難民を死の海に追いやるBREXIT

 フランス北部カレー沖のドーバー海峡で24日、イギリスへの密航を図った不法移民の乗るゴムボートが沈没し、少なくとも27人が死亡した。死亡者の中には子どもや妊婦もいたが、救助された2人(イラク人とソマリア人)以外の国籍は分かっていない(※1人はイラククルド人女性と判明)。ゴムボートでイギリスへの越境を試みる事件は近年増え続け、フランス当局によると今年だけで4万7000件確認され、そのうち7800人が救助されている。またイギリス議会の報告では、今年イギリスに不法入国した移民は去年の3倍の2万3000人に及ぶ。英仏海峡トンネルを利用する大型トラックの取り締まりが厳しくなり、航海に適さない安価なゴムボートでイギリスを目指すようになったという。一つのゴムボートに少なくとも30人乗るので、大半がドーバー海峡で溺れ死んでいることになる。

 主に中東や北アフリカ出身の移民たちは、長旅の果てにドーバー海峡の最狭部にあるカレー周辺に集まってくる。目指す先はここから34キロ先のイギリス。すでに親族や知り合いがイギリスに住んでいたり、英語が通じるので不法就労しやすい上、賃金も他のヨーロッパ諸国より恵まれているためだ。だがイギリスの沿岸警備は一段と厳しさを増しており、海上で発見されればフランスに追い返されてしまう。フランスでもカレー周辺の森に野宿する不法移民のテントや寝袋を押収するなど、難民キャンプを根絶やしにする取り締まりが続いている。しかし取り締まりが厳しくなるほど、不法移民たちの密航ブローカーへの依存度が高くなり、死を覚悟の危険な航海が後を絶たなくなった。一晩で50回も送り出されたこともあったという。

 イギリスを目指す不法移民の増加は、皮肉にもイギリスの欧州連合(EU)からの離脱「ブレグジット(BREXIT)」にも原因がある。今回の事件直前にフランスの不法移民の実態を調べたイギリス紙『ガーディアン』(11月12日付)によると、彼らの多くが、イギリスはもはやEUではないので捕まっても送り帰されないと信じていたという。スーダンから来た19歳の男性は同紙にこう話している。

「イギリスにたどり着けさえすれば、ブレグジットのおかげでやっと安全になれると思う。〝ダブリン〟も〝指紋〟もないから」

 地中海を渡る時にひどい虐待を受け、フランスに着いてからも警察の暴力的な取り締まりでひと時も休まることがなかった彼は、イギリスに着けば何もかも解決すると信じ切っていた。彼が口にしたダブリンとは、EU加盟国の領域内で、難民が国際的保護を求める「庇護申請」をした場合、最初に到着した国で申請・審査することを定めた「ダブリン規則」のことだ。例えばギリシャの難民管理をすり抜けてドイツで保護申請をしても、原則的にはギリシャに送り戻される。結果的にEU域外と国境を接する国々に負担が集中することになり、制度の見直しが迫られている。また不法移民の身元を一元的に管理する「ユーロダック指紋データベース」により、複数国で庇護申請をすることもできなくなった。ブレグジット後のイギリスは不法移民のフランス送還はおろか、同システムにアクセスする権限まで失い、難民審査に支障をきたしている。過去12カ月間にイギリスで庇護申請をした人は3万1115人に達した。

 難民・移民はシリア内戦を機に増え続け、ヨーロッパに100万人もの人が押し寄せた2015年の難民危機では、イギリスを目指す無数の人がカレーに集まった。自然発生的に生まれた劣悪なカレーの難民キャンプは「ジャングル」と呼ばれ、最盛期には1万人を超えていたという。規模が大きくなるにつれ、フランス当局の取り締まりが厳しくなり、ヨーロッパの反人道的な難民政策を象徴する場所としても知られるようになった。ジャングルは2016年10月に強制撤去され、今は跡形もないが、人権団体「ヒューマン・ライト・ウォッチ」によると、まだ約2000人の難民・移民が周辺の森に隠れ住み、その中には保護者のいない子どもも約300人いるという。

 難民の歴史上、特筆すべき場所になったジャングルを描いた『Threads : From the Refugee Crisis』(https://www.amazon.co.jp/Threads-Refugee-Crisis-Kate-Evans/dp/1786631733/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=Threads+%3A+From+the+Refugee+Crisis&qid=1637738421&sr=8-1。)というマンガがある。著者のイギリスのマンガ作家ケート・エバンスはジャングルで実際に支援活動を行い、ゴミ溜めと変わらない奈落の底のような生活の中で苦難を強いられる人たちを描き出した。難民を語る時に口にされがちな理想主義的な言説より、マンガという分かりやすいメディアを通して難民問題の真実を伝えようとしたようだ。

 国連難民高等弁務官事務所UNHCR)によると、2020年に紛争や迫害により故郷を追われた人の数は過去最高の8240万人(UNHCR支援対象者)。出身国はシリア(670万人)、ベネズエラ(400万人)、アフガニスタン(260万人)、南スーダン(220万人)、ミャンマー(110万人)の5カ国で全体の約3分の2を占める。今年は米軍のアフガニスタン撤退やエチオピア北部ティグレ州での内戦などが重なり、さらに増える見込みだ。

f:id:beh3:20211127181538j:plain

Threads: From the Refugee Crisisより

f:id:beh3:20211127181554j:plain

Threads: From the Refugee Crisisより

f:id:beh3:20211127181606j:plain

Threads: From the Refugee Crisisより






 

それでも難民はヨーロッパを目指す

f:id:beh3:20211119174151j:plain

ポーランド軍に越境を阻止される不法移民(ポーランド国防省公表)

 ベラルーシポーランドの国境地帯で立ち往生していた難民・移民に避難所が提供され、母国への送還も始まった。しかしベラルーシが避難所として提供した国境近くの倉庫には2000人ほどしか収容できず、極寒の中、今も多くの人が放置されたままだ。ベラルーシに残る難民・移民の総数は約5000人と見積もられ、今後の処遇が注目される。

 彼らは今年夏から飛行機でベラルーシの首都ミンスクに移動した後、7月にリトアニア国境、9月にポーランド国境に押し寄せてきた。出身地はナイジェリア、シリア、イラク、イラン、アフガニスタンパキスタンスリランカなど様々だが、特にイラク北部クルディスタン地域のクルド人が多いという。同地域は比較的安定しており、紛争や迫害から逃れてきた難民ではない。恵まれたヨーロッパでの生活を目指し国境に殺到しているとみられ、目的地はドイツやイギリスなど西欧の富裕国だという。

 ベラルーシ政府は今年夏から、国営の旅行代理店「セントゥルクルオルトゥ(Tsentrkurort)」を通して入国ビザを簡素化した上、国営航空会社「ベラビア(Belavia)」の中東路線を大幅に増便。さらにミンスクに到着した不法移民を組織的に案内して国境に送り込んでいた。ビザ、航空チケット、宿泊、国境への移動を含めたパッケージ料金は約3000ドルになり、多くの人が借金をしてまでツアーに参加していた。これほど安全にヨーロッパに越境できる方法はないからだ。

 ベラルーシのルカシェンコ政権は、昨年8月の大統領選の不正に抗議するデモを暴力的に弾圧するなど、度重なる人権侵害で欧州連合(EU)から経済制裁を受けている。その報復措置として、不法移民を「武器」にEUを混乱させようとしたようだ。これに対しポーランド政府は9月から国境地帯に国家非常事態を宣言し、1万人を超える兵士を現地に投入。鉄製フェンスや蛇腹状の有刺鉄線を国境に設置して流入を阻止した。強制的にベラルーシ側へ追い出す過程で、少なくとも12人が死亡している。

 

「難民申請者は不法入国を理由に罰せられない」とする難民条約の原則に基づき、EUは紛争や貧困から逃れてきた難民・移民を人道的見地で受け入れてきた。だがシリア内戦で100万人もの人がヨーロッパに押し寄せた2015年から、加盟国の間で意見が割れ始め、最前線に立たされたバルカン半島ギリシャハンガリーでは、EU主要国が消極的だった鉄条網が国境に設置された。今回の事態を受け、ポーランド政府はEU財政で国境にフェンスを設置することを求めており、ワルシャワを訪れた欧州理事会のシャルル・ミシェル議長も「EUを守るための物理的な障害物について議論する」と積極姿勢に転じている。また、ポーランドが不法移民を一方的に追い出していたのは、同国議会が10月、不法入国した外国人の難民申請を拒める改正法を可決していたためだ。

 ポーランドでは2015年の総選挙で右派政党「法と正義(PiS)」が単独過半数を得て政権を握って以来、右傾化が進んでいる。同年に起きたシリア難民危機に際し、党首のヤロスワフ・カチンスキイスラム教徒の不法移民を「寄生虫と原生動物」に例え、国民に脅威を煽った。政権掌握後は司法の独立や報道の自由を制限。性的マイノリティーのLGBTを排除する差別的政策や、胎児に障害があった場合の人工妊娠中絶すら禁止する実質的な中絶禁止など、民主主義に逆行する強権的な政策を相次いで打ち出している。人口の約9割を占めるカトリックの保守的理念に反する者たちをすべて「悪魔化」し、それと戦う姿勢を示すことで支持を集めているのだ。

 ポーランド内相は10月、国境地帯で拘束した不法移民から押収した携帯電話に牛と性交する男の画像があったと公表し、政府系の国営放送局TVPが「牛をレイプした男がポーランドに入国したい?」と扇情的に報じた。画像はネットで拡散するポルノ映像から抜き出されたもので、押収された携帯には保存されていなかった。TVPはこの他にも、スウェーデンに住む難民の発砲事件の映像を取り上げ、同様の事件がヨーロッパで毎日のように起きていると伝えている。これもネットフリックスで放映されたフィクション映像をコピーしたフェークニュースだった。

 

 ポーランドに押し寄せた不法移民の数は、ヨーロッパ全体からすればさほど多くない。国連難民高等弁務官事務所UNHCR)などのデータでは、今年7月から9月までの3カ月間にバルカン諸国とイタリアの6カ国にたどり着いた難民・移民は約6万1000人になる。そのうち約1万4000人が子どもで、性的被害を受けていた女性や子どもは約7400人と推計される。またバルカン諸国とトルコで難民支援活動を行うNGOの共同体「ボーダー・バイオレンス・モニタリング・ネットワーク(BVMN)」によると、難民・移民を強制的に隣国に追い出す事例も続出している。人権を無視した取り調べや虐待、行き倒れになった人たちの無縁墓も各地で確認されるようになった

 中東やアフリカの不法移民たちの間では、トルコからボートでエーゲ海を渡りギリシャ沿岸を目指すルートが一般的だという。しかし彼らを引率するブローカーが厳罰に処されるようになり、今では危険極まりない航海になった。引率者なしで自力で航海せざるを得なくなったからだ。昨年12月、30人以上の不法移民で鮨詰めのボートがギリシャ領のレスボス島に漂着したケースでは、途中で女性2人が海に投げ出され死亡。生き残るため舵を握ったソマリア人が引率者と判断され、142年の刑が宣告されている。厳罰措置は難民らを支援するNGOにも向けられ、スパイ容疑や資金洗浄など、あらゆる罪状をつけて起訴しだした。NGOの活動を委縮させることに狙いがあると言われる。ギリシャ当局が特に神経を尖らせるのが、難民・移民の不法な追い出しを監視するBVMNであるようだ。

 この他にも、アフリカ北西のモロッコからスペイン沿岸を目指す不法移民も多く、急流のジブラルタル海峡で命を落とした人は今年1月から6月までに2000人を超える。スペインの海岸に打ち上げられた死体が発見されるのは珍しくなく、ボランティアによる身元捜しが細々と行われている。

 命懸けのヨーロッパへの脱出が後を絶たない原因は、母国の政情不安や政治腐敗がもたらした底なしの貧困。ポーランド国境に殺到したイラククルド人たちの場合も、権威主義的な自治政府の失策による経済破綻と失業率の増加で、生活の目途がたたなくなったためだった。彼らの多くがベラルーシからの送還にも応じず、引き続きポーランドを目指しているのだという。

 

 

 

誰も救えない流浪の脱北民たち

f:id:beh3:20211108141448j:plain

凍結した中朝国境の豆満江。対岸が北朝鮮。2007年撮影

脱北民にすらなれず
(※「脱北者」を韓国での呼称「脱北民」と表記)

 韓国法務部(省)傘下のソウル出入国・外国人庁で11月4日、北朝鮮を脱出した元住民4人が申請した難民審査の結果が発表された。4人は北朝鮮に移住した中国人の親と共に同国で50年近く暮らし、公民証の登録もされている華僑。北朝鮮国籍はなく、中国政府も彼らを自国民と認めていない。中国の公民証を得るには3年以上の居住や所得証明など一定の条件を満たさねばならず、難民状態で中国に逃れていた彼らには資格がない。結局彼らは脱北民同様、韓国を目指すことになった。だが、韓国政府は彼らを脱北民とみなさず、中国にも受け入れを拒否され「無国籍者」として一時滞在のビザを発給した。どこにも定住先のない彼らが最後に望みを託したのが難民申請だった。

 法務部はこの日、「脱北華僑たちは北朝鮮で迫害されていた経験がない」ことを理由に申請を却下した。4人を支援してきた「脱北難民人権連合」の金龍華会長は記者団に、「アフガニスタン難民を受け入れておきながら、北朝鮮を逃れてきた人はだめなのか」と怒りをぶつけた。

 北朝鮮在住の華僑は終戦直後に4万人ほどいたとされるが、今は5000人に満たないという。中朝国境を比較的自由に往来できることから、外貨稼ぎの貿易商を営む人が多く、どちらかと言えば恵まれているが、国連の経済制裁が長引く中で彼らの生活にも影響がでだし、脱北する人が増えているようだ。そして、どの国にも受け入れてもらえず当て所もなく彷徨い続けている。

 韓国籍を得た脱北民の中にも、国の支援を得れない不安定な人たちがいる。脱北民は女性が圧倒的に多く、中国で知り合った中国人男性との間で生まれた子を韓国に連れてくることもある。こうした子どもたちは「第3国出生脱北民の子」に分類され、支援の対象外になる。その数は2018年の調査で1530人。韓国語がうまくできないため同級生からいじめられ登校拒否になるケースが多い。脱北民なら大学も特別枠で進学できるが、彼らの場合、韓国人生徒と同じ厳しい受験競争を経ねばならず、大学進学はほとんど不可能だ。しかも彼らには脱北民に免除される徴兵義務まで課され、数年後から順次、軍隊に送り込まれることになる。

 

www.youtube.com映画『影の花』予告編

 北朝鮮の家族に会いたい

 北朝鮮に帰して欲しいと訴え続ける脱北女性もいる。平壌に住む主婦だったキム・リョンヒ(52歳)は、2011年に病気治療のため中国に行った時、「韓国に行けば大金を手にすることができる」と脱北ブローカーに誘われ、ラオス、タイを経て韓国に入国した。家族を残してきた罪悪感から、国家情報院(国情院)の取り調べの際に北朝鮮への帰国意思を伝えるが、聞き入れてもらえなかった。そして転向を誓う「保護同意書」を書き韓国国民になった。旅券さえあれば中国から北朝鮮に帰れると考えたのだが、国情院は彼女の旅券発給を差し止めてしまう。

 家族との再会を願う彼女の悲痛な訴えはドキュメンタリー映画『影の花』(イ・スンジュン監督、10月27日封切り )で紹介され、韓国で話題になっている。映画では彼女が平壌の家族と電話で話す場面も登場する。脱北民に限らず韓国人が北朝鮮住民と接触すれば「会合・通信罪」に問われるが、家族の生死確認などの事情がある場合は事後申告で済むのだという。この映画で特に話題になっているのは、平壌の家族も取材されていることだ。撮影したのは当局の許可を得たフィンランド人の映画監督で、家族を引き裂く南北分断の現実が生々しく描かれた。

