従軍慰安婦問題の原点㊤ 最前線に連れていかれた日本軍慰安婦たち

米軍が作成した調査報告書

 1944年7月31日、ビルマ(現ミャンマー)北部のミイトキーナ(ミチナ)に立てこもる千人以上の日本軍が、夜陰に紛れ、陣地脱出を決行した。同年5月に始まる連合軍の猛攻撃で玉砕寸前にあったミイトキーナ守備隊の最後の選択だった。脱出した日本軍のうち、200人近い兵士が連合軍の捕虜になるのだが、その中に20人の若い朝鮮人女性と年配の2人の日本人男女がいた。こんな最果ての最前線の戦場に、なぜ民間人がいたのか。連合軍の捕虜になった女性たちは、8月15日にミイトキーナから軍用機でインド北東部のレド収容所に移送され、20日間に渡り尋問を受けることになる。
 尋問したのは米陸軍・戦争情報局(OWI)心理作戦班のアレックス・ヨリチ(3等技能兵)。米陸軍情報部(MIS)が創設した情報・プロパガンダ機関のOWIには、日系2世兵士のなかでも日本への留学経験がある「帰米2世」兵士が多くいた。女性たちは、ヨリチが作成した「日本人捕虜尋問報告・第49号(Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.49)」(44年10月1日付。以下「尋問報告49号」)の中で、日本軍が使う「慰安婦」という言葉を訳した「コンフォート・ガールズ」と紹介された。すでに太平洋戦域でも確認されていた日本軍慰安婦の実態を初めて明らかにした米軍の調査報告書だ。
 90年代初め、この報告書が米国の国立公文書館(NARA)で発見され、その解釈をめぐり賛否両論の論争が巻き起った。被害事実を裏付ける決定的な文書であると同時に、加害事実を否定する側の根拠にもされたためだ。両論いずれにせよ、第三者の米兵の目で、慰安婦のありのままの姿が客観的に記録されていることから、慰安婦問題を論じるうえで不可欠な資料になっている。
「尋問報告49号」の付表には、捕虜になった20人の慰安婦、そして抱え主と思われる2人の日本人男女の氏名、年齢、住所がアルファベットで記載されている。しかし、米兵が朝鮮語の発音を正確に聞き取れなかったこともあり、不正確な名前の表記が多く、住所もおおまかな地域を示すだけで、人物の特定はされてこなかった。名簿で特徴的なのは、20人のうち15人が半島南東部の慶尚道出身だったことだ。なかでも晋州(5人)と大邱(5人)に集中していた。抱え主の氏名は、男が「キタムラ・エイブン」(41歳)、その妻は「キタムラ・トミコ」(38歳)、住所は京畿道京城(現在のソウル)とある。一行がビルマに上陸したのは2年前(42年8月)で、朝鮮を出発した当時の女性たちの平均年齢は22歳。20歳に満たない女性が半数以上の11人もいた。最年少は慶尚北道大邱出身の17歳で、生存していれば現在96歳になる。報告書は彼女たちをこう紹介している。

 

 1942年5月初め、[日本軍が]新たに征服した東南アジアの領土に朝鮮人女性を「慰安サービス」のため徴集する日本の周旋業者が朝鮮に来た。〝サービス〟の性格は明示されなかったが、負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやるなど、一般的に兵士を喜ばせるものだとされた。周旋業者の誘い方は、多額の報酬、家族の借金を返済する機会、楽な仕事、シンガポールでの新しい生活の展望だった。こうした偽りの説明で、多くの女性が海外勤務の徴集に応じ、数百円の前渡し金を受け取った。多くの女性は無知、無教育で、「地上でもっとも古い職業」をしていた者も何人かいた。

 

 業者の甘言に乗せられ、借金で縛られていた状況が見てとれる。女性たちの中に都市出身者(京城平壌)が4人いるので、そのうち何人かが売春婦だった可能性もある。だが、多くは無教育の田舎の女性で、戦場で売春を強いられるとは思ってもいなかった。官憲による強制的な徴集、いわゆる「強制連行」はなかったが、周旋業者とつながりがある京城のキタムラが、どういう経路で女性たちを集めたのか、詳しい説明はされていない。

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連合軍「東南アジア翻訳・尋問センター」(SEATIC)が作成した「尋問ブリティン・第2号(INTERROGATION BULLETIN No2)」

「尋問報告49号」が作成された翌月、OWIとは別に、連合軍の「東南アジア翻訳・尋問センター」(SEATIC)が作成した「尋問ブリティン・第2号(INTERROGATION BULLETIN No2)」(以下「ブリティン2号」)に、キタムラ・エイブンが捕虜番号「M739」として登場する。キタムラはレドの収容所に移送された後、個別尋問センター(CSDIC(I))があったインドのデリーまで移送され、そこで本格的な尋問を受けた。「ブリティン2号」はその時のキタムラの尋問調書をもとに作成されたものだ。
「ブリティン2号」によると、キタムラ夫婦とキタムラ・トミコの姉(あるいは妹)は京城で料理店を経営していたが、商売が傾き、金儲けの機会を求め、ビルマ慰安婦を連れていく許可を京城の(朝鮮軍)陸軍司令部に申請したという。同様の商売をする複数の日本人が、同司令部から許可を得るよう示唆されていた。キタムラは女性たちの性格、容姿、年齢に応じて、彼女たちの親に前渡し金300円から1000円を支払い、22人を身請けしている。女性たちの〝所有者〟になったキタムラに、朝鮮軍司令部は各陸軍司令部宛ての書面を渡し、あらゆる便宜をはかったという。
 つまり民間業者のキタムラは、軍の示唆を受け慰安婦を集め、軍の計らいで慰安婦たちを南方に移送し、そして前線の部隊に附属する慰安所を経営した。発案から配置にいたる組織的な「軍の関与」がなければ不可能であり、実態として「動員」だったと言える。慰安所を必要としたのは他ならぬ軍だったからだ。
 こうして集められた朝鮮人女性は703人。その引率者である抱え主ら約90人と一緒に朝鮮の釜山を出港したのは42年7月10日だった。首都ラングーンに着くと(同年8月20日)、彼女たちは20人から30人のグループに分けられ、ビルマ各地の部隊に送り込まれた。キタムラ率いる22人(うち2人は現地で死亡)は北ビルマのミイトキーナを守備する歩兵第114連隊にあてがわれた。ミイトキーナには、「キンスイ」(後に別の慰安所「バクシンロウ」と合併、朝鮮人慰安婦20人)、「モモヤ」(中国人慰安婦21人)、そしてキタムラの「キョウエイ」(朝鮮人慰安婦22人)の3つの慰安所があった。

