指揮をとった孫の戦死に激怒したジンギスカンが、住民を一人残さず皆殺しにしたためだと言われる。廃墟となったバーミヤン中央アジアから移住してきたのがハザラ人だったとされる。
 大仏はバーミヤンの盆地の北側の崖に彫られ、高さ55メートルの西大仏と37メートルの東大仏が村を見下ろすように立っていた。二つの大仏の距離は1キロほどあり、その間の崖に、かつて僧侶が暮らした仏窟の穴が無数に散らばっていた。その中に、高さ10メートルほどの座像の仏像もあった。ハザラ人たちは、西大仏をサルサル(父親)、東大仏をシャーママ(母親)、小さな座像をバッチャ(子ども)と呼び、親しみを込めて暮らしてきた。

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西大仏と東大仏の間にあった座像。これも爆破された

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西大仏の天井に残っていた曼荼羅模様の壁画


 西大仏の前に立ち大仏を見上げると、その巨大な姿に圧倒されてしまう。大仏を囲む崖の窪みを「仏龕」と呼ぶらしいが、その天井に目をやると、曼荼羅模様の壁画が少し残っていた。これも爆破で跡形もなく消え去った……。
 目を凝らすと、仏龕の壁の所々に小さな穴があいている。壁の内側には、大仏の顔の高さまで登れる細長い階段状の洞窟があり、穴は、通路の明り取りの役割を果たしているようだ。子どもたちの格好の遊び場でもある洞窟を、上へ上へと登っていくと、大仏の頭が忽然と姿を現す。大仏の正面には穏やかなバーミヤンの盆地が広がり、まるで極楽浄土のようだ。その時、大はしゃぎの子どもたちが大仏の頭の上にピョンと飛び乗り、ヒヤッとした。一歩間違えれば55メートル下に真っ逆さまだ。「罰当たりな」と思う人もいるかも知れないが、数百年もの間、ハザラの子どもたちと遊んできた顔のない大仏は、なぜか楽しそうだった。

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大仏を囲む壁の内側にある洞窟

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ハザラの少年



中国が進む険路アフガニスタン

 昨年12月中旬、アフガニスタン政府の情報機関「NDS」がカブール市内に住む中国人10人をスパイ容疑で摘発する事件があった。そのうち2人は中国の情報機関、国家安全部と関係があり、タリバンの最強硬派「ハッカーニ・ネットワーク」と接触したとみられる。中国人グループはタリバーンを通して、同国内のクナール州とバダクシャン州にいるウイグル人武装グループ「東トルキスタン・イスラム運動(ETIM)」の情報を探っていたと報じられたが、真相は今も明らかにされていない。

 事件から4カ月後の4月14日、バイデン大統領がアフガニスタンから米軍を全面撤退させると発表し、アフガニスタン情勢は急変する。その1週間後の21日、パキスタン南西部バルーチスタン州都のクエッタにある高級ホテルで爆発があり、警官ら16人の死傷者が出た。同市を訪問中の中国大使を標的にしたテロだった可能性が高く、パキスタンの反政府勢力「パキスタンタリバーン運動(TPP)」が犯行声明を出している。

 さらに7月14日、パキスタン北部コヒスタンの山道で、ダム建設現場に向かう中国人労働者らを乗せたバスが爆発し、中国人9人を含む12人が死亡した。現場検証で爆発物が発見され、中国人を狙ったテロとみなされた。続く8月20日アラビア海に面したバルーチスタン州の港町グワダルで、中国人が乗った自動車の近くで爆発があり、中国人1人が負傷。この事件はTPPとは別のパキスタンの反政府グループ「バルーチスタン解放軍(BLA)」の犯行だった。米軍の撤退に合わせるかのように、中国人を標的にしたテロが続いた理由はなんだったのか。

 中国の投資で建設中のコヒスタンのダムは、電力不足に悩むパキスタンに不可欠な事業であり、中国のダム建設大手「中国葛洲壩集団股份」が工事を請け負う。中国とヨーロッパを結ぶ巨大経済圏構想「一帯一路」の一環として、中国がパキスタンと進める「中国・パキスタン経済回廊(CPEC)」の主要プロジェクトに位置づけられている。同プロジェクトには、パキスタン西部の北西辺境州都ペシャワルとアフガニスタンの首都カブールを結ぶ道路建設計画もあり、親パキスタンタリバーン政権が事業に加わるのは時間の問題だ。また、中国はグワダルを陸のルート「一帯」と海のルート「一路」を結ぶ戦略拠点にする考えで、パキスタン政府とともに港の開発を進めてきた。いずれも一帯一路の要となる事業ではないが、友好国パキスタンと共にインドに対抗する意味で戦略的価値がある。反政府イスラム原理主義勢力は、パキスタンの国策事業に打撃を与えるため中国人をテロの標的にしているようだ。

