拉致被害者が生きている理由

韓国誌『週刊朝鮮』2018年7月23日号

難航予想される日朝首脳会談

 (※2018年の)平昌冬季五輪を機に、3回の中朝首脳会談、2回の南北首脳会談に続き、6月12日に史上初の米朝首脳会談を実現させた北朝鮮金正恩委員長(※当時)は、ロシアのプーチン大統領との首脳会談にも意欲的とみられ、6カ国協議参加国のうち、強硬一辺倒の日本だけが「蚊帳の外」におかれる結果を招いた。米国頼みの安倍外交は根本的な見直しが迫られ、16年ぶりとなる日朝首脳会談を本格的に模索する方針を固めたが、北朝鮮の対応は冷淡だ。日本側が提起する拉致問題を解決済みと切り捨て、「我が国の対外的イメージに泥を塗るもの」と逆に日本政府の姿勢を批判した。その一方で、労働党機関紙『労働新聞』(6月28日付)は「過去の清算から誠実に行うべき」とも指摘しており、関係改善の意欲も覗かせる。国交正常化に伴う100億ドルとも言われる巨額の資金援助を念頭にした言及と考えられる。
 2002年9月17日、当時の小泉純一郎首相と金正日国防委員長は平壌で会談を行い、両国間の不幸な過去を清算し、国交正常化を早期に実現させる「平壌宣言」を発表した。日本側は、植民地支配の痛切な反省とお詫びを表明した上で、国交正常化後の無償資金協力と低金利の長期借款の供与などの実施に向けた協議をすることとし、北朝鮮側は、「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」、つまり日本人拉致問題で適切な措置をとることを確認した。金正日はこの時、「1970~80年代に特殊機関で妄動主義、英雄主義があった。遺憾なことでお詫びする」と自ら拉致を認め、謝罪している。
 この時、北朝鮮側は日本当局が把握していなかった被害者も含め「5人生存、8人死亡」という衝撃的な調査結果を伝え、生存していた5人は24年ぶりに帰国を果たす。だが、死亡した8人の情報には矛盾点が多く、北朝鮮の思惑に反し、日本の世論は極度に悪化した。その後、日本政府が認定する拉致被害者は17人に上り、帰国した5人を除く12人の生存可能性は高いと判断し、事件の全容解明を目指してきた。だが、事態は一向に進展せず、北朝鮮がミサイル発射や核実験を強行したため、平壌宣言は形骸化した。
 今後の米朝交渉で非核化に進展があれば、必然的に日米交渉も始まる。トランプ大統領北朝鮮への経済支援は韓国と日本が行うと明言しており、「ジャパン・パッシング」は韓国の負担を増す結果にしかならない。しかし、日本としては、自国民の生命と安全に関わる拉致問題の解決なしに平壌宣言の履行はあり得ない。拉致は金正日政権下で起きた国家犯罪であり、金正恩委員長に直接的な責任はない。彼が全面的な解決に向け指導力を示せば、経済改革に必要な資金を労せず手に入れる絶好の機会でもある。にもかかわらず、拉致問題の解決は絶望視されている。