「尋問報告49号」には、慰安婦に対する強制性を判断する上で欠かせない日々の生活や労働の実態も記されている。

 

 彼女たちのビルマでの暮らしは、他の場所に比べ贅沢ともいえるものだった。ビルマでの2年目[43年]は特にそうだったといえる。食料や物資の配給は多くなかったものの、彼女たちは欲しい物を購入する金を十分に持っていたので、暮らし向きはよかった。[中略]ビルマ滞在中、兵士たちと一緒にスポーツのイベントに参加したり、ピクニック、宴会、夕食会にも出席した。彼女たちには蓄音機があり、都会では買い物にでかけることを許された。

 慰安所の「抱え主」は、それぞれの女性が契約時にどれほど借金を負っていたかにより、彼女たちの稼ぎの総額の50パーセントから60パーセントを受け取っていた。これは彼女たちの平均的な月の稼ぎが約1500円だったことを意味する。彼女たちは「抱え主」に750円を払っていたのだ。多くの「抱え主」は、高額の食費や物品の代金を請求していたため、彼女たちの生活を苦しくさせていた。1943年の後半、軍は借金の返済を終えた特定の女性たちに帰国を認める指示を出した。これまでに、一部の女性たちが朝鮮に帰ることを許された。

 

 この文章に「性奴隷」の印象はなく、慰安婦の「自発性」を強調する側の根拠にされてきた。日本軍が戦場に売春婦を連れ歩いていた前代未聞の情報を調査したヨリチは、この文章で二つのことを指摘したかったようだ。
 一つは、自分の意思に反して売春を強いられた女性たちが、意外にも楽な暮らしをしていた時期があり、しかも借金さえ返済すれば自分の意志で帰国できる権利が与えられていた。もう一つは、悪徳業者の抱え主が、高額報酬の彼女たちを搾取していた実態、である。上の文で「暮らし向きはよかった」といい、下の文では「生活を苦しくさせていた」という。しかし、この文章だけでは、彼女たちがおかれていた状況はうかがい知れない。当時のビルマの戦況を振り返ってみたい。


 41年12月、日本はハワイの真珠湾攻撃マレー半島の奇襲上陸で太平洋戦争に突入した。破竹の勢いで東南アジアに侵攻した日本軍は、早くも42年前半にビルマ全土を掌握し、イギリス軍をインドに敗走させる。43年3月には東南アジア方面を統括する「南方軍」傘下に「ビルマ方面軍」が新設され、ビルマ支配は比較的安定しだす。ところが、太平洋戦域では同じ43年から戦況が悪化しだし、インドを拠点とするイギリス軍もビルマ奪還を試みていた。
 ミイトキーナから西北に約250キロ進むとイギリス領インドのアッサム州レド、逆に東に100キロ進むと、中国雲南省にある日本軍拠点の城壁都市、騰越(現在の中国では騰沖)が現れる。この騰越の東を流れる怒江(ビルマ領に入るとサルウィン河)を越えると、雲南省都の昆明、そして蒋介石の国民党政府があった中国南西部の重慶へと通じる。騰越は中国国民党軍と対峙する最前線だった。
 日本軍の北ビルマ占領には、連合軍が中国軍に武器や物資を供給する「ビルマ公路」、いわゆる「援蒋ルート」を寸断する狙いがあった。これに対し連合軍は、北ビルマのジャングルを突っ切る「レド公路」を建設して、インド→北ビルマ雲南省を結ぶ新たな援蒋ルートを築き、中国に進駐する日本軍を背後から圧迫しようとした。飛行場があるミイトキーナが、両者の命運を分ける決戦場となったのだ。
 戦況は日を追うごとに日本軍に不利になった。およそ3万人の日本兵が命を落とす悪名高い「インパール作戦」が決行されたのは、ミイトキーナで慰安婦が捕虜になる5カ月前の44年3月。慰安婦たちが「暮らし向きがよかった」と答えた時期は、ビルマ到着から1年間くらいで、その時期に束の間の平和を感じたこともあったかもしれない。
 慰安婦が高額の報酬を得ていたのは確かだ。当時の1000円は朝鮮の工場労働者の3年分の年俸になるというから、半分ピンはねされ月750円であっても桁違いの報酬である。貧困から脱出できない朝鮮での暮らしを考えれば、想像もできない稼ぎをしていると思ったに違いない。女性たちが慰安婦にされた経緯は不条理そのものだが、それが売春の実態であり、犯罪の主体は抱え主、つまり女衒にあるという主張の裏付けとされるのが、この慰安婦の報酬だ。
 騙されたとはいえ、彼女たちは身売りされた身の上だ。戦場のビルマまで連れてこられ、そこで抗ったところで聞き入れてもらえるはずがない。貧しい家族を救う借金のため、なによりも自分が生き延びるため、忌まわしい運命を受け入れるしかなかったのかもしれない。もし彼女たちになんらかの自発性があったとしても、そういう類のものでしかなかったはずだ。また、借金を返済して帰国が許されたケースもあったようだが、先の「ブリティン2号」には、キタムラの慰安所からは一人も帰国できなかったと書かれてある。

