アフガンのウイグル人とハザラ人の犠牲

モスク爆破テロの背景

 アフガン北東部のクンドゥス市にあるモスクで8日、金曜礼拝中に爆発が起き、少なくとも46人が死亡、140人以上が負傷した。死傷者の数は米軍撤退後もっとも多く、シーア派少数民族のハザラ人が標的にされた。イスラム過激組織「イスラム国(IS)」系のメディアに伝えられた犯行声明によると、実行犯はウイグル人シーア派だけでなく、中国の要求に応じてウイグル人を国外に追放しようとするタリバンも標的にしたという。

 中国の王毅外相は今年7月、天津市タリバン幹部と会談した際、米軍撤収後のアフガン安定化のため支援を約束する一方、タリバンウイグル人過激派組織との関係を完全に断つよう求めていた。これを受けタリバンは9月初め、ウイグル人戦闘員らはすでに国外に去り、今後は外国を標的にするために領土が使われることはないと公言した。だが、米政府系メディア『ラジオ・フリー・ヨーロッパ』が得た情報では、その後もウイグル人たちはアフガン北東部のバダフシャン州に住んでいた。ところが10月初めになり、東部のナンガルハル州などに移住させられたという。中国の英字紙『グローバル・タイムズ』(10月10日付)も、タリバン政権はウイグル人の中国送還に応じていないが、中国との国境から近い地域に居住していた彼らを、他の地域へ移住させたか国外追放にした事実を認めた。

 こうした動きをタリバンと対立するIS側が察知し、バダフシャン州に比較的近いクンドゥスでのテロにつながったようだ。タリバン政権に揺さぶりをかけ、現状に不満を抱くタリバン戦闘員をリクルートする狙いがあったと思われる。

アフガンに定着したウイグル人

 そもそも、アフガンにいるウイグル人はどういう存在なのか。

 中国からの「東トルキスタン」(新疆ウイグル自治区)分離独立を訴える「トルキスタン・イスラム党(TIP)」が創設されたのは1997年。同時期にメンバーの一部がタリバン政権下のアフガンに逃れ、アフガンを聖域としていた「アルカイダ」と結びついたとされる。同時多発テロ後の2003年末、中国はTIPを「東トルキスタン・イスラム運動(ETIM)」の名でテロ組織に指定し、米国のブッシュ政権も「対テロ戦争」で利害が共通すると判断してリストに追加した。中国はETIMのテロ活動を理由に、新疆ウイグル自治区における住民の人権侵害を正当化してきたが、明確な証拠はほとんど示していない。トランプ政権のポンペオ国務長官は「ETIMが存続している確証が10年以上前から得られていない」として、2020年に指定から解除してしまった。

 国連は2020年の報告で、アフガン国内にいるウイグル人戦闘員の数を数百人と推定している。しかし専門家の多くは、彼らに組織的な戦闘能力はないと分析しているようだ。90年代後半以降にアフガンに渡ったウイグル人の多くも、米軍との戦闘で死亡したものと考えられ、ETIMは存在すら確認できないのが実情だ。今は彼らの子どもたちの世代を中心に2000人ほどがアフガンに暮らし、アフガン政府が発行した身分証明書に「ウイグル人」あるいは「中国難民」として登録されてあるという。ウイグル語はウズベク語に近いらしく、生活の場も限られてくるのではないか。アフガンのウイグル人接触できたラジオ・フリー・ヨーロッパの記者は、タリバン政権が彼らを中国に追放するのではないかと恐れていたと伝えた。

 アフガンは北東部の3州(西からクンドゥス州、タカール州、バダフシャン州)でタジキスタンと約1400キロの国境を接している。タジキスタンの東には中国の新疆ウイグル自治区がある。もし新疆のウイグル人たちがタジキスタンを通ってアフガンのバダフシャンに定着したのであれば、脱出ルートを遮断するためにも、ウイグル人を他地域に移住させる必要があったのかもしれない。

暗雲漂うタジキスタン国境

 しかし、ウイグル人強制移住させた時期、タリバンはタカール州とバダフシャン州に数千人規模の戦闘員を配置したとされ、国境を接するタジキスタンとの緊張を高めていた。タジキスタン側でも新たに2万人の追加部隊が国境周辺に配置された模様だ。どうやらアフガンとタジキスタンの因縁の対決が、タリバン政権の誕生で顕在化しているようなのだ。

 ソ連崩壊後に独立したタジキスタンは、1992年から5年間の内戦を経て、エモマリ・ラフモン大統領率いる「タジキスタン人民民主党(PDPT)」主導の政権が樹立され、現在に至っている。ラフモン大統領は第1野党の宗教政党の活動を禁止させるなど、独裁的な権力を強めているが、ロシアや米国からの支援もあり国政は比較的安定している。そのラフモン政権がタリバンを認める条件として提示しているのが、アフガン国内のタジク人を尊重する政策の実行、つまりタジク人の政権参加だ。タリバン内政干渉だとして強く反発している。タジキスタンと同じ民族のタジク人はアフガン人口の25%を占め、パシュトゥン人(50%)に次ぐ第2の民族だ。両者の対立こそ、40年も続いたアフガン紛争の元凶でもある。

