戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊤ 名匠が撮った『愛と誓ひ』の真相

朝鮮人特攻隊映画を撮っていた今井正の「戦争」

新潮45』2010年4月号

戦後の左翼ヒューマニズムを代表する巨匠が経歴から抹消した戦争協力映画『愛と誓ひ』、ついに発見

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映画『愛と誓ひ』から

 戦後の左翼ヒューマニズムを代表する社会派映画の巨匠、今井正。青春を謳歌した『青い山脈』や、沖縄戦の悲劇を描いた『ひめゆりの塔』など、平成三(※1991)年に没するまで五十篇近い名作を残し、昭和の映画界に絶大なる影響を与えた。『また逢う日まで』で岡田英次久我美子が演じたガラス越しのキスシーンは、映画史に残る名場面として今も語り継がれている。

 その今井正が、終戦間際の昭和二十(※1945)年五月に特攻隊を賛美する国策映画を作っていたという。しかも、映画の主人公は日本人ではなく、植民地支配されていた朝鮮人。事実なら、人間愛を追求してきた監督の思想が根底から揺らぎかねない。

 しかし、今井正に関する資料の中に、該当する映画の説明は見当たらない。戦前の映画誌『映画旬報』も、戦況悪化にともない昭和十八(※1943)年末に廃刊となり、太平洋戦争末期に製作された映画の情報は残されていなかった。そして、誰より今井正本人が、朝鮮人特攻隊の映画について沈黙し続けた。

 ようやく探し当てた資料は、二百字詰め原稿用紙に手書きで書かれた一枚の戦前の文書。未刊行に終わった戦争末期の『映画年鑑』の編集用資料(※「戦時下映画資料」第3巻/東京国立近代美術館フィルムセンター監修)のなかに、その映画は紹介されていた。

 映画名は『愛と誓(ママ)』。京城(現在のソウル)にあった朝鮮映画が東宝の支援で製作し、演出は崔寅奎(チェインギュ)と今井正の二人になっている。映画の粗筋にも簡単に触れられていた。

<新聞の編集局長に拾い上げられた半島の浮浪児が、特攻隊員の家庭へ訪問 記事をとりに行きその感化をうけ、海軍へ志願の決意を固めるといふ半島における海軍志願兵徴募映画。>

 紛失したとばかり思われていた映画のフィルムは、東京国立近代美術館フィルムセンターに一本だけ保存されていることが分かった。ただ、同センターは個人的な視聴には応じていないため、内容を確認することができない。ところが、朝鮮の監督との共同製作だったこともあり、数年前、フィルムは韓国映像資料院に貸し出され、DVD化された映画を同資料院で鑑賞することが可能になったという。幻の国策映画を観にソウルに向かった。

豪華キャストの特攻映画

 メディア関連産業の育成を目的に建設されたソウル都心の巨大な複合施設、デジタル・メディア・シティー。韓国映像資料院が入居する文化コンテンツセンターも、その一角にあった。盧武鉉政権時代、植民地時代に製作された映画の収集に力を入れ、中国や日本に散逸していたフィルムを数多く発掘してきた。今井正の映画も、そうした作業の一環で、同資料院によって収集された。

 視聴室のコンピューター画面に映し出された映画のタイトルは、『愛と誓ひ』だった。海軍省および朝鮮総督府の後援、大本営海軍報道部の指導と書かれたクレジットが続く。一時間十四分の映画は、朝鮮の民謡が歌われる場面を除きすべて日本語で演技されているので、同資料院により韓国語字幕がつけられていた。

 物語は、海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊員として出撃が決まった朝鮮人士官の村井信一郎少尉が、恩師でもある京城新報社(実在した日本語新聞社は『京城日報』といった)の白石局長を訪ねる場面から始まる。

 白石局長が「こういう戦局だ。健闘を期待していますよ」と神妙に語りかけると、少し朝鮮語訛りがある村井少尉が、「やります!」とだけ軍人らしく答える。そこに現れたのが、白石局長が養っている金英龍という名の浮浪児。いかにも物足りなさそうな少年英龍が、海軍へ志願するまでに至る心の葛藤を描いた映画が『愛と誓ひ』である。