 韓国に到着した脱北民たちは、国情院傘下の「自由ヌリセンター」(10月に「北韓離脱住民保護センター」から改称)で取り調べを受けた後、統一省傘下の「ハナ院」で韓国社会に適応するための教育を受ける。脱北民の生活支援機関として「南北ハナ財団」もあるが、筆者が会った多くの脱北民の話では、韓国社会での生活や就職にほとんど役に立っていないという。韓国当局が脱北民の北朝鮮帰国を認めない理由は、こうした国家機関の情報が北朝鮮側に漏れるためだというが、すでに韓国から北朝鮮に「再入北」した脱北民は多く、情報は筒抜けだ。統一省によると2010年から2020年までの10年間に再入北した脱北民は、確認されただけで29人(うち5人は再び韓国に脱出)になる。

 再入北の先駆けとなった事件は2012年のパク・ジョンスク(当時67歳)の脱出だった。韓国に定着した脱北民だった彼女が突然、平壌の記者会見場に現れ、「韓国での生活は奴隷のようだった」と訴えた。その後も脱北民たちの再入北が続き、北朝鮮プロパガンダに沿った会見がされた。北朝鮮に残された家族への脅迫や不利益が再入北の動機になっているのは間違いないが、理由はそれだけではなさそうだ。脱北民たちが命懸けで脱出したはずの北朝鮮に戻っていく姿は、韓国での社会適応がいかに困難であるか見せつけている。

脱北女性たちの窮状

 もともと韓国では北朝鮮からの亡命者を「帰順者」と呼び、体制の優位性を宣伝する手段として利用された。1993年までの帰順者の総数は641人。年間一桁を超えることはなかったが、1995年から飢饉に伴う餓死者が急増し、住民が国境を越え中国の韓国大使館や領事館に押し寄せる事件が頻発した。「脱北者」という言葉はこの頃に生まれた。韓国に入国した人の総数は2006年に1万人、2011年に2万人を突破し、今年10月現在で3万3788人に及ぶ。身近な存在になった彼らは韓国で脱北民と呼ばれるようになった。

 脱北民なら誰でも韓国を自らの意思で選択した祖国という意識を持つ。だが韓国人の多くは彼らを最貧国から来た移住民くらいにしか考えず、同胞という意識は希薄だ。脱北民と知られると職場で嫌がられるので、中国朝鮮族を装う人も少なくない。北朝鮮で検事を務めたエリート脱北民が宅配のアルバイトをしていることで話題にもなった。また脱北民の72%を占める女性の多くが、中国で人身売買や性的搾取の被害を受け、韓国に来てからも過去のトラウマから立ち直れないでいる。社会適応の前にメンタルヘルスの治療が必要なのに、不慣れな社会に放り出され、歓楽街に身を落とす女性も多いと聞く。

 10年前に彼女たちの実情を調べていた時に知り合った「エステル」と名乗る30代の脱北女性は、こう語っていた。

「ハナ院の教育課程を終えた女性たちの社会進出を支援する仕事をしたことがあります。半数以上が精神科の治療を受けていて、自力で生活していける状況ではありませんでした。脱北とはしばらく中国で生活するということですよね。17歳の娘が、ある日突然、自分の父親のような年齢の中国人に売られて妾にされ、性的暴行を受け続ける。自分が産んだ赤ちゃんを育てていけないから、うつ伏せにして息が絶えるのを見守ったことがあると、うつろな表情で語る女性もいました。忌まわしい過去から逃れられないから精神的におかしくなる。そんな彼女たちに社会適応といっても酷な話です」

 脱北問題とは、深い心の傷を負った女性の問題だと彼女は強調した。

コロナ禍で消えた脱出ルート

f:id:beh3:20211108141948j:plain

2007年に撮影した鴨緑江下流の中国側に作られた国境フェンス。今はさらに厳重な警備態勢がとられる

 食糧難が主な理由だった初期の脱北に対し、2000年代後半からは政治や社会に不満をもつ人たちの脱北が顕著になった。中でも子どもの将来を考え韓国を目指すケースが多いらしい。しかし塾や課外活動に高額の教育費が必要な韓国で、脱北民の子どもたちは例外なく落ちこぼれ、学校では仲間はずれにされる。筆者が会ったひきこもりがちの脱北民の女子高生も、友だちに脱北民であることを絶対に知られないようにしていると話した。

 一方、希望のない韓国での生活を見限り、外国に行って偽装の難民申請をする、いわゆる「脱南」事例も相次いだ。統一省の資料(2019年7月)によると、国外に出国したまま帰国していない脱北民の数は749人になり、そのうち69人が欧米で新たに難民申請をしていた。最近は各国の難民審査が厳しくなり減少傾向にあるが、脱南の主な動機も子どもの教育だったという。

 しかし新型コロナウイルス感染症が広まりだした昨年1月に北朝鮮が国境を封鎖してから、住民の脱出は極めて難しくなっている。昨年韓国に入国した脱北民は229人、今年は48人(9月まで)に激減した。中朝国境の監視体制も一段と強化され、ワクチン接種証明書がなければ移動も容易でないため、脱北ブローカーの多くが活動を中断した状態だ。韓国の放送局『MBN』(10月26日放映)が入手した北朝鮮の警察「社会安全部」の資料には、「伝染病を防ぐため国境から2キロを緩衝地帯に設定し、鴨緑江豆満江に侵入した者は予告なしに射撃する」と記されてあった。

f:id:beh3:20211108174452j:plain

北朝鮮の国境警備兵。豆満江上流の崇善で1996年撮影

f:id:beh3:20211108142118j:plain

北朝鮮離脱住民を収容する中国の「延辺辺防支隊拘留審査所」。2007年撮影

 

韓国軍がベトナムに残した深い傷跡

帰還兵たちの義憤

 ベトナム戦争における韓国軍の民間人虐殺を扱ったドキュメンタリー映画『記憶の戦争』(イギル・ボラ監督  https://pole2.co.jp/coming/7cc72742-66d7-4b18-a7ac-761d793f39f4)が、ポレポレ東中野で11月6日から上映される。事件から50年過ぎても消えることがない深い傷跡に迫る、衝撃的な作品であるようだ。このテーマは筆者も韓国で取材し、拙著『韓国軍と集団的自衛権ベトナム戦争から対テロ戦争へ』(旬報社 2016年刊 https://www.junposha.com/book/b317224.html)で詳しく紹介した。米軍が散布した枯れ葉剤の後遺症に苦しむベトナム帰還兵たちの互助会「大韓民国枯れ葉剤戦友会」(戦友会)を通して、韓国軍のベトナム派兵がもたらした様々な問題に焦点を当てた。

 彼らの取材を始めたのは、2015年に安倍政権のもとで安保法成立が確実となり、自衛隊の戦闘地域への派遣が現実味を帯びだしたためだった。戦場という極限状況のなかで、自衛隊員も予期せぬ事態に巻き込まれるかもしれない。半世紀前にベトナムの戦場に送られた韓国兵とは条件や国際環境が異なり、単純に比較することはできないが、軍隊の一つの歯車になる兵士の境遇には共通のものがあると考えた。

f:id:beh3:20211103165051j:plain

1966年8月9日にベトナムに上陸する白馬部隊。「戦争博物館」ビデオ映像より

 韓国軍は1964年7月の派兵決定から1973年3月の撤兵までの8年8カ月間、延べ25万人の兵士をベトナムに送り込んでいる。取材をした2015年時点で生存していた帰還兵は19万人。そのうち14万人もの人が枯れ葉剤によるなんらかの後遺症に苦しんでいた。だが戦友会が枯れ葉剤を製造した米製薬企業を相手に米国で訴訟を起こしていた頃、韓国国内では、韓国軍がベトナム戦争で大量虐殺に関わったとする疑惑が相次いで報じられ、被害者から一転して加害者として疑いの目を向けられるようになった。ソウルで戦友会の金成旭・事務総長にインタビューした時、虐殺報道についての考えを尋ねると、彼は表情を強張らせ、こう答えた。

「今年(2015年)春、具秀姃(虐殺を最初に報じた韓国人女性研究者)がベトナムから良民(民間人)虐殺の犠牲者だという2人の男女を韓国に連れてきた。彼らが左派(メディア)のオーマイニュースハンギョレに話した内容では、その生存者の男は1966年当時、自分の父親と兄が解放軍兵士だったと言うではないか。解放軍兵士とはベトコン(南ベトナム解放民族戦線)のことだ。猛虎部隊(韓国軍の部隊名)との戦闘で(家族が)みな殺され、16歳だった自分も解放軍に入隊したと言っている。それがどうして良民になるんだ。
 また、もう一人の女は、70人ほどの村人が虐殺され、その時本人は4歳だったと、話にもならないことを言っている。それは1968年の旧正月の休戦協定に反して彼らが爆撃を仕掛けてきて(テト攻勢)、青龍部隊(韓国軍の部隊名)に多大な被害が出た時だった。我々は逃げながら3日に及ぶ悲壮な戦闘を強いられた。支援の後方部隊が平定してくれたのだが、そこで死んだのが良民だとでも言うのか」

 こう語ると彼は言葉を詰まらせ、怒りを鎮めようとした。意外にも、彼の目は少し涙くんでいた。悲惨な戦友の死の記憶と虐殺の汚名に対する悔しさが滲んでいた。殺されたのは民間人ではなく、韓国軍の敵だったゲリラのベトコンであり、殺し殺される戦場における戦闘行為に他ならないと彼は断言する。戦闘行為とは関係のない無辜の住民を韓国で「良民」と呼ぶ。殺害されたのは良民でないと、なぜ言い切れるのか、釈然としない話だった。

虐殺報道

f:id:beh3:20211103110550j:plain

ベトナムの農村地帯を進軍する韓国軍。「戦争博物館」ビデオ映像より

 韓国における虐殺の第1報は、金成旭が言及した具秀姃が週刊誌『ハンギョレ21』に寄稿したルポ「ああ、恐ろしき韓国軍」(1999年5月16日号)だった。ベトナム政府政治局がまとめた「戦争犯罪調査報告書ーベトナム南部における南朝鮮軍の罪悪」の一部を入手した後、同報告書で指摘されていたベトナム南部海岸沿いの村で、韓国軍兵士が寺の僧侶たちを虐殺した事件を明らかにした。

 彼女はさらに調査を進め、各地で証言を重ねていく。そして韓国軍の虐殺のなかでも最大規模と考えられる、ベトナム中部のビンディン省タイソン県タイヴィン社(旧ビンアン社)周辺で起きた事件の生存者を探し出した。虐殺は1966年2月13日から1カ月以上続いた猛虎部隊の軍事作戦の過程で起きたものとみられる。現場となったビンディン省の文化通信局の記録によると、身元が確認できた728人を含む約1200人の住民が虐殺された。そのうち子どもが166人、女性が231人、60~70歳の高齢者が88人含まれていた。

 事件の生存者、グエン・タン・ラン(男性)は当時15歳。具秀姃の取材は1999年夏に行われていたが、2008年に現地調査を実施した伊藤正子・京都大学大学院准教授の著書『戦争記憶の政治学』にグエン・タン・ランの証言がより具体的に紹介されているので、少し長くなるが引用する。

1966年2月13日朝4~5時頃、まだ寝ていたが、砲弾の音と軍隊が移動する音が隣の社の方向から聞こえてきたので、母と妹ともに壕に避難した。そのうち砲弾の音が四方から聞こえるようになった。(中略)9~10時頃になって集落に兵が下りてきた。逃げきれなかった人は壕へ避難した。11~12時頃になって、非難していた家にも兵士が入って来て、壕のフタをあけて銃を撃ち手榴弾を投げ込んできた。午後3~4時には壕を見つけ次第撃ちまくっていた。夕方4時頃、韓国兵がもとの場所に戻ってきて、生きている者がまだいると捕まえ始めた。5時頃自分たちがいた壕も見つかり、母と妹と一緒に銃をつきつけられて外に出ろと言われ、壕から出た。韓国兵を見たのは初めてで、最初は南ベトナム兵のように見えたが、話している言葉がわからないので韓国兵とわかった。そして連れていかれた。15~20家族の女性や子供たち、おばあさんたちばかり、40人を超える人々が集められた。しゃべってはいけないと言われ、下を向かされたまま座らせられていた。10~20分後、銃を撃つ音が聞こえて、次々人が撃たれ、内臓や脳みそが飛び散った。自分は列の後ろの方にいて、少し人の陰になった。弾は足にあたり、逃げようとしたが倒れた。血が大量に出て気を失いそれからは覚えていない。しばらくして目を覚まし、両手で這って、少し窪地になっていたその場所から逃げ出した。

 集められた40人の村人のうち、生き残ったのは3人しかいなかった。解放民族戦線の根拠地は村から離れた山中にあったが、事件後、ゲリラに協力する村人が増えたという。証言から考えられる現場の状況は、とても戦闘行為と呼べるものではない。

 具秀姃の取材はビンディン省の北にあるクアンナム省にも及び、ここでも生々しい証言を得る。1968年2月12日、1号道路から同省ディエンバン県のフォンニィ村に進軍してきた青龍部隊が「VC!VC!」(VCはベトコンの略)と叫びながら自動小銃で村人を乱射したり、手榴弾を投げつけたという。生存者のウンウェンスー(男性)は、養魚場に捨てられていた17体の村人の遺体を引き揚げた後、近くの畑に家族を探しに行った時の様子を、こう語っている。「足がなくなり、頭蓋骨がこなごなになり、臓器が飛び出している死体の山の下に、お婆さんが血だらけで横たわっていた。いくら戦争中だからといって、あんな残忍なことができるのか。ウンウェンティタン(当時8歳、女性)の内臓は腹から飛び出し、野菜や雑草が詰め込まれていた」(『ハンギョレ21』1999年10月28日号)

 具秀姃の報告が韓国社会に与えた影響は計り知れない。ベトナム派兵は特需という肯定的な面でしか語られてこなかったからだ。それにしても奇妙なのは、これだけ大規模な住民の殺害が起きていたというのに、20万人以上もの帰還兵からまったく証言が出てこないことだった。直接殺害に関わらなかったとしても、事件を見聞きした元兵士はかなりの数になるはずなのに、まるで箝口令でも敷かれたように沈黙が守られた。ベトナム撤退後も軍事独裁政権が長く続いた韓国で、戦場での体験を語れる環境はなかったが、すでに民主化が実現して10年以上もの歳月が流れていた。また、この問題に積極的に取り組んだのも左派系のハンギョレ新聞社だけで、大手紙やテレビ局は知らぬふりを通し、今もこの問題をタブー視している。

唯一の加害証言

 戦争犯罪で被害者が名乗りでることはあっても、加害者が自ら罪を認めるのには相当な勇気がいる。忌まわしい過去の出来事など記憶から消し去りたいだろうし、喋ったところで何の利益もない。だが加害証言には被害証言以上の説得力がある。だから記者は加害者を探し出し、事実を徹底的に検証して真実に近づく努力を重ねようとする。ハンギョレ21の連載報道で決定的だったのは、青龍部隊の中隊長だった金琦泰元大尉の証言だった(2000年4月27日号)。編集部で手あたり次第に帰還兵との接触を試みた末、偶然たどりついた金元大尉の口から驚くべき話が次々と飛び出し、虐殺問題で唯一の加害者証言となった。

 青龍部隊第2大隊7中隊長だった金大尉(当時31歳)は、1966年11月9日から14日にかけ、クアンガイ省ソンティン県で実施された「ベトコン索敵殲滅」(サーチ&デストロイ)のための「龍顔作戦」第1段階で、同中隊を指揮した。作戦開始から2日目、攻撃目標のアントゥエット村(現フックビン村)に侵攻した同中隊の第2、第3小隊の後に、金大尉が村に入ると、無数の死体が放置されていたという。彼は先を行く小隊長に無線で「殺すのはそのくらいにしろ!」と怒鳴りつけたと、ハンギョレ21記者に話した。

 7中隊は同日、さらに西に進み、別の攻撃目標の村に侵攻する。「殺すのはそのくらいにしろ!」と怒鳴られたためか、先発の小隊が40~50人ほどの住民を一カ所に集めていたという。金大尉は後続の小隊に、集められた住民を殺さないよう指示したというが、先へ進むと機関銃の音が後ろから聞こえてきた。後続の小隊が住民を殺害してしまったようなのだ。命令無視の規律違反だが、すでに起きてしまったことなので「確実にやっておけ!」と指示する。止めを刺せという意味だ。

