戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊦ 謎の部隊「特丙種予科練109分隊」

日本海軍にも朝鮮の神風特攻隊員がいた
韓国誌『週刊朝鮮』2010年8月9日号(筆者の韓国語記事から翻訳)

f:id:beh3:20211003165810j:plain

映画『愛と誓ひ』から

 1941年12月7日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争。開戦当初は破竹の勢いで快進撃を続けた日本軍だったが、翌年6月5日の北太平洋ミッドウェー海戦を機に、戦局は悪化の一途をたどり、1944年7月には本土「絶対国防圏」とされたマリアナ諸島も陥落した。日本軍はそれでも徹底抗戦を唱え、決戦の場をフィリピン、そして沖縄へと移していく。航空機による体当たり攻撃という悲劇的な戦法が登場するのも、この頃だった。

陸軍の特攻隊員は18人

 特攻隊が初めて編成されたのは米軍のダグラス・マッカーサー司令官がフィリピンのレイテ島に上陸した1944年10月20日のことだ。海軍の「神風特別攻撃隊」の体当たり攻撃が始まると、圧倒的な軍事力をほこる米軍の間で動揺が広がる。そして、海軍に遅れをとった陸軍でも「特別攻撃隊」が編成され、同年11月12日に最初の部隊が出撃した。以来、陸海軍の特攻攻撃は敗戦の日まで続き、4600人もの若い命を奪うことになる。
 そのなかに少なからぬ朝鮮人の特攻隊員の姿もあった。これまで明らかにされたのは、フィリピン戦で5人、沖縄戦で12人、富士山付近に飛来したB29に体当たり攻撃をした者も含め合計18人になる(そのうち1人は攻撃に失敗して米軍に救助された後、帰国していた事実が『朝鮮日報』1946年1月10日付で確認される)。彼らはみな陸軍の航空隊員であり、海軍の特攻隊員は一人もいなかった。
 日本陸軍朝鮮人を対象にした特別志願兵制度を実施したのは、日中戦争が勃発した翌年の1938年。大陸での戦争長期化が避けられなくなり、兵力を補完するため植民地下の朝鮮人を連れだした。同時に、操縦士への近道だった陸軍少年飛行兵学校へ入隊する朝鮮の若者も急増していた。
 一方、海軍は陸軍に5年遅れ、太平洋戦争中の1943年8月に朝鮮と台湾で特別志願兵制度を同時に実施する。しかし、陸軍の少年飛行兵学校にあたる海軍の飛行予科練習生(予科練)は日本人以外の入隊を認めなかった。陸軍の特別攻撃隊で戦死した朝鮮人の隊員が複数いたのに対し、海軍の犠牲者がいなかったのはこのためだ。

1945年に映画『愛と誓ひ』を製作

 しかし、その定説を覆す映画が数年前に発見されていた。映画のタイトルは『愛と誓ひ』。朝鮮総督府の指導で戦時中に設立された国策映画会社「朝鮮映画」が、日本の映画会社「東宝」の支援を受け、朝鮮人の特攻隊員を美化するために作った国策映画だ。映画の存在は半世紀以上も知られていなかったが、数年前に日本でフィルムが発見され、その複写版が現在、韓国映像資料院に所蔵されている。
 映画の監督は戦後ヒューマニズム映画の巨匠、今井正、そして『家なき天使』と『自由万歳』を監督した崔寅奎の二人だ。海軍報道部の指導で製作された映画は、戦争末期の『映画年鑑』(未刊行)に「半島での海軍志願兵募集映画」と紹介されてあった。
 当時のソウル市内の映画館でこの映画が封切られたのは、解放3カ月前の1945年5月のことだ。そのころ沖縄では無数の特攻隊員たちが海の藻屑と消えていた。しかし、海軍が朝鮮で特攻隊員の育成を計画していたとしても、予科練の入隊を認めていないのだから朝鮮人の特攻隊員が生まれるはずもない。海軍が新進気鋭の監督だった今井正と崔寅奎に朝鮮人の特攻隊員を美化する映画を作らせた理由はなんだったのか。