 戦意高揚の国策映画とはいえ、戦争末期の逼迫した雰囲気で作られたとは思えない、計算されたストーリーと映像展開が続き、映画としての出来栄えは決して悪くない。名匠と呼ばれるだけあり、三十代前半だった今井正の演出に手抜きは感じられなかった。軍の指導があったのは言うまでもないが、監督の思い通りに作り上げた作品という印象を強く受けた。

 奇抜だったのは、特攻の特撮シーンである。米艦隊の空母に突っ込む村井少尉、そして空母が爆発炎上する場面を再現するため、円谷映画さながらの精巧な模型まで登場した。当時の映画事情を考えれば、実際の戦闘場面と勘違いした観客もいたのではなかろうか。

 そして、新聞で「半島の神鷲 村井信一郎少尉命中」と大々的に報じられると、少年英龍は白石局長の命令で遺族の取材を行うことになる。村井少尉の父親を演じるのは、黒澤明監督の『七人の侍』や『生きる』に出演した名優の志村喬。息子の死について問われ、「一人の信一郎が、百人、千人の信一郎になる。これがわしらの願いですからな」と淡々と答える語り口は、戦後のスクリーンで見慣れた志村喬そのもの。

 そのほかにも、戦時中の朝鮮のスクリーンを席巻した金信哉(キムシンジェ)が未亡人を演じ、白石局長夫人役にも、モダンガール女優として大人気を博した竹久千恵子が出演していた。日系米人ジャーナリストのクラーク河上と結婚して渡米した彼女は、開戦から半年後に日米交換船で帰国。戦時中に出演した珍しい映画となった。さらに、白石局長を演じたのは二枚目スターだった高田稔。昭和四十年代に小学生だった読者でキングギドラの怪獣映画を観た人なら、自治大臣役を演じた晩年の姿に記憶があるかもしれない。

 それにしても、戦争末期にこれほどの豪華キャストで朝鮮人特攻隊の映画を作っていた理由はなんだったのか。

 前述した資料にも指摘されていたように、この映画は朝鮮の青年に海軍への志願を促す目的で作られた。慶尚南道の鎮海にあった実際の海軍部隊に少年英龍が入営する場面もある。ラストシーンには大空を飛ぶ飛行戦隊を背景に、こんな字幕が映し出された。

<神鷲は今日も 敵を太平洋の底に沈めつつある これに続いて敵を破るも それは君達だ、 君達がやるのだ!>

 海軍は、陸軍に五年遅れ、昭和十八(※1943)年(※10月)に朝鮮で特別志願兵制度を実施している。翌十九年春には朝鮮で初めて徴兵制が実施され、同年十月には、フィリピンのレイテ島沖に太平洋戦争で最初の特攻隊が出撃した。以来、特攻隊員は救国の神鷲として報道され始めるのだが、その中には少なからぬ朝鮮人特攻隊員の姿もあった。

 拙著『朝鮮人特攻隊』(新潮新書)でも明らかにしているが、彼らは「半島の神鷲」として英雄扱いされ、朝鮮での戦意高揚に少なからぬ影響を与えている。しかし、いずれの兵士も陸軍の特別攻撃隊に属していた。志願兵制度の導入に遅れた海軍の神風特別攻撃隊には、まだ朝鮮人の飛行隊員が育っていなかったのだ。朝鮮の紙面で次々と報じられていた朝鮮人特攻隊員を、海軍首脳部は黙って見守るしかなく、その焦りが『愛と誓ひ』の企画につながったとも考えられる。

 海軍が大掛かりな特攻隊員の育成を考えていたのか知る由もないが、少なくともこの映画を観た朝鮮の青年が、神風特別攻撃隊に憧れを抱いたことは想像に難くない。高校在学中に共産主義者になったというヒューマニスト今井正は、朝鮮人を特攻隊員にさせる映画を作ることに、なんの躊躇いも感じなかったのか。

