「白人の地上軍」は勝てない 繰り返される失敗

 朝鮮戦争で中国と交戦した米国にとり、(冷戦下の)アジアでの共産主義の台頭は新たな脅威になりつつあった。政情不安の南ベトナムでは、ベトコンが急速に影響力を強め、米国の支援なしに国を維持することさえ不可能な状況だった。米国にとり南ベトナムの政治的価値は低かったが、ここで防共の砦を守らないと東南アジア全域が共産化するという「ドミノ理論」が幅を利かすようになり、自らフランスの後任者を名乗り出ることになる。
 しかし、ベトナムは港湾、鉄道、幹線道路などが未整備で、仮に北ベトナムのベトミンと戦争になれば、兵員動員数やインフラ整備で朝鮮戦争とは比較にならない巨額の予算が必要とされるばかりか、南ベトナム国民のほとんどがベトコン側につくことも予想された。米国がなにより恐れたのは、中国人民解放軍の参戦という悪夢の再来であり、常識的に考えたら、戦争という選択肢はありえなかった。
 ところが当時のケネディ政権は、朝鮮戦争型の共産勢力の南侵に備え、南ベトナム軍を訓練するため61年に軍事顧問団の派遣に踏み切る。南ベトナム軍のゲリラ掃討作戦を実施する軍事物資の支援も増強し、密林上空から枯れ葉剤を散布する「ランチハンド作戦」も始まった。同年末に約3千人だった駐留米軍顧問団の規模は、2年後には1万6千人に増やされている。顧問団という象徴的な存在とはいえ、米軍のプレゼンスが戦争の抑止力になると信じられたが、無能な上に腐敗しきった当事者の南ベトナム政権が気がかりだった。そこで考えられたのが「北爆」である。北ベトナムへの紛争拡大が、必然的に南ベトナムへの米国の介入強化をもたらし、戦時体制が維持できるようになると判断したためだった。こうしてインドシナ紛争の「アメリカ化」が現実のものとなっていく。
 1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で米駆逐艦に対する魚雷攻撃事件が発生。後に、事件は米軍が仕組んだものだったことが明らかになるが、ケネディ暗殺後に大統領に就任したジョンソンは、翌65年3月26日に大規模な北ベトナムへの北爆「ローリング・サンダー作戦」を開始させる。北爆は全面戦争を想定したものではなく、圧倒的な空軍力で北ベトナムを屈服させ、爆撃の停止を交渉の条件にするつもりだった。その証拠に、北爆実施の直前まで、米軍の地上戦闘部隊の派遣すら決めていなかった。
 このためベトナム駐留米顧問団のウィリアム・ウェストモーランド将軍は、北爆発進基地となるベトナム中部のダナンにある空軍施設の安全維持を目的に、海兵隊2個大隊の派兵を要請する。派兵は爆撃の1カ月前に認められ、3月8日に海兵隊3500人がダナンに上陸。米軍の戦闘部隊が初めてベトナムの地を踏んだ。それは、後にベトナム戦争の負の象徴となるウェストモーランド将軍が、名実ともにベトナム駐留の米軍司令長官になったことを意味した。
 共産主義を防ぐ砦、ベトナム…。遠いアジアでの戦争の「エスカレーション」に誰も異議を唱えようとしない中、米政府内でたった一人、介入に強硬に反対した人物がいた。トンキン湾事件捏造を含むベトナム戦争に関する米政府極秘文書、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」が71年にニューヨークタイムズ紙に暴露された際、ベトナム政策の失敗を指摘していた国務次官ジョージ・ボールの意見書の存在も明らかにされるが、そのボール次官は、北爆後の65年7月1日付のジョンソン大統領宛のメモ「南ベトナムにおける妥協的解決」で、こう述べている。

<規模をいくら増やしたところで、密林地域に人口が密集する内戦状態にあるアジアの国のゲリラ戦で、「白人の地上軍」への協力を拒み、はるかに多くの情報が敵側に提供される中で勝つ見込みなどない。>

 その根拠として、ボール次官は「9千人の海兵隊で守られていたダナン航空基地に侵入された上での奇襲攻撃は、地域住民の協力なしに実現するはずがなかった」と指摘した。ボール次官の主張は退けられ、米政府はベトコンの戦闘能力について十分な情報を得ていたにもかかわらず、「白人の地上軍」の優越さからアジア人の敵を侮り、破局へと突き進んだ。
(拙著『韓国軍と集団的自衛権』から)