 反政府勢力が根城にするパキスタンアフガニスタンの国境地帯は、国境を挟み同じ民族が分散して暮らしているため、国境はあってないような存在だ。バルーチ人グループのBLAはバルーチスタンの分離独立を目指すグループとして知られる。しかし、数ある反政府グループのなかでパキスタンがもっとも警戒するのは、パキスタン人のタリバン、TPPだ。同じパシュトゥーン人が主軸を成すアフガニスタンタリバンとは別の組織だが、対立関係にあるわけではない。冒頭のスパイ事件で中国人要員がタリバーンから得ようとした情報は、存在すら疑われるETIMのウイグル人テロリストの情報ではなく、TPPの内情だったのではなかろうか。

 TPPの結成は米同時多発テロから6年後の2007年暮れのことだ。米軍のアフガニスタン侵攻を機にアルカイーダ戦闘員の多くが国境を越え、パキスタン北西辺境州の中でも排他的な自治が認められる連邦直轄部族地域(FATA)、いわゆるトライバル・エリアに逃げ込んだのが、直接のきっかけとなる。パキスタン軍がアルカイーダ掃討作戦でトライバル・エリアに進撃したことに地域のパシュトゥーン人が反発し、パキスタン政府転覆を目指す反政府武装勢力に変貌していった。だが、背後のアフガニスタンからも米軍の越境攻撃が繰り返され、孤立無援の状況で戦死者を続出させた。パキスタン政府の支援を受けながら同地域を聖域にしたタリバンハッカーニたちとは、正反対の道をたどることになったのだ。

 TPPの戦闘員は最盛期に4000人規模まで拡大したが、パキスタン軍の執拗な攻撃で創設メンバーのほとんどが死に、多くは国境を越えアフガニスタン側に逃れたようだ。アフガニスタン政府軍の捕虜になった者も多い。組織は弱体化の一途をたどるのだが、昨年になり、新たな指導者の下で組織が再結成される動きがあった。テロの対象となる中国としては見過ごせない事態であり、水面下の諜報活動が始まったものと思われる。だが、カブール入城を果たしたタリバンは、パキスタンの意に反し刑務所に収監されていた780人のTPP元戦闘員を解放してしまった。彼らがアフガニスタンを聖域にすれば、中国としては手の打ちようがない。

 タリバンの敵はTPPではなく、26日にカブール空港で自爆テロを行ったISIS-Kだ。死者170人以上の参事となったテロで、タリバン戦闘員は米軍兵士13人を上回る28人の死者を出している。ISIS-Kも当初、トライバル・エリアを根城として、隣接するアフガニスタンのナンガルハル州に浸透して活動を始めたとされる。TPPやタリバンの不満分子を取り込んだ上で、イラク・シリアのISIS指導部に認められ、2015年に同組織をたちあげた。Kはイラン北東部、中央アジア南部、アフガニスタンにまたがる中世ペルシャ時代の地域の呼称「ホラサン」の略で、今は拡大解釈されパキスタンまで含む南中央アジア一帯を指す。彼らは非イスラムを認めず、アフガニスタン政府・米国との和平交渉を進めたタリバーンの柔軟姿勢にも強く反発した。米軍撤退が発表された翌月の5月8日にカブールの女子高校「サイード・アル・シュハダ」で起きた卑劣な爆弾テロも彼らの犯行だと考えられている。死者85人、負傷者147人の大半が、シーア派少数民族で東洋系の顔だちをしたハザラ人の女子生徒だった。

 米軍がもっとも危険視していた組織もISIS-Kだ。トランプ政権は昨年の和平交渉の中で、ISIS-Kに対処する共同戦線にタリバンの参加を求める一幕もあったという。いくら敵の敵とはいえ、タリバンが米軍と軍事作戦を行うなど考えられない。末端レベルではTPPとISIS-Kの線引きも困難だ。とはいえ目の上のコブとなったISIS-Kを放置しておくわけにもいかず、タリバンは今後、難しい舵取りを迫られることになる。もし中国が札束で問題を解決しようとすれば、より明確なテロの標的になる可能性もあり、表立った動きもとれない。アフガニスタンの混沌は今後も続く。

