韓国軍がベトナムに残した深い傷跡

帰還兵たちの義憤

 ベトナム戦争における韓国軍の民間人虐殺を扱ったドキュメンタリー映画『記憶の戦争』(イギル・ボラ監督  https://pole2.co.jp/coming/7cc72742-66d7-4b18-a7ac-761d793f39f4)が、ポレポレ東中野で11月6日から上映される。事件から50年過ぎても消えることがない深い傷跡に迫る、衝撃的な作品であるようだ。このテーマは筆者も韓国で取材し、拙著『韓国軍と集団的自衛権ベトナム戦争から対テロ戦争へ』(旬報社 2016年刊 https://www.junposha.com/book/b317224.html)で詳しく紹介した。米軍が散布した枯れ葉剤の後遺症に苦しむベトナム帰還兵たちの互助会「大韓民国枯れ葉剤戦友会」(戦友会)を通して、韓国軍のベトナム派兵がもたらした様々な問題に焦点を当てた。

 彼らの取材を始めたのは、2015年に安倍政権のもとで安保法成立が確実となり、自衛隊の戦闘地域への派遣が現実味を帯びだしたためだった。戦場という極限状況のなかで、自衛隊員も予期せぬ事態に巻き込まれるかもしれない。半世紀前にベトナムの戦場に送られた韓国兵とは条件や国際環境が異なり、単純に比較することはできないが、軍隊の一つの歯車になる兵士の境遇には共通のものがあると考えた。

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1966年8月9日にベトナムに上陸する白馬部隊。「戦争博物館」ビデオ映像より

 韓国軍は1964年7月の派兵決定から1973年3月の撤兵までの8年8カ月間、延べ25万人の兵士をベトナムに送り込んでいる。取材をした2015年時点で生存していた帰還兵は19万人。そのうち14万人もの人が枯れ葉剤によるなんらかの後遺症に苦しんでいた。だが戦友会が枯れ葉剤を製造した米製薬企業を相手に米国で訴訟を起こしていた頃、韓国国内では、韓国軍がベトナム戦争で大量虐殺に関わったとする疑惑が相次いで報じられ、被害者から一転して加害者として疑いの目を向けられるようになった。ソウルで戦友会の金成旭・事務総長にインタビューした時、虐殺報道についての考えを尋ねると、彼は表情を強張らせ、こう答えた。

「今年(2015年)春、具秀姃(虐殺を最初に報じた韓国人女性研究者)がベトナムから良民(民間人)虐殺の犠牲者だという2人の男女を韓国に連れてきた。彼らが左派(メディア)のオーマイニュースハンギョレに話した内容では、その生存者の男は1966年当時、自分の父親と兄が解放軍兵士だったと言うではないか。解放軍兵士とはベトコン(南ベトナム解放民族戦線)のことだ。猛虎部隊(韓国軍の部隊名)との戦闘で(家族が)みな殺され、16歳だった自分も解放軍に入隊したと言っている。それがどうして良民になるんだ。
 また、もう一人の女は、70人ほどの村人が虐殺され、その時本人は4歳だったと、話にもならないことを言っている。それは1968年の旧正月の休戦協定に反して彼らが爆撃を仕掛けてきて(テト攻勢)、青龍部隊(韓国軍の部隊名)に多大な被害が出た時だった。我々は逃げながら3日に及ぶ悲壮な戦闘を強いられた。支援の後方部隊が平定してくれたのだが、そこで死んだのが良民だとでも言うのか」

 こう語ると彼は言葉を詰まらせ、怒りを鎮めようとした。意外にも、彼の目は少し涙くんでいた。悲惨な戦友の死の記憶と虐殺の汚名に対する悔しさが滲んでいた。殺されたのは民間人ではなく、韓国軍の敵だったゲリラのベトコンであり、殺し殺される戦場における戦闘行為に他ならないと彼は断言する。戦闘行為とは関係のない無辜の住民を韓国で「良民」と呼ぶ。殺害されたのは良民でないと、なぜ言い切れるのか、釈然としない話だった。

虐殺報道

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ベトナムの農村地帯を進軍する韓国軍。「戦争博物館」ビデオ映像より

 韓国における虐殺の第1報は、金成旭が言及した具秀姃が週刊誌『ハンギョレ21』に寄稿したルポ「ああ、恐ろしき韓国軍」(1999年5月16日号)だった。ベトナム政府政治局がまとめた「戦争犯罪調査報告書ーベトナム南部における南朝鮮軍の罪悪」の一部を入手した後、同報告書で指摘されていたベトナム南部海岸沿いの村で、韓国軍兵士が寺の僧侶たちを虐殺した事件を明らかにした。

