従軍慰安婦問題の原点㊦ 「事実上の強制動員」と「日本軍無実論」

 前回の記事(「従軍慰安婦問題の原点㊤」)で少し触れた鄭鎮星・ソウル大元教授の著書『日本軍性奴隷制』は、最初の出版から12年後の2016年に出した改訂版で、その間に多くの資料が発掘されたこともあり、貴重な情報が盛り込まれている。同書によると、韓国で名乗り出た元慰安婦のうち175人のデータを分析した結果、被害者のほとんどが貧困農家の家庭に育ち、学歴も非常に低かった。身売りなどで連れ出された当時の年齢は16歳から17歳がもっとも多い。地域別では南東部の慶尚(南北)道(79人)が圧倒的に多かったが、これは移送拠点の釜山港に近かったためとみられる。移送先は、日本(20人)、台湾(12人)、満州(15人)、中国(27人)、南アジア(8人)、南洋群島(6人)など様々。慰安婦になった経緯は就業詐欺(82人)と脅迫・暴力(62人)が突出して多く、人身売買や誘拐・拉致はあまりいなかった。以上の実態を踏まえ、鄭鎮星は慰安婦問題における「強制動員」という言葉の定義を、次のように説明している。

 強制動員は狭い意味での物理的な暴力による連行に限られることもあり、広くは、本人の意思に反して連れていかれ、強制的な統制により、本人の意思により帰ってこれなくなる、すべての状況を意味する。しかし、物理的な暴力により動員された女性だけでなく、人身売買、誘拐、就業詐欺などで慰安婦になった人たちがすべて、自分が慰安婦になるという事実を知らないまま連れて行かれ、連れて行かれた途中でも厳しく監視され、慰安所から到底脱出できない監視を受けたという点で、日本軍慰安婦制度はすべて、広い意味での強制だったと規定しなくてはならない。

 身売りであれ就業詐欺であれ、本人の意思に反して慰安婦にされたのであれば、慰安所での労働は強制売春なのであり、実態として性奴隷だったと考えられた。その慰安婦制度に軍が深く関与していたのだから、国家の責任は免れない。これが韓国に広く浸透する、広義の強制性に基づく「事実上の強制動員」という考え方だ。これに対し、日本で翻訳されベストセラーになった『反日種族主義』(文藝春秋、19年)の編著者、李栄薫・ソウル大元教授は、慰安婦制度は朝鮮にあった公娼制度を軍事的に動員かつ編成した、合法的な制度だと主張する。したがって強制動員ではなかったというのだ。
 朝鮮の公娼制度は1916年に始まり、30年代以降は売春業が大衆化していた。もともと軍の駐屯地に売春関連業者が集まる傾向があり、37年に軍慰安所が設置されると、そこで働く娼妓、芸妓、酌婦などの女性たちが慰安婦になるケースが多かった。軍慰安婦を募集する周旋業者は、農村の貧しい戸主に前渡し金を払うことで、就業承諾書や戸籍謄本などの書類をそろえて合法的に娘を連れて行ったのであり、それは当時の社会で犯罪ではなかった。親に身売りされたり、業者の甘言に騙された女性たちの悲運は、朝鮮に悪習として残る女性蔑視と家父長的社会に根本的な原因があり、就業詐欺などの責任はあくまでも業者にあった。軍慰安婦は危険な戦地で働き、過酷な労働を強いられるが、民間の公娼に比べればはるかに高収入だった。女性たちが慰安所であくせく働き貯金をしたのは、選択の自由に基づく行為であり、性奴隷の実態とはほど遠い。
 以上が強制動員を否定する論拠として示された。李栄薫の主張は日本の右派論客が主張する「日本軍無実論」とほぼ同じ内容だ。その要旨は以下の通り。

 慰安所は軍の要請で作られたとしても、基本的には民間の売春施設▽当時は公娼制度があり売春は合法だった▽慰安所は戦地・占領地に拡張された「戦地公娼施設」であり、軍はその利用者にすぎない▽軍の関与は、戦地という特殊な状況のもとで公娼制度を維持するために必要な措置だった▽慰安婦は性的労働に対して対価を得ており、平均すれば高収入であり、性奴隷などではない▽身売りされた者もいるが、それは合法的な契約▽犯罪行為は民間業者の仕業▽組織的な「強制連行」があったなら国は法的責任を負わねばならないが、それを示す証拠はみつかっていない(永井和、『世界』15年9月号)。

