バーミヤン、大仏破壊と名もなきハザラ人の死

 

 米国史上最長の戦争に終止符が打たれ、アフガニスタンから銃声が遠ざかった。戦争の犠牲者は米軍兵士2461人、多国籍軍兵士1144人、アフガニスタン政府軍や警察官は約7万5000人に上る。タリバン側も5万人以上が死に、民間人の犠牲も5万人近くになると見積もられる。その上、数百万人の難民を生み出す悲惨な戦争になった。
 戦争の引き金となったのは2001年の同時多発テロだが、その兆候は、事件4年前の1997年初めにあった。前年にカブールを占領したタリバンバーミヤンの大仏を破壊すると言い出したためだ。直後の同年5月、まだ地元ハザラ人勢力の支配下にあったアフガニスタン中部のバーミヤンを訪ねることができた。

https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/08/23/163759

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バーミヤンのハザラ人たち

 カブール内戦の際、当時のハザラ人組織「ヘズビ・ワフダテ・イスラミ(イスラム統一党)」は、北部パンジシール渓谷を拠点にするタジク人組織「ジャミアテ・イスラミ(イスラム協会)」と激しく争った。だが、タリバンが勢力を伸ばし始めると宿敵タジク人たちと北部同盟を結び、バーミヤンに立てこもる。バーミヤン滞在中、ヘズビ・ワフダットの指導者、カリム・ハリリに面会する機会があり、彼らの実情を尋ねると、「ハザラ人はどこからの援助も得られず、孤立無援の状況にある。農業改革を進めたいが、その技術すらない」と切実な思いを打ち明けられた。
 ハリリはジャミアテ・イスラミのヘリでバーミヤンを訪れていた。パイロットのタジク人たちが同じ宿に泊まっていたので、パンジシールの戦況を尋ねると、タリバンに占領される危険はないという。このままパンジシールに戻るので一緒に来いと誘われたのだが、バーミヤンで筆者の案内をしてくれたハザラ人青年が露骨に不快感を示した。後で理由を尋ねると、「私はカブール出身だ。あいつらがカブールでなにをしたのか知っているのか。ハザラを皆殺しにしたのはあいつらじゃないか。客なんかじゃない!」と吐き捨てるように答えた。怒りがおさまらないのか、彼はこう続けた。
「私の親戚も彼らに殺された。家に押し入ってきて、一人ずつナイフで喉を掻き切って殺すんだ。無抵抗の子供まで殺された。女はその場で強姦され、殺された。こいつらは人間じゃない!」
 ハザラ人は王政時代もムジャヒディーン時代も、そしてタリバン時代も虐げられ続けた。内戦で破壊され尽くされたカブール市内で、徹底した破壊ぶりが際立つのがハザラ人が多く住むダシュテバルチ地区だ。公開の場でハザラ人女性の頭の皮が剥がれるというおぞましい犯罪も多発したらしい。
 バーミヤンタリバンに占領されたのは翌1998年の9月。平和なバーミヤンの盆地で多くのハザラ人が虐殺されたという。タジク人に続きパシュトゥーン人も彼らを虫けらのように殺した。世界はアフガニスタンで起きていた殺戮を知らず、無関心だった。大仏が爆破されるのは、それから2年半後。同時多発テロ半年前の2001年2月のことだった。バーミヤンといえば文化遺産の大仏破壊ばかり連想されがちだが、大仏と共に暮らしてきたハザラ人たちの犠牲を忘れてはならない。

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盆地の北側にある崖に彫られた西大仏(手前)。1キロ先に東大仏がある

仏の里

 ハザラとはどう意味なのか、ハザラ人に聞くと、ハザールという言葉が「千」という意味なので、たくさんいるという意味ではないかと答えた。ヒンドゥークシュ山脈の盆地にあるバーミヤンに仏教王国が栄えたのは6世紀から8世紀にかけて。インド求法の旅にでた唐僧、玄奘三蔵が訪ねたことでも広く知られる。玄奘が残した『大唐西域記』の「梵衍那国(バーミヤン)」に巨大な大仏がある仏の里の様子が描写されている。西暦630年のことだったという。それから約100年後の726年には新羅僧の慧超もバーミヤンを訪れ、『往五天竺国伝』の「犯引国(バーミヤン)」に簡単な記述を残した。慧超によると、「バーミヤンの王は胡人で、他国に服従せず、強力な軍隊があり、諸国はこの地をあえて侵略しようとしない」という。だが、慧超が訪れた約50年後、バーミヤンアッバース朝イスラム勢力に征服されてしまう。バーミヤンを支配するイスラム王朝は転々と変わり、ガズナ朝のスルタン・マフムードがアフガニスタンの支配者となった11世紀初め、大仏の顔が削がれたという。
 慧超の記録にある「胡人」はペルシャ系民族で、東洋系の顔だちをしたハザラ人ではない。住民に変化をもたらしたのはジンギスカンモンゴル帝国。1221年、バーミヤン攻略の指揮をとった孫の戦死に激怒したジンギスカンが、住民を一人残さず皆殺しにしたためだと言われる。廃墟となったバーミヤン中央アジアから移住してきたのがハザラ人だったとされる。
 大仏はバーミヤンの盆地の北側の崖に彫られ、高さ55メートルの西大仏と37メートルの東大仏が村を見下ろすように立っていた。二つの大仏の距離は1キロほどあり、その間の崖に、かつて僧侶が暮らした仏窟の穴が無数に散らばっていた。その中に、高さ10メートルほどの座像の仏像もあった。ハザラ人たちは、西大仏をサルサル(父親)、東大仏をシャーママ(母親)、小さな座像をバッチャ(子ども)と呼び、親しみを込めて暮らしてきた。

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西大仏と東大仏の間にあった座像。これも爆破された

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西大仏の天井に残っていた曼荼羅模様の壁画


 西大仏の前に立ち大仏を見上げると、その巨大な姿に圧倒されてしまう。大仏を囲む崖の窪みを「仏龕」と呼ぶらしいが、その天井に目をやると、曼荼羅模様の壁画が少し残っていた。これも爆破で跡形もなく消え去った……。
 目を凝らすと、仏龕の壁の所々に小さな穴があいている。壁の内側には、大仏の顔の高さまで登れる細長い階段状の洞窟があり、穴は、通路の明り取りの役割を果たしているようだ。子どもたちの格好の遊び場でもある洞窟を、上へ上へと登っていくと、大仏の頭が忽然と姿を現す。大仏の正面には穏やかなバーミヤンの盆地が広がり、まるで極楽浄土のようだ。その時、大はしゃぎの子どもたちが大仏の頭の上にピョンと飛び乗り、ヒヤッとした。一歩間違えれば55メートル下に真っ逆さまだ。「罰当たりな」と思う人もいるかも知れないが、数百年もの間、ハザラの子どもたちと遊んできた顔のない大仏は、なぜか楽しそうだった。

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大仏を囲む壁の内側にある洞窟

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ハザラの少年