 

タリバンを支えるパキスタン

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ブルカを着るカブールの女性たち。1997年撮影

 タリバンのザビフラ・ムジャヒドゥ報道官が25日、カブールの情報文化省でニューヨークタイムズ記者との単独インタビューに応じ、タリバンに反対してきた人たちへの報復や、20年前の政権が女性に強いた施策を復活させる考えはないと明らかにした(https://www.nytimes.com/news-event/taliban-afghanistan)。女性は顔を隠すべきで、外出の際は親族など婚姻不可能な男性保護者「マフラム」の付き添いを必要とするという考えに根拠はないと述べた。また、女性が学校や職場に通うことも問題視しない考えだ。しかし、タリバン兵たちの女性に関する認識を正す必要があるので、安全のため、女性はしばらく自宅で待機することを勧めている。ただ、音楽はイスラムの教えに反するとして禁止し、国民には理解を求めると答えた。ムジャヒドゥ報道官は新政権で情報文化相に就任する見込みで、批判の的となる人権問題で柔軟姿勢をアピールしていくものとみられる。

 一方でタリバーンは、国防相にアブドゥル・カイーム・ザキールを任命している。ザキールはアルカイーダと密接な関係があった「ハッカーニ・ネットワーク」と連携して米軍と戦い、2010年に捕虜となりグアンタナモ収容キャンプに収監された。ところが、パキスタンの軍特務機関ISIと関係が深かったことから、後に釈放され、その後も公然とテロ活動を続けてきた人物だ。米軍に指名手配されるハッカーニ・ネットワークの幹部、カリル・ハッカーニも堂々とカブール入りしており、タリバンの姿勢には疑念がつきまとう。

 地政学的にアフガニスタンを常に影響下におきたいパキスタンは、米国の「テロとの戦い」の最大の功労者でありながら、米軍の交戦相手であるタリバンを支援し続けるダブルスタンダードをとり続けてきた。タリバンのカブール奪還は「アフガン人の顔をしたパキスタンの侵略」とも言われる。だが、アフガニスタンが再びテロの温床となれば、自国のタリバン化という爆弾を抱えることになりかねない。

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前線に向かう前に祈りをささげるタリバン戦闘員。1997年撮影

 

内戦で廃墟と化したカブール

1997年初め、タリバンに占領されて間もないカブールを訪ねると、街は4年続いた派閥争いの内戦で廃墟と化していた。内戦を終結させたタリバン政権は勧善懲悪省を設置し、女性にブルカ、男性に顎鬚を強要し、街から音楽を消し去った。取材先にも監視兵がぴったりついてきた。内戦中に埋設された地雷の被害が相次いでいたため、カブール大学に付属する病院に立ち寄ると、女性医師に遭遇。なにか訴えようとこちらに近寄ってきたのだが、監視兵の姿を見ると慌てて姿を消した。今回の米軍撤退作戦でカブールが再び廃墟となる事態は避けられたが、女性や少数民族に対する迫害を止める力は、もうどこにもなさそうだ。

 

 

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フォトルポ アフガニスタン

朝日ジャーナル』1986年10月24日号

アフガン初取材の1986年に『朝日ジャーナル』に載った記事。編集長は筑紫哲也さんでした!

 

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『FRIDAY』1986年10月10日号

ソ連アフガニスタン撤退を迫られた30年以上前もドサクサが続いていた。写真の高射砲照準にくくりつけられた白い布の中身はコーランで、ムジャヒディーンの戦いはまさに神頼み。奥に見えるスピンガル山脈の麓に彼らの巣窟、トラボラ洞窟があった。撮影した1986年の春頃、ソ連軍の戦闘機がしきりにフレアをまき散らしていたが、これは米軍がムジャヒディーンに携帯地対空ミサイル「スティンガー」を提供し始めたという情報が広がっていたため。

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悲運の大石仏。

アフガニスタン内戦の中で。(『文藝春秋』1997年8月号)

裵淵弘 写真・文

 