二人三脚で作った内鮮一体映画

 今井正は東京広尾の住職の子として明治四十五(※1912)年に生まれた。寺の跡取りになるのが嫌で、親元を離れて茨城県の旧制水戸高校に進学。小林多喜二の『蟹工船』を読み耽り、一年生の時に学内の社会主義研究会のメンバーとなるが、特高に逮捕され、一年間の停学処分を受ける。復学すると密かに共産主義青年同盟に参加し、学内民主化に向けた大衆闘争を試みるも、またしても逮捕されてしまう。だが、チョビひげの取り調べ検事に「どうしてもしっぽを出さない」と言わせるほど徹底的にシラをきり、退学処分は免れた。高校時代の活動家としても破天荒な経歴が、社会派の映画監督、今井正を生み出す原点となった。

 映画界に入るきっかけは、東京帝大文学部美術史科在学中に撮影所に助監督募集の広告を目にしたことだった。採用されると大学をさっさと退学し、京都太秦のJOスタヂオ(直後に写真化学研究所とその別会社のPCL映画製作所、宝塚系統の配給館と東宝ブロックを構成し、昭和十二年に合併して「東宝」となる)に入社した。軍靴の音が高くなりだす昭和十(※1935)年四月のことだった。

 入社二年目にして監督にスピード昇進した今井正だが、映画界をとりまく環境は息苦しくなる一方だった。昭和十四(※1939)年に施行された悪名高い「映画法」により、映画の製作や配給には許認可が必要となり、検閲が厳しくなっていたからだ。

 そんな暗い世相の中で製作を始めたのが、朝鮮と満州の国境地帯に出没する匪賊(抗日パルチザン)の来襲を防衛する国境警備隊の活躍を、西部劇風に描いた『望楼の決死隊』だ。戦後の高度成長期で大ヒットした森繁久彌の「社長シリーズ」を生み出した伝説的なプロデューサー、藤本眞澄(後に東宝社長)の、「アメリカ映画のアクション物のような作品を作ろうじゃないか」という発案で製作された。下敷きにされた映画は、アフリカ戦線の外人部隊を主題にしたゲイリー・クーパー主演の『ボー・ジェスト』だったといわれる。

 今井監督とスタッフが鴨緑江沿いでロケハン中の昭和十六(※1941)年十二月、太平洋戦争が勃発。風雲急を告げる厳冬の朝満国境地帯(現在の北朝鮮慈江道満浦市)でアクション映画の撮影が始まった。主役の警備隊長を演じるのは『愛と誓ひ』で白石局長を演じた高田稔。その夫人役は、なんと原節子である。韓国映像資料院で観た『望楼の決死隊』には、原節子がピストルを手に匪賊に立ち向かう、目を疑うような場面まで登場した。終戦を挟み、その六年後に公開された『青い山脈』で今井正が描いた原節子とは、まるで別人だ。

 永遠の処女というイメージが定着している原節子だが、戦前の彼女は、それほどお淑やかではない。昭和十二(1937)年の日独合作映画『新しき土』で主演に抜擢され、ベルリンに招かれてナチス宣伝相のゲッペルスと面会したことがあるほど、政治的にも注目されていた女優だった。

『望楼の決死隊』の撮影中にも奇妙な行動をしている。極右団体に所属していた義兄、熊谷久虎が撮影の中止を求める手紙を、今井正に手渡していたのだ。南方で領土を確保しなくてはならないときに、日本国民の目を北方にそらそうとするのはユダヤ人の陰謀だという、突拍子もない内容だった。本場仕込みの反ユダヤ主義にかぶれていた原節子には、今井正など呑気な活動屋にしか思えなかったのかもしれない。

 ただ、零下三十度にもなる辺境でのロケは困難を極めたようだ。そんな不慣れな場所での撮影に協力したのが、朝鮮のスタッフだった。共演した役者には、村井少尉婦人役を演じた金信哉、そして監督補佐として崔寅奎も参加していた。今井と崔がつながるのは、この映画からだった。