 事情がどうあれ、一連の状況を生み出した軍が責任を免れるわけがない。なにより彼女たちが強いられた労働の実態は、あまりに過酷だ。「キョウエイ」では利用者が多すぎて混雑するため、月曜は騎兵隊、火曜は工兵隊といった具合に各部隊に利用日を割り当てる輪番制をとっていた。利用料金は兵士が1円50銭、下士官3円、将校5円。慰安婦1人の月の稼ぎは1500円ほどだったというから、利用者の8割が兵士、2割が下士官とした場合、大まかな計算で月に800人以上、1日に30人以上の軍人の相手をしなければならない。戦争さえなければ普通の人たちだった兵隊が、慰安所の前で列をなして順番を待つ光景は、あまりに荒んでいる。
 彼女たちが血の滲む思いで集めた金も紙くずとなる。ミイトキーナで捕虜になった時に撮られた20人の慰安婦の集合写真(写真1)を見ると、左側に東洋系の米兵4人も一緒に映っている。一番手前でしゃがんでいるのが中国系のウォンロイ・チャン大尉で、後ろの3人は日系2世兵士だ。チャンは80年代に回顧録ビルマ―知られざる物語』を出し、この時の様子に触れている。

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写真1。1944年8月14日、ミイトキーナで米軍の捕虜になった20人の朝鮮人慰安婦。左端がウォンロイ・チャン大尉、右端で黒っぽい服を着ているのが抱え主の「キタムラ・トミコ」と思われる(第164通信写真中隊フランク・シェアラー4等技能兵撮影)

 チャン大尉が初めて彼女たちを訪れた時、反抗的な態度の女性も1人か2人はいたが、一様に怯えていて、涙を流して泣いていたり、お辞儀をしてなにかを懇願する女性もいたという。写真左列の手前から3番目にいる、日本語が堪能なグラント・ヒラバヤシ軍曹が通訳となった。彼女たちは拙い日本語と朝鮮語をいり交ぜて喋り、話の要領を得なかったという。そのうちの一人の女性が、リーダーらしき別の中年女性に話しかけると、その内容を聞いていた女性たちが急にヒステリックな反応を示したという。彼女たちはカネが没収されるのを気にしていたようだ。
 リーダーの女性とは抱え主のキタムラ・トミコのことだが、彼女が米兵に向かって今後の処遇について尋ねると、ヒラバヤシ軍曹は「抑留は短期的なもので、インド移送後に朝鮮に帰れるだろう」と答えた。キタムラが朝鮮語になおして彼女たちに伝えると、誰もが少し安堵した表情を見せたという。
 キタムラは洋服に着物の帯を巻く奇妙な恰好をしていた。帯の中になにか詰め込み、妊婦のようにお腹が膨らんでいたので、チャン大尉が帯の中身を問うと、キタムラはしぶしぶ帯を解き、目の前に紙の束を取り出す。それは日本軍が発行する10(ビルマ)ルピー軍票の札束だった。敗戦でそれらは無価値になったと教えても信じようとしない。米兵は気の毒になり、軍票の一部をタバコやキャンディーと交換しようと申し出ると、キタムラはこれを「ピンはね」と考え、2束だけ差し出した。その瞬間、女性たちの口から一斉にため息がもれ、ある者はふてくされるように笑い、ある者は泣きだしたという。チャンはこう回想している。
「朝鮮の片田舎の農民の家から、こんな最果てまで無理やり連れてこられた彼女たちは、帝国日本の兵士の楽しみのためにだけここにいた」
 それでも生き残れたのだから、ミイトキーナにあった別の慰安所「キンスイ」の慰安婦よりましだったかもしれない。彼女たちは脱走する日本兵の後を追い、ミイトキーナを流れるイラワジ河をいかだ船で逃げようとしたが、ほとんど死亡したようだ。チャンは回顧録で「[脱出した慰安婦の]多くは日本軍兵士とともに、川沿いに待ち構える連合軍の狙撃兵に撃ち殺されたに違いない。生き残りも餓死したか北ビルマのジャングルの中で死んだだろう」と書いている。
 朝鮮語を話すキタムラ・トミコは、おそらく京城在住の日本人だったと思われる。だが、夫のエイブンは日本人らしからぬ名前だ。憶測でしかないが、朝鮮人のエイブンが日本人のトミコと結婚し、妻のキタムラ姓を名乗ることになったのかもしれない。
 韓国公営放送『KBS』の時事番組(18年8月21日放映)がインド移送後の彼女たちを追跡している。重要な発見はなかったが、キタムラ・エイブンの取り調べで正確な住所が記載されていることが分かり、番組で紹介された。英文を漢字になおすと「京城府青葉町2丁目64番地(モリ・タロウ方)」。父親の氏名は「キタムラ・ニタロウ」となっていた。現在のソウル市龍山区青坡洞2街66あたりになり、実際に訪ねてみると、開発で土地の区画が大幅に変わり、キタムラの手がかりを得ることはできなかった。
 戦前の青葉町には朝鮮総督府「朝鮮鉄道局」の官舎が立ち並び、緩やかな丘の上から京城駅(現ソウル駅)や南大門が見下ろせ、三越京城店(現新世界百貨店)などがあった繁華街にも近い。当時は京城でも有数の日本人居住地域だったという。どこからか大金の前渡し金を調達し、地方から慰安婦を集め、軍当局の許可を得て慰安所を経営するほどだ。キタムラ夫婦は名うての女衒だったに違いない。