杜撰な調査結果で日本世論悪化

 日本人拉致疑惑が初めて明らかにされたのは1988年1月15日。KAL機爆破事件の実行犯、金賢姫工作員が記者会見で、自分の日本人化教師だった「李恩恵」が拉致された日本人女性だったと証言してからだ。2年後、日本の埼玉県警が李恩恵田口八重子さん(1978年失跡、当時22歳)である可能性が高いと発表し、同時期に開催された日朝交渉で議題になると、北朝鮮側は交渉を決裂させた。1978年夏に日本各地で起きた3組のアベック失跡事件なども北朝鮮の犯行が疑われたが、確証はなにもなかった。
 状況が一変するのは1997年。韓国当局から日本にもたらされた亡命工作員の証言から、1977年に新潟県で行方不明になった女子中学生の横田めぐみさん(当時13歳)が北朝鮮に拉致された可能性が高いことが分かったためだ。証言した元工作員は、スパイ養成機関の金正日政治軍事大学を卒業し、1993年に非武装地帯から亡命した安明進氏。ソウル市内で産経新聞とのインタビューに応じ、1988年10月に同大で行われた朝鮮労働党創立記念日の行事に、一見して日本人と分かる6、7人のグループがいて、その中で「めぐみさんを見かけた」と語った。その際、先輩の教官から、彼女が新潟の海岸から連れ去られたことを聞いている。
 李恩恵と断定された八重子さんばかりかく、女性中学生の拉致を強く否定してきた北朝鮮が、日朝首脳会談で自発的に犯行を認めた意味は大きい。安氏はその後、日本のマスコミで脚光を浴び、様々な拉致被害者の目撃談をするようになるが、信憑性が問われる内容もあった。2007年に覚醒剤密輸で実刑判決を受けてから日本のメディアに登場することもなくなり、数年前に中国で死亡したという噂が流れる。しかし、誰も知らなかっためぐみさんの拉致は彼の証言で発覚し、北朝鮮自ら拉致を認めざるを得なくなったのであり、彼の初期情報は実証済みだ。
 問題は北朝鮮が日本側に通知した被害者情報の中身だ。死亡したとされる8人のほとんどが、20代~30代の若さで、交通事故、心臓麻痺、練炭ガス中毒、自殺という不自然死を遂げ、裏付けとなる客観的証拠が提示されていない。北朝鮮で特別管理された日本人拉致被害者の宿泊施設は電気の床暖房だったことが、複数の証言から明らかになっており、練炭ガス中毒は考えにくい。心臓麻痺も不可解だ。アベック失跡事件の1組、市川修一さんと増元るみ子さんの場合、拉致翌年の1979年7月に結婚し、同年9月に夫の修一さんが元山の海水浴場で、2年後に妻のるみ子さんが心臓麻痺で立て続けに死んだ。だが、帰国した被害者の1人が同年10月までるみ子さんと一緒に生活しており、結婚も夫の死も聞いたことがないと証言している。
 また、8人のうち6人の遺骸は3カ所の墓地に埋葬され、すべて豪雨で流出したと説明されている。北朝鮮側が遺骨を提供したのはめぐみさんと松木薫さん(男性)の2人だけ。その遺骨の一部からは、DNA鑑定の結果、それぞれ別人のDNAが検出された。科学雑誌『ネイチャー』が1200度の高温で火葬された遺骨を鑑定するのは無理だとする見解を示したが、骨の一部が熱に十分さらされずDNAが残存することはあり得るというのが日本の鑑定機関の立場だ。薫さんの骨片は本人の身体的特徴と合致しないとの結果も出ている。

生存者を否定する理由

 めぐみさんの遺骨にも問題があった。彼女は韓国人拉北者の金英男さんと1986年8月に結婚し、翌年9月に娘のウンギョンさんを出産した。その後、精神的に不安定になり、入院先の「49号予防院」(平壌市勝湖)で自殺したとされ、死亡確認書の死亡日に担当医が「1993年3月」と記載した。しかし、その翌年までめぐみさんを見かけたと帰国被害者が証言すると、金日成生誕日直前の「1994年4月」だったと修正された。この修正も嘘だったことが帰国被害者たちの証言により判明している。同年4月にめぐみさんを病院に運んだ運転手から、入院先は平壌でなく平安北道義州にある49号予防院だっと聞いていたばかりか、その2カ月後の6月、彼女が一人で隣に引っ越してきたのを覚えていたのだ。嘘に嘘を重ね、北朝鮮側は反論せず沈黙を続けている。
 日本側に提供された彼女の遺骨は、元夫の金英男さんが、土葬された遺体を死亡から3年後の1997年春ごろに掘り起こし、大同江南側の平壌市楽浪区域にある「五峰山奉仕事業所」(火葬場)で火葬したものだと言うが、同事業所が完成したのは2年後の1999年だったと『月刊朝鮮』が報じ、これも辻褄が合わなくなった。そもそも、当時の北朝鮮に遺骨を保管する風習などあったのか。
 その他にも、帰国した被害者たちの証言と北朝鮮側の主張が食い違う内容は多々ある。日本当局が握る未公表情報はかなりの量になると思われ、日朝交渉が始まれば、一つひとつ確認作業をしていかねばならない。それにしても、杜撰で不合理な説明を繰り返し、なにを隠そうとしているのか。情報が極端に少ない他の被害者と異なり、めぐみさんと八重子さんに関する証言は多く、ある程度の推測が可能だ。