 この事件に限らず、ベトナム戦争で行われていた一般論として、金元大尉は当時をこう振り返る。「村に入って索敵する時は住民を一カ所に集めます。その時の状況に応じて中隊長がどんな指示を出すかで生死が分かれます。『集めておいたら面倒だろ!』と言えば部下たちが連れていってやってしまうものです」。生き残った住民に証言でもされたら困るので、止めを刺すことがあったというのだ。

 作戦最終日の11月14日、村の近くの洞窟に隠れていた20歳から35歳くらいの青年29人が逮捕された。武器は所持しておらず、金大尉は彼らをベトナム軍捕虜尋問所に連行するつもりでいた。ところが、そこへ緊急無線が入り、近くにいた別の中隊が攻撃を受けたので、応援に向かうよう指示された。捕虜の処遇に困った金大尉は「あっちに連れて行け」と命じる。すぐ機関銃の連射音が聞こえ、金大尉は「確実にやっておけ!」と念を押した。ベトコンである可能性が高かったとはいえ、無抵抗の捕虜を殺害したのだ。

 同誌は金元大尉の証言をもとに、現地のアントゥエット村で生存者を探し出し、1966年11月10日に起きた事件が事実であることを確認した。龍顔作戦で殺害された村人は100人を超していたものと見られる。

 金元大尉がインタビューに応じたのは、決して忘れることのできない罪悪感があったからかもしれない。しかし、いずれの出来事も作戦中に起きた正当な戦闘行為だったと主張し続けた。

村の人たちは南ベトナム政府の統治地域に移らなくてはならないのに……。龍顔作戦は完全に敵地で行われたものだった。ベトコンと越盟(北ベトナムベトナム独立同盟=ベトミン)軍を殲滅するための作戦だった。(中略)敵の統治地域ではベトコンであるかベトコンでないかは分からない。すべてのベトナムでの作戦がそうだった。こちらに負傷者が出れば無条件にやっつけてしまおうとするものだ。

 敵側の統治地域とは、民間人ゲリラが暮らすか出入りする村々を指し、そこに残っている住民はベトコンと疑われても仕方がないというわけだ。また、非武装の捕虜29人を殺害した理由は、そのまま放置したら、隠してある武器で戦闘兵力化するおそれがあったからだという。確たる証拠はないが「面倒」だから殺してしまった……。どうやらこれが真相に近い。金元大尉はその後、証言を翻し、「意図的に民間人に被害を与えた事実はない」と主張し、虐殺を完全に否定してしまう。

 

従軍慰安婦問題の原点㊦ 「事実上の強制動員」と「日本軍無実論」

 前回の記事(「従軍慰安婦問題の原点㊤」)で少し触れた鄭鎮星・ソウル大元教授の著書『日本軍性奴隷制』は、最初の出版から12年後の2016年に出した改訂版で、その間に多くの資料が発掘されたこともあり、貴重な情報が盛り込まれている。同書によると、韓国で名乗り出た元慰安婦のうち175人のデータを分析した結果、被害者のほとんどが貧困農家の家庭に育ち、学歴も非常に低かった。身売りなどで連れ出された当時の年齢は16歳から17歳がもっとも多い。地域別では南東部の慶尚(南北)道(79人)が圧倒的に多かったが、これは移送拠点の釜山港に近かったためとみられる。移送先は、日本(20人)、台湾(12人)、満州(15人)、中国(27人)、南アジア(8人)、南洋群島(6人)など様々。慰安婦になった経緯は就業詐欺(82人)と脅迫・暴力(62人)が突出して多く、人身売買や誘拐・拉致はあまりいなかった。以上の実態を踏まえ、鄭鎮星は慰安婦問題における「強制動員」という言葉の定義を、次のように説明している。

 強制動員は狭い意味での物理的な暴力による連行に限られることもあり、広くは、本人の意思に反して連れていかれ、強制的な統制により、本人の意思により帰ってこれなくなる、すべての状況を意味する。しかし、物理的な暴力により動員された女性だけでなく、人身売買、誘拐、就業詐欺などで慰安婦になった人たちがすべて、自分が慰安婦になるという事実を知らないまま連れて行かれ、連れて行かれた途中でも厳しく監視され、慰安所から到底脱出できない監視を受けたという点で、日本軍慰安婦制度はすべて、広い意味での強制だったと規定しなくてはならない。

 身売りであれ就業詐欺であれ、本人の意思に反して慰安婦にされたのであれば、慰安所での労働は強制売春なのであり、実態として性奴隷だったと考えられた。その慰安婦制度に軍が深く関与していたのだから、国家の責任は免れない。これが韓国に広く浸透する、広義の強制性に基づく「事実上の強制動員」という考え方だ。これに対し、日本で翻訳されベストセラーになった『反日種族主義』(文藝春秋、19年)の編著者、李栄薫・ソウル大元教授は、慰安婦制度は朝鮮にあった公娼制度を軍事的に動員かつ編成した、合法的な制度だと主張する。したがって強制動員ではなかったというのだ。
 朝鮮の公娼制度は1916年に始まり、30年代以降は売春業が大衆化していた。もともと軍の駐屯地に売春関連業者が集まる傾向があり、37年に軍慰安所が設置されると、そこで働く娼妓、芸妓、酌婦などの女性たちが慰安婦になるケースが多かった。軍慰安婦を募集する周旋業者は、農村の貧しい戸主に前渡し金を払うことで、就業承諾書や戸籍謄本などの書類をそろえて合法的に娘を連れて行ったのであり、それは当時の社会で犯罪ではなかった。親に身売りされたり、業者の甘言に騙された女性たちの悲運は、朝鮮に悪習として残る女性蔑視と家父長的社会に根本的な原因があり、就業詐欺などの責任はあくまでも業者にあった。軍慰安婦は危険な戦地で働き、過酷な労働を強いられるが、民間の公娼に比べればはるかに高収入だった。女性たちが慰安所であくせく働き貯金をしたのは、選択の自由に基づく行為であり、性奴隷の実態とはほど遠い。
 以上が強制動員を否定する論拠として示された。李栄薫の主張は日本の右派論客が主張する「日本軍無実論」とほぼ同じ内容だ。その要旨は以下の通り。

 慰安所は軍の要請で作られたとしても、基本的には民間の売春施設▽当時は公娼制度があり売春は合法だった▽慰安所は戦地・占領地に拡張された「戦地公娼施設」であり、軍はその利用者にすぎない▽軍の関与は、戦地という特殊な状況のもとで公娼制度を維持するために必要な措置だった▽慰安婦は性的労働に対して対価を得ており、平均すれば高収入であり、性奴隷などではない▽身売りされた者もいるが、それは合法的な契約▽犯罪行為は民間業者の仕業▽組織的な「強制連行」があったなら国は法的責任を負わねばならないが、それを示す証拠はみつかっていない(永井和、『世界』15年9月号)。

 こうした主張が韓国で受け入れられるはずもなく、メディアや学会で『反日種族主義』への反発が一気に広がった。お決まりの魔女(親日派)狩り的な批判報道が目立つなか、「韓国女性人権振興院」の尹明淑(調査チーム長)は強制動員の実態に焦点を当て、李栄薫の主張に反駁した。

 日本軍「慰安婦」の強制動員は間違いなくあった。もちろん、占領地、特に戦地で起きたように、軍人が前面に現れ人々を連れていくという形はとらなかった。なぜなら、その必要がなかったからだ。すでに植民地朝鮮では公娼制度と紹介業が法で実施され、日本政府はこうした産業体制を「慰安婦」の強制動員に利用した。ここで私たちは「強制」という言葉の正確な意味を知らねばならない。国際法が規定する強制とは、「本人の意思に反すること」をいう。軍人が髪の毛を掴んで連れて行ったかどうかが重要なのではない。中日戦争が勃発した直後の1938年、日本の陸軍省慰安所設置の必要性を認め、慰安婦の「募集」に関する方針をたてた。本格的な制度化への道を開いたのだ。さらに、日本軍により占領地や戦場、植民地に設置された慰安所と多様な形態に変形した「慰安所」で、日本軍慰安婦たちは人間であり女性としての尊厳を侵害され、自由を奪われた。彼女たちは国家犯罪の被害者だったのだ。(『ハンギョレ』19年9月5日付)

 李栄薫は様々な反論に応える形で出した続編『反日種族主義との闘争』(20年5月)で、尹明淑の「拡大解釈された強制動員説」を取り上げ、徹底的な批判を繰り広げる。結論から言えば、慰安婦問題は国家犯罪の問題としてだけ追及することはできず、当時の朝鮮で施行されていた法制、戸主制家族、家父長権力、貧困などが作用した複合的な犯罪として捉えなければ、下層極貧層の娘たちに強要された悲劇は理解できないという内容だ。特に朝鮮の家父長には、自分に属す家族の地位を変えることができる合法的な権利が与えられていた実態があると指摘した。
 同書で示された、『朝鮮総督府統計年報』から割り出した略取・誘拐の検挙および起訴数の推移(1920年~1943年)によると、警察が検挙した略取・誘拐事件は、1920年代から30年代にかけ急激に増え、30年は2160件に達した。ところが、30年代後半からめっきり少なくなり、43年には347件にまで減った。これは総督府が33年から施行した「自作農地設定事業」により、わずかながらも農地を持つ自小作農家が増え、農村の貧困がある程度改善されたことと無縁ではないようだ。そして、慰安婦の募集は30年代後半から終戦まで続いたが、その間の略取誘拐の検挙数は非常に少ない。
 さらに、検察が事件を不起訴処分にした割合は全期間を通じて高く、平均すると87・5%だった。その理由は、慰安婦本人の就業事由書、戸主の就業同意書、戸籍謄本、印鑑証明書、警察署長の旅行許可書などの書類を業者が用意していたからだった。つまり、慰安婦の募集は合法だったことになる。
 しかし、必要書類さえあれば農村の娘を売り飛ばしていいというものでもあるまい。現場の警察は犯罪性を認識して容疑者を検挙し、検察に送致したが、ことごとく不起訴処分になり、次第に検察の考えが警察に浸透していったとも考えられる。当時の警察の判断でも、略取誘拐の犯罪容疑はあったが、戸主の就業同意書などの合法的な書類がそろっていたため不起訴になっていた。慰安婦が募集される戦時体制下に入ると、業者は摘発を避けるため、より厳格に必要書類をそろえていたのかもしれない。当時の法制や社会の現実からすれば、慰安婦の募集は、確かに合法だったと言える。
 だが、女性たちが本人の意思に反して連れていかれ、過酷な性的労働を強いられた事実は動かない。慰安婦の募集、移送、慰安所の運営を可能にさせた主体は、あくまでも日本軍であり、民間業者ではなかった。日本軍の慰安所を「戦地公娼施設」と拡大解釈することに問題はないのか。

 90年代の政府調査で発掘された資料の中に、旧内務省の文書群があり、アジア女性基金が公開している。群馬県知事が内務大臣に宛てた「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(37年1月19日付)には、慰安婦を募集に当たった業者が前橋市の警察で取り調べを受けた事件の内容が記されている。神戸市で貸座敷業を営む大内なる人物は、取り調べに対し、「在上海陸軍特務機関ノ依頼」で「上海派遣軍内 陸軍慰安所ニ於テ 酌婦稼業(醜業)ヲ為ス酌婦三千人ヲ必要」と供述し、その理由を次のように説明している。

将兵カ 支那醜業婦ト遊フ為 病気ニ掛ルモノカ非常ニ多ク 軍医務局デハ 戦争ヨリ寧ロ 此ノ花柳病ノ方カ恐シイト云フ様ナ情況テ 其処ニ此ノ施設問題カ起ツタモノテ 在上海特務機関カ 吾々業者ニ依頼」

 業者は合法的な契約だと訴え、「契約証」、「承諾書」、「金員借用証書」、「[契約]条件」、「派遣軍慰安所花券」を提示した。婦女誘拐の疑いで取り調べを行った地元警察は、軍の依頼で3千人の慰安婦を集めているという業者の供述を信じられず、内務省に事実関係を伝える中で、こう指摘している。

「公秩良俗ニ反スルカ如キ事案ヲ [業者が]公々然ト吹聴スルカ如キハ 皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ 厳重取締方 所轄前橋警察署長ニ対シ指揮」

 神戸の貸座敷業の大内は山形県でも問題を起こしている。同県の紹介業者に慰安婦の募集を依頼する際に、前渡し金の一部を軍が立て替えると申し出ているのだ。

「酌婦ハ年令十六才ヨリ三十才迄 前借ハ五百円ヨリ千円迄 稼業年限二ケ年 之カ紹介手数料ハ 前借金ノ一割ヲ 軍部ニ於テ支給スルモノナリ」(「北支那派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」37年1月25日付)

 慰安婦3千人の募集にからむ事件は和歌山県でも起きていた。和歌山県知事が内務省警保局長に宛てた「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(37年2月7日付)では、大阪市で貸席業を営む金澤なる人物が登場する。県内の下田邊町で巡査の取り調べを受けた金澤は、疑わしい者ではないとことわった上で、「軍部ヨリノ命令ニテ 上海皇軍慰安所ニ送ル 酌婦募集ニ来リタルモノニシテ 参千名ノ要求ニ対シ 七十名ハ昭和十三年[37年]一月三日 陸軍御用船ニテ 長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上 送致済」と供述した。金澤の供述によると、同業の大阪の貸席業者が陸軍御用商人と共に上京し、「荒木大将」などと会合の上で3千人の娼婦を送ることになり、大阪府の九条警察署長と長崎県外事課の便宜を受けていた。九条警察署が酌婦の「公募証明」を出していた事実も判明し、容疑者は身柄を釈放された。
 この文書には、和歌山県警の問い合わせを受けた長崎県外事警察課長の回答もある。そこで示されたのが、在上海日本総領事館長崎県水上警察署長に宛てた、慰安婦の募集と上海への渡航に関する協力を求めた「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(36年12月21日付)という依頼状だ。「承諾書」、「印鑑証明書」、「戸籍謄本」、「酌婦稼業者に対する調査書」など必要書類を所持し、合法的雇用契約により渡航すると認められる者に対しては渡航を許可するよう求めている。
 軍が指示した慰安婦3千人の募集に当たり、当初は犯罪性を認識していた警察は、結局、軍とともに募集と移送に関与することになった。同じことが朝鮮でも起きていたと考えるべきで、慰安婦の募集は警察の捜査対象にしようがなかったのだろう。内務省警保局の文書群を分析した永井和・京都大教授は「軍の関与」について次のように述べている。

 軍慰安所は、日本軍が軍事上の必要から所属将兵の性欲処理のために設置・管理した将兵向けの「慰安施設」であり、軍の編成の一部となっていた。その点で民間の業者が不特定多数の客のために営業していた通常の公娼施設とは異なる。慰安所が軍の施設であるかぎり、そこでなされた「慰安婦」に対する強制や虐待の最終的な責任が軍に帰属するのは明らかであろう。(『世界』15年9月号)

 

f:id:beh3:20211028105025j:plain

朝鮮総督府庁舎。1993年撮影

 李栄薫が理事長を務める「落星台経済研究所」の創設者、安秉直・ソウル大名誉教授は、ビルマシンガポール慰安所で帳場の仕事をしていた朴治根という人物が残した日記を入手し、『日本軍慰安所管理人の日記』(イスプ、13年)を出版している。慰安所経営に携わった人物の記録は極めて稀で、慰安婦問題の研究で貴重な資料である。その日記の中に以下の記述がある。

 7月初め、ラングーンの慰安所を経営する金田氏は慰安婦募集のために朝鮮に行き、今般、慰安婦25人を連れてビルマに行く途中でシンガポールに着いた。(43年12月3日)

シンガポールの]生鮮組合に行くと、一昨年、慰安隊が釜山を出発した時に第4次慰安団の団長として来た津村氏が生鮮組合の要員になっていた。(44年4月6日)

