死の陰の谷「ワハン回廊」

ヒンドゥークシュ

 ソ連侵攻後のアフガンを取材していた1980年代後半、アフガンゲリラ「ムジャヒディーン」に同行して北部の山岳地帯を訪ねる機会があった。パキスタン北部から国境を越えるとヌーリスタン州のクナール渓谷が現れ、その谷底を流れるクナール川沿いのバリコットという場所に、ソ連軍の部隊が駐屯していた。陣地の様子を一目見るため、欧米の記者と筆者の5人で現地に向かった。
 クナール渓谷までの道は、苦難の連続だった。まず、真夜中に国境近くを流れる濁流の川を渡らねばならない。両岸に張ったワイヤーに小さな木箱をぶらさげ、夜陰に紛れ一人ずつ渡河。雪解け水で水量を増した川が轟音をたて流れていた。その後は、星の明かりを頼りに道なき道を徹夜で登る。山の斜面にはソフトボールくらいの石ころが一面に広がり、何度も足を踏み外した。足首をかなり痛めたが、きつい登攀は翌日も続く。結局、脱水症状で脱落者が続出し、取材どころではなくなってしまった。
 ヒンドゥークシュ山脈を甘くみたツケは大きかった。取材は断念し、谷底を流れる川をひたすら目指すことに。氷のように冷たい砂まじりの水にありつけたのは夕方だったと思う。そこで一夜を明かし、パキスタン国境警備隊に捕まるのを覚悟で川沿いの道を進んだ。

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国境を警備するパキスタン軍兵士。チトラル川で1986年撮影

 パキスタン領に戻ってからヒンドゥークシュの山々を改めて眺めると、こんなところで戦争をしている人間の愚かさを思うほかない。なかでも、100キロほど北にあるヒンドゥークシュ最高峰、ティリチミール(7690メートル)の雄姿は圧倒的だった。まるで紺碧の空を突き刺すように聳立している。ティリチミールの北に連なるノシャック(アフガン最高峰、7492メートル)からアフガン領になり、このあたりを起点とし、東西に細長く伸びる渓谷の道を「ワハン回廊」と呼ぶ。7世紀に唐僧の玄奘三蔵、13世紀にマルコポーロがこの道を通って中国に向かったことで知られる天空の道だ。ノシャックの初登頂は1960年に京都大学学士山岳会が成し遂げたというが、ワハンはまだ、世界に残る数少ない秘境だった。いつか旅してみたいと願ったが、かなわぬ夢となった。

謎の石仏

 ワハンはアフガン北東のバダフシャーン州に属し、東西に約320キロ、南北の幅が約10キロから65キロの狭隘な土地だ。この国の背骨となるヒンドゥークシュ山脈東部の北辺に位置し、南側でパキスタン、北側でタジキスタン、東の果てで中国と約90キロの国境を接する。ワハン回廊は、「世界の屋根」と言われるタジキスタン側のパミール山地とヒンドゥークシュ山脈の合間を氷河が削りとった巨大な渓谷だ。回廊は一本の道ではなく、二つの渓谷が重なるようにつながり、土地のほとんどが標高4000メートルを超す。風が強く、気温は1年のうち340日が氷点下になるという。渓谷を西流する川は中央アジアの大河、アムダリア(母なる川)の源流であり、東流する川は中国新疆ウイグル自治区カシュガル地方でシター川と合流する。アジア大陸の分水嶺ともなるワハン回廊の周辺地域は、東の中国から崑崙山脈、南東のパキスタンからカラコラム山脈、そしてヒンドゥークシュ山脈の三つの大山脈が三つ巴となった結び目のような場所であるため「パミール・ノット」と呼ばれている。
 東端の中国との国境は標高5000メートル近くの山が立ちはだかり、行きどまりだ。玄奘マルコポーロはワハン回廊からタジキスタン側を北上し、中国のカシュガル地方に抜けたようだ。つまり、現在の中国とアフガニスタンを直接結ぶルートは事実上存在しない。
 玄奘は『大唐西域記』にこう記している。
<この渓谷は東西千余里、南北百余里で、狭い所は十里足らず、雪山が塀のようにかなたをめぐっている。寒風はすさまじく、春も夏も雪が舞い、昼となく夜となく風が吹きすさんでいる。地は塩分を含んだ上に、石塊が多いから耕作はできず、草木も稀で、まったく住民の跡を絶った死の谷である>(前嶋信次著『玄奘三蔵』<岩波新書>から引用)
 玄奘によると、ワハン回廊のもっとも高い所に「大龍池」という大きな湖があり、湖畔に大鳥が生んだ亀のような大きな卵が転がっていたという。この湖は現在のゾルクル(Zorkul)湖だったとされ、今も玄奘が見た時と変わらぬ手つかずの自然が広がっている。引用した『玄奘三蔵』の著者は、同書で気になる記述を残している。
<川はワッフまたはワックといい、土地の名をワッハーンと呼んでいる。ここもトカーラの故地で、東西に千五百里もあるのに、南北の幅は四五里、狭い所は一里をこえぬ細長い国であった。住民は碧い眼をしたアリヤン系の容貌をしていたが、礼儀を知らず、みすぼらしい風采だった。都を昏駄多城といい、先代の王の建てた寺があった。岸壁を切り開いて造り、石刻の仏像を安置してある。その頭上の金銅の円蓋は種々の宝石で飾って荘厳なものであった。>
 仏教(他の宗教も)に興味があるわけではないが、玄奘が見たのは、いったいどこの寺のどの石仏なのか……。

