拉致被害者が生きている理由

韓国誌『週刊朝鮮』2018年7月23日号

難航予想される日朝首脳会談

 (※2018年の)平昌冬季五輪を機に、3回の中朝首脳会談、2回の南北首脳会談に続き、6月12日に史上初の米朝首脳会談を実現させた北朝鮮金正恩委員長(※当時)は、ロシアのプーチン大統領との首脳会談にも意欲的とみられ、6カ国協議参加国のうち、強硬一辺倒の日本だけが「蚊帳の外」におかれる結果を招いた。米国頼みの安倍外交は根本的な見直しが迫られ、16年ぶりとなる日朝首脳会談を本格的に模索する方針を固めたが、北朝鮮の対応は冷淡だ。日本側が提起する拉致問題を解決済みと切り捨て、「我が国の対外的イメージに泥を塗るもの」と逆に日本政府の姿勢を批判した。その一方で、労働党機関紙『労働新聞』(6月28日付)は「過去の清算から誠実に行うべき」とも指摘しており、関係改善の意欲も覗かせる。国交正常化に伴う100億ドルとも言われる巨額の資金援助を念頭にした言及と考えられる。
 2002年9月17日、当時の小泉純一郎首相と金正日国防委員長は平壌で会談を行い、両国間の不幸な過去を清算し、国交正常化を早期に実現させる「平壌宣言」を発表した。日本側は、植民地支配の痛切な反省とお詫びを表明した上で、国交正常化後の無償資金協力と低金利の長期借款の供与などの実施に向けた協議をすることとし、北朝鮮側は、「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」、つまり日本人拉致問題で適切な措置をとることを確認した。金正日はこの時、「1970~80年代に特殊機関で妄動主義、英雄主義があった。遺憾なことでお詫びする」と自ら拉致を認め、謝罪している。
 この時、北朝鮮側は日本当局が把握していなかった被害者も含め「5人生存、8人死亡」という衝撃的な調査結果を伝え、生存していた5人は24年ぶりに帰国を果たす。だが、死亡した8人の情報には矛盾点が多く、北朝鮮の思惑に反し、日本の世論は極度に悪化した。その後、日本政府が認定する拉致被害者は17人に上り、帰国した5人を除く12人の生存可能性は高いと判断し、事件の全容解明を目指してきた。だが、事態は一向に進展せず、北朝鮮がミサイル発射や核実験を強行したため、平壌宣言は形骸化した。
 今後の米朝交渉で非核化に進展があれば、必然的に日米交渉も始まる。トランプ大統領北朝鮮への経済支援は韓国と日本が行うと明言しており、「ジャパン・パッシング」は韓国の負担を増す結果にしかならない。しかし、日本としては、自国民の生命と安全に関わる拉致問題の解決なしに平壌宣言の履行はあり得ない。拉致は金正日政権下で起きた国家犯罪であり、金正恩委員長に直接的な責任はない。彼が全面的な解決に向け指導力を示せば、経済改革に必要な資金を労せず手に入れる絶好の機会でもある。にもかかわらず、拉致問題の解決は絶望視されている。