 津村なる人物が団長を務めた「第4次慰安団」とは、ビルマのミイトキーナで捕虜になった慰安婦たちを乗せ42年7月10日に釜山を出港した軍用船で南方に移送された一団であるのは、ほぼ間違いない。米軍の「尋問報告49号」は朝鮮人女性が703人、その引率者である抱え主が約90人乗船したと記録していた。拉孟と騰越で捕虜になった朝鮮人女性の場合、朝鮮を離れたのは翌43年7月。同じ軍用船に約300人いたと証言した。帳場の仕事をした朴治根の日記では、43年12月にも慰安団がシンガポールに到着しているようなので、慰安団は少なくとも6回、おそらくそれ以上、南方に移送されたと考えられる。軍による組織的な慰安婦移送の実態を窺わせる日記の内容から、安秉直は同書の「解題:第4次慰安団」で、日本軍慰安婦の動員が戦時動員体制の一環として行われたと考えた。

「もし日本軍部が、朝鮮総督府および朝鮮軍司令部の協力を得ながら慰安所業者らに慰安婦を募集させ、当時の風聞で取りざたされたような「第1、2、3、4次慰安団」などを組織し、順次動員していたとすると、それは日本軍部の単なる「関与」ではなく、徴用・徴兵および挺身隊のような「日本政府による戦時動員」として理解する他ない。」

 非戦闘地域だった植民地朝鮮では、戦闘地域で頻発した拉致のような強制動員(狭義の強制動員)は必要なく、貧しい農民の娘を狙った誘拐同様の人身売買や詐欺による慰安婦の募集が横行した。たとえ当時の社会で合法であっても、それは戦時動員の一環として実施されたと考えるほかなく、広義の強制動員があったと解釈すべきではないか。日本政府が「河野談話」で、慰安婦の募集が総じて本人たちの意思に反して行われ、旧日本軍が直接または間接的に関与したと指摘したのは、国家による強制性を認めたからに他ならない。半官半民の「アジア女性基金」の償い事業、そして政府が10億円を拠出した「和解・癒し財団」は、談話を踏襲した日本政府が道義的・法的責任に応えようと努力した結果でもある。その努力に政治的打算があったとしても、国家権力が関わった強制性そのものを否定するのは、いかなる理由をあげても不可能だ。

未完の「法的作為義務」

 日韓は65年の請求権・経済協力協定の第1条で、無償3億ドル・有償2億ドルの供与と貸付を韓国の経済発展に役立てると規定した上、第2条1で「両国国民の財産、権利及び利益並びに請求権の問題が、完全かつ最終的に解決された」ことを確認した。日本で争われた韓国人を原告とする戦後補償訴訟で、原告は「個人の請求権」は協定により消滅するものではないという立場をとった。これに対し被告の日本政府は、実体的権利を指す「財産、権利及び利益」だけでなく、個人の請求権も「外交保護権によってしか実現しない権利」であるため、同協定により消滅したと反論している。
 また、中国人を原告とする戦後補償訴訟でも、最高裁が07年に原告の請求を退ける決定を下しており、日本の司法による救済の道は完全に閉ざされている。この時の最高裁の判断は、個人の請求権を含め、戦争の遂行中に生じたすべての請求権を相互に放棄するサンフランシスコ平和条約の枠組みに従ったものだった。韓国人の戦後補償訴訟でも、請求権協定ならびに「サンフランシスコ平和条約の枠組み」により原告敗訴が決定づけられ、個人の請求権は裁判上訴求できない〝救済なき権利〟とみなされたのである。
 請求権協定は、太平洋戦争中の国民徴用令や徴兵制の施行で被害をこうむった朝鮮半島出身の軍人、軍属、徴用工などの対日請求権を消滅させるためのものだった。同協定に付属する「合意議事録」は、徴用された人の未払い資金や補償金も含め、請求に関し「いかなる主張もなしえない」ものとした。しかし、同協定第1条の経済協力資金と、第2条で「最終的に解決された」とする「財産、権利及び利益並びに請求権」の因果関係については、何の説明もされていない。
 これは日韓双方の事情によるものだった。植民地支配をめぐり、日本側が双方の合意による合法なものだったが「もはや無効」だと解釈したのに対し、韓国側は一方的な侵略行為で韓国併合は「当初から無効」と解釈した。植民地支配を合法とする日本は、賠償ではなくあくまで経済協力。植民地支配は不法だが経済建設資金が必要だった韓国は、経済協力という形をとる賠償でなくてはならず、玉虫色の協定を結ぶしかなかった。結局、韓国政府が肩代わりした被害者補償は無償3億ドルのうち5・4%にとどまり、大半が国内のインフラ建設に使われた。
 盧武鉉政権が発足すると、請求権協定当時の外交文書が06年に公開されたことを受け、同協定に関する韓国政府の公式解釈を示すため、国務総理(首相)が主催する「韓日会談文書公開民官共同委員会」(民官共同委員会)が開かれた。同委員会は無償3億ドルについて、「韓国政府が国家として有する請求権、強制動員被害補償問題の解決の性格の資金などが包括的に勘案された」と結論づけ、韓国政府の被害補償措置が不十分だったと判断した。その一方で、日本政府には一定の法的責任が残っていると指摘している。

 日本軍慰安婦問題など、日本政府・軍などの国家権力が関与した反人道的不法行為については、請求権協定により解決されたものとみることはできず、日本政府の法的責任が残っている。

 半官半民の「アジア女性基金」の償い事業や、政府予算で設立された「和解・癒し財団」の補償は、いずれも〝救済なき権利〟を補償するための窮余の策だった。それを韓国の慰安婦支援団体が拒否したのは、明確な国家賠償でなければ被害者の尊厳の回復はできないと主張しているためだ。この場合の国家賠償とは、戦争被害による損害の補償、つまりサンフランシスコ平和条約の枠組みに基づく補償ではなく、日本が合法とする植民地支配における反人道的不法行為による被害の補償を指す。その意味で民官共同委員会の見解と同じだ。協定で解決済みとの立場を変えるわけにはいかない日本政府と、植民地支配の反人道的不法行為に対する賠償を求める韓国政府の主張の隔たりは大きく、このままでは解決の糸口すら見いだせないだろう。

 中国人原告の訴えを退けた前述の最高裁判決は、裁判上訴求できない〝救済なき権利〟の解決策として、関係者による「和解」を暗示していた。

 サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいても、個別具体的な請求権について債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないところ、本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人[被告企業]は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである。

 判決を受け、被告企業の「西松建設」が申し立てた和解が後に成立している。法的責任に関して原告と被告との間で見解の一致はみられなかったが、被害者側が納得した形で問題を解決させた極めて稀な例だ。元慰安婦などが日本で訴えた裁判では、原告が一部勝訴したケースも一つだけある。釜山市などに住む元慰安婦3人と元挺身隊員7人が92年に山口地裁下関支部で提訴した「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求事件」(関釜裁判)だ。地裁は被告の国に対し、元挺身隊員の請求は棄却したが、元慰安婦については30万円の賠償を命じた。最高裁で原告敗訴が確定したものの、関釜裁判の判決は日本の戦後補償に厳しい反省を促すとともに、問題解決に向けた国の責任を明確にした画期的な判決だった。
 判決はまず、慰安婦制度は徹底した女性差別、民族差別により女性の人格の尊厳を根底から侵した制度であったことを認め、「20世紀半ばの文明水準に照らしても、極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白であり、少なくとも一流国家を標榜する帝国日本がその国家行為において加担すべきものではなかった」と断じた。その上で、国には、原告にさらなる被害の増大をもたらさないよう保証すべき「法的作為義務」、つまり賠償立法すべき義務がありながら、それを怠り、多年にわたり原告の苦痛を放置したと指摘した。具体的には、93年の河野談話とともに発表された日本政府の調査結果により、それから3年を経過した96年には法的作為義務が明確になったにもかかわらず、98年の判決時点で何の措置もとられていなかった。その1年余りの法律制定の遅れに対する「立法不作為」の賠償が30万円なのであり、本来の賠償は、国に特別の立法を行い賠償するよう求めたのだ。国の法的作為義務について、判決はこう述べている。

 日本国憲法制定前の帝国日本の国家行為によるものであっても、これと同一性ある国家である被告には、その法的侵害が真に重大である限り、被害者に対し、より以上の被害の増大をもたらさないよう配慮、保証すべき条理上の法的作為義務が課せられているというべきであり、特に、個人の尊重、人格の尊重に根源的価値をおき、かつ、帝国日本の軍国主義に関して否定的認識と反省を有する日本国憲法制定後は、ますますその義務が重くなり、被害者に対する何らかの損害回復措置を採らなければならないはずである。

 

従軍慰安婦問題の原点㊤ 最前線に連れていかれた日本軍慰安婦たち
https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/10/26/163853

 

 

 

従軍慰安婦問題の原点㊤ 最前線に連れていかれた日本軍慰安婦たち

米軍が作成した調査報告書

 1944年7月31日、ビルマ(現ミャンマー)北部のミイトキーナ(ミチナ)に立てこもる千人以上の日本軍が、夜陰に紛れ、陣地脱出を決行した。同年5月に始まる連合軍の猛攻撃で玉砕寸前にあったミイトキーナ守備隊の最後の選択だった。脱出した日本軍のうち、200人近い兵士が連合軍の捕虜になるのだが、その中に20人の若い朝鮮人女性と年配の2人の日本人男女がいた。こんな最果ての最前線の戦場に、なぜ民間人がいたのか。連合軍の捕虜になった女性たちは、8月15日にミイトキーナから軍用機でインド北東部のレド収容所に移送され、20日間に渡り尋問を受けることになる。
 尋問したのは米陸軍・戦争情報局(OWI)心理作戦班のアレックス・ヨリチ(3等技能兵)。米陸軍情報部(MIS)が創設した情報・プロパガンダ機関のOWIには、日系2世兵士のなかでも日本への留学経験がある「帰米2世」兵士が多くいた。女性たちは、ヨリチが作成した「日本人捕虜尋問報告・第49号(Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.49)」(44年10月1日付。以下「尋問報告49号」)の中で、日本軍が使う「慰安婦」という言葉を訳した「コンフォート・ガールズ」と紹介された。すでに太平洋戦域でも確認されていた日本軍慰安婦の実態を初めて明らかにした米軍の調査報告書だ。
 90年代初め、この報告書が米国の国立公文書館(NARA)で発見され、その解釈をめぐり賛否両論の論争が巻き起った。被害事実を裏付ける決定的な文書であると同時に、加害事実を否定する側の根拠にもされたためだ。両論いずれにせよ、第三者の米兵の目で、慰安婦のありのままの姿が客観的に記録されていることから、慰安婦問題を論じるうえで不可欠な資料になっている。
「尋問報告49号」の付表には、捕虜になった20人の慰安婦、そして抱え主と思われる2人の日本人男女の氏名、年齢、住所がアルファベットで記載されている。しかし、米兵が朝鮮語の発音を正確に聞き取れなかったこともあり、不正確な名前の表記が多く、住所もおおまかな地域を示すだけで、人物の特定はされてこなかった。名簿で特徴的なのは、20人のうち15人が半島南東部の慶尚道出身だったことだ。なかでも晋州(5人)と大邱(5人)に集中していた。抱え主の氏名は、男が「キタムラ・エイブン」(41歳)、その妻は「キタムラ・トミコ」(38歳)、住所は京畿道京城(現在のソウル)とある。一行がビルマに上陸したのは2年前(42年8月)で、朝鮮を出発した当時の女性たちの平均年齢は22歳。20歳に満たない女性が半数以上の11人もいた。最年少は慶尚北道大邱出身の17歳で、生存していれば現在96歳になる。報告書は彼女たちをこう紹介している。

 

 1942年5月初め、[日本軍が]新たに征服した東南アジアの領土に朝鮮人女性を「慰安サービス」のため徴集する日本の周旋業者が朝鮮に来た。〝サービス〟の性格は明示されなかったが、負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやるなど、一般的に兵士を喜ばせるものだとされた。周旋業者の誘い方は、多額の報酬、家族の借金を返済する機会、楽な仕事、シンガポールでの新しい生活の展望だった。こうした偽りの説明で、多くの女性が海外勤務の徴集に応じ、数百円の前渡し金を受け取った。多くの女性は無知、無教育で、「地上でもっとも古い職業」をしていた者も何人かいた。

 

 業者の甘言に乗せられ、借金で縛られていた状況が見てとれる。女性たちの中に都市出身者(京城平壌)が4人いるので、そのうち何人かが売春婦だった可能性もある。だが、多くは無教育の田舎の女性で、戦場で売春を強いられるとは思ってもいなかった。官憲による強制的な徴集、いわゆる「強制連行」はなかったが、周旋業者とつながりがある京城のキタムラが、どういう経路で女性たちを集めたのか、詳しい説明はされていない。

f:id:beh3:20211030211642j:plain

連合軍「東南アジア翻訳・尋問センター」(SEATIC)が作成した「尋問ブリティン・第2号(INTERROGATION BULLETIN No2)」

「尋問報告49号」が作成された翌月、OWIとは別に、連合軍の「東南アジア翻訳・尋問センター」(SEATIC)が作成した「尋問ブリティン・第2号(INTERROGATION BULLETIN No2)」(以下「ブリティン2号」)に、キタムラ・エイブンが捕虜番号「M739」として登場する。キタムラはレドの収容所に移送された後、個別尋問センター(CSDIC(I))があったインドのデリーまで移送され、そこで本格的な尋問を受けた。「ブリティン2号」はその時のキタムラの尋問調書をもとに作成されたものだ。
「ブリティン2号」によると、キタムラ夫婦とキタムラ・トミコの姉(あるいは妹)は京城で料理店を経営していたが、商売が傾き、金儲けの機会を求め、ビルマ慰安婦を連れていく許可を京城の(朝鮮軍)陸軍司令部に申請したという。同様の商売をする複数の日本人が、同司令部から許可を得るよう示唆されていた。キタムラは女性たちの性格、容姿、年齢に応じて、彼女たちの親に前渡し金300円から1000円を支払い、22人を身請けしている。女性たちの〝所有者〟になったキタムラに、朝鮮軍司令部は各陸軍司令部宛ての書面を渡し、あらゆる便宜をはかったという。
 つまり民間業者のキタムラは、軍の示唆を受け慰安婦を集め、軍の計らいで慰安婦たちを南方に移送し、そして前線の部隊に附属する慰安所を経営した。発案から配置にいたる組織的な「軍の関与」がなければ不可能であり、実態として「動員」だったと言える。慰安所を必要としたのは他ならぬ軍だったからだ。
 こうして集められた朝鮮人女性は703人。その引率者である抱え主ら約90人と一緒に朝鮮の釜山を出港したのは42年7月10日だった。首都ラングーンに着くと(同年8月20日)、彼女たちは20人から30人のグループに分けられ、ビルマ各地の部隊に送り込まれた。キタムラ率いる22人(うち2人は現地で死亡)は北ビルマのミイトキーナを守備する歩兵第114連隊にあてがわれた。ミイトキーナには、「キンスイ」(後に別の慰安所「バクシンロウ」と合併、朝鮮人慰安婦20人)、「モモヤ」(中国人慰安婦21人)、そしてキタムラの「キョウエイ」(朝鮮人慰安婦22人)の3つの慰安所があった。

「尋問報告49号」には、慰安婦に対する強制性を判断する上で欠かせない日々の生活や労働の実態も記されている。

 

 彼女たちのビルマでの暮らしは、他の場所に比べ贅沢ともいえるものだった。ビルマでの2年目[43年]は特にそうだったといえる。食料や物資の配給は多くなかったものの、彼女たちは欲しい物を購入する金を十分に持っていたので、暮らし向きはよかった。[中略]ビルマ滞在中、兵士たちと一緒にスポーツのイベントに参加したり、ピクニック、宴会、夕食会にも出席した。彼女たちには蓄音機があり、都会では買い物にでかけることを許された。

 慰安所の「抱え主」は、それぞれの女性が契約時にどれほど借金を負っていたかにより、彼女たちの稼ぎの総額の50パーセントから60パーセントを受け取っていた。これは彼女たちの平均的な月の稼ぎが約1500円だったことを意味する。彼女たちは「抱え主」に750円を払っていたのだ。多くの「抱え主」は、高額の食費や物品の代金を請求していたため、彼女たちの生活を苦しくさせていた。1943年の後半、軍は借金の返済を終えた特定の女性たちに帰国を認める指示を出した。これまでに、一部の女性たちが朝鮮に帰ることを許された。