米兵が撮った慰安婦たち

 ミイトキーナ守備隊が決死の脱出を試みた頃、中国国民党軍と対峙する雲南省の拉孟でも、日本軍は全滅一歩手前の状況におかれていた。日本軍は前述した援蒋ルートを寸断するため、42年5月にビルマから雲南省の怒江まで攻め入り、同ルート上にある拉孟に最前線の陣地を築き上げた。怒江西岸にある標高1500から2000メートルの山々に複数の防御陣地を構築し、陣地とトーチカを結ぶ交通壕を張り巡らせた難攻不落の要塞だった。陣地は中国側で松山(スンシャン)と呼ばれ、深い渓谷を流れる怒江を挟み両軍のにらみ合いが続いた。
 日本軍の拉孟占領から2年目の44年6月初め、中国軍第8軍は7万人の兵力を結集し、怒江を渡って総攻撃を開始する。歩兵第113連隊を主力とする日本軍約1200人の孤立無援の戦いが、それから百日も続くことになる。少年兵を多く含む寄せ集めの中国軍は初戦で甚大な被害を出すが、8月になると、陣地の地下まで坑道を掘り進め、計6000ポンドのTNT爆薬を仕掛ける。爆破(8月20日)は陣地の丘をカルデラのように陥没させる、すさまじい威力だったという。その後も日本軍の抵抗は続くが、9月7日、ついに全滅。一方、人海戦をとった中国側の犠牲も大きく、戦死者は7000人を超えた。そして、1週間後の9月14日には80キロ離れた騰越の日本軍も全滅し、北ビルマにいた日本軍は一掃された。
 拉孟攻防戦は第2次大戦でもっとも標高の高い場所で戦われ、日中双方が夥しい犠牲を出す凄惨をきわめた戦いだ。だが、戦後の中華人民共和国が国民党の対日戦勝利を評価しなかったため、あまり注目されることがなかった。米国でも「中国・ビルマ・インド(CBI)」戦域は「第2次大戦の忘れられた戦域」と呼ばれ、両軍が命運をかけた拉孟の死闘などほとんど知られていない。全滅した日本軍はといえば、生き残りの兵士の回想録しかないのが実情だ。その拉孟が再び脚光を浴びたのも、90年代初めの調査で慰安婦の存在が確認されたからだった。

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写真2。拉孟守備隊全滅後の1944年9月7日に中国軍の捕虜になった4人の朝鮮人慰安婦。右端の臨月の女性が朴永心(第164通信写真中隊チャールズ・ハットフィールド一等兵撮影)

   公文書館で発見された拉孟の写真(写真2)に写っていたのは、汚れた洋服を着た裸足の4人の慰安婦と、救出に当たった1人の中国人兵士。女性の1人は妊娠していて、苦しそうな表情だ。撮影したのは米陸軍の「第164通信(シグナル)写真中隊」(「写真中隊」)所属のハットフィールド一等兵。救出直後と思われるこの写真のキャプションには、松山で中国第8軍の捕虜になった4人の朝鮮人女性、撮影日は「9月3日」とある。これが後に慰安婦問題を象徴する歴史的写真になるとは、撮影者の一等兵は夢にも思わなかっただろう。

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写真3。1944年9月8日、中国人将校の尋問を受ける拉孟の朝鮮人慰安婦。左で立っているのは米軍連絡チームのアーサー・ビクスラー軍曹(第164通信写真中隊G.L.コクレック5等技能兵撮影)

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写真4。拉孟守備隊全滅後の1944年9月7日、中国軍に救出された直後と思われる朴永心が万歳をする場面。第164通信写真中隊のエドワーズ・フェイ軍曹撮影(『KBS』画面からキャプチャー)

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写真5。拉孟守備隊全滅後の1944年9月7日、中国軍に救出された直後と思われる朝鮮人慰安婦たち。写真2では、左の女性が左から2人目、頭から血を流す右の女性は右から2人目に写る。第164通信写真中隊のエドワーズ・フェイ軍曹撮影(『KBS』画面からキャプチャー)

 もう1枚の写真(写真3)には、4人の女性が中国軍第8軍の将校(シン・カイ大尉)の尋問を受ける場面が写し出されていた。撮影日は5日後の9月8日。シン大尉の後ろで立っているのは、米軍連絡チームのアーサー・ビクスラー軍曹とキャプションに書かれてある。拉孟に慰安婦は24人いたとされ、生き残ったのは数人の日本人慰安婦を含め10人だった。しかし、拉孟守備隊の全滅は9月7日なので、写真2の撮影日が9月3日なら、中国軍の砲弾が飛び交う中での救出になる。救出から5日たって尋問が行われたのも不可解だ。
 これらの写真を撮った米軍の「写真中隊」は通常、スティルカメラマン1人とムービーカメラマン2人でチームを組み戦場を記録する。昨年、『KBS』が同写真中隊が撮影したフィルム映像を発掘し、救出当時の生々しい状況をメインニュース番組(20年5月28日)で報じた。写真2に写る臨月の慰安婦が、同じ写真に写る中国軍兵士に手をとられ、カメラを前に万歳をする場面(写真4。『KBS』画面からキャプチャー)が映し出されていた。笑っているが、その表情はどこかぎこちない。他の女性たちの表情も強張り、不安そうだ(写真5。同)。中国軍に捕まれば強姦されたうえ殺されると思っていたのだろう。
 映像(写真5)で頭から血を流している女性は、写真2では臨月の慰安婦の隣にいる女性だが、そこでは血が拭かれている。救出直後に万歳した後、どこかで休んでいる時に撮られたのが写真2だったようだ。『KBS』も映像の撮影日を9月7日と推定しており、砲撃終了後の残存兵の掃討作戦で発見されたのなら、翌日に尋問(写真3)があったのも納得がいく。写真2の撮影日「9月3日」は記載ミスで、日本軍が全滅した9月7日に撮られたものだった。