 彼女はさらに調査を進め、各地で証言を重ねていく。そして韓国軍の虐殺のなかでも最大規模と考えられる、ベトナム中部のビンディン省タイソン県タイヴィン社(旧ビンアン社)周辺で起きた事件の生存者を探し出した。虐殺は1966年2月13日から1カ月以上続いた猛虎部隊の軍事作戦の過程で起きたものとみられる。現場となったビンディン省の文化通信局の記録によると、身元が確認できた728人を含む約1200人の住民が虐殺された。そのうち子どもが166人、女性が231人、60~70歳の高齢者が88人含まれていた。

 事件の生存者、グエン・タン・ラン(男性)は当時15歳。具秀姃の取材は1999年夏に行われていたが、2008年に現地調査を実施した伊藤正子・京都大学大学院准教授の著書『戦争記憶の政治学』にグエン・タン・ランの証言がより具体的に紹介されているので、少し長くなるが引用する。

1966年2月13日朝4~5時頃、まだ寝ていたが、砲弾の音と軍隊が移動する音が隣の社の方向から聞こえてきたので、母と妹ともに壕に避難した。そのうち砲弾の音が四方から聞こえるようになった。(中略)9~10時頃になって集落に兵が下りてきた。逃げきれなかった人は壕へ避難した。11~12時頃になって、非難していた家にも兵士が入って来て、壕のフタをあけて銃を撃ち手榴弾を投げ込んできた。午後3~4時には壕を見つけ次第撃ちまくっていた。夕方4時頃、韓国兵がもとの場所に戻ってきて、生きている者がまだいると捕まえ始めた。5時頃自分たちがいた壕も見つかり、母と妹と一緒に銃をつきつけられて外に出ろと言われ、壕から出た。韓国兵を見たのは初めてで、最初は南ベトナム兵のように見えたが、話している言葉がわからないので韓国兵とわかった。そして連れていかれた。15~20家族の女性や子供たち、おばあさんたちばかり、40人を超える人々が集められた。しゃべってはいけないと言われ、下を向かされたまま座らせられていた。10~20分後、銃を撃つ音が聞こえて、次々人が撃たれ、内臓や脳みそが飛び散った。自分は列の後ろの方にいて、少し人の陰になった。弾は足にあたり、逃げようとしたが倒れた。血が大量に出て気を失いそれからは覚えていない。しばらくして目を覚まし、両手で這って、少し窪地になっていたその場所から逃げ出した。

 集められた40人の村人のうち、生き残ったのは3人しかいなかった。解放民族戦線の根拠地は村から離れた山中にあったが、事件後、ゲリラに協力する村人が増えたという。証言から考えられる現場の状況は、とても戦闘行為と呼べるものではない。

 具秀姃の取材はビンディン省の北にあるクアンナム省にも及び、ここでも生々しい証言を得る。1968年2月12日、1号道路から同省ディエンバン県のフォンニィ村に進軍してきた青龍部隊が「VC!VC!」(VCはベトコンの略)と叫びながら自動小銃で村人を乱射したり、手榴弾を投げつけたという。生存者のウンウェンスー(男性)は、養魚場に捨てられていた17体の村人の遺体を引き揚げた後、近くの畑に家族を探しに行った時の様子を、こう語っている。「足がなくなり、頭蓋骨がこなごなになり、臓器が飛び出している死体の山の下に、お婆さんが血だらけで横たわっていた。いくら戦争中だからといって、あんな残忍なことができるのか。ウンウェンティタン(当時8歳、女性)の内臓は腹から飛び出し、野菜や雑草が詰め込まれていた」(『ハンギョレ21』1999年10月28日号)

 具秀姃の報告が韓国社会に与えた影響は計り知れない。ベトナム派兵は特需という肯定的な面でしか語られてこなかったからだ。それにしても奇妙なのは、これだけ大規模な住民の殺害が起きていたというのに、20万人以上もの帰還兵からまったく証言が出てこないことだった。直接殺害に関わらなかったとしても、事件を見聞きした元兵士はかなりの数になるはずなのに、まるで箝口令でも敷かれたように沈黙が守られた。ベトナム撤退後も軍事独裁政権が長く続いた韓国で、戦場での体験を語れる環境はなかったが、すでに民主化が実現して10年以上もの歳月が流れていた。また、この問題に積極的に取り組んだのも左派系のハンギョレ新聞社だけで、大手紙やテレビ局は知らぬふりを通し、今もこの問題をタブー視している。

