殉教の中国イスラム、ジャフリーヤ

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『殉教の中国イスラム神秘主義教団ジャフリーヤの歴史』(張承志著・植村坦編訳 亜紀書房 1993年刊)という本がある。著者の張承志氏は北京大学歴史学部を卒業後、日本の財団法人東洋文庫で研究員を務めていた頃、同書を執筆した。

<一八世紀の終わりころ、一七八一年、馬明心が蘭州で殺害され、彼のサラール人教徒たちが蘭州で起こした反乱も全滅した。それ以来、一三〇年にわたって差別、弾圧、禁止を受けつづけたジャフリーヤという教派は、二〇世紀初頭、清朝の滅亡と民国の成立を迎えるころ、以上にみてきたような各地に広がったと伝えられるほど、中国イスラムスーフィー派の最大の一派になっていたのである。>

 中国イスラム、そしてジャフリーヤとは何なのか。この目で確かめてみたいと思った。北京を訪ねた時、帰国した張氏に連絡すると「あまり協力はできない」と消え入るような声で電話は切られた。同書に中国政府を批判する内容はなかったが、少数民族イスラム教に関する記述が当局を刺激したのかもしれない。

 同書の内容を頼りに、中国西北の黄土平原にある甘粛省を訪ねたのは90年代半ば。省都の蘭州から約300キロもポンコツのバスに揺られ、まだ外国人の立ち入りが認められていなかった張家川回族自治県にたどり着けた。乾燥した大地に埃が舞いあがり、いかにも貧しい町に見えた。

 町にある「清真西大寺」というモスクの中に入った時、思わず立ちすくんでしまった。信者たちが叫ぶような大声で「ラーイラーハ イッラッラー」(アッラーの他に神はなし。ムハンマドアッラー使徒である)とアラビア語シャハーダ信仰告白)を唱えていたからだ。中国のイスラム教の中でも特異な歴史を持つ「ジャフリーヤ(哲海忍耶あるいは哲赫林耶)」と呼ばれる教派のモスクだった。

 ジャフリーヤとはアラビア語で「高い声」という意味で、修行の際に大声で経典を詠むことから名づけられたらしい。清の第6代皇帝、乾隆帝の治世だった18世紀、馬明心という人物が遠くイエメンに渡り、16年間イスラムの教理を学んだ後、甘粛省に戻ってジャフリーヤを創始したとされる。教派の教えはあっという間に広まり、既存のイスラム教派の脅威になると、乾隆帝は旧教(既存教派)を保護し、新教(ジャフリーヤ)を禁じる決断を下す。禁教とされたジャフリーヤ教徒たちの反乱は、一時、蘭州城を包囲するほどの勢いだった。だが、教祖の馬明心が殺害され求心力を失ってしまう。その後の容赦ない弾圧でジャフリーヤは全滅し、奴隷として現在の新疆ウイグル自治区に送られた者も多かったという。

 それでも馬明心は人々の心の中でシャヒード(殉教者)として生き続けた。彼らは人知れず殉職者たちの墓、「拱北(ゴンバイ)」に寄り集い、「隠れキリシタン」のように密かに信仰の糸を繋いだ。清が滅亡して中華民国が成立するとジャフリーヤは禁教を解かれるが、すぐに国民党と対立。共産党勢力と共闘する道を選ぶ。これも束の間、中華人民共和国の「反右派闘争」の渦の中で再び厳しい弾圧の対象になってしまう。改革開放が進んだ80年代半ば、蘭州で馬明心の拱北の再建が認められ、ジャフリーヤは教祖殺害から約200年ぶりに、ようやく名誉を回復することができた。彼らを訪ねたのは、それから10年しかたっていない時期のことだった。

 張家川の清真西大寺でアホン(阿訇=宗教指導者)を務めていた老人に筆談でジャフリーヤについて尋ねると、後日、信者たちが近郊にある拱北に案内してくれた。ジャフリーヤの第7代ムルシド(導師)、馬元章の墓だという。彼らの祈りを見ていると、イスラム教なのか先祖崇拝の儒教なのか区別できない。絶えることのない弾圧を生き延びる人々の知恵が、祈りの中に隠されていた。

 

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拱北で祈りをささげる張家川のジャフリーヤ信者

 

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清真西大寺コーランを学ぶジャフリーヤ信者たち

 

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拱北で供養するジャフリーヤ信者たち