 

 松山で捕虜になった慰安婦については、この他にも貴重な資料が発見されている。CBI戦域の米軍兵士の間で読まれていた『ラウンドアップ』(44年11月30日号)という週刊新聞に掲載された「ジャップ・コンフォート・ガールズ」というスクープ記事だ。これが世界最初の慰安婦報道である。記者はUP通信社(後のUPI通信社)のウォルター・ランドル。当時、重慶にあったUPの中国支局長だった。サルウィン(怒江)前線発とされる記事には、こう書かれている。

 

 日本はサルウィン前線にある松山、その他の大きな要塞に女性を運び込んでいた。中国軍部隊と共に行動した米軍の連絡将校は、騰越でこの日本の蛮行の証拠に初めて出くわし、1人の朝鮮人女性が近くの爆撃で日本軍の武器の山の中で埋もれているのを見て、目を疑った。
 満州を脱出した後、今は米軍に仕える日本語を話す中国人学生の助けで、松山の5人の哀れな女性たちの情報を得ることができた。そのうち4人は農民の娘で、24歳から27歳だった。彼女たちが着る西洋風の綿の服はシンガポールで買ったものだと言う。
低い腰掛に座った彼女たちはアメリカ製のタバコをむさぼるように吸いながら、数カ月に及んだ砲撃のショックからしだいに落ち着いていった。1942年初春、日本の官憲が彼女たちの住む平壌の村に来たと言う。宣伝ポスターを貼りだしたり、講演を開き、日本人たちはWAC[米陸軍婦人部隊]のような組織による募集のキャンペーンを始めた。それはシンガポールに行き、後方にある非戦闘地域の基地で日本軍兵士の世話をしたり、病院で娯楽などの手伝いをする仕事だと説明された。4人ともお金がどうしても必要だったという。そのうち1人は、農民の父親が膝に怪我をしたため、彼女が募集に応じることで1500円(およそ12米ドル)が与えられ、父親の治療費として支払われた。18人からなる彼女たちの一行は1942年6月に朝鮮を出港した。
[中略]一行がサルウィン前線の松山に着くと、彼女たち4人は、同じ掃討作戦で捕虜になった35歳の一般的な日本人売春婦である5人目の女性の監督下に入った。松山には合わせて24人いた。彼女たちは兵士の洗濯、料理、住んでいた壕の掃除もさせられた。報酬、故郷からの手紙は受け取っていないと言った。

 

 この記事には、彼女たちが救出された直後の内容が書かれているが、インタビューの日付や場所が特定されていない。読み方によれば、満州を脱出した中国人学生からの伝聞のようでもある。また、検閲があったためか、記事は救出3カ月後になって掲載されていた。
 ランドル記者について調べていると、同時期のUP中国支局にアルバート・レイヴンホルトという別の記者がいて、関連書籍(『海を西に越え東洋に』)の記述から、彼も拉孟攻防戦を取材していたことが分かった。レイヴンホルトは45年4月にランドルから中国支局長を引き継いでいる。拉孟守備隊に壊滅的な打撃を与えた8月20日の大爆破の現場は、『ニューズウィーク』特派員のハロルド・イサークと一緒に取材していた。拉孟守備隊が全滅した後、レイヴンホルト記者は通訳の助けで捕虜になった朝鮮人慰安婦のインタビューに成功したが、ドーン将軍の強い圧力で記事にすることができなかったというのだ。
 ドーン将軍とは何者なのか、調べを進めると、米陸軍CBI戦域司令官ジョセフ・スティルウェル将軍の最側近、フランク・ドーン准将だった。レド公路の構想者でもあるスティルウェル将軍は、ビルマ奪還のためインドに呼び寄せた中国軍兵士に軍事訓練を施し、ミイトキーナ攻略で活躍する「X軍」を創設する。同時に雲南省でも「Y軍」を作り、北ビルマで日本軍を挟み撃ちにした。Y軍は中国軍の総攻撃が始まる頃から「中国遠征軍(CEF)」と呼ばれ、松山と騰越の奪還に成功する。中国留学経験のあるドーン准将は昆明を拠点にするY軍の指揮をとった人物だった。膠着状態の拉孟攻防戦で日本軍を追い詰めた、あの大爆破も、彼の指揮で米軍の大量の爆薬が運び込まれて実施されたものだ。
 おそらくドーン准将は、写真3に写る米兵(米軍連絡チームのアーサー・ビクサー軍曹)から慰安婦の尋問内容とUP記者の取材を知り、記事の差し止めを要求したのだろう。ちょうどその頃、インドのレドではミイトキーナで捕虜になった慰安婦の尋問が続いていた。前線で相次いで捕虜になる慰安婦が、米軍上層部で重視されだしていたようだ。そして、「尋問報告49号」が提出された10月以降にエンバーゴが解除され、ランドル支局長が書き直して配信した、ということだろうか。

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1944年6月の騰越の戦いで連合軍の被害を視察する米陸軍CBI戦域のフランク・ドーン准将(ドーン准将評伝『並外れた兵士』より)

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怒江を渡り拉孟に進軍するY軍(ドーン准将評伝『並外れた兵士』より)

 ドーン准将の評伝『並外れた兵士』(米陸軍戦闘史研究所<CSI>出版、19年)という本に、知られざるCBI戦域におけるY軍の形成過程が詳述されている。だが、ドーン准将自ら関わった松山の慰安婦の話は出てこない。ただ、気になる記述が一つだけあった。拉孟に続き騰越が中国軍に占領された9月15日、日本軍の多くは自決したか、負傷者も彼らの戦友に殺害されていたと伝えた上で、現場を目撃した中国軍歩兵「リ・シフ」の話が紹介されている。