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Louis Dupree著『Afghanistan』より。ワハン回廊の奥に見える山はソ連領のパミール。著者が1966年に撮影したものとみられる

 

ワハン観光は再開されるか

 現在の「死の谷」の住人は、タジク人、ワヒ人、そしてキルギスタンからパキスタンまで移動していたキルギス遊牧民たち。南方から来たパシュトゥーン人勢力のタリバンが、ワハン回廊に初めて足を踏み入れたのは7月初め。すでに政府軍兵士はタジキスタンに逃げ込み、蛻の殻だった。回廊の真ん中あたりにある最後の村、サルハデ・ブロギルまで何の抵抗も受けず進んでいったという。そこから先は遊牧民がたまに現れるだけで、タリバンは早々と引き返したようだ。
 ワハン回廊はどの国の領土にも属していなかったが、中央アジアの覇権をめぐる大英帝国ロシア帝国の対立「グレートゲーム」の結果、アフガニスタンの領土に組み込まれた。19世紀後半、南下するロシアと英領インドが衝突を避けるため緩衝地帯を必要にしたためだ。アフガン北部はアムダリア川が国境になったが、ワハン回廊はロシアと英領インドが地つなぎになってしまうので、へその緒のような奇妙な領土をつくりだした。東端の中国との国境も1896年までに画定し、現在の国境線ができあがる。この国境線を中華人民共和国アフガニスタンが認めたのは1964年になってからだ。
 1979年にソ連アフガニスタンに侵攻して以来、途切れることなく紛争が続き、禁断の地・ワハン回廊は人々から忘れ去られた。そのワハンに、日本のテレビ取材班が入り込んだのは同時多発テロの直前の2001年夏。女優の鶴田真由さんがワハンを行く驚きの内容だった。番組は同年12月25日に「ネイチャリングスペシャル 地球最後の秘境ワハーン アフガン・パミール高原を世界初取材」と題してテレビ朝日系列で放映され、テレビの前で釘づけになったのを覚えている。なぜ女優が軽々とワハンに行けたのか理解に苦しんだが、おそらくやり手の現地コーディネーターが関わったのだろう。
 パキスタン北部からワハン回廊に入るには、標高4977メートルのアーシャッド峠を越えるしかない。旧シルクロードの一つで、キルギス遊牧民が使っていた古来からの交易路でもある。取材班一行もこの峠を越えてワハンに向かっている。当時のワハンはタリバンと対立する北部同盟の影響下にあったので、彼らの許可も事前に得ていたようだ。回廊をすべて踏破したわけではないが、日本のテレビならではの奇抜なアイデアだ。
 米軍侵攻後、ワハン回廊は『ナショナルジオグラフィック』はじめ欧米のメディアが取材しており、秘境を求めるツーリストも訪ねるようになった。もはや秘境とはいえないが、もしタリバンが観光を認めれば、中国側から観光客が押し寄せる新たな事態も予想される。秘境が秘境であるためには、カメラマンたちが行かないのが一番いいのかもしれない。