 こうした主張が韓国で受け入れられるはずもなく、メディアや学会で『反日種族主義』への反発が一気に広がった。お決まりの魔女(親日派)狩り的な批判報道が目立つなか、「韓国女性人権振興院」の尹明淑(調査チーム長)は強制動員の実態に焦点を当て、李栄薫の主張に反駁した。

 日本軍「慰安婦」の強制動員は間違いなくあった。もちろん、占領地、特に戦地で起きたように、軍人が前面に現れ人々を連れていくという形はとらなかった。なぜなら、その必要がなかったからだ。すでに植民地朝鮮では公娼制度と紹介業が法で実施され、日本政府はこうした産業体制を「慰安婦」の強制動員に利用した。ここで私たちは「強制」という言葉の正確な意味を知らねばならない。国際法が規定する強制とは、「本人の意思に反すること」をいう。軍人が髪の毛を掴んで連れて行ったかどうかが重要なのではない。中日戦争が勃発した直後の1938年、日本の陸軍省慰安所設置の必要性を認め、慰安婦の「募集」に関する方針をたてた。本格的な制度化への道を開いたのだ。さらに、日本軍により占領地や戦場、植民地に設置された慰安所と多様な形態に変形した「慰安所」で、日本軍慰安婦たちは人間であり女性としての尊厳を侵害され、自由を奪われた。彼女たちは国家犯罪の被害者だったのだ。(『ハンギョレ』19年9月5日付)

 李栄薫は様々な反論に応える形で出した続編『反日種族主義との闘争』(20年5月)で、尹明淑の「拡大解釈された強制動員説」を取り上げ、徹底的な批判を繰り広げる。結論から言えば、慰安婦問題は国家犯罪の問題としてだけ追及することはできず、当時の朝鮮で施行されていた法制、戸主制家族、家父長権力、貧困などが作用した複合的な犯罪として捉えなければ、下層極貧層の娘たちに強要された悲劇は理解できないという内容だ。特に朝鮮の家父長には、自分に属す家族の地位を変えることができる合法的な権利が与えられていた実態があると指摘した。
 同書で示された、『朝鮮総督府統計年報』から割り出した略取・誘拐の検挙および起訴数の推移(1920年~1943年)によると、警察が検挙した略取・誘拐事件は、1920年代から30年代にかけ急激に増え、30年は2160件に達した。ところが、30年代後半からめっきり少なくなり、43年には347件にまで減った。これは総督府が33年から施行した「自作農地設定事業」により、わずかながらも農地を持つ自小作農家が増え、農村の貧困がある程度改善されたことと無縁ではないようだ。そして、慰安婦の募集は30年代後半から終戦まで続いたが、その間の略取誘拐の検挙数は非常に少ない。
 さらに、検察が事件を不起訴処分にした割合は全期間を通じて高く、平均すると87・5%だった。その理由は、慰安婦本人の就業事由書、戸主の就業同意書、戸籍謄本、印鑑証明書、警察署長の旅行許可書などの書類を業者が用意していたからだった。つまり、慰安婦の募集は合法だったことになる。
 しかし、必要書類さえあれば農村の娘を売り飛ばしていいというものでもあるまい。現場の警察は犯罪性を認識して容疑者を検挙し、検察に送致したが、ことごとく不起訴処分になり、次第に検察の考えが警察に浸透していったとも考えられる。当時の警察の判断でも、略取誘拐の犯罪容疑はあったが、戸主の就業同意書などの合法的な書類がそろっていたため不起訴になっていた。慰安婦が募集される戦時体制下に入ると、業者は摘発を避けるため、より厳格に必要書類をそろえていたのかもしれない。当時の法制や社会の現実からすれば、慰安婦の募集は、確かに合法だったと言える。
 だが、女性たちが本人の意思に反して連れていかれ、過酷な性的労働を強いられた事実は動かない。慰安婦の募集、移送、慰安所の運営を可能にさせた主体は、あくまでも日本軍であり、民間業者ではなかった。日本軍の慰安所を「戦地公娼施設」と拡大解釈することに問題はないのか。

 90年代の政府調査で発掘された資料の中に、旧内務省の文書群があり、アジア女性基金が公開している。群馬県知事が内務大臣に宛てた「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(37年1月19日付)には、慰安婦を募集に当たった業者が前橋市の警察で取り調べを受けた事件の内容が記されている。神戸市で貸座敷業を営む大内なる人物は、取り調べに対し、「在上海陸軍特務機関ノ依頼」で「上海派遣軍内 陸軍慰安所ニ於テ 酌婦稼業(醜業)ヲ為ス酌婦三千人ヲ必要」と供述し、その理由を次のように説明している。