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偶像崇拝を嫌う回教徒により面を剥がれ、廃墟のまま放置されてきたバーミヤン大石仏。タリバンによる爆破の危機が新たに迫っている

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高さ55メートルの大石仏周辺では、タリバンの侵攻に備えるハザラ族自警団が守りを固める。

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自動小銃を手にするハザラ族自警団。タリバンと全面対決する構えだ。(左) タリバンに占拠された首都カブールの風景。タリバンは女性が肌を露出することを禁止している。(上)散乱する軍事車輌の残骸が内戦の熾烈さを物語る。(中)焦土と化したカブールにも露天商が現れた。(下)



 

なぜ米軍はタリバンを制圧できないのか 

テロの「聖域」と化すパキスタン・アフガン国境(『中央公論』2007年10月号)

米軍の掃討作戦が成功せず、イラクと同様に事態が泥沼化しているパキスタン・アフガン国境。この地域では、今も自爆テロの志願者が列をなしている

裵淵弘(ベ・ヨンホン)/ジャーナリスト

 

神学校立てこもり事件と自爆攻撃

 二〇〇一年九月に発生した米同時多発テロの首謀者、オサマ・ビンラーデンを保護するタリバン政権の駆逐を目指した米軍のアフガニスタン侵攻は、当初の予想に反し、わずか二カ月であっけない幕切れを迎えた。各地に散ったタリバンやアル・カイーダ指導層を追跡するテロとの戦いは、その後も続いたが、米軍の圧倒的な軍事力を目の当たりにした国際社会は、アフガニスタン復興を楽観視した。ブッシュ政権は〇三年三月にイラクに侵攻してフセイン政権を打倒しただけでなく、残る“悪の枢軸”、イランと北朝鮮を封じ込めるつもりでいた。

 ところが、イラクでテロが続発するとブッシュ政権の快進撃は止み、泥沼のイラク情勢が米国社会に深い影を落とすようになった。そしてその影は、アフガニスタンとその隣国のパキスタンでも大きくなろうとしている。

 アフガニスタンには米軍を含む北大西洋条約機構NATO)加盟国を中心とした多国籍軍からなる、三万五〇〇〇人規模の国際治安支援部隊(ISAF)のほか、テロとの戦いを主任務とする約八〇〇〇人の米軍が駐留しているが、〇五年から死傷者が急増しだし、毎年増加の一途を辿っている。鳴りを潜めていたタリバンアフガニスタン各地で活動を始めたのだ。

 米国防省などの資料によると、〇五年の戦死者は一三〇人(うち米兵は九九人)、〇六年は一九一人(米兵九八人)、〇七年は八月二十五日現在で一四七人(米兵七一人)に達している。NATO軍のなかでもカンダハルを管轄するカナダ軍の被害が際立ち、これまでの戦死者六九人のうち、三分の一以上が今年に入ってからの犠牲者だ。半世紀前の朝鮮戦争への出兵以来、戦死者を一度も出したことがなかったカナダでは、〇九年二月の駐留期限を待たずにアフガニスタンからの撤退を求める世論が高まっている。

 そして、火の粉はパキスタンの首都、イスラマバードにまでふりかかった。各国大使館が軒を連ねる閑静な住宅街にある市内の神学校ラル・マスジットに、タリバンと関係が深い武装したイスラム過激派が立てこもり、七月十日から十一日にかけてのパキスタン国軍の強行突入で一〇〇人近くの死者を出す惨事となった。政府の対応への反発が広がるなか、アフガニスタンとの国境地帯を拠点とする武装勢力が政府軍に対する自爆攻撃を宣言し、ラル・マスジット制圧直後の一週間だけで、事件の死者を上回る数の国軍兵士や警察官が殺害される非常事態に発展した。同地域での武力衝突は今も続いており、核保有パキスタンの政情不安がテロ拡散につながる恐れすら出ている。

 米軍の越境攻撃

  新たな火薬庫となったパキスタンアフガニスタン国境地帯の現状を探るため、ラル・マスジット事件から一〇日過ぎた七月二十日、東京からイスラマバードに向かった。到着早々、アフガニスタンで女性一六人を含む二三人の韓国人教会関係者がタリバンに拉致されたという報に接し、地元の報道機関を通して情報の確認を急いだ。この最悪の現地情勢の中で、一目で外国人とわかり、しかも女性多数を含む集団が、タリバンの本拠地でもあるカンダハルに修学旅行気分で出かけたという事実に、耳を疑うしかなかった。