 

 この文章に「性奴隷」の印象はなく、慰安婦の「自発性」を強調する側の根拠にされてきた。日本軍が戦場に売春婦を連れ歩いていた前代未聞の情報を調査したヨリチは、この文章で二つのことを指摘したかったようだ。
 一つは、自分の意思に反して売春を強いられた女性たちが、意外にも楽な暮らしをしていた時期があり、しかも借金さえ返済すれば自分の意志で帰国できる権利が与えられていた。もう一つは、悪徳業者の抱え主が、高額報酬の彼女たちを搾取していた実態、である。上の文で「暮らし向きはよかった」といい、下の文では「生活を苦しくさせていた」という。しかし、この文章だけでは、彼女たちがおかれていた状況はうかがい知れない。当時のビルマの戦況を振り返ってみたい。


 41年12月、日本はハワイの真珠湾攻撃マレー半島の奇襲上陸で太平洋戦争に突入した。破竹の勢いで東南アジアに侵攻した日本軍は、早くも42年前半にビルマ全土を掌握し、イギリス軍をインドに敗走させる。43年3月には東南アジア方面を統括する「南方軍」傘下に「ビルマ方面軍」が新設され、ビルマ支配は比較的安定しだす。ところが、太平洋戦域では同じ43年から戦況が悪化しだし、インドを拠点とするイギリス軍もビルマ奪還を試みていた。
 ミイトキーナから西北に約250キロ進むとイギリス領インドのアッサム州レド、逆に東に100キロ進むと、中国雲南省にある日本軍拠点の城壁都市、騰越(現在の中国では騰沖)が現れる。この騰越の東を流れる怒江(ビルマ領に入るとサルウィン河)を越えると、雲南省都の昆明、そして蒋介石の国民党政府があった中国南西部の重慶へと通じる。騰越は中国国民党軍と対峙する最前線だった。
 日本軍の北ビルマ占領には、連合軍が中国軍に武器や物資を供給する「ビルマ公路」、いわゆる「援蒋ルート」を寸断する狙いがあった。これに対し連合軍は、北ビルマのジャングルを突っ切る「レド公路」を建設して、インド→北ビルマ雲南省を結ぶ新たな援蒋ルートを築き、中国に進駐する日本軍を背後から圧迫しようとした。飛行場があるミイトキーナが、両者の命運を分ける決戦場となったのだ。
 戦況は日を追うごとに日本軍に不利になった。およそ3万人の日本兵が命を落とす悪名高い「インパール作戦」が決行されたのは、ミイトキーナで慰安婦が捕虜になる5カ月前の44年3月。慰安婦たちが「暮らし向きがよかった」と答えた時期は、ビルマ到着から1年間くらいで、その時期に束の間の平和を感じたこともあったかもしれない。
 慰安婦が高額の報酬を得ていたのは確かだ。当時の1000円は朝鮮の工場労働者の3年分の年俸になるというから、半分ピンはねされ月750円であっても桁違いの報酬である。貧困から脱出できない朝鮮での暮らしを考えれば、想像もできない稼ぎをしていると思ったに違いない。女性たちが慰安婦にされた経緯は不条理そのものだが、それが売春の実態であり、犯罪の主体は抱え主、つまり女衒にあるという主張の裏付けとされるのが、この慰安婦の報酬だ。
 騙されたとはいえ、彼女たちは身売りされた身の上だ。戦場のビルマまで連れてこられ、そこで抗ったところで聞き入れてもらえるはずがない。貧しい家族を救う借金のため、なによりも自分が生き延びるため、忌まわしい運命を受け入れるしかなかったのかもしれない。もし彼女たちになんらかの自発性があったとしても、そういう類のものでしかなかったはずだ。また、借金を返済して帰国が許されたケースもあったようだが、先の「ブリティン2号」には、キタムラの慰安所からは一人も帰国できなかったと書かれてある。

 事情がどうあれ、一連の状況を生み出した軍が責任を免れるわけがない。なにより彼女たちが強いられた労働の実態は、あまりに過酷だ。「キョウエイ」では利用者が多すぎて混雑するため、月曜は騎兵隊、火曜は工兵隊といった具合に各部隊に利用日を割り当てる輪番制をとっていた。利用料金は兵士が1円50銭、下士官3円、将校5円。慰安婦1人の月の稼ぎは1500円ほどだったというから、利用者の8割が兵士、2割が下士官とした場合、大まかな計算で月に800人以上、1日に30人以上の軍人の相手をしなければならない。戦争さえなければ普通の人たちだった兵隊が、慰安所の前で列をなして順番を待つ光景は、あまりに荒んでいる。
 彼女たちが血の滲む思いで集めた金も紙くずとなる。ミイトキーナで捕虜になった時に撮られた20人の慰安婦の集合写真(写真1)を見ると、左側に東洋系の米兵4人も一緒に映っている。一番手前でしゃがんでいるのが中国系のウォンロイ・チャン大尉で、後ろの3人は日系2世兵士だ。チャンは80年代に回顧録ビルマ―知られざる物語』を出し、この時の様子に触れている。

f:id:beh3:20211026123459j:plain

写真1。1944年8月14日、ミイトキーナで米軍の捕虜になった20人の朝鮮人慰安婦。左端がウォンロイ・チャン大尉、右端で黒っぽい服を着ているのが抱え主の「キタムラ・トミコ」と思われる(第164通信写真中隊フランク・シェアラー4等技能兵撮影)

 チャン大尉が初めて彼女たちを訪れた時、反抗的な態度の女性も1人か2人はいたが、一様に怯えていて、涙を流して泣いていたり、お辞儀をしてなにかを懇願する女性もいたという。写真左列の手前から3番目にいる、日本語が堪能なグラント・ヒラバヤシ軍曹が通訳となった。彼女たちは拙い日本語と朝鮮語をいり交ぜて喋り、話の要領を得なかったという。そのうちの一人の女性が、リーダーらしき別の中年女性に話しかけると、その内容を聞いていた女性たちが急にヒステリックな反応を示したという。彼女たちはカネが没収されるのを気にしていたようだ。
 リーダーの女性とは抱え主のキタムラ・トミコのことだが、彼女が米兵に向かって今後の処遇について尋ねると、ヒラバヤシ軍曹は「抑留は短期的なもので、インド移送後に朝鮮に帰れるだろう」と答えた。キタムラが朝鮮語になおして彼女たちに伝えると、誰もが少し安堵した表情を見せたという。
 キタムラは洋服に着物の帯を巻く奇妙な恰好をしていた。帯の中になにか詰め込み、妊婦のようにお腹が膨らんでいたので、チャン大尉が帯の中身を問うと、キタムラはしぶしぶ帯を解き、目の前に紙の束を取り出す。それは日本軍が発行する10(ビルマ)ルピー軍票の札束だった。敗戦でそれらは無価値になったと教えても信じようとしない。米兵は気の毒になり、軍票の一部をタバコやキャンディーと交換しようと申し出ると、キタムラはこれを「ピンはね」と考え、2束だけ差し出した。その瞬間、女性たちの口から一斉にため息がもれ、ある者はふてくされるように笑い、ある者は泣きだしたという。チャンはこう回想している。
「朝鮮の片田舎の農民の家から、こんな最果てまで無理やり連れてこられた彼女たちは、帝国日本の兵士の楽しみのためにだけここにいた」
 それでも生き残れたのだから、ミイトキーナにあった別の慰安所「キンスイ」の慰安婦よりましだったかもしれない。彼女たちは脱走する日本兵の後を追い、ミイトキーナを流れるイラワジ河をいかだ船で逃げようとしたが、ほとんど死亡したようだ。チャンは回顧録で「[脱出した慰安婦の]多くは日本軍兵士とともに、川沿いに待ち構える連合軍の狙撃兵に撃ち殺されたに違いない。生き残りも餓死したか北ビルマのジャングルの中で死んだだろう」と書いている。
 朝鮮語を話すキタムラ・トミコは、おそらく京城在住の日本人だったと思われる。だが、夫のエイブンは日本人らしからぬ名前だ。憶測でしかないが、朝鮮人のエイブンが日本人のトミコと結婚し、妻のキタムラ姓を名乗ることになったのかもしれない。
 韓国公営放送『KBS』の時事番組(18年8月21日放映)がインド移送後の彼女たちを追跡している。重要な発見はなかったが、キタムラ・エイブンの取り調べで正確な住所が記載されていることが分かり、番組で紹介された。英文を漢字になおすと「京城府青葉町2丁目64番地(モリ・タロウ方)」。父親の氏名は「キタムラ・ニタロウ」となっていた。現在のソウル市龍山区青坡洞2街66あたりになり、実際に訪ねてみると、開発で土地の区画が大幅に変わり、キタムラの手がかりを得ることはできなかった。
 戦前の青葉町には朝鮮総督府「朝鮮鉄道局」の官舎が立ち並び、緩やかな丘の上から京城駅(現ソウル駅)や南大門が見下ろせ、三越京城店(現新世界百貨店)などがあった繁華街にも近い。当時は京城でも有数の日本人居住地域だったという。どこからか大金の前渡し金を調達し、地方から慰安婦を集め、軍当局の許可を得て慰安所を経営するほどだ。キタムラ夫婦は名うての女衒だったに違いない。

米兵が撮った慰安婦たち

 ミイトキーナ守備隊が決死の脱出を試みた頃、中国国民党軍と対峙する雲南省の拉孟でも、日本軍は全滅一歩手前の状況におかれていた。日本軍は前述した援蒋ルートを寸断するため、42年5月にビルマから雲南省の怒江まで攻め入り、同ルート上にある拉孟に最前線の陣地を築き上げた。怒江西岸にある標高1500から2000メートルの山々に複数の防御陣地を構築し、陣地とトーチカを結ぶ交通壕を張り巡らせた難攻不落の要塞だった。陣地は中国側で松山(スンシャン)と呼ばれ、深い渓谷を流れる怒江を挟み両軍のにらみ合いが続いた。
 日本軍の拉孟占領から2年目の44年6月初め、中国軍第8軍は7万人の兵力を結集し、怒江を渡って総攻撃を開始する。歩兵第113連隊を主力とする日本軍約1200人の孤立無援の戦いが、それから百日も続くことになる。少年兵を多く含む寄せ集めの中国軍は初戦で甚大な被害を出すが、8月になると、陣地の地下まで坑道を掘り進め、計6000ポンドのTNT爆薬を仕掛ける。爆破(8月20日)は陣地の丘をカルデラのように陥没させる、すさまじい威力だったという。その後も日本軍の抵抗は続くが、9月7日、ついに全滅。一方、人海戦をとった中国側の犠牲も大きく、戦死者は7000人を超えた。そして、1週間後の9月14日には80キロ離れた騰越の日本軍も全滅し、北ビルマにいた日本軍は一掃された。
 拉孟攻防戦は第2次大戦でもっとも標高の高い場所で戦われ、日中双方が夥しい犠牲を出す凄惨をきわめた戦いだ。だが、戦後の中華人民共和国が国民党の対日戦勝利を評価しなかったため、あまり注目されることがなかった。米国でも「中国・ビルマ・インド(CBI)」戦域は「第2次大戦の忘れられた戦域」と呼ばれ、両軍が命運をかけた拉孟の死闘などほとんど知られていない。全滅した日本軍はといえば、生き残りの兵士の回想録しかないのが実情だ。その拉孟が再び脚光を浴びたのも、90年代初めの調査で慰安婦の存在が確認されたからだった。

f:id:beh3:20211026123718j:plain

写真2。拉孟守備隊全滅後の1944年9月7日に中国軍の捕虜になった4人の朝鮮人慰安婦。右端の臨月の女性が朴永心(第164通信写真中隊チャールズ・ハットフィールド一等兵撮影)

   公文書館で発見された拉孟の写真(写真2)に写っていたのは、汚れた洋服を着た裸足の4人の慰安婦と、救出に当たった1人の中国人兵士。女性の1人は妊娠していて、苦しそうな表情だ。撮影したのは米陸軍の「第164通信(シグナル)写真中隊」(「写真中隊」)所属のハットフィールド一等兵。救出直後と思われるこの写真のキャプションには、松山で中国第8軍の捕虜になった4人の朝鮮人女性、撮影日は「9月3日」とある。これが後に慰安婦問題を象徴する歴史的写真になるとは、撮影者の一等兵は夢にも思わなかっただろう。

f:id:beh3:20211026124107j:plain

写真3。1944年9月8日、中国人将校の尋問を受ける拉孟の朝鮮人慰安婦。左で立っているのは米軍連絡チームのアーサー・ビクスラー軍曹(第164通信写真中隊G.L.コクレック5等技能兵撮影)

f:id:beh3:20211026124210j:plain

写真4。拉孟守備隊全滅後の1944年9月7日、中国軍に救出された直後と思われる朴永心が万歳をする場面。第164通信写真中隊のエドワーズ・フェイ軍曹撮影(『KBS』画面からキャプチャー)

f:id:beh3:20211026124300j:plain

写真5。拉孟守備隊全滅後の1944年9月7日、中国軍に救出された直後と思われる朝鮮人慰安婦たち。写真2では、左の女性が左から2人目、頭から血を流す右の女性は右から2人目に写る。第164通信写真中隊のエドワーズ・フェイ軍曹撮影(『KBS』画面からキャプチャー)

 もう1枚の写真(写真3)には、4人の女性が中国軍第8軍の将校(シン・カイ大尉)の尋問を受ける場面が写し出されていた。撮影日は5日後の9月8日。シン大尉の後ろで立っているのは、米軍連絡チームのアーサー・ビクスラー軍曹とキャプションに書かれてある。拉孟に慰安婦は24人いたとされ、生き残ったのは数人の日本人慰安婦を含め10人だった。しかし、拉孟守備隊の全滅は9月7日なので、写真2の撮影日が9月3日なら、中国軍の砲弾が飛び交う中での救出になる。救出から5日たって尋問が行われたのも不可解だ。
 これらの写真を撮った米軍の「写真中隊」は通常、スティルカメラマン1人とムービーカメラマン2人でチームを組み戦場を記録する。昨年、『KBS』が同写真中隊が撮影したフィルム映像を発掘し、救出当時の生々しい状況をメインニュース番組(20年5月28日)で報じた。写真2に写る臨月の慰安婦が、同じ写真に写る中国軍兵士に手をとられ、カメラを前に万歳をする場面(写真4。『KBS』画面からキャプチャー)が映し出されていた。笑っているが、その表情はどこかぎこちない。他の女性たちの表情も強張り、不安そうだ(写真5。同)。中国軍に捕まれば強姦されたうえ殺されると思っていたのだろう。
 映像(写真5)で頭から血を流している女性は、写真2では臨月の慰安婦の隣にいる女性だが、そこでは血が拭かれている。救出直後に万歳した後、どこかで休んでいる時に撮られたのが写真2だったようだ。『KBS』も映像の撮影日を9月7日と推定しており、砲撃終了後の残存兵の掃討作戦で発見されたのなら、翌日に尋問(写真3)があったのも納得がいく。写真2の撮影日「9月3日」は記載ミスで、日本軍が全滅した9月7日に撮られたものだった。

 

 松山で捕虜になった慰安婦については、この他にも貴重な資料が発見されている。CBI戦域の米軍兵士の間で読まれていた『ラウンドアップ』(44年11月30日号)という週刊新聞に掲載された「ジャップ・コンフォート・ガールズ」というスクープ記事だ。これが世界最初の慰安婦報道である。記者はUP通信社(後のUPI通信社)のウォルター・ランドル。当時、重慶にあったUPの中国支局長だった。サルウィン(怒江)前線発とされる記事には、こう書かれている。

 

