シャルロッテ・サロモンの「人生?あるいは劇場?」

 認知症を患った老人の日常を描いたフローリアン・ゼレール監督の映画『ファーザー』を観ると、記憶を失いつつある老人の身の回りで起きる不条理な世界を疑似体験することで、認知症の人が抱く不安がどういうものなのか理解できるようになる。映画の舞台はロンドンのアパートメント。娘(オリヴィア・コールマン)と暮らす父(アンソニー・ホプキンス)は、目の前で起きる出来事に疑心暗鬼になりながら、それも現実として受けとめるしかない日々をすごしていた。同居する娘の夫の何気ない言葉に潜む敵意も妄想となって現れては消える。見ず知らずの男性が自宅で娘の夫だと主張したり、その妻だという娘まで別人なのだ。記憶はますます混乱し、現実に抗う力まで次第に失われていく。

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 静まり返ったアパートメントの暮らしも彼の記憶のようにぼやけていた。近くの道路を走る自動車の音がかすかなホワイトノイズとなって室内に響き、外の世界と断絶した孤独な老人の暮らしが浮き彫りになる。ところが映画では、こんな退屈な生活を美しく感じさせる音楽が繰り返し流されていた。ジョルジュ・ビゼーのオペラ『真珠採り』で歌われる「耳に残るは君の歌声」。この曲と認知症の父がどう結びつくのかよく分からないまま、呪いにでもかけられたように不安渦巻く映像の世界に引き込まれてしまった。

 オペラ『真珠採り』のあらすじは以下のようなものだ。今はスリランカと呼ばれるセイロン島の浜辺の村で、真珠採りのズルガとナディールの2人が美しい女性レイラをめぐって恋敵となり、友情も恋愛も破綻。長く村を離れていたナディールが故郷に戻り、レイラのいない村で友情は復活するのだが、そこへベールで顔を覆った巫女が現れる。漁夫たちの安全と大漁を祈るため呼ばれた巫女はレイラだった。それに気づかぬズルガは、彼女に顔を見せないことを誓わせ、誓いに背けば死刑になると告げてしまう。だが漁夫たちの無事を祈る巫女の歌声を聴いたナディールは、それがレイラであることに気づき動揺する。ナディールがかつてレイラと過ごした日々を想い歌うのが、神々しい愛の歓喜の追憶「耳に残るは君の歌声」だ。おそらくゼレール監督は、かけがえのない人生の記憶を失った認知症の父の存在を際立たせるため、この曲を選んだのではないか。

 この映画には、静まり返った部屋や廊下だけが映し出される場面がある。娘の書斎と思われるシーンになった時、思わず息をのんだ。書棚に並ぶ本の中に一冊だけ、表紙が見えるように横に置かれた本があり、そこに描かれてあった絵に見覚えがあったからだ。妻が神保町の古本屋で見つけたシャルロッテ・サロモンの展示会カタログにあった、この画家の自画像だ。不思議な絵に魅せられ迷わず買ったという。映画で書棚に飾られてあったのは分厚い英語版画集『CHARLOTTE SALOMON LIFE? OR THEATRE?』のようだ。ナディールのアリア同様、画集にも意味があるに違いないが、単なる偶然なのかもしれない。しかしシャルロッテの悲劇は、父を失いつつある娘の悲痛、そして自らの人生の記憶すら消し去られる父の不安な生き様と、どうしても共鳴してしまう。

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シャルロッテ・サロモンの自画像

現実と空想が結びつく物語

 シャルロッテ・サロモンは医師アルベルト・サロモンと妻フランツィスカの娘として1917年にベルリンで生まれた。ドイツ社会に同化した裕福なユダヤ系の家庭に育つが、幼いころに母親が自殺し、父アルベルトは同じユダヤ系のオペラ歌手パウラ・リントベルクと再婚している。シャルロッテは大学進学に備える中等教育機関ギムナジウムを経て、1935年暮れに「純粋応用芸術総合公立学校」に入学した。17世紀に創設されたプロイセン王立芸術アカデミーの流れをくむ大学で、父が第1次大戦に軍医として参戦した経歴があったため、1・5%しか認められないユダヤ系学生の入学資格を得ることができたのだという。

 しかしユダヤ系住民がおかれた状況は当時、悪化の一途をたどっていた。第1次大戦で屈辱的な敗北を喫したドイツは巨額の賠償金を課せられた上、1929年のニューヨーク株式市場暴落で始まる「大恐慌」の影響で、1932年までに600万人もの失業者を出していた。希望を失った国民に、栄光の祖国復活を訴える「国家社会主義ドイツ労働者党」(通称ナチ)の新しい指導者アドルフ・ヒトラー総統の演説は広く浸透していく。同年の選挙でナチは最大の政党となり、翌1933年にヒトラーが首相に任命される。政府はただちに非常事態を宣言し、街にあふれる無職の若者たちをナチ民兵の「突撃隊(SA)」に組み込み、出版、言論、結社の自由を奪っていく。さらに秘密国家警察「ゲシュタポ」を組織して批判者を根こそぎにし、瞬く間にヒトラー独裁の「第三帝国」を作り上げた。