 しかし、韓国人拉致事件は現地メディアでは比較的小さな扱いでしかなかった。武装勢力によるテロ事件のほうがはるかに深刻な問題となっていたからだ。二十三日にアフガニスタン国境地帯への玄関となる北西辺境州(NWFP)の州都、ペシャワルに移動し、関係者との接触を始めた。六年前の同時多発テロ直後の現地取材で訪れたペシャワルと違い、いたるところで軍人の姿が見え、町にはただならぬ緊張感が漂っていた。安全とされてきたペシャワルでも自爆テロが起きていたためだった。

 翌朝午前六時、耳をつんざく轟音で目を覚まし、宿泊していたホテルの屋上に駆け上がると、数キロ先の空軍基地から戦闘機が続々と発進していくのが見えた。ペシャワルから四〇キロ西に進むとアフガニスタンとの国境が現れる。西に向け飛び立ったパキスタン空軍機は国境をなめるように低空飛行を続け、辺境一帯を米軍侵攻以来の緊迫した雰囲気に包んでいた。だが、武装勢力への攻撃には主に武装ヘリが使用され、戦闘機による爆撃は行われていないはずだった。ペシャワルで得た情報では、戦闘機の出撃には、アフガニスタンから越境してくる米軍機を牽制する狙いがあったという。それには理由があった。

 米軍の越境攻撃が最初に確認されたのは六月十九日。ペシャワルの約二〇〇キロ南西にあるアフガニスタンと国境を接する北ワジーリスタン地区の宗教施設が米軍機に爆撃され、三四人が死亡し、多数の民間人犠牲者を出した。北ワジーリスタンでは続く二十二日からも数回に渡る米軍の爆撃があり、少なくとも四〇人が死亡、七〇人以上が負傷した。犠牲者の多くはパキスタンに越冬用の木材を伐採しにきたアフガン側住民だったとされる。その中にタリバン兵がまぎれていたのだろうが、アフガン領への往来が認められているパキスタン側住民にとっては他人事ではなかった。そして、米軍がパキスタン政府から事前に越境攻撃の了解を得ていたと公表すると、武装勢力の矛先はパキスタン軍へと向きだした。

 北ワジーリスタンで政府軍をターゲットにした最初の自爆テロが起きたのは、イスラム過激派がラル・マスジットで篭城を始めた翌日の七月四日。このとき政府軍は一七人の死傷者を出している。ラル・マスジット篭城事件とトライバル・エリア(部族地域。後述)の武装蜂起は偶発的に起きたのではなく、武装勢力の聖域が犯され始めたことに対する反発だったといえる。

 一方の当事者でもある米国は、ラル・マスジット事件後の事態に素早く反応している。七月中旬に作成された、中央情報局など、米国の一六情報機関の総合的情勢分析を示す年次報告書「国家情報評価(NIE)」で、パキスタン国境地帯に潜伏するアル・カイーダの名をあげ、「今後三年間は米国に対する持続的かつ増大する脅威」に直面すると警告した。報告書に署名したブッシュ大統領は七月二十日にラジオ出演し、「もっとも問題とされるのは、アフガニスタンとの国境を接するパキスタンのトライバル・エリアにアル・カイーダが聖域を作ろうとしていることだ」と指摘し、パキスタン軍当局の積極的な介入を促した。さらにマイク・マコネル米国家情報長官は、昨年九月にパキスタン政府がトライバル・エリアの北ワジーリスタンで結んだ武装勢力との休戦協定が、結果的にアル・カイーダの再結成を可能にしたとしてムシャラフ政権を非難し、「ビンラーデンはパキスタンのトライバル・エリアにいると信じている」とたたみかけた。

 米国ではアフガン駐留米軍がトライバル・エリアへ軍事介入すべきだと主張する声が目立ち始めており、米特殊部隊がすでに北ワジーリスタンに潜入しているという情報が絶えない。反米感情反政府運動が結びつくことをなにより恐れるムシャラフ政権は、国境地帯への米軍介入情報の打ち消しに躍起だ。ペシャワルで目撃した戦闘機の出撃は、米国と一線を画していると国民にアピールする、パキスタン政府のパフォーマンスだった可能性が高い。