 

 コンフォート・ウーマン[慰安婦](日本軍が移送した売春婦)たちがいた場所があり、女性たちはみなピストルで自決していた。時折、城内の他の場所で、日本軍兵士がまだ銃撃してくることがあった。だが、我々の圧倒的な兵力で即座に彼らを取り囲んで殺した。敵がいた場所を占領してみると、日本軍兵士たちが鎖でつながれていたのを見た。足首に足かせをされてつながれ、一方の先にある大きな岩や建物の石の基礎に固定されていた。兵士たちの近くに少量の缶や食料があり、いずれの兵士も残りわずかな弾薬しか与えられていなかった。鎖でつながれた兵士たちの姿を見るたびに、我々は驚き、そして驚いた! 戦場に鎖でつながれるとは! いったいどんな敵と我々は戦ってきたのか?

 

 拉孟と騰越の慰安婦の実態は、90年代後半の浅野豊美・早稲田大教授の調査で初めて明らかにされた。慰安婦問題解決のために設立された財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」(以下「アジア女性基金」)資料委員会の委員としてまとめた「雲南ビルマ最前線における慰安婦達―死者は語る」(同財団ホームページで公開)には、浅野が米公文書館で発見した、騰越の戦闘で死亡したと思われる複数の慰安婦たちの写真が載っている。騰越の城内と城外の2カットあり、全滅翌日の44年9月15日に「写真中隊」フランク・マンウォレン(技能5等兵)が撮った。そのうち城外の写真(写真6)には、砲撃で焼け野原になった場所に塹壕のような溝があり、何体もの死体が放置されている様子が写し出されている。それを3人の中国軍兵士が見ているのだが、死体の腐乱が進み悪臭がするのか、手ぬぐいのようなもので鼻を覆う兵士も見える。キャプションには「不審に思って立ちすくむ中国兵士」とあり、「大部分の女性は日本軍基地にいた女性たち」と説明されている。この女性たちが自決した慰安婦だったのだろうか。

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写真6。騰越全滅翌日の1944年9月15日に撮られた女性たちの死体。中央奥にいるのが中国軍の張兆楷連長と思われる(第164通信写真中隊フランク・マンウォレン技能5等兵撮影)

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写真7。同じ場面を撮った白黒映像。第164通信写真中隊ボールドウィン一等兵撮影(『KBS』画面からキャプチャー)

 

虐殺か、自決か

 ところが、女性たちは日本軍に虐殺されたと伝える中国側の資料が発見された。「騰沖戦役期間 将軍系」(1981年)という資料を入手したジャーナリストの西田瑠美子が著書『戦場の「慰安婦」』(明石書店、2003年)で明らかにした。同資料で死体の現場について回想するのは、写真6の中央に写る中国軍の張兆楷連長。貴重な資料なので、西田が著書で紹介した部分を引用する。

 

 日本軍を殲滅し、我が軍が戦場を片付けていた時、西門城壁の土の穴に三人の女性を発見した。年齢は二十歳前後、容姿端麗、髪の毛が乱れており、彼女たちはまるで弓を見ただけで逃げ出す鳥のようにたいそう驚き怯え、銃殺されるのを怖がっていた。詳しい様子を尋ねると、彼女たちは元々台湾の同胞であり、日本軍によって強制的に軍妓(慰安婦)にされた女性たちだということだった。「軍妓院」(慰安所)にいたのはこの三人だけではなかった。筆者(張兆楷)が騰衡(騰越)城内に入り、戦闘が終わった後に城内を回っていた時、人間が燻る臭気がたちこめ、あちらこちらに死体が転がっており、土洞に大きな穴があって、そこには二十以上の死体があった。化粧をしていたのだろう。口紅を塗っており、流行の服を着て、胸が半分見えるような半裸の状態だった。(それらは)全て軍妓の死体で、穴の中に散乱していた。彼女たちの体に銃痕はなく、ただ、左右のこめかみに銃で打ち込まれた穴が開いていた。左から撃たれた一発の銃弾が右に貫通し、命が絶たれたのである。これは日本軍は全滅する最後の日に脱出・突破を決定した時、軍妓の命を助けようとせず一人ずつその場で銃殺し、慌てて穴の中に遺棄したものの、土をかぶせる余裕もなかったのだろう。土の穴に隠れていた三人の女性は、おそらく日本兵が混乱していたために忘れられ、命拾いしたものと考えられる。彼女たち三人は幸運だった。三人は我々により、台湾に送り帰されることになった。

 