唯一の加害証言

 戦争犯罪で被害者が名乗りでることはあっても、加害者が自ら罪を認めるのには相当な勇気がいる。忌まわしい過去の出来事など記憶から消し去りたいだろうし、喋ったところで何の利益もない。だが加害証言には被害証言以上の説得力がある。だから記者は加害者を探し出し、事実を徹底的に検証して真実に近づく努力を重ねようとする。ハンギョレ21の連載報道で決定的だったのは、青龍部隊の中隊長だった金琦泰元大尉の証言だった(2000年4月27日号)。編集部で手あたり次第に帰還兵との接触を試みた末、偶然たどりついた金元大尉の口から驚くべき話が次々と飛び出し、虐殺問題で唯一の加害者証言となった。

 青龍部隊第2大隊7中隊長だった金大尉(当時31歳)は、1966年11月9日から14日にかけ、クアンガイ省ソンティン県で実施された「ベトコン索敵殲滅」(サーチ&デストロイ)のための「龍顔作戦」第1段階で、同中隊を指揮した。作戦開始から2日目、攻撃目標のアントゥエット村(現フックビン村)に侵攻した同中隊の第2、第3小隊の後に、金大尉が村に入ると、無数の死体が放置されていたという。彼は先を行く小隊長に無線で「殺すのはそのくらいにしろ!」と怒鳴りつけたと、ハンギョレ21記者に話した。

 7中隊は同日、さらに西に進み、別の攻撃目標の村に侵攻する。「殺すのはそのくらいにしろ!」と怒鳴られたためか、先発の小隊が40~50人ほどの住民を一カ所に集めていたという。金大尉は後続の小隊に、集められた住民を殺さないよう指示したというが、先へ進むと機関銃の音が後ろから聞こえてきた。後続の小隊が住民を殺害してしまったようなのだ。命令無視の規律違反だが、すでに起きてしまったことなので「確実にやっておけ!」と指示する。止めを刺せという意味だ。

 この事件に限らず、ベトナム戦争で行われていた一般論として、金元大尉は当時をこう振り返る。「村に入って索敵する時は住民を一カ所に集めます。その時の状況に応じて中隊長がどんな指示を出すかで生死が分かれます。『集めておいたら面倒だろ!』と言えば部下たちが連れていってやってしまうものです」。生き残った住民に証言でもされたら困るので、止めを刺すことがあったというのだ。

 作戦最終日の11月14日、村の近くの洞窟に隠れていた20歳から35歳くらいの青年29人が逮捕された。武器は所持しておらず、金大尉は彼らをベトナム軍捕虜尋問所に連行するつもりでいた。ところが、そこへ緊急無線が入り、近くにいた別の中隊が攻撃を受けたので、応援に向かうよう指示された。捕虜の処遇に困った金大尉は「あっちに連れて行け」と命じる。すぐ機関銃の連射音が聞こえ、金大尉は「確実にやっておけ!」と念を押した。ベトコンである可能性が高かったとはいえ、無抵抗の捕虜を殺害したのだ。

 同誌は金元大尉の証言をもとに、現地のアントゥエット村で生存者を探し出し、1966年11月10日に起きた事件が事実であることを確認した。龍顔作戦で殺害された村人は100人を超していたものと見られる。

 金元大尉がインタビューに応じたのは、決して忘れることのできない罪悪感があったからかもしれない。しかし、いずれの出来事も作戦中に起きた正当な戦闘行為だったと主張し続けた。

村の人たちは南ベトナム政府の統治地域に移らなくてはならないのに……。龍顔作戦は完全に敵地で行われたものだった。ベトコンと越盟(北ベトナムベトナム独立同盟=ベトミン)軍を殲滅するための作戦だった。(中略)敵の統治地域ではベトコンであるかベトコンでないかは分からない。すべてのベトナムでの作戦がそうだった。こちらに負傷者が出れば無条件にやっつけてしまおうとするものだ。

 敵側の統治地域とは、民間人ゲリラが暮らすか出入りする村々を指し、そこに残っている住民はベトコンと疑われても仕方がないというわけだ。また、非武装の捕虜29人を殺害した理由は、そのまま放置したら、隠してある武器で戦闘兵力化するおそれがあったからだという。確たる証拠はないが「面倒」だから殺してしまった……。どうやらこれが真相に近い。金元大尉はその後、証言を翻し、「意図的に民間人に被害を与えた事実はない」と主張し、虐殺を完全に否定してしまう。