 日本はサルウィン前線にある松山、その他の大きな要塞に女性を運び込んでいた。中国軍部隊と共に行動した米軍の連絡将校は、騰越でこの日本の蛮行の証拠に初めて出くわし、1人の朝鮮人女性が近くの爆撃で日本軍の武器の山の中で埋もれているのを見て、目を疑った。
 満州を脱出した後、今は米軍に仕える日本語を話す中国人学生の助けで、松山の5人の哀れな女性たちの情報を得ることができた。そのうち4人は農民の娘で、24歳から27歳だった。彼女たちが着る西洋風の綿の服はシンガポールで買ったものだと言う。
低い腰掛に座った彼女たちはアメリカ製のタバコをむさぼるように吸いながら、数カ月に及んだ砲撃のショックからしだいに落ち着いていった。1942年初春、日本の官憲が彼女たちの住む平壌の村に来たと言う。宣伝ポスターを貼りだしたり、講演を開き、日本人たちはWAC[米陸軍婦人部隊]のような組織による募集のキャンペーンを始めた。それはシンガポールに行き、後方にある非戦闘地域の基地で日本軍兵士の世話をしたり、病院で娯楽などの手伝いをする仕事だと説明された。4人ともお金がどうしても必要だったという。そのうち1人は、農民の父親が膝に怪我をしたため、彼女が募集に応じることで1500円(およそ12米ドル)が与えられ、父親の治療費として支払われた。18人からなる彼女たちの一行は1942年6月に朝鮮を出港した。
[中略]一行がサルウィン前線の松山に着くと、彼女たち4人は、同じ掃討作戦で捕虜になった35歳の一般的な日本人売春婦である5人目の女性の監督下に入った。松山には合わせて24人いた。彼女たちは兵士の洗濯、料理、住んでいた壕の掃除もさせられた。報酬、故郷からの手紙は受け取っていないと言った。

 

 この記事には、彼女たちが救出された直後の内容が書かれているが、インタビューの日付や場所が特定されていない。読み方によれば、満州を脱出した中国人学生からの伝聞のようでもある。また、検閲があったためか、記事は救出3カ月後になって掲載されていた。
 ランドル記者について調べていると、同時期のUP中国支局にアルバート・レイヴンホルトという別の記者がいて、関連書籍(『海を西に越え東洋に』)の記述から、彼も拉孟攻防戦を取材していたことが分かった。レイヴンホルトは45年4月にランドルから中国支局長を引き継いでいる。拉孟守備隊に壊滅的な打撃を与えた8月20日の大爆破の現場は、『ニューズウィーク』特派員のハロルド・イサークと一緒に取材していた。拉孟守備隊が全滅した後、レイヴンホルト記者は通訳の助けで捕虜になった朝鮮人慰安婦のインタビューに成功したが、ドーン将軍の強い圧力で記事にすることができなかったというのだ。
 ドーン将軍とは何者なのか、調べを進めると、米陸軍CBI戦域司令官ジョセフ・スティルウェル将軍の最側近、フランク・ドーン准将だった。レド公路の構想者でもあるスティルウェル将軍は、ビルマ奪還のためインドに呼び寄せた中国軍兵士に軍事訓練を施し、ミイトキーナ攻略で活躍する「X軍」を創設する。同時に雲南省でも「Y軍」を作り、北ビルマで日本軍を挟み撃ちにした。Y軍は中国軍の総攻撃が始まる頃から「中国遠征軍(CEF)」と呼ばれ、松山と騰越の奪還に成功する。中国留学経験のあるドーン准将は昆明を拠点にするY軍の指揮をとった人物だった。膠着状態の拉孟攻防戦で日本軍を追い詰めた、あの大爆破も、彼の指揮で米軍の大量の爆薬が運び込まれて実施されたものだ。
 おそらくドーン准将は、写真3に写る米兵(米軍連絡チームのアーサー・ビクサー軍曹)から慰安婦の尋問内容とUP記者の取材を知り、記事の差し止めを要求したのだろう。ちょうどその頃、インドのレドではミイトキーナで捕虜になった慰安婦の尋問が続いていた。前線で相次いで捕虜になる慰安婦が、米軍上層部で重視されだしていたようだ。そして、「尋問報告49号」が提出された10月以降にエンバーゴが解除され、ランドル支局長が書き直して配信した、ということだろうか。

f:id:beh3:20211026124452j:plain

1944年6月の騰越の戦いで連合軍の被害を視察する米陸軍CBI戦域のフランク・ドーン准将(ドーン准将評伝『並外れた兵士』より)

f:id:beh3:20211030211749j:plain

怒江を渡り拉孟に進軍するY軍(ドーン准将評伝『並外れた兵士』より)

 ドーン准将の評伝『並外れた兵士』(米陸軍戦闘史研究所<CSI>出版、19年)という本に、知られざるCBI戦域におけるY軍の形成過程が詳述されている。だが、ドーン准将自ら関わった松山の慰安婦の話は出てこない。ただ、気になる記述が一つだけあった。拉孟に続き騰越が中国軍に占領された9月15日、日本軍の多くは自決したか、負傷者も彼らの戦友に殺害されていたと伝えた上で、現場を目撃した中国軍歩兵「リ・シフ」の話が紹介されている。

 

 コンフォート・ウーマン[慰安婦](日本軍が移送した売春婦)たちがいた場所があり、女性たちはみなピストルで自決していた。時折、城内の他の場所で、日本軍兵士がまだ銃撃してくることがあった。だが、我々の圧倒的な兵力で即座に彼らを取り囲んで殺した。敵がいた場所を占領してみると、日本軍兵士たちが鎖でつながれていたのを見た。足首に足かせをされてつながれ、一方の先にある大きな岩や建物の石の基礎に固定されていた。兵士たちの近くに少量の缶や食料があり、いずれの兵士も残りわずかな弾薬しか与えられていなかった。鎖でつながれた兵士たちの姿を見るたびに、我々は驚き、そして驚いた! 戦場に鎖でつながれるとは! いったいどんな敵と我々は戦ってきたのか?

 

 拉孟と騰越の慰安婦の実態は、90年代後半の浅野豊美・早稲田大教授の調査で初めて明らかにされた。慰安婦問題解決のために設立された財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」(以下「アジア女性基金」)資料委員会の委員としてまとめた「雲南ビルマ最前線における慰安婦達―死者は語る」(同財団ホームページで公開)には、浅野が米公文書館で発見した、騰越の戦闘で死亡したと思われる複数の慰安婦たちの写真が載っている。騰越の城内と城外の2カットあり、全滅翌日の44年9月15日に「写真中隊」フランク・マンウォレン(技能5等兵)が撮った。そのうち城外の写真(写真6)には、砲撃で焼け野原になった場所に塹壕のような溝があり、何体もの死体が放置されている様子が写し出されている。それを3人の中国軍兵士が見ているのだが、死体の腐乱が進み悪臭がするのか、手ぬぐいのようなもので鼻を覆う兵士も見える。キャプションには「不審に思って立ちすくむ中国兵士」とあり、「大部分の女性は日本軍基地にいた女性たち」と説明されている。この女性たちが自決した慰安婦だったのだろうか。

f:id:beh3:20211026124614j:plain

写真6。騰越全滅翌日の1944年9月15日に撮られた女性たちの死体。中央奥にいるのが中国軍の張兆楷連長と思われる(第164通信写真中隊フランク・マンウォレン技能5等兵撮影)

f:id:beh3:20211026124656p:plain

写真7。同じ場面を撮った白黒映像。第164通信写真中隊ボールドウィン一等兵撮影(『KBS』画面からキャプチャー)

 

虐殺か、自決か

 ところが、女性たちは日本軍に虐殺されたと伝える中国側の資料が発見された。「騰沖戦役期間 将軍系」(1981年)という資料を入手したジャーナリストの西田瑠美子が著書『戦場の「慰安婦」』(明石書店、2003年)で明らかにした。同資料で死体の現場について回想するのは、写真6の中央に写る中国軍の張兆楷連長。貴重な資料なので、西田が著書で紹介した部分を引用する。

 

 日本軍を殲滅し、我が軍が戦場を片付けていた時、西門城壁の土の穴に三人の女性を発見した。年齢は二十歳前後、容姿端麗、髪の毛が乱れており、彼女たちはまるで弓を見ただけで逃げ出す鳥のようにたいそう驚き怯え、銃殺されるのを怖がっていた。詳しい様子を尋ねると、彼女たちは元々台湾の同胞であり、日本軍によって強制的に軍妓(慰安婦)にされた女性たちだということだった。「軍妓院」(慰安所)にいたのはこの三人だけではなかった。筆者(張兆楷)が騰衡(騰越)城内に入り、戦闘が終わった後に城内を回っていた時、人間が燻る臭気がたちこめ、あちらこちらに死体が転がっており、土洞に大きな穴があって、そこには二十以上の死体があった。化粧をしていたのだろう。口紅を塗っており、流行の服を着て、胸が半分見えるような半裸の状態だった。(それらは)全て軍妓の死体で、穴の中に散乱していた。彼女たちの体に銃痕はなく、ただ、左右のこめかみに銃で打ち込まれた穴が開いていた。左から撃たれた一発の銃弾が右に貫通し、命が絶たれたのである。これは日本軍は全滅する最後の日に脱出・突破を決定した時、軍妓の命を助けようとせず一人ずつその場で銃殺し、慌てて穴の中に遺棄したものの、土をかぶせる余裕もなかったのだろう。土の穴に隠れていた三人の女性は、おそらく日本兵が混乱していたために忘れられ、命拾いしたものと考えられる。彼女たち三人は幸運だった。三人は我々により、台湾に送り帰されることになった。

 

 戦場を片付けるため、死体を土洞から壕に運び出した後に撮られたのが、写真6だったようだ。騰越には日本人、朝鮮人、台湾人の50人ほどの慰安婦がいたとされる。死体が朝鮮人だったかどうか分からないが、20人もの女性の全員が左利きで自分を撃ったとは考えにくく、日本軍兵士に至近距離でこめかみを撃ち抜かれた可能性が高い。さらに、当時騰越にいた中国人新聞記者が慰安婦に関する記事を書き、後に『騰越日報』にも転載された「騰越に於ける戦地記者の報告」(46年9月14日付)という記事にも、虐殺を示唆する内容があった。虐殺を免れた10歳前後の1人の中国人少女の話によると、全滅する直前の夜明け、「突然、一人の日本軍人がやってきて銃で十三名の営妓[慰安婦]の命を奪った」というのだ。これらの中国側資料から、慰安婦たちは「自決したのではなく日本軍人に銃殺された」と西田は結論づけた。
 拉孟と騰越で捕虜になった慰安婦たちは、中国軍司令部がある昆明の施設に収容され、取り調べを受けており、米軍も覚え書きの形で記録を残していた。「戦略情報局(OSS)」(CIAの前身)中国戦域の文書「昆明朝鮮人及び日本人捕虜(KOREAN AND JAPANESE PRISONER OF WAR IN KUNMING)」(45年4月28日付)によると、捕虜になったのは朝鮮人25人(女性23人、男性2人)、台湾人1人(男性)、日本人81人(女性4人、男性77人)。張兆楷の回想にある台湾人慰安婦3人の記録は抜け落ちていた。朝鮮人女性の場合、23人のうち10人が拉孟、13人が騰越で捕虜になり、抱え主の1人を除く22人が慰安婦だった。
 ドーン准将の評伝に登場する中国軍歩兵「リ・シフ」は「女性たちはみなピストルで自決していた」と証言し、張兆楷連長は「軍妓の命を助けようとせず一人ずつその場で銃殺」したと回想した。中国側資料が事実なら、確かに彼女たちの自決は物理的に難しく、射殺されたと考えるしかない。
 しかし、一人ずつ銃殺したという場面が、どうしても想像しにくい。彼女たちが防空壕の中に隠れていたのなら、手榴弾でひとまとめに殺せばいいのに、なぜ一人ずつ銃殺したのか。そして、こめかみを撃ち抜かれる彼女たちは、なぜじっとしたまま殺されたのか。なによりも、なんのために彼女たちを処刑しなければならなかったのか……。
 中国軍の総攻撃を受けていた守備隊に20人以上の慰安婦を虐殺するほどの余裕があったのか疑問も残る。食事や洗濯、弾薬運びまでしていた慰安婦たちを、まるで〝戦友〟のように思っていた日本軍兵士は多かったという。慰安所の情報が敵に漏洩するのを恐れて処刑するということはあり得るのか。
 おそらく女性たちは、中国軍に捕まれば殺されると信じていたに違いない。これも想像でしかないが、日本軍が玉砕する中で、軍人に言われるまま、一緒に死を選んだのではないだろうか。米軍は慰安婦の記録を数多く残しており、この件に関しては撮影までしていた。現場で虐殺の情報を得ていたなら、対日心理戦の格好の材料となり、詳細な記録を残していたはずだ。米軍は前述の文書で、進んで情報を提供した朝鮮人女性たちの誠意を高く評価していた。もし虐殺の兆しがあったなら、同じ境遇にあった彼女たちが何らかの証言をしてもおかしくない。

 浅野論文の公表から約20年後の18年、ソウル市が「3・1節」(1919年3月1日の独立運動を記念する日)99周年を記念して開催した「日本軍『慰安婦』国際コンフェランス」の会場で、騰越で虐殺された慰安婦の白黒フィルム映像(写真7。『KBS』画面からキャプチャー)が公開され、韓国メディアが大きく報じた。米公文書館で映像(19秒)を発見したのは、ソウル市の支援を受けたソウル大・鄭鎮星教授の研究チーム。『連合ニュース』(18年2月27日付)によると、日本軍による虐殺を立証する初めての映像であり、「朝鮮人女性30人が銃殺された」と伝える連合軍の文書も合わせて公表された。
 同研究チームは、このイベントの2年前に、同じ現場を撮った写真を米公文書館で見つけ、その後の調査で関連映像を見つけ出したという。さらに分析に1年かけ、公開に踏み切ったという説明だ。調査を主導した鄭鎮星は「日本政府が日本軍の慰安婦虐殺を否定する中で、戦争末期に朝鮮人慰安婦がおかれた状況と実態を見せてくれる資料」と強調した。ところが2年前に発見されたという、その写真は、20年前の浅野論文で公開された死体の現場写真と同じものだった。前掲の『戦場の「慰安婦」』にも掲載されており、研究者の間でよく知られた写真だ。
 映像の公開に合わせ出版された『日本軍「慰安婦」関係米国資料(Ⅰ Ⅱ Ⅲ)』(鄭鎮星編著、2018年、ソンイン)に、ソウル大研究チームが米公文書館で発掘した米軍資料がひとまとめで公開されている。「30人を銃殺」と記録した文書は、Y軍の報告日誌「G―3 Daily Diary」の44年9月15日付にあった。証言者は、ミイトキーナで数カ月前に日本軍の捕虜になり、騰越に移送されたビルマ人狙撃手。英軍捕虜が日本軍に処刑された情報と併せて、「[騰越陥落前夜の44年9月]13日夜、日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺した」とだけ証言している。目撃談か伝聞なのかは分からない。伝聞であるなら、ドーン准将の評伝に登場する中国軍歩兵「リ・シフ」が証言した、「女性たちはみなピストルで自決していた」という内容のほうが実態に近い気がする。
 鄭鎮星が映像を公開する2年前に出版した『日本軍性奴隷制』(ソウル大出版文化院、16年)を読むと、同書でこの記録の存在がすでに指摘されていた。米公文書館で同記録を発見したのは在米歴史学者の方善柱で、97年8月に韓国の民放『MBC』で紹介されていたという。写真も記録も20年も前に発見されていたことになり、その関連映像が発見されたに過ぎない。自決を強いたとしても戦争犯罪に変わりないが、自決と虐殺では意味合いがだいぶ異なる。これらの映像や文書を虐殺の証拠とするなら、より説得力ある論証がされるべきだった。さらに問題なのは、韓国メディアのセンセーショナルな報道で〝虐殺〟が既成事実として一人歩きしてしまうことだ。

 調査を主導した鄭鎮星は「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺隊協、現在の「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の共同代表を務めた運動家としても知られる。国連人権理事会の諮問委員を務め、この映像が公表される前年、韓国人として初めて国連人種差別撤廃委員会の委員(任期3年)に選出された。映像公表の半年後には、ジュネーブの同委員会の慰安婦問題に関する会合で使われた「性奴隷」という表現をめぐり、日本政府代表と舌戦を繰り広げ注目を浴びた。性奴隷という言葉へのこだわりには並々ならぬものがあり、当時の挺隊協の英語の名称が「日本軍性奴隷制度により連れていかれた女性たちのための韓国委員会」だったことからも分かる。
 慰安婦たちが性奴隷的な状況におかれていたのは事実だろう。しかし断定的な見方は実像を歪め、不毛な論争を呼び起こしてしまう。