金賢姫と金淑姫の日本語教師

 北朝鮮は、めぐみさんと八重子さんが1981年から1984年まで2人で共同生活をしたと主張している。八重子さんが日本人拉致被害者と結婚したのが別居の理由だ。2年後の1986年、男性が病死。同じ年、八重子さんも元山で休息をとった帰り、馬息嶺で軍部隊の車両と衝突して事故死した。
 日本側の情報は異なる。日本人拉致被害者が多く住んでいた平壌南郊の中和郡忠竜里の招待所で、2人は1983年秋から1985年秋まで共同生活をした。時期が微妙にずれているのだ。途中で2人が別々に住まわされることもあったようだが、八重子さん結婚後も一緒に住んでいたのは不自然だ。同じ招待所に住んでいた帰国被害者たちは、1986年に平壌北郊の太陽里の招待所に移住させられる。そこでも奇妙な証言がある。招待所の運転手から「平壌市内の百貨店(楽園百貨店)で八重子さんが買い物をしているのを見た」と告げられていたのだ。目撃した直後の1986年10月のことだったという。八重子さんが事故死して2カ月以上が過ぎている。
 八重子さんの生存を印象づける証言はまだある。その頃、彼女が「義挙者」と結婚した噂も伝わっていた。金英男氏のように、韓国人拉北者で対南工作機関に関与していた人物だった可能性もある。「八重子さんは『敵工地』と呼ばれるところに行ったと聞いた」というのが、彼女に関する最後の証言だ。金正日政治軍事大学を卒業した元工作員のA氏にソウルで会う機会があり、敵工地について尋ねてみた。彼はしばらく考え、こう答えた。
「おそらく(※朝鮮語で)敵工局と言ったのを、日本人だから発音が似た敵工区と聞き違え、敵工地と記憶していたのかもしれない」
 敵工局とは「敵軍瓦解工作局」の略で、文字通り、韓国軍を瓦解させるための対南心理作戦を行う部署を指す。
 八重子さん、つまり李恩恵が、平壌北郊の東北里の招待所で金賢姫工作員に「密封教育」を行ったのは、1981年7月から1983年3月までの20カ月。そこにめぐみさんは登場しない。金賢姫氏には金淑姫という同僚の女性工作員がいて、彼女も別の日本人から日本語を学んでいた。教育を終えた後の1984年6月頃、金賢姫氏は金淑姫と一緒に、その日本語教師にこっそり会いに行ったことがある。場所は金正日政治軍事大学から近い平壌市内。その女性が、当時20歳だっためぐみさんだった。1人で住んでいた理由は分からないが、気まずい雰囲気だったので「何か歌を歌いましょう」ということになり、めぐみさんは日本の国歌を歌ってくれたという。中学1年生の時に覚えた寂しく厳粛な響きがある日本の国歌を、故郷の想いを込めて歌ったのかもしれない。
 北朝鮮が2人の共同生活の時期を無理にずらし、事実に反する調査結果を示したのは、金賢姫氏の証言を否定するためではなかろうか。乗員乗客115人の命を奪ったKAL機事件は、米国が北朝鮮を「テロ支援国家」に指定した韓国に対する過去最大のテロである。工作機関に利用された八重子さんとめぐみさんが生存していたら、北朝鮮に致命的な証言が飛び出しかねない。その他の被害者の安否情報が矛盾しているのも、対南工作に関わった可能性が高いためと考えざるを得ない。日本人拉致は韓国の問題でもある。
 朝鮮戦争時に越北し、労働党中央の対南工作に長く携わった脱北者のシン・ピョンギル氏は著書『金正日と対南工作』でこう指摘する。「日本を工作拠点にした迂回浸透工作が積極化・多用化されたのも、この時期の対南工作の、もう一つの特徴的様相だった」。さらに、こう続ける。「拉北漁夫たちを包摂し、彼らを内陸地域(韓国)工作の拠点として活用するための工作も活発に展開された」。韓国政府が把握する拉北被害者は516人。拉北者家族会が独自に得た情報では、少なくとも約150人の生存が確認されている。しかし、今年8月に実施される南北離散家族再会事業で彼らが家族に再会できる可能性は限りなく少ない。