 ユダヤ人に対する迫害の尖兵となるのもSAだった。1933年4月1日、ユダヤ系企業や店舗の前でSAが威嚇するように立ちはだかるボイコット運動が公然と実施され、店舗のショーウィンドーに「Juda(ユダ)」と落書きされ、ドアには「ダビデの星」がペンキで描かれた。その1週間後、ナチは公務員の採用を「アーリア人」に限定する法案を通し、公立学校や大学のユダヤ人教員が一斉に解雇される。シャルロッテの父アルベルトもユダヤ人であることを理由に教授の職を失い、妻のパウラも舞台に立つことを許されなくなった。

 シャルロッテが入学した1935年、ニュルンベルグで開催されたナチの党大会で人種理論を制度化する法律が発表されている。「ニュルンベルグ法」として知られるこの法律は、ユダヤ人をドイツ国民とみなさず、選挙権をはく奪した上、ユダヤ人とドイツ人との結婚をも禁じた。1936年のベルリン・オリンピックはこうした不穏な空気の中で開催されるのだが、国際社会はナチの人権侵害に気づかず、あるいは目を瞑り、ドイツ復興を祝う平和の祭典に競って参加した。そして1938年11月9日の夜、ユダヤ人青年のドイツ人高官暗殺を機に反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生し、ユダヤ人の住宅やシナゴーグが次々と襲撃、放火されていく。およそ3万人のユダヤ人が理由もなく連行され、事件後はユダヤ人コミュニティーに巨額の賠償金の支払いを命じる政令まで出されている。この事件は割られた店のガラスが通りに散乱していた様子から「クリスタルナートゥ(水晶の夜)」と呼ばれ、ドイツ人のユダヤ人迫害を過激化させるきっかけとなった。

 クリスタルナートゥで父アルベルトも収容所に送られたが、レジスタンスの力を得てオランダに脱出できた。シャルロッテは事件後の1939年1月に祖父母がいる南仏ヴィルフランシュに逃れていた。しかし同年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻第2次大戦が勃発。翌1940年6月にパリが占領されると、シャルロッテの祖母は将来を悲観して自殺してしまう。

 この頃からシャルロッテは過去の辛い経験を克服するため絵を描き始める。2年間で1325枚に及んだ自叙伝的作品「人生?あるいは劇場?」はこうして生まれた。1枚しか残っていない自画像もこの頃に描かれたようだ。文学的なテキストと混ぜ合わされた一連の絵は、音楽とも結びつけて表現され、物語の主人公であり語り手である彼女の現実と空想が共存する不思議な世界を作り出している。選ばれた音楽の中にはクリストフ・グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』やバッハの旋律、ビゼーの『カルメン』もあるという。彼女は自分の作品を、死を征服するためのもの、自殺から身を守るための手段と書き残している。

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父アルベルトとシャルロッテ

消せない命の証

「人生?あるいは劇場?」を描き終えた1942年の秋、フランスの地中海沿岸はイタリア軍に占領され、ユダヤ人難民の摘発が始まっていた。人目につく行動は避けるべきなのに、シャルロッテはこの頃知り合ったオーストリア人男性と恋愛し、翌年に結婚式まであげている。そして、この男性の短絡的な行動が命取りになった。婚姻証明の手続きのため役所を訪れた男性は、アーリア人種はユダヤ人女性と結婚できないと告げられて逆上し、担当官と言い争ってしまうのだ。シャルロッテの存在を知ったゲシュタポが捜索に乗り出し、2人はただちに連行され、国外の収容所に移送された。彼女は26歳、妊娠4カ月だった。

 ドイツは占領地のポーランド南部のオシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に強制収容所を開設し、被収容者の激増に対応するため、1941年10月までに隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)に300以上の施設からなる広大なアウシュヴィッツ第2強制収容所=ビルケナウを建設した。翌1942年1月20日、ベルリン郊外の邸宅で悪名高い「ヴァンゼー会議」が開かれ、「ユダヤ人問題の最終的解決」が討議される。ドイツからユダヤ人を排除する方法を、国外での強制収容と強制労働、最終的に殺害するための組織的かつ具体的な方策がこの場で確認された。ヨーロッパ全域にいた1000万人を超えるユダヤ人の絶滅を目指す狂気が制度化されていくのだ。

 シャルロッテの移送先はビルケナウだったのだろう。アウシュヴィッツの象徴として映画などで再現される収容所まで延びる鉄道引込み線は、シャルロッテが移送された当時はまだなかったので、おそらく貨車駅で降ろされ、その場で労働力になるかどうか判別されたものと思われる。女性、子ども、高齢者は「価値なし」と判断され、その多くがそのままガス室で処分されていた。妊婦だったシャルロッテは事情が分からぬまま移送直後に殺害されたに違いない。その不安や恐怖、残酷さは、当事者でなければとても理解できるものではない。

「人生?あるいは劇場?」はアンネ・フランクの日記に比べられることがあるが、シャルロッテの場合、失われた過去に意味を与える芸術を生み出したという点が根本的に異なる。彼女の絵にみなぎる目映いばかりの愛の歓喜の追憶は、誰にも奪い取ることができなかった。

 

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