 トライバル・エリアとは何か

  ブッシュ大統領がアル・カイーダの巣窟と名指したトライバル・エリアは、アフガニスタンと国境を接する七部族地区(トライバル・エージェンシー)及びそれに付随する六辺境区(フロンティア・リージョン)を合わせた地域の総称で、連邦直轄部族地域(FATA)として地域長老らによる排他的な自治が認められ、国家や州政府の権限が事実上及ばない特殊な地域だ。面積二万七〇〇〇平方キロのほとんどが不毛の土漠地帯で、アフガニスタンの多数民族でもあるパシュトゥーン族を中心に約三三〇万人が定住している。旧態依然とした部族社会に加え保守的な宗教観が幅を利かせ、女性は識字率三%に満たず、誰もが全身を隠すブルカを着用する。銀行をはじめ公共機関はほとんどなく、テレビのある家庭は極めて稀だ。そこにあるのは封建的な因習と貧困、そして暴力だけだ。

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トライバル・エリア

 トライバル・エリアの部族自治は同地域が旧英領インドに組み込まれた後の一九〇一年に確立し、地域社会を律する法として根付いている。勇猛なパシュトゥーン族の抵抗でアフガニスタン侵攻を断念した大英帝国が、この地域の住民に自治権を与え、アフガニスタン領内のパシュトゥーン族との団結を阻害させるのが狙いだった。この「分離・統治」の英植民地行政を第二次大戦後に独立したパキスタン政府が踏襲しているわけだが、アフガニスタンは英国が画定した現在の国境を認めておらず、トライバル・エリアは両国間の国境紛争に発展する火種を常に抱えている。そのトライバル・エリアで武装勢力の攻撃が激化しているだけでなく、アフガニスタン紛争の震源地にまでなろうとしている現実に、パキスタン政府が心中穏やかであるはずがない。一歩間違えれば独立運動に発展しかねないからだ。

 それにしても、である。トライバル・エリアの武装勢力は、パキスタンの軍事力をもってしても制圧できないほど強大なものなのか。また、アル・カイーダのアラブ兵らは部族社会でどう生き延びているのか、はっきりとした内情は掴みきれていない。トライバル・エリアの事情に詳しいパキスタン紙『ザ・ネーション』のペシャワル支局長、シャミム・シャヒドゥ氏を訪ね、情報が混乱する国境地帯の現状を尋ねてみた。

「部族社会で影響力を持つのは長老やイスラム導師などで、昨年九月の北ワジーリスタンでの休戦協定も、政府の要請を仲介した長老らが武装勢力との間で交わしたにすぎない。今回の一連の事態で一〇カ月続いた休戦協定は破棄されたため、つい先日、州政府の要請でトライバル・エリアの各地区を代表する四五人の長老が北ワジーリスタンに出向き、武装勢力との調停に乗り出した。しかし、武装勢力は長老らに耳を傾けようともしなかった。南ワジーリスタンでは政府寄りの長老が、首の切断された惨殺体で発見される有様だ。北ワジーリスタンにいたっては完全な無政府状態にあり、他の地区でも武装勢力の影響力が強まっていくのは必至の情勢だ」

 南ワジーリスタンは比較的平和だったが、アブドゥッラ・マスドゥという若いイスラム過激派が自爆テロ候補者を大量にリクルートしだしてから、事態は一変したという。マスドゥはパキスタン南部のバルーチスタン州で、中国の政府援助で建設中のダムの中国人技術者を拉致して殺害するなど、国益を脅かすお尋ね者となった。

 シャヒドゥ氏とのインタビューのニ日後、マスドゥはパキスタン軍に包囲され自爆死を遂げた。アフガニスタン南部のタリバン最大の解放区、ヘルマンド州からパキスタン領内に入ったところで位置を補足されたらしい。その足跡はトライバル・エリアの武装勢力タリバンの密接な関係を如実に示していた。 

国境地帯の支配者

  トライバル・エリアで武装勢力の抵抗が最も激しいのが北ワジーリスタンだ。米軍の空爆もこの地域に集中し、オサマ・ビンラーデンもそのどこかに身を潜めているものと考えられている。この地域とタリバンとの関係をシャヒドゥ氏はこう語った。