 戦場を片付けるため、死体を土洞から壕に運び出した後に撮られたのが、写真6だったようだ。騰越には日本人、朝鮮人、台湾人の50人ほどの慰安婦がいたとされる。死体が朝鮮人だったかどうか分からないが、20人もの女性の全員が左利きで自分を撃ったとは考えにくく、日本軍兵士に至近距離でこめかみを撃ち抜かれた可能性が高い。さらに、当時騰越にいた中国人新聞記者が慰安婦に関する記事を書き、後に『騰越日報』にも転載された「騰越に於ける戦地記者の報告」(46年9月14日付)という記事にも、虐殺を示唆する内容があった。虐殺を免れた10歳前後の1人の中国人少女の話によると、全滅する直前の夜明け、「突然、一人の日本軍人がやってきて銃で十三名の営妓[慰安婦]の命を奪った」というのだ。これらの中国側資料から、慰安婦たちは「自決したのではなく日本軍人に銃殺された」と西田は結論づけた。
 拉孟と騰越で捕虜になった慰安婦たちは、中国軍司令部がある昆明の施設に収容され、取り調べを受けており、米軍も覚え書きの形で記録を残していた。「戦略情報局(OSS)」(CIAの前身)中国戦域の文書「昆明朝鮮人及び日本人捕虜(KOREAN AND JAPANESE PRISONER OF WAR IN KUNMING)」(45年4月28日付)によると、捕虜になったのは朝鮮人25人(女性23人、男性2人)、台湾人1人(男性)、日本人81人(女性4人、男性77人)。張兆楷の回想にある台湾人慰安婦3人の記録は抜け落ちていた。朝鮮人女性の場合、23人のうち10人が拉孟、13人が騰越で捕虜になり、抱え主の1人を除く22人が慰安婦だった。
 ドーン准将の評伝に登場する中国軍歩兵「リ・シフ」は「女性たちはみなピストルで自決していた」と証言し、張兆楷連長は「軍妓の命を助けようとせず一人ずつその場で銃殺」したと回想した。中国側資料が事実なら、確かに彼女たちの自決は物理的に難しく、射殺されたと考えるしかない。
 しかし、一人ずつ銃殺したという場面が、どうしても想像しにくい。彼女たちが防空壕の中に隠れていたのなら、手榴弾でひとまとめに殺せばいいのに、なぜ一人ずつ銃殺したのか。そして、こめかみを撃ち抜かれる彼女たちは、なぜじっとしたまま殺されたのか。なによりも、なんのために彼女たちを処刑しなければならなかったのか……。
 中国軍の総攻撃を受けていた守備隊に20人以上の慰安婦を虐殺するほどの余裕があったのか疑問も残る。食事や洗濯、弾薬運びまでしていた慰安婦たちを、まるで〝戦友〟のように思っていた日本軍兵士は多かったという。慰安所の情報が敵に漏洩するのを恐れて処刑するということはあり得るのか。
 おそらく女性たちは、中国軍に捕まれば殺されると信じていたに違いない。これも想像でしかないが、日本軍が玉砕する中で、軍人に言われるまま、一緒に死を選んだのではないだろうか。米軍は慰安婦の記録を数多く残しており、この件に関しては撮影までしていた。現場で虐殺の情報を得ていたなら、対日心理戦の格好の材料となり、詳細な記録を残していたはずだ。米軍は前述の文書で、進んで情報を提供した朝鮮人女性たちの誠意を高く評価していた。もし虐殺の兆しがあったなら、同じ境遇にあった彼女たちが何らかの証言をしてもおかしくない。

 浅野論文の公表から約20年後の18年、ソウル市が「3・1節」(1919年3月1日の独立運動を記念する日)99周年を記念して開催した「日本軍『慰安婦』国際コンフェランス」の会場で、騰越で虐殺された慰安婦の白黒フィルム映像(写真7。『KBS』画面からキャプチャー)が公開され、韓国メディアが大きく報じた。米公文書館で映像(19秒)を発見したのは、ソウル市の支援を受けたソウル大・鄭鎮星教授の研究チーム。『連合ニュース』(18年2月27日付)によると、日本軍による虐殺を立証する初めての映像であり、「朝鮮人女性30人が銃殺された」と伝える連合軍の文書も合わせて公表された。
 同研究チームは、このイベントの2年前に、同じ現場を撮った写真を米公文書館で見つけ、その後の調査で関連映像を見つけ出したという。さらに分析に1年かけ、公開に踏み切ったという説明だ。調査を主導した鄭鎮星は「日本政府が日本軍の慰安婦虐殺を否定する中で、戦争末期に朝鮮人慰安婦がおかれた状況と実態を見せてくれる資料」と強調した。ところが2年前に発見されたという、その写真は、20年前の浅野論文で公開された死体の現場写真と同じものだった。前掲の『戦場の「慰安婦」』にも掲載されており、研究者の間でよく知られた写真だ。
 映像の公開に合わせ出版された『日本軍「慰安婦」関係米国資料(Ⅰ Ⅱ Ⅲ)』(鄭鎮星編著、2018年、ソンイン)に、ソウル大研究チームが米公文書館で発掘した米軍資料がひとまとめで公開されている。「30人を銃殺」と記録した文書は、Y軍の報告日誌「G―3 Daily Diary」の44年9月15日付にあった。証言者は、ミイトキーナで数カ月前に日本軍の捕虜になり、騰越に移送されたビルマ人狙撃手。英軍捕虜が日本軍に処刑された情報と併せて、「[騰越陥落前夜の44年9月]13日夜、日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺した」とだけ証言している。目撃談か伝聞なのかは分からない。伝聞であるなら、ドーン准将の評伝に登場する中国軍歩兵「リ・シフ」が証言した、「女性たちはみなピストルで自決していた」という内容のほうが実態に近い気がする。
 鄭鎮星が映像を公開する2年前に出版した『日本軍性奴隷制』(ソウル大出版文化院、16年)を読むと、同書でこの記録の存在がすでに指摘されていた。米公文書館で同記録を発見したのは在米歴史学者の方善柱で、97年8月に韓国の民放『MBC』で紹介されていたという。写真も記録も20年も前に発見されていたことになり、その関連映像が発見されたに過ぎない。自決を強いたとしても戦争犯罪に変わりないが、自決と虐殺では意味合いがだいぶ異なる。これらの映像や文書を虐殺の証拠とするなら、より説得力ある論証がされるべきだった。さらに問題なのは、韓国メディアのセンセーショナルな報道で〝虐殺〟が既成事実として一人歩きしてしまうことだ。