 80年代にソ連軍と戦ったアフガンゲリラのムジャヒディンには7派あり、その中でも主要3派は、米国の軍事支援を受けたタジク人の「ジャミアテ・イスラミ(イスラム協会)」、サウジアラビアなど主に中東の支援を受けたパシュトゥン人の「ヘズビ・イスラミ(イスラム党)」(ヘクマティアル派と分派のハリス派)に分かれていた。ソ連崩壊後は派閥争いの内戦を繰り返し、パシュトゥン人主導のタリバン政権「アフガニスタン・イスラム首長国」と、パンジシール渓谷にたてこもるタジク人主導の「北部同盟」に分裂。タリバンを支えたのがアフガンの2倍以上パシュトン人が多く住むパキスタン北部同盟を支えたのが同族のタジキスタンという構造が背景にある。

 問題は、タジキスタンからアフガンに逃れてラフモン政権打倒を目指す、いわゆる「タジク・タリバン」が勢いを増していることだ。バダフシャン州の国境地帯を制圧したタリバンが、タジキスタンが反政府勢力の司令官と名指ししている人物を同地域の治安担当者に任命したことも、緊張を高める一因になっているようだ。もしタリバンが反政府勢力をタジキスタン領に浸透させたら、紛争に発展する恐れもある。タリバンウイグル人を移住させたのは、中国の顔色をうかがったというより、国境地帯の不安要素を除去するための事前の措置だったのではないか。

絶えないハザラ人迫害

 以上のような情勢の中でISがテロを起こしたとしたら、浮かばれないのは、なんの関係もないハザラ人たちだ。彼らに対する迫害は以前にも触れたが(https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/09/03/120040)、筆者には個人的に忘れられないことがある。アフガンを初めて取材した1986年春、パキスタン北西辺境州・北ワジーリスタンのミランシャーにあったムジャヒディンの拠点施設を訪ねた時のことだ。ヘズビ・イスラミ(ハリス派)の出撃拠点だった施設はかなり大きく、豊富な資金であふれるばかりの武器があった。隣にはクェートの支援で建てられたレッド・クレッセント病院があり、ボランティアのエジプト人医師たちが重傷を負ったムジャヒディンたちの治療に追われていた。

 この施設にソ連「傀儡」政府軍の捕虜が多く囚われていた。施設の地下広場に100人くらいが連れ出されたのだが、なかには東洋的な顔をした者もいて、中央アジアで徴兵されたソ連兵かもしれないと思った。そして撃墜したヘリのパイロットの捕虜もいるというので、特別に話を聞かせてもらう機会を得た。3人の操縦士たちは足首を鎖でつながれ疲れ果てた様子だった。そのうち東洋的な顔をした捕虜に「なぜ政府軍に参加したのか?」と尋ねると、彼は瞬きもせず筆者を見つめ「なぜなら私はハザラ人だからだ」と英語できっぱり答えた。ハザラという人たちの存在を初めて知り、理解のできない不条理を感じた。

 ハリス派の最高司令官は当時40代だったジェラルディン・ハッカーニ(2018年死亡)といい、アラビア語と英語が堪能な人物だった。ハッカーニとは何度か話したことがある。ムジャヒディンたちの信望が厚く、指導者のハリス導師とハッカーニ司令官を慕いアラブ各地から義勇兵が集まっていた。なかにはチュニジア系のフランス人までいたが、彼はアラビア語の礼拝を指導する立場にあると言っていた。レッド・クレッセント病院で知り合ったエジプト人医師によると、ハリス派を支援しているのはサウジアラビアの若い富豪で、ソ連空軍基地があるパクティア州のホスト空港に近い最前線のジャワル山中にコンクリート製の要塞を作り、ムジャヒディンと一緒に前線で戦っているという。それがオサマ・ビンラディンだと知るのは、ずっと後のことだが、ハッカーニとビンラディンの絆がどれほど強いか想像がつくと思う。

 ソ連崩壊後の混乱でタリバン運動が広がる中、主要な武装勢力になったのも、パキスタンとのパイプが太いハッカーニ率いるグループ。後のタリバン政権の主役でもある。ハッカーニがいたからビンラディンアルカイダがアフガンを聖域にできたのであり、あのコンクリート製の要塞もアルカイダの拠点、通称「アラブ・キャンプ」に変貌する。米軍がもっとも警戒した「ハッカーニ・ネットワーク」も彼が率いる最強のテロ組織であり、現在のタリバン政権にも同組織幹部が主要な役職についている。

 ハザラ人を虐殺したクンドゥスのテロはISの犯行だ。しかし、タリバンも同じ迫害を繰り返してきた一団であり、ハザラ人たちの安全を彼らに期待するのは無理だ。生まれながら戦争しか知らないアフガン人たちに通用するのは、無知で野蛮な力の論理ばかり。タジキスタンとの緊張が高まれば民族紛争に拡大するおそれがあり、アフガン情勢はますます混迷を深めることになる。

 

 

 

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捕虜になった政府軍操縦士。中央で腕を組んでいるのがインタビューに答えたハザラ人パイロット。1986年撮影

 

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ヘズビ・イスラミの施設に囚われていたアフガン政府軍捕虜。1986年撮影