「ワジーリスタンはアフガニスタンのパクティア州やホスト州と隣接している。そこは南部のヘルマンド州やカンダハール州と並ぶタリバンの最重要拠点だ。地域を支配するタリバンの指導者はジェラルディン・ハッカーニといい、タリバン政権時代に軍の最高幹部だっただけでなく、部族地区担当大臣としてホスト州の知事も兼ねていた。彼の息子のシラージュッディンは北ワジーリスタンの主要な武装勢力として活動し続けているし、弟はムシャラフ大統領の暗殺を企て逮捕された。つまり武装勢力とはタリバンそのものと言っても過言ではない。米軍は血眼になって彼の殺害を試みてきたが、六年たった今も居場所をまったく特定できていない。彼に庇護されている可能性の高いビンラーデンを探し出すことなどできるだろうか。私は無理だと思う」

 シャヒドゥ氏の口から飛び出したハッカーニという名前に、私は驚きを隠せなかった。なぜなら、今から二一年前のアフガン取材で、私はハッカーニに会ったことがあるからだ。

 ソ連の侵攻から六年が過ぎ、アフガンゲリラの攻勢が一段と強まっていた一九八六年四月。当時七派あったゲリラのうち「イスラム党ハリス派」の従軍取材が許可され、彼らの本部拠点があった北ワジーリスタンの行政首府がおかれるミランシャーに向かった。そこで知り合ったゲリラ司令官のハッカーニの案内でアフガニスタンに潜入し、最前線での惨たらしい戦争を目撃した。

 ハッカーニの正体を明らかにする前に、三〇年近く続くアフガニスタン紛争の流れを簡単に振り返ってみたい。

 七九年末のソ連軍の侵攻を機に、米国やサウジアラビアから財政支援を受けたムジャヒディーン(聖戦士)と呼ばれるゲリラがトライバル・エリアを拠点に活動を始め、八九年にソ連を撤退に導いた。三年後の九二年四月に、タジク族のゲリラ派閥だった「イスラム協会」を中心にアフガニスタン・イスラム共和国が成立したが、これに多数民族のパシュトゥーン族ゲリラが反旗を翻し、血で血を洗う殺戮を繰り返した。この混乱に終止符を打ったのがムハンマド・オマル率いる神学徒集団タリバンであり、彼らを軍事支援したのがパキスタンの軍特務機関ISIだった。

 ISIはムジャヒディーンの育ての親としても知られる。ISI本部近くにあるラル・マスジットは、ソ連に対する“聖戦(ジハード)”を正当化する場として、当時のジア・ウル・ハク軍事政権の積極的な支援を受けていた。ISI幹部らは日常的にラル・マスジットで礼拝をしていたという。ラル・マスジットが反政府的な過激派集団に変質するのは、米同時多発テロ後にムシャラフ政権が米国の対テロ戦の隊列に加わり、タリバンに同調するイスラム過激派を切り捨て始めてからだ。だが、二〇年近く外交の駒として活用し続けてきたイスラム過激派を、一朝にして消し去ることなどできない。パキスタンは今になって、タリバン化という大きなツケを払わされている。

 話を二一年前のハッカーニに戻そう。ハッカニ司令官が所属していたハリス派の指導者、ユヌス・ハリスは、七派のなかで最も厳格なイスラム導師として知られ、彼を慕ってアラブ全土から義勇兵が集まっていた。アル・カイーダが結成される前の八六年時点で、私は二〇人以上のアラブ兵やエジプト人医師をハリス派の施設で目撃している。当時のゲリラ勢力が解放区にしていたのは、国境近くに聳える標高四〇〇〇メートルを超すスピンガル山脈の麓にあるジャジ、それにソ連空軍基地があったホスト市に近いジャワルという場所に築かれた要塞化した洞窟群だった。シャヒドゥ氏によるとビンラーデンと最も近い派閥もハリス派で、私が目撃したジャワルの要塞はビンラーデンが建設したものだった。

 タリバンの指導者オマルも、ハリス派の一平卒としてソ連とのゲリラ戦に参加し右目を失明した経歴を持つ。そして、タリバン政権に匿われたビンラーデンはパキスタンとの国境地帯に難攻不落の要塞を建設した。一つはスピンガルの麓のトラボラ地区にある洞窟を改造して築き上げた巨大な地下要塞。そして、もう一つがジャワルだった。