 調査を主導した鄭鎮星は「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺隊協、現在の「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の共同代表を務めた運動家としても知られる。国連人権理事会の諮問委員を務め、この映像が公表される前年、韓国人として初めて国連人種差別撤廃委員会の委員(任期3年)に選出された。映像公表の半年後には、ジュネーブの同委員会の慰安婦問題に関する会合で使われた「性奴隷」という表現をめぐり、日本政府代表と舌戦を繰り広げ注目を浴びた。性奴隷という言葉へのこだわりには並々ならぬものがあり、当時の挺隊協の英語の名称が「日本軍性奴隷制度により連れていかれた女性たちのための韓国委員会」だったことからも分かる。
 慰安婦たちが性奴隷的な状況におかれていたのは事実だろう。しかし断定的な見方は実像を歪め、不毛な論争を呼び起こしてしまう。

 拉孟と騰越で捕虜になった朝鮮人女性の出身地は、北の平安道から中部の京畿道、南の慶尚道まで様々だ。米戦略情報局の文書によると、彼女たちのうち15人が朝鮮を離れたのは43年7月だったので、徴集時の平均年齢は23歳くらいになる。シンガポールの工場で働く新聞の募集広告に応じるなど、ここでも騙されて連れてこられた女性が多く、同じ船で少なくとも300人の女性が南方に送られたという。彼女たちの1年前にビルマに送られたミイトキーナの慰安婦の場合、同じ船に約700人の女性が乗船していた。戦況悪化のためか、慰安婦動員の規模が少し縮小したように見える。
 北ビルマの戦場で連合軍の捕虜になった朝鮮人慰安婦は合計で42人になり、名前や出身地など個人情報に加え写真まで発見されていたが、身元の確認はほとんどされていない。ミイトキーナの捕虜たちを追跡した『KBS』が、そのうちの1人である可能性が高い女性を割り出したが、すでに死亡していた。その女性は終戦後ずっと中国に残留し、10年くらい前に韓国に帰国したという。終戦の頃に出産したと思われる子供もいるようだ。ミイトキーナで捕虜になった慰安婦の中には、自分が妊娠初期だったことに気づかず、インドの拘留生活中に出産した女性もいたとされる。

 一方、拉孟で捕虜になった臨月の慰安婦は、半世紀以上を経て北朝鮮で生存していることが分かった。韓国で金学順という被害女性が初めて名乗り出た翌年(92年)、北朝鮮に「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」(後に「朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会<朝対委>」に改称)が発足し、慰安婦被害者の申告を呼びかけた。98年までに申告者数は218人にのぼり、そのうち43人が公開証言に応じていた。この時期に東京で結成された「戦争と女性への暴力」日本ネットワークが、旧日本軍の「慰安婦制度の責任者」を裁く民間法廷「女性国際戦犯法廷」を開くことを提唱し、北朝鮮も呼応する。騰越の中国側資料を発掘した西田が、元日本軍兵士の証言や戦記の記述と北朝鮮の申告者情報を突き合わせ、米軍の写真に写る臨月の慰安婦が朴永心(06年死亡)であることを突き止めた。
 朴永心は捕虜になってすぐ死産し、昆明の収容所に送られていた。終戦直後、捕虜の朝鮮人女性たちは重慶にあった大韓民国臨時政府の「光復軍」に引き取られ、終戦翌年にソウルに送り戻された。慰安婦にされてから7年後、朴永心はようやく朝鮮北部にある故郷の南浦に帰ることができた。2000年8月に平壌を訪れた西田と面会した朴永心は、「今まで妊娠したことを黙っていたのは、日本軍の子どもを宿したなんて、あまりに屈辱的なことで、とても話せなかった」(『戦場の「慰安婦」』)と言って涙ぐんだ。同年末、東京で開かれた女性国際戦犯法廷に参加するため、朴永心は生まれて初めて日本の土を踏んだ。来日を決意したのは、「彼らがどのように裁かれるのか、この目で見た」かったからだ。
 昭和天皇に有罪判決を下したこの民間法廷は、保守側から「極左プロパガンダ」と非難される波乱含みのイベントになってしまった。拉孟の全滅戦を生き残った朴永心は、半世紀後の日本を見て何を思っただろうか。

 拉孟で生き残った日本兵の聞き取り調査をした作家の遠藤美幸が09年に発表した「戦場の社会史:ビルマ戦線と拉孟守備隊の1944年6月―9月」によると、拉孟と騰越の捕虜が収容された昆明の収容所生活は、それほど厳しくなかったようだ。朴永心をよく知る元上等兵の早見正則はこんな話をしている。
「[昆明の収容所で]若春さん[朴永心の慰安所での名]はよく面倒みてくれて、洗濯などしによく来てくれました。中でも谷祐介軍曹と仲がよかったな。若春さんは日本語もうまいし、日本の歌もうまくて、よく流行歌を歌ってくれました。とても朗らで気分の良い人でした」
 収容所で再会した兵士と慰安婦たちが、長く辛かった拉孟の日々を語り合うこともあったという。生死を共にした日本軍兵士たちと慰安婦たちが命拾いした思いを分かち合うのは当然の成り行きかもしれない。だが、元兵士の聞き取り調査をした遠藤は、彼らが慰安婦を「戦友」と呼んでいたことに違和感を覚え、こう指摘している。「彼女たちの存在理由は、将兵の性欲のはけ口以外の何者でもなく、女性たちの恥辱と苦恨は心身から生涯消えることはなかった」
 彼女たちはみな植民地に生まれ、劣等意識を叩きこまれて育った。そのうえ慰安婦にされた身の上だ。兵隊の戦友であるわけがない。敵軍に救出されたとはいえ、長い慰安所生活の呪縛から抜け出すには、相当な時間がかかるはずだ。彼女たちの身に染みついた当時の行動や言動を鵜呑みにするだけでは、屈辱的な境遇を理解することなどできない。それが売春の実態だと主張しても、日本軍慰安婦の場合、軍の関与が明らかにされており、女性の人権を踏みにじった国家犯罪の誹りは免れない。

 

従軍慰安婦問題の原点㊦ 「事実上の強制動員」と「日本軍無実論」
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