 崔寅奎とはどんな人物だったのか、韓国の映画評論家で日本統治時代の朝鮮の映画に詳しい金鍾元(キムジョンウォン)氏に尋ねた。

今井正とほぼ同年代の崔寅奎は、映画だけでなく、機械にただならぬ関心を持っていた人でした。生れは平安北道。自動車の運転を習い、十五歳の頃に大阪に渡って、運転の仕事を続けながら京都の撮影所に応募したのですが、映画会社への入社は叶いませんでした。帰郷した後、新義州鴨緑江河口付近にある朝鮮の都市)で兄が設立した会社に勤めていた時のタイピストが、彼と結婚する金信哉です。

 しかし、映画の夢を捨て切れず、兄に高麗映画社を設立させると、映画の興行に積極的に乗り出します。映画の製作に進出するのは、一九三七(昭和十二)年に兄の映画社を京城に移転してからでした。朝鮮初のトーキー映画『春香伝』の録音技師だった李弼雨(イピルウ)の助手となるのと同時に、妻は女優としてたちまちスター入りし、わずか二年後に『国境』という映画で監督デビューするのです」

 映画にかける情熱は今井正に勝るとも劣らない。その名声を一気に高めたのが、昭和十六(※1941)年製作の『家なき天使』だった。京城の浮浪児を救うキリスト教の牧師に焦点をあてた、啓蒙精神あふれる朝鮮語による映画で、東京で文部省推薦映画となるほどの話題を呼んだ。しかし、内務省のクレームで一部がカットされたうえ、改訂版は日本語吹き替えになって上映された。

 とはいえ、崔寅奎の名は内地の映画界にも知れ渡ることになる。その直後に企画された『望楼の決死隊』で、内地と半島で最も注目されていた新人監督の今井正と崔寅奎が合流するのは、必然的な流れともいえる。しかも、崔寅奎のデビュー作『国境』は、鴨緑江の国境地帯で暗躍する密輸団を描いたアクション映画だった。

『望楼の決死隊』の封切りから約二年後に製作された『愛と誓ひ』で、二人は再び合流するのだが、そこでも『家なき天使』で登場する浮浪児がシナリオで生かされることになる。朝鮮を舞台にした戦時中の今井正の二つの作品は、崔寅奎との二人三脚で情熱的に作り上げた、まさに内鮮一体を象徴する映画だったわけだ。

当事者としての苦悩

 当時の朝鮮では、内地の映画法に倣って「朝鮮映画令」が敷かれ、大小の映画社は、新たに設立された朝鮮映画製作株式会社(朝映)に統合され、一元的に映画が製作されていた。朝鮮総督府警務局課長が『映画旬報』(昭和十八<1943>年七月号)に載せた寄稿文には、朝映設立の意義が「朝鮮同胞の皇国臣民化が皇軍の精強に関わる」ためだと強調されていた。その朝映が製作した代表的な国策映画が、朝鮮での徴兵制実施を記念する『若き姿』(豊田四郎監督)と、海軍への志願を促す『愛と誓ひ』だったのだ。

 崔寅奎はこの他にも、朝映で『太陽の子供たち』という映画を製作しているが、今のところフィルムは見つかっていない。いずれにせよ、彼が戦争協力のための親日映画を積極的に作っていたことは、動かしようのない事実である。

 ところが、解放後に作られた崔寅奎の映画は、ガラッと雰囲気が変わる。祖国独立をテーマにした、いわゆる「光復三部作」を立て続けに発表し、愛国者として世に認められるのだ。なかでも抗日運動家の活躍をアクション映画風に描いた『自由万歳』は、独立期の傑作と評価される。植民地下の京城ではありえない日本軍との銃撃戦を疑似体験した観客は、さぞかし胸がスカッとしたことだろう。