 ジャワルは九八年八月に発生したケニヤとタンザニアの米大使館同時爆破テロの報復として、クリントン政権が約八〇発のトマホーク・ミサイルを打ち込んだ場所としても知られる。いずれの施設もハッカーニの支配地域にあったことを考えると、二人の絆がいかに強いか容易に想像できる。しかも、その関係は今も続いているのだ。

 アル・カイーダが築いた要塞は米軍の爆撃で破壊され尽くしたが、スピンガルやジャワルに隣接する国境地帯には無数の洞窟が散らばり、一つ一つを捜索しながら武装勢力を掃討するのは困難だ。米軍がいまだに国境地帯のタリバンを制圧できないでいるのは、この地で敗北を喫した旧ソ連軍と同じ地理的事情による。地の利を生かし地虫となって抵抗するアフガンゲリラは、トライバル・エリアからいくらでも補強することができる。

 タリバン復活の背景

  パキスタンの“タリバン化”に直面している宗教指導層の考えを聞くため、ペシャワル旧市街にある代表的な神学校、ダルル・アルーム・サルハドゥの指導者であるビノリ師を訪ねた。だが、彼は言葉を慎重に選び、こう語るだけだった。

イスラムの教えに自爆テロを正当化させる内容はどこにもない。彼らがいわゆるテロリストに変身していく過程には、宗教以前の問題があるのではないか。妙な例えに聞こえるかもしれないが、疫病患者が増えだし、疫病を撲滅するために患者を殺害するといっても、患者の親族が納得できるわけがない。それと同じことがトライバル・エリアで起きている。相互不信を解消しようとしない限り、事態を好転させる道は見えてこないだろう」

 ビノリ師は旧市街の外国人の一人歩きは危険だと忠告し、タクシーを拾える場所まで付き添ってくれた。四〇度のうだるような暑さのなか、ゴミ溜め場のような不潔な場所に人々が座り込んでいる姿が目に飛び込んできた。思わず目を背けたくなる光景を前にビノリ師は、「彼らが未来にどれほどの期待を持てると思いますか?」と私に尋ねてきた。救いようのない貧困が、テロの連鎖を生み出しているように思えた。

 タリバン政権時代にAP通信社イスラマバード及びカブール支局長を兼務し、一八年間のアフガン現地取材をまとめた『異教徒のI』の著者、キャシー・ギャノン氏は、壊滅の危機に瀕したタリバンが復活した背景について、イスラマバード市内でこう語った。

「アフガン戦争でタリバン政権が崩壊すると、タリバン寄りと思われていたカンダハールやパクティアのパシュトゥーン族住民たちでさえ、誰もが自由な時代になると期待に胸を膨らませた。ところが、新政府の知事や政府官僚、警察署長などの特権者が蓄財に走り、目にあまる腐敗が横行しだした。庶民のあいだに政府や社会に対する不満が拡散していたのに加え、国際治安支援部隊の強引な取締りが感情悪化を招いてしまった。封建的なアフガン人の家に外国の兵士が土足で踏み込めば、敵意を抱かれるに決まっている。そこへ誤爆の被害が重なった。今年の春、カンダハール市内で出会った男性は、自宅を爆撃されて母親、妻、五人の子ども、同居の兄弟を一瞬にして失い、『今はタリバンになることしか考えていない』と吐き捨てるように言った」

 ある村からタリバン兵が迫撃砲を発射すれば、即座にその地域が空爆に曝され、結果的に民間人に犠牲者がでる。その犠牲者の家族がタリバンに加担するという悪循環の繰り返しだ。ヘルマンドカンダハールが世界最大の阿片の生産地と重なることから、タリバン復活の背景と麻薬を関連づける報道が目立つが、こうした見方にギャノン氏は懐疑的だ。

「麻薬の栽培がタリバンの勢力拡大に有利に働いているのは事実。しかし、もし彼らが麻薬取り引きを仕切っているなら、すでに地域を完全に掌握していなくてはならない。警察や州政府官僚の協力なしに、四〇〇〇トンもの麻薬を流通させることなどできないからだ。現政権の主軸をなす旧北部同盟の有力者の多くが、九二年から二年間続いた内戦で五万人ものアフガン人を虐殺した犯罪の過去があることを忘れないでもらいたい」

 腐敗した社会の底辺に巣くうタリバンが、アフガニスタンを再び泥沼の混沌に導こうとしている。そして、テロリストの生産拠点となったトライバル・エリアでは、今も自爆テロの志願者が列をなして待っている。