 拉孟と騰越で捕虜になった朝鮮人女性の出身地は、北の平安道から中部の京畿道、南の慶尚道まで様々だ。米戦略情報局の文書によると、彼女たちのうち15人が朝鮮を離れたのは43年7月だったので、徴集時の平均年齢は23歳くらいになる。シンガポールの工場で働く新聞の募集広告に応じるなど、ここでも騙されて連れてこられた女性が多く、同じ船で少なくとも300人の女性が南方に送られたという。彼女たちの1年前にビルマに送られたミイトキーナの慰安婦の場合、同じ船に約700人の女性が乗船していた。戦況悪化のためか、慰安婦動員の規模が少し縮小したように見える。
 北ビルマの戦場で連合軍の捕虜になった朝鮮人慰安婦は合計で42人になり、名前や出身地など個人情報に加え写真まで発見されていたが、身元の確認はほとんどされていない。ミイトキーナの捕虜たちを追跡した『KBS』が、そのうちの1人である可能性が高い女性を割り出したが、すでに死亡していた。その女性は終戦後ずっと中国に残留し、10年くらい前に韓国に帰国したという。終戦の頃に出産したと思われる子供もいるようだ。ミイトキーナで捕虜になった慰安婦の中には、自分が妊娠初期だったことに気づかず、インドの拘留生活中に出産した女性もいたとされる。

 一方、拉孟で捕虜になった臨月の慰安婦は、半世紀以上を経て北朝鮮で生存していることが分かった。韓国で金学順という被害女性が初めて名乗り出た翌年(92年)、北朝鮮に「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」(後に「朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会<朝対委>」に改称)が発足し、慰安婦被害者の申告を呼びかけた。98年までに申告者数は218人にのぼり、そのうち43人が公開証言に応じていた。この時期に東京で結成された「戦争と女性への暴力」日本ネットワークが、旧日本軍の「慰安婦制度の責任者」を裁く民間法廷「女性国際戦犯法廷」を開くことを提唱し、北朝鮮も呼応する。騰越の中国側資料を発掘した西田が、元日本軍兵士の証言や戦記の記述と北朝鮮の申告者情報を突き合わせ、米軍の写真に写る臨月の慰安婦が朴永心(06年死亡)であることを突き止めた。
 朴永心は捕虜になってすぐ死産し、昆明の収容所に送られていた。終戦直後、捕虜の朝鮮人女性たちは重慶にあった大韓民国臨時政府の「光復軍」に引き取られ、終戦翌年にソウルに送り戻された。慰安婦にされてから7年後、朴永心はようやく朝鮮北部にある故郷の南浦に帰ることができた。2000年8月に平壌を訪れた西田と面会した朴永心は、「今まで妊娠したことを黙っていたのは、日本軍の子どもを宿したなんて、あまりに屈辱的なことで、とても話せなかった」(『戦場の「慰安婦」』)と言って涙ぐんだ。同年末、東京で開かれた女性国際戦犯法廷に参加するため、朴永心は生まれて初めて日本の土を踏んだ。来日を決意したのは、「彼らがどのように裁かれるのか、この目で見た」かったからだ。
 昭和天皇に有罪判決を下したこの民間法廷は、保守側から「極左プロパガンダ」と非難される波乱含みのイベントになってしまった。拉孟の全滅戦を生き残った朴永心は、半世紀後の日本を見て何を思っただろうか。

 拉孟で生き残った日本兵の聞き取り調査をした作家の遠藤美幸が09年に発表した「戦場の社会史:ビルマ戦線と拉孟守備隊の1944年6月―9月」によると、拉孟と騰越の捕虜が収容された昆明の収容所生活は、それほど厳しくなかったようだ。朴永心をよく知る元上等兵の早見正則はこんな話をしている。
「[昆明の収容所で]若春さん[朴永心の慰安所での名]はよく面倒みてくれて、洗濯などしによく来てくれました。中でも谷祐介軍曹と仲がよかったな。若春さんは日本語もうまいし、日本の歌もうまくて、よく流行歌を歌ってくれました。とても朗らで気分の良い人でした」
 収容所で再会した兵士と慰安婦たちが、長く辛かった拉孟の日々を語り合うこともあったという。生死を共にした日本軍兵士たちと慰安婦たちが命拾いした思いを分かち合うのは当然の成り行きかもしれない。だが、元兵士の聞き取り調査をした遠藤は、彼らが慰安婦を「戦友」と呼んでいたことに違和感を覚え、こう指摘している。「彼女たちの存在理由は、将兵の性欲のはけ口以外の何者でもなく、女性たちの恥辱と苦恨は心身から生涯消えることはなかった」
 彼女たちはみな植民地に生まれ、劣等意識を叩きこまれて育った。そのうえ慰安婦にされた身の上だ。兵隊の戦友であるわけがない。敵軍に救出されたとはいえ、長い慰安所生活の呪縛から抜け出すには、相当な時間がかかるはずだ。彼女たちの身に染みついた当時の行動や言動を鵜呑みにするだけでは、屈辱的な境遇を理解することなどできない。それが売春の実態だと主張しても、日本軍慰安婦の場合、軍の関与が明らかにされており、女性の人権を踏みにじった国家犯罪の誹りは免れない。

 

従軍慰安婦問題の原点㊦ 「事実上の強制動員」と「日本軍無実論」
https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/10/28/102842

 

 

 

 

アジアで出会った子どもたち

いつどこで撮ったのか覚えていないけど、この子たちも今は大人になって、大事な家族と一緒に暮らしているんだろうと思う。

(「戦争と記憶」1部 終わり)

 

f:id:beh3:20211015163450j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163527j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163541j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163555j:plain

 

 

 

f:id:beh3:20211015163626j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163637j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163651j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163704j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163718j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163733j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163744j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015163756j:plain

 

 

f:id:beh3:20211015195742j:plain



 

ビデオダイアリーに映る苦難のカブール脱出

f:id:beh3:20211014181642j:plain

「My Toxic Afghan Love Story」から

 米軍撤退の混乱の中で取り残されたアフガン女性のビデオダイアリー「My Toxic Afghan Love Story」がニューヨークタイムズ(オンライン)で公開された。アフガン政府と米国政府のもとで働いたナジュラ・ハビブヤーという37歳の女性は、自分の名がタリバンの逮捕リストにあがっていることを知り、20人の家族とともに市内に隠れ、命懸けでカブールを脱出することができた。バイデン政権の拙速な撤退計画がもたらした人々の苦難が克明に描き出されている。愛する国を追われる当事者の記録は、シリア人女性のワアド・アル=カデブが撮ったドキュメンタリー映画『娘は戦場で生まれた』も大きな反響を呼んだ。イスラム圏女性の勇気ある行動が続いている。

拉致被害者が生きている理由

韓国誌『週刊朝鮮』2018年7月23日号

難航予想される日朝首脳会談

 (※2018年の)平昌冬季五輪を機に、3回の中朝首脳会談、2回の南北首脳会談に続き、6月12日に史上初の米朝首脳会談を実現させた北朝鮮金正恩委員長(※当時)は、ロシアのプーチン大統領との首脳会談にも意欲的とみられ、6カ国協議参加国のうち、強硬一辺倒の日本だけが「蚊帳の外」におかれる結果を招いた。米国頼みの安倍外交は根本的な見直しが迫られ、16年ぶりとなる日朝首脳会談を本格的に模索する方針を固めたが、北朝鮮の対応は冷淡だ。日本側が提起する拉致問題を解決済みと切り捨て、「我が国の対外的イメージに泥を塗るもの」と逆に日本政府の姿勢を批判した。その一方で、労働党機関紙『労働新聞』(6月28日付)は「過去の清算から誠実に行うべき」とも指摘しており、関係改善の意欲も覗かせる。国交正常化に伴う100億ドルとも言われる巨額の資金援助を念頭にした言及と考えられる。
 2002年9月17日、当時の小泉純一郎首相と金正日国防委員長は平壌で会談を行い、両国間の不幸な過去を清算し、国交正常化を早期に実現させる「平壌宣言」を発表した。日本側は、植民地支配の痛切な反省とお詫びを表明した上で、国交正常化後の無償資金協力と低金利の長期借款の供与などの実施に向けた協議をすることとし、北朝鮮側は、「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」、つまり日本人拉致問題で適切な措置をとることを確認した。金正日はこの時、「1970~80年代に特殊機関で妄動主義、英雄主義があった。遺憾なことでお詫びする」と自ら拉致を認め、謝罪している。
 この時、北朝鮮側は日本当局が把握していなかった被害者も含め「5人生存、8人死亡」という衝撃的な調査結果を伝え、生存していた5人は24年ぶりに帰国を果たす。だが、死亡した8人の情報には矛盾点が多く、北朝鮮の思惑に反し、日本の世論は極度に悪化した。その後、日本政府が認定する拉致被害者は17人に上り、帰国した5人を除く12人の生存可能性は高いと判断し、事件の全容解明を目指してきた。だが、事態は一向に進展せず、北朝鮮がミサイル発射や核実験を強行したため、平壌宣言は形骸化した。
 今後の米朝交渉で非核化に進展があれば、必然的に日米交渉も始まる。トランプ大統領北朝鮮への経済支援は韓国と日本が行うと明言しており、「ジャパン・パッシング」は韓国の負担を増す結果にしかならない。しかし、日本としては、自国民の生命と安全に関わる拉致問題の解決なしに平壌宣言の履行はあり得ない。拉致は金正日政権下で起きた国家犯罪であり、金正恩委員長に直接的な責任はない。彼が全面的な解決に向け指導力を示せば、経済改革に必要な資金を労せず手に入れる絶好の機会でもある。にもかかわらず、拉致問題の解決は絶望視されている。

杜撰な調査結果で日本世論悪化

 日本人拉致疑惑が初めて明らかにされたのは1988年1月15日。KAL機爆破事件の実行犯、金賢姫工作員が記者会見で、自分の日本人化教師だった「李恩恵」が拉致された日本人女性だったと証言してからだ。2年後、日本の埼玉県警が李恩恵田口八重子さん(1978年失跡、当時22歳)である可能性が高いと発表し、同時期に開催された日朝交渉で議題になると、北朝鮮側は交渉を決裂させた。1978年夏に日本各地で起きた3組のアベック失跡事件なども北朝鮮の犯行が疑われたが、確証はなにもなかった。
 状況が一変するのは1997年。韓国当局から日本にもたらされた亡命工作員の証言から、1977年に新潟県で行方不明になった女子中学生の横田めぐみさん(当時13歳)が北朝鮮に拉致された可能性が高いことが分かったためだ。証言した元工作員は、スパイ養成機関の金正日政治軍事大学を卒業し、1993年に非武装地帯から亡命した安明進氏。ソウル市内で産経新聞とのインタビューに応じ、1988年10月に同大で行われた朝鮮労働党創立記念日の行事に、一見して日本人と分かる6、7人のグループがいて、その中で「めぐみさんを見かけた」と語った。その際、先輩の教官から、彼女が新潟の海岸から連れ去られたことを聞いている。
 李恩恵と断定された八重子さんばかりかく、女性中学生の拉致を強く否定してきた北朝鮮が、日朝首脳会談で自発的に犯行を認めた意味は大きい。安氏はその後、日本のマスコミで脚光を浴び、様々な拉致被害者の目撃談をするようになるが、信憑性が問われる内容もあった。2007年に覚醒剤密輸で実刑判決を受けてから日本のメディアに登場することもなくなり、数年前に中国で死亡したという噂が流れる。しかし、誰も知らなかっためぐみさんの拉致は彼の証言で発覚し、北朝鮮自ら拉致を認めざるを得なくなったのであり、彼の初期情報は実証済みだ。
 問題は北朝鮮が日本側に通知した被害者情報の中身だ。死亡したとされる8人のほとんどが、20代~30代の若さで、交通事故、心臓麻痺、練炭ガス中毒、自殺という不自然死を遂げ、裏付けとなる客観的証拠が提示されていない。北朝鮮で特別管理された日本人拉致被害者の宿泊施設は電気の床暖房だったことが、複数の証言から明らかになっており、練炭ガス中毒は考えにくい。心臓麻痺も不可解だ。アベック失跡事件の1組、市川修一さんと増元るみ子さんの場合、拉致翌年の1979年7月に結婚し、同年9月に夫の修一さんが元山の海水浴場で、2年後に妻のるみ子さんが心臓麻痺で立て続けに死んだ。だが、帰国した被害者の1人が同年10月までるみ子さんと一緒に生活しており、結婚も夫の死も聞いたことがないと証言している。
 また、8人のうち6人の遺骸は3カ所の墓地に埋葬され、すべて豪雨で流出したと説明されている。北朝鮮側が遺骨を提供したのはめぐみさんと松木薫さん(男性)の2人だけ。その遺骨の一部からは、DNA鑑定の結果、それぞれ別人のDNAが検出された。科学雑誌『ネイチャー』が1200度の高温で火葬された遺骨を鑑定するのは無理だとする見解を示したが、骨の一部が熱に十分さらされずDNAが残存することはあり得るというのが日本の鑑定機関の立場だ。薫さんの骨片は本人の身体的特徴と合致しないとの結果も出ている。

生存者を否定する理由

 めぐみさんの遺骨にも問題があった。彼女は韓国人拉北者の金英男さんと1986年8月に結婚し、翌年9月に娘のウンギョンさんを出産した。その後、精神的に不安定になり、入院先の「49号予防院」(平壌市勝湖)で自殺したとされ、死亡確認書の死亡日に担当医が「1993年3月」と記載した。しかし、その翌年までめぐみさんを見かけたと帰国被害者が証言すると、金日成生誕日直前の「1994年4月」だったと修正された。この修正も嘘だったことが帰国被害者たちの証言により判明している。同年4月にめぐみさんを病院に運んだ運転手から、入院先は平壌でなく平安北道義州にある49号予防院だっと聞いていたばかりか、その2カ月後の6月、彼女が一人で隣に引っ越してきたのを覚えていたのだ。嘘に嘘を重ね、北朝鮮側は反論せず沈黙を続けている。
 日本側に提供された彼女の遺骨は、元夫の金英男さんが、土葬された遺体を死亡から3年後の1997年春ごろに掘り起こし、大同江南側の平壌市楽浪区域にある「五峰山奉仕事業所」(火葬場)で火葬したものだと言うが、同事業所が完成したのは2年後の1999年だったと『月刊朝鮮』が報じ、これも辻褄が合わなくなった。そもそも、当時の北朝鮮に遺骨を保管する風習などあったのか。
 その他にも、帰国した被害者たちの証言と北朝鮮側の主張が食い違う内容は多々ある。日本当局が握る未公表情報はかなりの量になると思われ、日朝交渉が始まれば、一つひとつ確認作業をしていかねばならない。それにしても、杜撰で不合理な説明を繰り返し、なにを隠そうとしているのか。情報が極端に少ない他の被害者と異なり、めぐみさんと八重子さんに関する証言は多く、ある程度の推測が可能だ。

