写真家・飯山達雄が見た満州引揚者の惨状

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写真集『朝鮮の山』より

 戦前・戦後にかけ活躍した飯山達雄(1904年~1993年)という写真家がいた。父に連れられ併合(1910年)直後の朝鮮に移住した飯山は、朝鮮総督府鉄道局に就職後、金剛山登山ルートの開拓など朝鮮半島の観光開発に従事し、写真家そして登山家として知られるようになる。飯山が主力メンバーとなり立ち上げた「朝鮮山岳会」は朝鮮の未踏峰に挑み続け、その成果は飯山の写真集『朝鮮の山』(朝鮮山岳会、1943年)に結実した。韓国のスポーツメーカーの事務所を訪ねた時、希少本となったこの写真集を見せてもらったことがある。中朝国境の白頭山から半島南端の済州島に聳える漢拏山まで、朝鮮の名だたる山々を収めた写真集は今に至るまでこの一冊しかない。朝鮮山岳会の後身とも言える韓国山岳会で飯山のことを知らない人はいないはずだ。

 しかし戦後の飯山は登山家としてより、文化人類学の研究者、あるいは冒険家として知られるようになる。朝鮮山岳会時代からの盟友であり、日本を代表する文化人類学者の泉靖一(東京大学教授)と歩調を合わせるように南米アマゾンやインカでの取材に明け暮れた。『未知の裸族ラピチ』(朝日新聞社、1967年)、『インカの秘宝』(読売新聞社、1969年)、『山族・海族』(毎日新聞社、1970年)、『秘境パタゴニア』(朝日新聞社、1970年)などの著書で知られ、日本の文化人類学の発展に少なからぬ貢献をした写真家だ。

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『未知の裸族ラピチ』

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アマゾンの村長と記念撮影する飯山達雄。『未知の裸族ラピチ』より

 そんな飯山の輝かしい履歴など何も知らず、1980年代末に彼と知り合った。東京赤坂にあった「国際関係共同研究所」という北朝鮮研究の先駆けとなる研究所が開催したシンポジウムに、飯山は賓客として招かれていた。この研究所には当時の防衛庁関係者も頻繁に出入りし、所長の崔書勉を知らない朝鮮半島担当記者はモグリと言われたほどだ。豊富な運営資金は戦後最大のフィクサーと呼ばれた許永中が提供したと聞く。研究所は日韓の政治と闇社会が結合した副産物でもあった。この研究所を知る知人がいたため、筆者もたまたまシンポジウムに参加する機会を得た。

 そのシンポジウムでこんな一幕が。司会を務める崔が飯山に向かって「本物の金日成を見た写真家の飯山先生がこの場におられます。当時の様子をお話し願えますか?」と尋ねたのだが、飯山はじっと黙ったまま。気まずい沈黙が流れ、崔は話題を変えざるを得なくなった。

「本物の金日成を見た」とはいったい何の話なのか。シンポジウム後に飯山を紹介してもらった。90歳近い高齢だった飯山はウイットとユーモアあふれる気さくな人柄で、金日成のことは「あれはどうでもいいことですよ」と笑ってはぐらかされた。その後、松屋銀座で開催された飯山の回顧展(たしかアマゾンの裸族ラピチの写真展だったと思う)で再会し、それ以来、東京小平の自宅に何度も呼んでもらった。あれほどの業績を残しておきながら、暮らしぶりは実に質素で、夫人には「あなたも写真をやられるの?」と気の毒そうな顔をされた。冒険人生で家族には散々迷惑をかけたのかもしれないが、陽気な飯山はあっけらかんと自慢のブラジルのガウチョ(カウボーイ)料理でもてなしてくれた。

「私は朝鮮に35年住んでいました。故郷は朝鮮にしかありません」と語る飯山の一言一言から、それまで想像していた朝鮮とは別の世界が浮かび上がり、新鮮な驚きがあった。現在のソウル中心街にある新世界百貨店本店(本館)は戦前、三越京城店だったが、その周辺は本町と呼ばれ、買い物がてらに本町に遊びに行くことを「本ブラ」と言っていたそうだ。京城帝大の泉靖一のことや山岳会の朝鮮人の友人、南米アマゾンの話題も尽きず、まるで少年のように語り続けていた。もっとも彼の朝鮮の友人たちは、当時の一握りの上流社会の人たちであり、植民地下の朝鮮人大衆の境遇についての知識や理解はほとんど持ち合わせていなかった。故郷になりえない朝鮮への望郷の思いは、彼の記憶の中で幻影のように霞んでいた。