将兵カ 支那醜業婦ト遊フ為 病気ニ掛ルモノカ非常ニ多ク 軍医務局デハ 戦争ヨリ寧ロ 此ノ花柳病ノ方カ恐シイト云フ様ナ情況テ 其処ニ此ノ施設問題カ起ツタモノテ 在上海特務機関カ 吾々業者ニ依頼」

 業者は合法的な契約だと訴え、「契約証」、「承諾書」、「金員借用証書」、「[契約]条件」、「派遣軍慰安所花券」を提示した。婦女誘拐の疑いで取り調べを行った地元警察は、軍の依頼で3千人の慰安婦を集めているという業者の供述を信じられず、内務省に事実関係を伝える中で、こう指摘している。

「公秩良俗ニ反スルカ如キ事案ヲ [業者が]公々然ト吹聴スルカ如キハ 皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ 厳重取締方 所轄前橋警察署長ニ対シ指揮」

 神戸の貸座敷業の大内は山形県でも問題を起こしている。同県の紹介業者に慰安婦の募集を依頼する際に、前渡し金の一部を軍が立て替えると申し出ているのだ。

「酌婦ハ年令十六才ヨリ三十才迄 前借ハ五百円ヨリ千円迄 稼業年限二ケ年 之カ紹介手数料ハ 前借金ノ一割ヲ 軍部ニ於テ支給スルモノナリ」(「北支那派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」37年1月25日付)

 慰安婦3千人の募集にからむ事件は和歌山県でも起きていた。和歌山県知事が内務省警保局長に宛てた「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(37年2月7日付)では、大阪市で貸席業を営む金澤なる人物が登場する。県内の下田邊町で巡査の取り調べを受けた金澤は、疑わしい者ではないとことわった上で、「軍部ヨリノ命令ニテ 上海皇軍慰安所ニ送ル 酌婦募集ニ来リタルモノニシテ 参千名ノ要求ニ対シ 七十名ハ昭和十三年[37年]一月三日 陸軍御用船ニテ 長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上 送致済」と供述した。金澤の供述によると、同業の大阪の貸席業者が陸軍御用商人と共に上京し、「荒木大将」などと会合の上で3千人の娼婦を送ることになり、大阪府の九条警察署長と長崎県外事課の便宜を受けていた。九条警察署が酌婦の「公募証明」を出していた事実も判明し、容疑者は身柄を釈放された。
 この文書には、和歌山県警の問い合わせを受けた長崎県外事警察課長の回答もある。そこで示されたのが、在上海日本総領事館長崎県水上警察署長に宛てた、慰安婦の募集と上海への渡航に関する協力を求めた「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(36年12月21日付)という依頼状だ。「承諾書」、「印鑑証明書」、「戸籍謄本」、「酌婦稼業者に対する調査書」など必要書類を所持し、合法的雇用契約により渡航すると認められる者に対しては渡航を許可するよう求めている。
 軍が指示した慰安婦3千人の募集に当たり、当初は犯罪性を認識していた警察は、結局、軍とともに募集と移送に関与することになった。同じことが朝鮮でも起きていたと考えるべきで、慰安婦の募集は警察の捜査対象にしようがなかったのだろう。内務省警保局の文書群を分析した永井和・京都大教授は「軍の関与」について次のように述べている。

 軍慰安所は、日本軍が軍事上の必要から所属将兵の性欲処理のために設置・管理した将兵向けの「慰安施設」であり、軍の編成の一部となっていた。その点で民間の業者が不特定多数の客のために営業していた通常の公娼施設とは異なる。慰安所が軍の施設であるかぎり、そこでなされた「慰安婦」に対する強制や虐待の最終的な責任が軍に帰属するのは明らかであろう。(『世界』15年9月号)

 

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朝鮮総督府庁舎。1993年撮影

 李栄薫が理事長を務める「落星台経済研究所」の創設者、安秉直・ソウル大名誉教授は、ビルマシンガポール慰安所で帳場の仕事をしていた朴治根という人物が残した日記を入手し、『日本軍慰安所管理人の日記』(イスプ、13年)を出版している。慰安所経営に携わった人物の記録は極めて稀で、慰安婦問題の研究で貴重な資料である。その日記の中に以下の記述がある。

 7月初め、ラングーンの慰安所を経営する金田氏は慰安婦募集のために朝鮮に行き、今般、慰安婦25人を連れてビルマに行く途中でシンガポールに着いた。(43年12月3日)