金賢姫と金淑姫の日本語教師

 北朝鮮は、めぐみさんと八重子さんが1981年から1984年まで2人で共同生活をしたと主張している。八重子さんが日本人拉致被害者と結婚したのが別居の理由だ。2年後の1986年、男性が病死。同じ年、八重子さんも元山で休息をとった帰り、馬息嶺で軍部隊の車両と衝突して事故死した。
 日本側の情報は異なる。日本人拉致被害者が多く住んでいた平壌南郊の中和郡忠竜里の招待所で、2人は1983年秋から1985年秋まで共同生活をした。時期が微妙にずれているのだ。途中で2人が別々に住まわされることもあったようだが、八重子さん結婚後も一緒に住んでいたのは不自然だ。同じ招待所に住んでいた帰国被害者たちは、1986年に平壌北郊の太陽里の招待所に移住させられる。そこでも奇妙な証言がある。招待所の運転手から「平壌市内の百貨店(楽園百貨店)で八重子さんが買い物をしているのを見た」と告げられていたのだ。目撃した直後の1986年10月のことだったという。八重子さんが事故死して2カ月以上が過ぎている。
 八重子さんの生存を印象づける証言はまだある。その頃、彼女が「義挙者」と結婚した噂も伝わっていた。金英男氏のように、韓国人拉北者で対南工作機関に関与していた人物だった可能性もある。「八重子さんは『敵工地』と呼ばれるところに行ったと聞いた」というのが、彼女に関する最後の証言だ。金正日政治軍事大学を卒業した元工作員のA氏にソウルで会う機会があり、敵工地について尋ねてみた。彼はしばらく考え、こう答えた。
「おそらく(※朝鮮語で)敵工局と言ったのを、日本人だから発音が似た敵工区と聞き違え、敵工地と記憶していたのかもしれない」
 敵工局とは「敵軍瓦解工作局」の略で、文字通り、韓国軍を瓦解させるための対南心理作戦を行う部署を指す。
 八重子さん、つまり李恩恵が、平壌北郊の東北里の招待所で金賢姫工作員に「密封教育」を行ったのは、1981年7月から1983年3月までの20カ月。そこにめぐみさんは登場しない。金賢姫氏には金淑姫という同僚の女性工作員がいて、彼女も別の日本人から日本語を学んでいた。教育を終えた後の1984年6月頃、金賢姫氏は金淑姫と一緒に、その日本語教師にこっそり会いに行ったことがある。場所は金正日政治軍事大学から近い平壌市内。その女性が、当時20歳だっためぐみさんだった。1人で住んでいた理由は分からないが、気まずい雰囲気だったので「何か歌を歌いましょう」ということになり、めぐみさんは日本の国歌を歌ってくれたという。中学1年生の時に覚えた寂しく厳粛な響きがある日本の国歌を、故郷の想いを込めて歌ったのかもしれない。
 北朝鮮が2人の共同生活の時期を無理にずらし、事実に反する調査結果を示したのは、金賢姫氏の証言を否定するためではなかろうか。乗員乗客115人の命を奪ったKAL機事件は、米国が北朝鮮を「テロ支援国家」に指定した韓国に対する過去最大のテロである。工作機関に利用された八重子さんとめぐみさんが生存していたら、北朝鮮に致命的な証言が飛び出しかねない。その他の被害者の安否情報が矛盾しているのも、対南工作に関わった可能性が高いためと考えざるを得ない。日本人拉致は韓国の問題でもある。
 朝鮮戦争時に越北し、労働党中央の対南工作に長く携わった脱北者のシン・ピョンギル氏は著書『金正日と対南工作』でこう指摘する。「日本を工作拠点にした迂回浸透工作が積極化・多用化されたのも、この時期の対南工作の、もう一つの特徴的様相だった」。さらに、こう続ける。「拉北漁夫たちを包摂し、彼らを内陸地域(韓国)工作の拠点として活用するための工作も活発に展開された」。韓国政府が把握する拉北被害者は516人。拉北者家族会が独自に得た情報では、少なくとも約150人の生存が確認されている。しかし、今年8月に実施される南北離散家族再会事業で彼らが家族に再会できる可能性は限りなく少ない。

f:id:beh3:20211013114113j:plain

1974年に北朝鮮で「再教育」された韓国人拉致漁民たち(「拉北者家族の会」提供)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

※以上は韓国誌用の記事だったのでA氏の実名は明かさなかった。A氏は元南派工作員の金東植氏で、日本の民放局がインタビューしたことも一度ある。以下の内容は、紙幅の関係で原稿から省いた金氏の証言だが、まだ確認されていない拉致被害者に関する情報なので、ここで紹介することにした。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

日本人拉致被害者を目撃

 金氏が受けた敵区化教育は、平壌北西の順安区域にある「招待所」で行われた。そこで韓国出身の講師と寝食を共にする、いわゆる「密封教育」を受け、韓国人になりすます訓練を重ねた。70年代に入り、韓国をまったく知らない若い工作員が増え、彼らの教育のため拉致が頻発する事態を生んだという。金氏は90年に済州島海岸から韓国に侵入し、ソウルに潜伏する大物スパイを北朝鮮に脱出させることに成功し、第1級勲章を受章。2度目に侵入した際、警察と銃撃戦の末に逮捕された。
 逮捕から20年近い歳月を経て書かれた金氏の著作物に、この招待所に滞在中に日本人拉致被害者と思われる講師を目撃したと、簡単に触れられている。極めて重要な指摘をマスコミは見逃し、金氏に接触した日本政府関係者以外、まだ誰も確認作業をしていない。当時の状況を詳しく尋ねた。
順安地区には120という地区名に1から21までの家屋番号がついた招待所があった。地区を貫く1本の表通りがあって、それぞれの招待所は、この道から一つずつ分岐する小道の奥にあるので外からは見えない。私がいた招待所は入口から近い『120-5』。ちょうど大学の同期生で日本工作課工作員のチョ・ソンリョルが『120-14』で密封教育を受けていて、彼は『120-2』で日本人講師から日本語も習ったと言っていた。仮名だろうが『田中』という名前だったという。状況からし拉致被害者だと思う。この招待所には住んでいなかったが、その人物の妻も日本人らしい。通りの一番奥にある『120-21』はもっとも大きな招待所で、そこも日本人講師専用の招待所だった。
 招待所地区の入口付近に売店と2階建ての特別招待所があり、それぞれに割り当てられた招待所以外では、そこにしか立ち寄ることができない。そこで2回、その日本人を見たことがある。同期生のチョと立ち話をしていた姿、それから雨の日に私が車で移動中、傘をさす工作員に付き添われて歩いている姿を見た。互いに見てはいけない存在なので、彼は車を見ず顔をそむけたので、横顔しか見えなかった。身長は170センチ代前半、メガネをかけ、髪の毛を少し伸ばしていたのを覚えている」
 金氏に拉致被害者たちの写真を見せると、日本政府関係者に「何度も見せられた」と言って首を振った。年齢は62年生まれの金氏より少し上に見えたという。田中と呼ばれた日本人講師は誰だったのか。

 

アフガンのウイグル人とハザラ人の犠牲

モスク爆破テロの背景

 アフガン北東部のクンドゥス市にあるモスクで8日、金曜礼拝中に爆発が起き、少なくとも46人が死亡、140人以上が負傷した。死傷者の数は米軍撤退後もっとも多く、シーア派少数民族のハザラ人が標的にされた。イスラム過激組織「イスラム国(IS)」系のメディアに伝えられた犯行声明によると、実行犯はウイグル人シーア派だけでなく、中国の要求に応じてウイグル人を国外に追放しようとするタリバンも標的にしたという。

 中国の王毅外相は今年7月、天津市タリバン幹部と会談した際、米軍撤収後のアフガン安定化のため支援を約束する一方、タリバンウイグル人過激派組織との関係を完全に断つよう求めていた。これを受けタリバンは9月初め、ウイグル人戦闘員らはすでに国外に去り、今後は外国を標的にするために領土が使われることはないと公言した。だが、米政府系メディア『ラジオ・フリー・ヨーロッパ』が得た情報では、その後もウイグル人たちはアフガン北東部のバダフシャン州に住んでいた。ところが10月初めになり、東部のナンガルハル州などに移住させられたという。中国の英字紙『グローバル・タイムズ』(10月10日付)も、タリバン政権はウイグル人の中国送還に応じていないが、中国との国境から近い地域に居住していた彼らを、他の地域へ移住させたか国外追放にした事実を認めた。

 こうした動きをタリバンと対立するIS側が察知し、バダフシャン州に比較的近いクンドゥスでのテロにつながったようだ。タリバン政権に揺さぶりをかけ、現状に不満を抱くタリバン戦闘員をリクルートする狙いがあったと思われる。

アフガンに定着したウイグル人

 そもそも、アフガンにいるウイグル人はどういう存在なのか。

 中国からの「東トルキスタン」(新疆ウイグル自治区)分離独立を訴える「トルキスタン・イスラム党(TIP)」が創設されたのは1997年。同時期にメンバーの一部がタリバン政権下のアフガンに逃れ、アフガンを聖域としていた「アルカイダ」と結びついたとされる。同時多発テロ後の2003年末、中国はTIPを「東トルキスタン・イスラム運動(ETIM)」の名でテロ組織に指定し、米国のブッシュ政権も「対テロ戦争」で利害が共通すると判断してリストに追加した。中国はETIMのテロ活動を理由に、新疆ウイグル自治区における住民の人権侵害を正当化してきたが、明確な証拠はほとんど示していない。トランプ政権のポンペオ国務長官は「ETIMが存続している確証が10年以上前から得られていない」として、2020年に指定から解除してしまった。

 国連は2020年の報告で、アフガン国内にいるウイグル人戦闘員の数を数百人と推定している。しかし専門家の多くは、彼らに組織的な戦闘能力はないと分析しているようだ。90年代後半以降にアフガンに渡ったウイグル人の多くも、米軍との戦闘で死亡したものと考えられ、ETIMは存在すら確認できないのが実情だ。今は彼らの子どもたちの世代を中心に2000人ほどがアフガンに暮らし、アフガン政府が発行した身分証明書に「ウイグル人」あるいは「中国難民」として登録されてあるという。ウイグル語はウズベク語に近いらしく、生活の場も限られてくるのではないか。アフガンのウイグル人接触できたラジオ・フリー・ヨーロッパの記者は、タリバン政権が彼らを中国に追放するのではないかと恐れていたと伝えた。

 アフガンは北東部の3州(西からクンドゥス州、タカール州、バダフシャン州)でタジキスタンと約1400キロの国境を接している。タジキスタンの東には中国の新疆ウイグル自治区がある。もし新疆のウイグル人たちがタジキスタンを通ってアフガンのバダフシャンに定着したのであれば、脱出ルートを遮断するためにも、ウイグル人を他地域に移住させる必要があったのかもしれない。

暗雲漂うタジキスタン国境

 しかし、ウイグル人強制移住させた時期、タリバンはタカール州とバダフシャン州に数千人規模の戦闘員を配置したとされ、国境を接するタジキスタンとの緊張を高めていた。タジキスタン側でも新たに2万人の追加部隊が国境周辺に配置された模様だ。どうやらアフガンとタジキスタンの因縁の対決が、タリバン政権の誕生で顕在化しているようなのだ。

 ソ連崩壊後に独立したタジキスタンは、1992年から5年間の内戦を経て、エモマリ・ラフモン大統領率いる「タジキスタン人民民主党(PDPT)」主導の政権が樹立され、現在に至っている。ラフモン大統領は第1野党の宗教政党の活動を禁止させるなど、独裁的な権力を強めているが、ロシアや米国からの支援もあり国政は比較的安定している。そのラフモン政権がタリバンを認める条件として提示しているのが、アフガン国内のタジク人を尊重する政策の実行、つまりタジク人の政権参加だ。タリバン内政干渉だとして強く反発している。タジキスタンと同じ民族のタジク人はアフガン人口の25%を占め、パシュトゥン人(50%)に次ぐ第2の民族だ。両者の対立こそ、40年も続いたアフガン紛争の元凶でもある。

 80年代にソ連軍と戦ったアフガンゲリラのムジャヒディンには7派あり、その中でも主要3派は、米国の軍事支援を受けたタジク人の「ジャミアテ・イスラミ(イスラム協会)」、サウジアラビアなど主に中東の支援を受けたパシュトゥン人の「ヘズビ・イスラミ(イスラム党)」(ヘクマティアル派と分派のハリス派)に分かれていた。ソ連崩壊後は派閥争いの内戦を繰り返し、パシュトゥン人主導のタリバン政権「アフガニスタン・イスラム首長国」と、パンジシール渓谷にたてこもるタジク人主導の「北部同盟」に分裂。タリバンを支えたのがアフガンの2倍以上パシュトン人が多く住むパキスタン北部同盟を支えたのが同族のタジキスタンという構造が背景にある。

 問題は、タジキスタンからアフガンに逃れてラフモン政権打倒を目指す、いわゆる「タジク・タリバン」が勢いを増していることだ。バダフシャン州の国境地帯を制圧したタリバンが、タジキスタンが反政府勢力の司令官と名指ししている人物を同地域の治安担当者に任命したことも、緊張を高める一因になっているようだ。もしタリバンが反政府勢力をタジキスタン領に浸透させたら、紛争に発展する恐れもある。タリバンウイグル人を移住させたのは、中国の顔色をうかがったというより、国境地帯の不安要素を除去するための事前の措置だったのではないか。

絶えないハザラ人迫害

 以上のような情勢の中でISがテロを起こしたとしたら、浮かばれないのは、なんの関係もないハザラ人たちだ。彼らに対する迫害は以前にも触れたが(https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/09/03/120040)、筆者には個人的に忘れられないことがある。アフガンを初めて取材した1986年春、パキスタン北西辺境州・北ワジーリスタンのミランシャーにあったムジャヒディンの拠点施設を訪ねた時のことだ。ヘズビ・イスラミ(ハリス派)の出撃拠点だった施設はかなり大きく、豊富な資金であふれるばかりの武器があった。隣にはクェートの支援で建てられたレッド・クレッセント病院があり、ボランティアのエジプト人医師たちが重傷を負ったムジャヒディンたちの治療に追われていた。

 この施設にソ連「傀儡」政府軍の捕虜が多く囚われていた。施設の地下広場に100人くらいが連れ出されたのだが、なかには東洋的な顔をした者もいて、中央アジアで徴兵されたソ連兵かもしれないと思った。そして撃墜したヘリのパイロットの捕虜もいるというので、特別に話を聞かせてもらう機会を得た。3人の操縦士たちは足首を鎖でつながれ疲れ果てた様子だった。そのうち東洋的な顔をした捕虜に「なぜ政府軍に参加したのか?」と尋ねると、彼は瞬きもせず筆者を見つめ「なぜなら私はハザラ人だからだ」と英語できっぱり答えた。ハザラという人たちの存在を初めて知り、理解のできない不条理を感じた。

 ハリス派の最高司令官は当時40代だったジェラルディン・ハッカーニ(2018年死亡)といい、アラビア語と英語が堪能な人物だった。ハッカーニとは何度か話したことがある。ムジャヒディンたちの信望が厚く、指導者のハリス導師とハッカーニ司令官を慕いアラブ各地から義勇兵が集まっていた。なかにはチュニジア系のフランス人までいたが、彼はアラビア語の礼拝を指導する立場にあると言っていた。レッド・クレッセント病院で知り合ったエジプト人医師によると、ハリス派を支援しているのはサウジアラビアの若い富豪で、ソ連空軍基地があるパクティア州のホスト空港に近い最前線のジャワル山中にコンクリート製の要塞を作り、ムジャヒディンと一緒に前線で戦っているという。それがオサマ・ビンラディンだと知るのは、ずっと後のことだが、ハッカーニとビンラディンの絆がどれほど強いか想像がつくと思う。

 ソ連崩壊後の混乱でタリバン運動が広がる中、主要な武装勢力になったのも、パキスタンとのパイプが太いハッカーニ率いるグループ。後のタリバン政権の主役でもある。ハッカーニがいたからビンラディンアルカイダがアフガンを聖域にできたのであり、あのコンクリート製の要塞もアルカイダの拠点、通称「アラブ・キャンプ」に変貌する。米軍がもっとも警戒した「ハッカーニ・ネットワーク」も彼が率いる最強のテロ組織であり、現在のタリバン政権にも同組織幹部が主要な役職についている。

 ハザラ人を虐殺したクンドゥスのテロはISの犯行だ。しかし、タリバンも同じ迫害を繰り返してきた一団であり、ハザラ人たちの安全を彼らに期待するのは無理だ。生まれながら戦争しか知らないアフガン人たちに通用するのは、無知で野蛮な力の論理ばかり。タジキスタンとの緊張が高まれば民族紛争に拡大するおそれがあり、アフガン情勢はますます混迷を深めることになる。

 

 

 

f:id:beh3:20211012171604j:plain

捕虜になった政府軍操縦士。中央で腕を組んでいるのがインタビューに答えたハザラ人パイロット。1986年撮影

 

f:id:beh3:20211014120241j:plain

ヘズビ・イスラミの施設に囚われていたアフガン政府軍捕虜。1986年撮影