 例の金日成についても尋ねてみたことがある。白頭山登山のため朝鮮人ガイドと山の麓を歩いていた時、異様な一団とすれ違い、頭目らしき男に睨みつけられたことがあったという。彼らが通り過ぎた後、それまで押し黙っていたガイドに「さっきの金日成ですよ」と告げられビックリしたと言う飯山は、何より写真を撮れなかったことを残念がった。馬賊のような荒々しい風貌でありながら、指導者らしい理知を備えた印象的な人物だったと飯山は語った。終戦後、ソ連北朝鮮に送り込んだ金日成よりかなり年長で、明らかに別人物だったという。抗日パルチザンの伝説になっていた「金日成」あるいは発音が同じ「金一星」という名前は、代を継いで使われたと考えられ、そのうちの一人だったのかもしれない。

 この他にも飯山から聞いた話で忘れられないのが戦争中の体験だ。軍の命令で資源調査の隊員に組み込まれ、中国の内蒙古でウラン鉱、ニューギニアで炭田の調査のため各地を転々。日本軍がなぜウラン鉱を探していたのかはっきりしないが、ニューギニアでは実際に炭田を発見している。奥地に入るほど原住民どうしでも言葉が通じず、4人くらいの通訳が必要になったらしい。朝鮮の京城に戻れたのは終戦の1週間ほど前。「軍人は大嫌いです。ひどい目にあわされましたから」と当時を振り返る。

 彼は鉄道局に勤務していたため、戦後は在留邦人の引揚げ事業に奔走した。その過程で米軍MPに逮捕され、取り調べで戦争中のウラン鉱調査などの過去が発覚してしまう。ホテルに1カ月近く監禁され、釈放される見通しもたたず、クリスマスイブで米兵らが飲んだくれているスキに脱走。凍結目前の漢江(ソウル市を東西に流れる河)の浅瀬を腰までつかって渡河し、山岳会の朝鮮の友人宅に身を寄せた。自宅に隠してあったネガフィルムや撮影記録を持ち出し、釜山へ、そして引揚船でようやく博多にたどり着いた。

満州バカヤロー」

 飯山の紹介が長くなったが、本題に移りたいと思う。彼の冒険人生の中ではほんの一瞬の出来事にすぎなかった、満州引揚者の記録についてである。飯山は内地に引揚げたはずの家族の行方を求め、終戦の翌年5月、福岡の二日市で引揚援護会の診療をしていた友人を訪ね、そこで引揚者たちの惨状を目の当たりにすることになる。大陸で凌辱され妊娠させられた婦人たちの胎児の牽出手術が絶えることなく続いていたのだ。軍人や軍属は米軍の配船でほとんどが引揚げを終えていたが、一般の在留邦人はオンボロ船を使ってノロノロと移送させるほかなく、朝鮮に70万人、満州と中国に100万人いたとされる民間人の多くが「敵国」に置き去りにされた。彼らの窮状を日本政府とGHQに訴えるため、飯山は満州に潜入することを決意する。在外同胞引揚援護会の手配で渤海湾にある満州の旧軍港、コロ島に向かったのは同年7月。カバンにカメラを忍ばせ、衛生兵を装って大陸を彷徨う邦人たちの消息を追った。その経緯は飯山の手記「終戦秘録 死地満州に潜入して」(『文藝春秋』1970年3月号)に詳しく記されている。