 親日派から愛国者への転身に成功した彼は、(※戦前の)代表作『家なき天使』の製作意図について、こう書き残している。

<なにが原因で朝鮮の街には乞食ばかりあふれているのか? 映画を通して日本の為政者に抗議するのが私の真意だった>(『三千里』一九四八年九月号)

 しかし、朝映で作った映画については、一言も触れなかった。そんな彼に、思いもよらぬ不運が襲いかかる。朝鮮戦争でソウルが北朝鮮に占領され、北に拉致されてしまうのだ。

 北朝鮮は国連軍の反撃を受けてソウルから撤退する際に、国会議員を含めた韓国の指導者を一万人以上も連行している。しかし、前出の金氏によると、北朝鮮は彼を親日派として処罰するためではなく、宣伝映画製作の人材確保が目的で連れ去ったのだという。植民地時代の映画界の内情を知る人は限られており、証拠になるフィルムも紛失していたので、不都合な過去は知られずにすんだ。

「崔寅奎が戦争協力映画を作っていたという話が出回るのは、韓国でもほんの数年前です。もし彼が北に拉致されていなければ、韓国映画界を代表する監督になっていたのは間違いありませんが、そうなってから過去が発覚していたら、より大きな衝撃を社会に与えたかもしれません」(金氏)

 彼が北朝鮮で映画監督になったという情報はない。おそらく戦争中に命を落としたのだろう。

 消息を絶った崔寅奎とは対照的に、戦後の今井正は、激変する時代の波を乗り越えていく。

 終戦直後、東宝共産党員の巣窟と化していた。ストライキを口実に会社側が大量解雇を言い渡すと、組合員は世田谷の砧撮影所にバリケードをはりめぐらして徹底抗戦のかまえを見せ、ついに米軍の戦車や装甲車、航空機まで出動する、前代未聞の事件に発展した。「来なかったのは軍艦だけ」といわれる東宝争議(昭和二十三<※1948>年の第三次争議)である。

 この頃の今井正の立場が、どうもはっきりしない。すでに共産党への入党もすませ、争議にも参加していたのだが、組合側の主張とは一線を画した。ブルジョワ好みの『青い山脈』を撮る今井正は軟弱だと批判されたのに対し、本人は会社を追い詰めても得策ではないと判断していたようだ。だが、来るべき「レッド・パージ」で職を奪われることを予期していたのか、解雇される前に東宝を辞め、恵比寿あたりで屑鉄屋を始めてしまう。朝鮮戦争に使われる屑鉄の値が急騰していたのでボロ儲けになった。

 争議をよそに飄々と暮らす様を新聞に書かれた今井正は、記者を「大きな口を動かすだけで、ひっくり返すと腹がない蛙」に例え、怒りを露わにした。その文中で、自ら製作した戦争映画についても、数少ない言及をしていた。

<私は学生時代に左翼運動をやり、何回か引っ張られた後転向した。そして戦争中に、何本からの戦争協力映画を作った。私は、そのことを、私の犯した誤りの中でも最も大きい誤りであったと深く恥じている。>(『映画手帳』昭和二十五<1950>年十二月号)

 今井正の頭から離れなかったのは、話題作となった『望楼の決死隊』ではなく、日本ではほとんど知られていない『愛と誓ひ』だったはずだ。東宝の記録(※『東宝70年作品リスト』東京封切り基準)によれば、この映画が東京で封切られたのは、戦後が秒読み段階に入った七月二十六日から一週間。焼け野原と化した街に観客がいたのかどうかも疑わしいが、時代に翻弄された当事者であるからこそ、監督としての悩みは深かったに違いない。

 しかし、戦時中に作ったたった一つの作品で、今井正を評価することなどできない。人は時代とともに育っていくものだし、その時代の空気をスクリーンで表現するのが彼の仕事だった。戦後に逆転した価値観が自己批判をもたらしたとしても、『愛と誓ひ』がなければ、その後の今井正はなかったかもしれないのだ。

 

戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊦ 謎の部隊「特丙種予科練109分隊
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