「私は予科練だった」

 今年(※2010年)3月、日本の福岡で「愛と誓ひ」の試写会が開かれ、筆者もパネリストとして参加した。その会場で出会った予科練出身者の人から、映画の背景を知る手がかりを得た。韓国にも予科練を出た人がいるというのだ。韓国南東部の大邱に住む元予科練のM氏は、戦前の東京で生まれ育ち、解放後に初めて祖国の韓国に戻った。戦争中に予科練に入ったのは、操縦士になるのが憧れだったからだという。
 予科練の教育課程は甲種、乙種、特丙種(乙種志願者の中で年長者を対象)の3つに分かれていた。M氏は1944年12月1日、「最後の予科練」と呼ばれる乙種24期に入隊している。
 M氏によると、乙種24期の入隊試験の直前、海軍は募集事務を簡素化する「合格者の戸籍謄本省略」(海軍省令111号)を決定していた。朝鮮で予科練志願兵の募集が実施されたことは一度もないが、M氏は東京で試験を受け、合格後に戸籍の提出義務もなかったため、日本人と同じ資格で入隊した極めて珍しい例となった。
 だが、そのM氏から意外な話を聞かされた。戦争末期、予科練朝鮮人と台湾人だけで構成される部隊があったという。昨年、日本の予科練同期生からその事実を知らされたM氏は、名簿の一部を入手した後、彼らの消息を確かめようとした。
「残念ながら一人も見つからなかった。名簿には本名でなく日本名が記載され、住所も昔の地名が書かれていたので難しかった。それに加え、半数以上の居住地が北朝鮮地域になっていたので、調べようがない。韓国に住所がある人のなかで面事務所(※町役場)で生存を確認できた人もいたが、結局会ってもらえなかった。韓国(※朝鮮)戦争直前に(※右翼団体の)『国民保導連盟』に連行され処刑されてしまった人もいる」

人材を厳選…極秘で訓練

 朝鮮人と台湾人で構成された予科練の部隊名は「特丙種予科練109分隊」といった。「丙種」とは、海軍の現役下士官の中から予科練に編成される人たちを再教育する課程を指すが、1943年3月に特乙種が導入されると同時に廃止されている。その丙種を、朝鮮と台湾の下士官だけを対象として復活させたのが「特丙種」だったという。海軍特別志願兵制度により、朝鮮の鎮海と台湾の高雄にあった海兵団で訓練を終えた2500人のうち、それぞれ50人ずつ優秀な人材を選んで構成された。M氏と同じ1944年12月1日に予科練に入隊した彼らの所属先が、極秘扱いの部隊「特丙種予科練109分隊」だ。
 109分隊の元教官だった人物が生存していることが分かり、謎の部隊について尋ねることができた。今年89歳になる元教官の金子敏夫氏はこう証言する。
「横須賀の海軍省人事部に呼び出され、特丙種予科練109分隊の教育を命じられたのは、終戦2カ月前の6月10日だった。予科練の土浦海軍航空隊(茨城県土浦市にあった予科練の施設)に帰っても、司令官以外には他言は一切無用と念を押された。彼らは鹿児島の海軍航空隊に入隊して教育を受けたのだが、鹿児島が急襲され、部隊を土浦に移動させることに決まった。ところが、私が海軍省に呼び出された日、今度は土浦の航空隊が空襲されてしまい、既存の予科練部隊はすべて疎開することになった。その10日後、誰もいない土浦にやってきたのが、彼ら109分隊だった」

109分隊出身が韓国軍の最高幹部に

 金子氏は、海軍省に呼ばれた時、彼らを一般の志願兵とは違う幹部要員として教育するよう命令を受けたという。焼け野原となった土浦の施設で109分隊だけの教育が始まるのだが、2カ月で終戦を迎える。このため部隊の存在は、5、6人の教官以外に誰にも知られぬまま忘れられた。
 航空機操縦の技術教育は予科練課程の終了後に行われる予定だったので、彼らは終戦まで操縦桿さえ握ったことがない。だが即戦力の操縦士になるのは時間の問題だった。もし戦争が長期化していたら、特攻隊員として戦場に送り出された可能性は非常に高い。
「愛と誓ひ」の製作が始まったのは1945年初めと思われ、それは109分隊が誕生した時期と一致する。壊滅寸前の海軍は本土決戦に合わせ、朝鮮人特攻隊員の量産を試みたのかもしれない。
 金子氏ら教官たちと台湾出身者たちの間では、終戦後も交流がしばらく続いたが、朝鮮出身者たちとは連絡がつかなかった。ただ一人、朴正熙政権時代に軍の最高幹部だった元隊員から手紙が届いた時があるという。しかし、激変する韓国の政治情勢の中で彼からの連絡も途絶えた。金子氏はその人物の名を最後まで明かさなかった。

 

戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊤ 名匠が撮った『愛と誓ひ』の真相
https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/10/02/151951