 満州中部の奉天(現在の瀋陽市)に着いた時、飯山は駅前で異様な姿をした2人を見かけた。麻のズタ袋に穴をあけて首と腕を通し、髪は坊主刈りにして顔に泥や墨を塗りたくっている。話しかけると、やはり日本人の婦人だった。彼女たちはチャムス(黒竜江省の町)でホテルを経営していたが、財産をすべて没収され、自宅の離れに邦人の女性や子供たちと引揚げの時期を待っていた。そこへソ連兵が乱入してきて連日のように凌辱地獄が繰り返され、着の身着のままで脱出。ひたすら南を目指したが、氷点下40度にもなる満州の荒野で次々と行倒れになり、彼女も2人の子どもを失った。やっとの思いで奉天にたどり着いたものの、食料もお金もない。襲われないよう男装をして、乞食のような暮らしで糊口を凌いでいた。一緒に身を潜めていた別の婦人も男装していたが、兵隊にビンタをくらわせられ、その悲鳴から女であることが分かるとその場で強姦された上、ピストルで射殺されたという。彼女によると、奉天市南郊にあるイナバ町という場所に1000体を超える日本人の遺体が穴の中に放り込まれていたという。飯山はそのイナバ町に向かった。

 大豆畑の中を通り抜けて荒地へ出ると、土砂のもり上がっている後方に穴が見えてきた。近づいていくと悪臭が鼻をつく。もり土の上に駆けあがってのぞくと、足もとに展開した、あまりの凄惨な光景に、私はギョッとした。直径五、六十メートルほどの穴の中には、およそ百体ほどの腐乱した死体が累々とおり重なり、白骨となっているものもかなりある。その穴の向こう側にも、またその先にも穴があるが、どれも一度埋めたものを、また掘りかえしたようだ。上段の遺体がみなハダカにされているところを見ると、多分、この付近の満人たちが掘りおこして、衣類を剥ぎとったのだろう――。(「終戦秘録 死地満州に潜入して」より)

 翌朝、飯山は婦人から聞いた別の場所を訪ねる。

 そこは生けるしかばねの餓鬼地獄だった。十九人の日本人孤児が、栄養失調のからだを、すり切れた畳の上に横たえている。ほとんどが北満から一カ月も二カ月もかかって歩いてきたのだという。両親たちは途中で略奪、暴行にあい、行え知らずになったり、目の前で殺された子もいた。
 孤児たちの世話はやはり北満からのがれてきた二人の婦人がめんどうを見ていたが、食料はもう底をつき、一日に、たった一碗のコーリャンおかゆがせいぜいだと言う。子供たちは痩せるだけ痩せ細ってろくに歩くこともできない。引揚船が来なければ消えてゆく運命を待つばかりである。
 その中に、十二、三歳になる男装の少女がいた。父は新京(長春)で徴兵にとられ、母は終戦発疹チフスに感染して死んでしまった。母の遺骨を持ってはいるが、日本の故郷がどこなのか、親類の住所も姓名もわからない――と寂しい目つきで遠い空を見つめた。
 戦争の責任は子供たちにはない。ただそうした時勢に生まれ合わせたというだけで、こうした餓鬼地獄を歩かされている。船さえくれば、この孤児たちは助かるかもしれないのだ。そう思うと私はムカムカとしてきて、日本の空に向って「早く船を回せ……」とどなりたくなった。(同)

 飯山はコロ島に戻り、500人ほどの引揚者と一緒に満州を後にした。出港のドラが鳴ると、突然「満州バカヤロー」と叫んだ男の子がいた。「オトウチャン……」と泣いた女の子もいた。悲しみと憤り、絶望と喜びで万感こみあげる出航となった。

 75年も前のこんな惨たらしい話を紹介したのは、戦争の残虐さや日本人の戦争被害を強調するためではない。他国を侵略した揚げ句に無謀な戦争まで引き起こし、敗戦後はなんの罪もない民間人を見殺しにした国家の背信を決して忘れてはならないと思ったからだ。タリバンの侵攻で空港に殺到したアフガン難民を救出するため、各国が先を争って輸送機を飛ばしたのは記憶に新しい。敗戦で大陸に置き去りにされた民間人たちは難民以外の何者でもないが、彼らを救おうとする者は誰もいなかった。飯山が決死の満州入りを果たしたのは、彼自身も外地の民間人だったからこそ、日本とGHQの無策、無責任に憤りをおぼえたからに他ならない。