f:id:beh3:20211013114113j:plain

1974年に北朝鮮で「再教育」された韓国人拉致漁民たち(「拉北者家族の会」提供)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

※以上は韓国誌用の記事だったのでA氏の実名は明かさなかった。A氏は元南派工作員の金東植氏で、日本の民放局がインタビューしたことも一度ある。以下の内容は、紙幅の関係で原稿から省いた金氏の証言だが、まだ確認されていない拉致被害者に関する情報なので、ここで紹介することにした。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

日本人拉致被害者を目撃

 金氏が受けた敵区化教育は、平壌北西の順安区域にある「招待所」で行われた。そこで韓国出身の講師と寝食を共にする、いわゆる「密封教育」を受け、韓国人になりすます訓練を重ねた。70年代に入り、韓国をまったく知らない若い工作員が増え、彼らの教育のため拉致が頻発する事態を生んだという。金氏は90年に済州島海岸から韓国に侵入し、ソウルに潜伏する大物スパイを北朝鮮に脱出させることに成功し、第1級勲章を受章。2度目に侵入した際、警察と銃撃戦の末に逮捕された。
 逮捕から20年近い歳月を経て書かれた金氏の著作物に、この招待所に滞在中に日本人拉致被害者と思われる講師を目撃したと、簡単に触れられている。極めて重要な指摘をマスコミは見逃し、金氏に接触した日本政府関係者以外、まだ誰も確認作業をしていない。当時の状況を詳しく尋ねた。
順安地区には120という地区名に1から21までの家屋番号がついた招待所があった。地区を貫く1本の表通りがあって、それぞれの招待所は、この道から一つずつ分岐する小道の奥にあるので外からは見えない。私がいた招待所は入口から近い『120-5』。ちょうど大学の同期生で日本工作課工作員のチョ・ソンリョルが『120-14』で密封教育を受けていて、彼は『120-2』で日本人講師から日本語も習ったと言っていた。仮名だろうが『田中』という名前だったという。状況からし拉致被害者だと思う。この招待所には住んでいなかったが、その人物の妻も日本人らしい。通りの一番奥にある『120-21』はもっとも大きな招待所で、そこも日本人講師専用の招待所だった。
 招待所地区の入口付近に売店と2階建ての特別招待所があり、それぞれに割り当てられた招待所以外では、そこにしか立ち寄ることができない。そこで2回、その日本人を見たことがある。同期生のチョと立ち話をしていた姿、それから雨の日に私が車で移動中、傘をさす工作員に付き添われて歩いている姿を見た。互いに見てはいけない存在なので、彼は車を見ず顔をそむけたので、横顔しか見えなかった。身長は170センチ代前半、メガネをかけ、髪の毛を少し伸ばしていたのを覚えている」
 金氏に拉致被害者たちの写真を見せると、日本政府関係者に「何度も見せられた」と言って首を振った。年齢は62年生まれの金氏より少し上に見えたという。田中と呼ばれた日本人講師は誰だったのか。