シンガポールの]生鮮組合に行くと、一昨年、慰安隊が釜山を出発した時に第4次慰安団の団長として来た津村氏が生鮮組合の要員になっていた。(44年4月6日)

 津村なる人物が団長を務めた「第4次慰安団」とは、ビルマのミイトキーナで捕虜になった慰安婦たちを乗せ42年7月10日に釜山を出港した軍用船で南方に移送された一団であるのは、ほぼ間違いない。米軍の「尋問報告49号」は朝鮮人女性が703人、その引率者である抱え主が約90人乗船したと記録していた。拉孟と騰越で捕虜になった朝鮮人女性の場合、朝鮮を離れたのは翌43年7月。同じ軍用船に約300人いたと証言した。帳場の仕事をした朴治根の日記では、43年12月にも慰安団がシンガポールに到着しているようなので、慰安団は少なくとも6回、おそらくそれ以上、南方に移送されたと考えられる。軍による組織的な慰安婦移送の実態を窺わせる日記の内容から、安秉直は同書の「解題:第4次慰安団」で、日本軍慰安婦の動員が戦時動員体制の一環として行われたと考えた。

「もし日本軍部が、朝鮮総督府および朝鮮軍司令部の協力を得ながら慰安所業者らに慰安婦を募集させ、当時の風聞で取りざたされたような「第1、2、3、4次慰安団」などを組織し、順次動員していたとすると、それは日本軍部の単なる「関与」ではなく、徴用・徴兵および挺身隊のような「日本政府による戦時動員」として理解する他ない。」

 非戦闘地域だった植民地朝鮮では、戦闘地域で頻発した拉致のような強制動員(狭義の強制動員)は必要なく、貧しい農民の娘を狙った誘拐同様の人身売買や詐欺による慰安婦の募集が横行した。たとえ当時の社会で合法であっても、それは戦時動員の一環として実施されたと考えるほかなく、広義の強制動員があったと解釈すべきではないか。日本政府が「河野談話」で、慰安婦の募集が総じて本人たちの意思に反して行われ、旧日本軍が直接または間接的に関与したと指摘したのは、国家による強制性を認めたからに他ならない。半官半民の「アジア女性基金」の償い事業、そして政府が10億円を拠出した「和解・癒し財団」は、談話を踏襲した日本政府が道義的・法的責任に応えようと努力した結果でもある。その努力に政治的打算があったとしても、国家権力が関わった強制性そのものを否定するのは、いかなる理由をあげても不可能だ。

未完の「法的作為義務」

 日韓は65年の請求権・経済協力協定の第1条で、無償3億ドル・有償2億ドルの供与と貸付を韓国の経済発展に役立てると規定した上、第2条1で「両国国民の財産、権利及び利益並びに請求権の問題が、完全かつ最終的に解決された」ことを確認した。日本で争われた韓国人を原告とする戦後補償訴訟で、原告は「個人の請求権」は協定により消滅するものではないという立場をとった。これに対し被告の日本政府は、実体的権利を指す「財産、権利及び利益」だけでなく、個人の請求権も「外交保護権によってしか実現しない権利」であるため、同協定により消滅したと反論している。
 また、中国人を原告とする戦後補償訴訟でも、最高裁が07年に原告の請求を退ける決定を下しており、日本の司法による救済の道は完全に閉ざされている。この時の最高裁の判断は、個人の請求権を含め、戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄するサンフランシスコ平和条約の枠組みに従ったものだった。韓国人の戦後補償訴訟でも、請求権協定ならびに「サンフランシスコ平和条約の枠組み」により原告敗訴が決定づけられ、個人の請求権は裁判上訴求できない〝救済なき権利〟とみなされたのである。
 請求権協定は、太平洋戦争中の国民徴用令や徴兵制の施行で被害をこうむった朝鮮半島出身の軍人、軍属、徴用工などの対日請求権を消滅させるためのものだった。同協定に付属する「合意議事録」は、徴用された人の未払い資金や補償金も含め、請求に関し「いかなる主張もなしえない」ものとした。しかし、同協定第1条の経済協力資金と、第2条で「最終的に解決された」とする「財産、権利及び利益並びに請求権」の因果関係については、何の説明もされていない。
 これは日韓双方の事情によるものだった。植民地支配をめぐり、日本側が双方の合意による合法なものだったが「もはや無効」だと解釈したのに対し、韓国側は一方的な侵略行為で韓国併合は「当初から無効」と解釈した。植民地支配を合法とする日本は、賠償ではなくあくまで経済協力。植民地支配は不法だが経済建設資金が必要だった韓国は、経済協力という形をとる賠償でなくてはならず、玉虫色の協定を結ぶしかなかった。結局、韓国政府が肩代わりした被害者補償は無償3億ドルのうち5・4%にとどまり、大半が国内のインフラ建設に使われた。
 盧武鉉政権が発足すると、請求権協定当時の外交文書が06年に公開されたことを受け、同協定に関する韓国政府の公式解釈を示すため、国務総理(首相)が主催する「韓日会談文書公開民官共同委員会」(民官共同委員会)が開かれた。同委員会は無償3億ドルについて、「韓国政府が国家として有する請求権、強制動員被害補償問題の解決の性格の資金などが包括的に勘案された」と結論づけ、韓国政府の被害補償措置が不十分だったと判断した。その一方で、日本政府には一定の法的責任が残っていると指摘している。

 日本軍慰安婦問題など、日本政府・軍などの国家権力が関与した反人道的不法行為については、請求権協定により解決されたものとみることはできず、日本政府の法的責任が残っている。

 半官半民の「アジア女性基金」の償い事業や、政府予算で設立された「和解・癒し財団」の補償は、いずれも〝救済なき権利〟を補償するための窮余の策だった。それを韓国の慰安婦支援団体が拒否したのは、明確な国家賠償でなければ被害者の尊厳の回復はできないと主張しているためだ。この場合の国家賠償とは、戦争被害による損害の補償、つまりサンフランシスコ平和条約の枠組みに基づく補償ではなく、日本が合法とする植民地支配における反人道的不法行為による被害の補償を指す。その意味で民官共同委員会の見解と同じだ。協定で解決済みとの立場を変えるわけにはいかない日本政府と、植民地支配の反人道的不法行為に対する賠償を求める韓国政府の主張の隔たりは大きく、このままでは解決の糸口すら見いだせないだろう。

 中国人原告の訴えを退けた前述の最高裁判決は、裁判上訴求できない〝救済なき権利〟の解決策として、関係者による「和解」を暗示していた。

 サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいても、個別具体的な請求権について債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないところ、本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人[被告企業]は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである。

 判決を受け、被告企業の「西松建設」が申し立てた和解が後に成立している。法的責任に関して原告と被告との間で見解の一致はみられなかったが、被害者側が納得した形で問題を解決させた極めて稀な例だ。元慰安婦などが日本で訴えた裁判では、原告が一部勝訴したケースも一つだけある。釜山市などに住む元慰安婦3人と元挺身隊員7人が92年に山口地裁下関支部で提訴した「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求事件」(関釜裁判)だ。地裁は被告の国に対し、元挺身隊員の請求は棄却したが、元慰安婦については30万円の賠償を命じた。最高裁で原告敗訴が確定したものの、関釜裁判の判決は日本の戦後補償に厳しい反省を促すとともに、問題解決に向けた国の責任を明確にした画期的な判決だった。
 判決はまず、慰安婦制度は徹底した女性差別、民族差別により女性の人格の尊厳を根底から侵した制度であったことを認め、「20世紀半ばの文明水準に照らしても、極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白であり、少なくとも一流国家を標榜する帝国日本がその国家行為において加担すべきものではなかった」と断じた。その上で、国には、原告にさらなる被害の増大をもたらさないよう保証すべき「法的作為義務」、つまり賠償立法すべき義務がありながら、それを怠り、多年にわたり原告の苦痛を放置したと指摘した。具体的には、93年の河野談話とともに発表された日本政府の調査結果により、それから3年を経過した96年には法的作為義務が明確になったにもかかわらず、98年の判決時点で何の措置もとられていなかった。その1年余りの法律制定の遅れに対する「立法不作為」の賠償が30万円なのであり、本来の賠償は、国に特別の立法を行い賠償するよう求めたのだ。国の法的作為義務について、判決はこう述べている。

 日本国憲法制定前の帝国日本の国家行為によるものであっても、これと同一性ある国家である被告には、その法的侵害が真に重大である限り、被害者に対し、より以上の被害の増大をもたらさないよう配慮、保証すべき条理上の法的作為義務が課せられているというべきであり、特に、個人の尊重、人格の尊重に根源的価値をおき、かつ、帝国日本の軍国主義に関して否定的認識と反省を有する日本国憲法制定後は、ますますその義務が重くなり、被害者に対する何らかの損害回復措置を採らなければならないはずである。

 

従軍慰安婦問題の原点㊤ 最前線に連れていかれた日本軍慰安婦たち
https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/10/26/163853