杜撰な調査結果で日本世論悪化

 日本人拉致疑惑が初めて明らかにされたのは1988年1月15日。KAL機爆破事件の実行犯、金賢姫工作員が記者会見で、自分の日本人化教師だった「李恩恵」が拉致された日本人女性だったと証言してからだ。2年後、日本の埼玉県警が李恩恵田口八重子さん(1978年失跡、当時22歳)である可能性が高いと発表し、同時期に開催された日朝交渉で議題になると、北朝鮮側は交渉を決裂させた。1978年夏に日本各地で起きた3組のアベック失跡事件なども北朝鮮の犯行が疑われたが、確証はなにもなかった。
 状況が一変するのは1997年。韓国当局から日本にもたらされた亡命工作員の証言から、1977年に新潟県で行方不明になった女子中学生の横田めぐみさん(当時13歳)が北朝鮮に拉致された可能性が高いことが分かったためだ。証言した元工作員は、スパイ養成機関の金正日政治軍事大学を卒業し、1993年に非武装地帯から亡命した安明進氏。ソウル市内で産経新聞とのインタビューに応じ、1988年10月に同大で行われた朝鮮労働党創立記念日の行事に、一見して日本人と分かる6、7人のグループがいて、その中で「めぐみさんを見かけた」と語った。その際、先輩の教官から、彼女が新潟の海岸から連れ去られたことを聞いている。
 李恩恵と断定された八重子さんばかりかく、女性中学生の拉致を強く否定してきた北朝鮮が、日朝首脳会談で自発的に犯行を認めた意味は大きい。安氏はその後、日本のマスコミで脚光を浴び、様々な拉致被害者の目撃談をするようになるが、信憑性が問われる内容もあった。2007年に覚醒剤密輸で実刑判決を受けてから日本のメディアに登場することもなくなり、数年前に中国で死亡したという噂が流れる。しかし、誰も知らなかっためぐみさんの拉致は彼の証言で発覚し、北朝鮮自ら拉致を認めざるを得なくなったのであり、彼の初期情報は実証済みだ。
 問題は北朝鮮が日本側に通知した被害者情報の中身だ。死亡したとされる8人のほとんどが、20代~30代の若さで、交通事故、心臓麻痺、練炭ガス中毒、自殺という不自然死を遂げ、裏付けとなる客観的証拠が提示されていない。北朝鮮で特別管理された日本人拉致被害者の宿泊施設は電気の床暖房だったことが、複数の証言から明らかになっており、練炭ガス中毒は考えにくい。心臓麻痺も不可解だ。アベック失跡事件の1組、市川修一さんと増元るみ子さんの場合、拉致翌年の1979年7月に結婚し、同年9月に夫の修一さんが元山の海水浴場で、2年後に妻のるみ子さんが心臓麻痺で立て続けに死んだ。だが、帰国した被害者の1人が同年10月までるみ子さんと一緒に生活しており、結婚も夫の死も聞いたことがないと証言している。
 また、8人のうち6人の遺骸は3カ所の墓地に埋葬され、すべて豪雨で流出したと説明されている。北朝鮮側が遺骨を提供したのはめぐみさんと松木薫さん(男性)の2人だけ。その遺骨の一部からは、DNA鑑定の結果、それぞれ別人のDNAが検出された。科学雑誌『ネイチャー』が1200度の高温で火葬された遺骨を鑑定するのは無理だとする見解を示したが、骨の一部が熱に十分さらされずDNAが残存することはあり得るというのが日本の鑑定機関の立場だ。薫さんの骨片は本人の身体的特徴と合致しないとの結果も出ている。

生存者を否定する理由

 めぐみさんの遺骨にも問題があった。彼女は韓国人拉北者の金英男さんと1986年8月に結婚し、翌年9月に娘のウンギョンさんを出産した。その後、精神的に不安定になり、入院先の「49号予防院」(平壌市勝湖)で自殺したとされ、死亡確認書の死亡日に担当医が「1993年3月」と記載した。しかし、その翌年までめぐみさんを見かけたと帰国被害者が証言すると、金日成生誕日直前の「1994年4月」だったと修正された。この修正も嘘だったことが帰国被害者たちの証言により判明している。同年4月にめぐみさんを病院に運んだ運転手から、入院先は平壌でなく平安北道義州にある49号予防院だっと聞いていたばかりか、その2カ月後の6月、彼女が一人で隣に引っ越してきたのを覚えていたのだ。嘘に嘘を重ね、北朝鮮側は反論せず沈黙を続けている。
 日本側に提供された彼女の遺骨は、元夫の金英男さんが、土葬された遺体を死亡から3年後の1997年春ごろに掘り起こし、大同江南側の平壌市楽浪区域にある「五峰山奉仕事業所」(火葬場)で火葬したものだと言うが、同事業所が完成したのは2年後の1999年だったと『月刊朝鮮』が報じ、これも辻褄が合わなくなった。そもそも、当時の北朝鮮に遺骨を保管する風習などあったのか。
 その他にも、帰国した被害者たちの証言と北朝鮮側の主張が食い違う内容は多々ある。日本当局が握る未公表情報はかなりの量になると思われ、日朝交渉が始まれば、一つひとつ確認作業をしていかねばならない。それにしても、杜撰で不合理な説明を繰り返し、なにを隠そうとしているのか。情報が極端に少ない他の被害者と異なり、めぐみさんと八重子さんに関する証言は多く、ある程度の推測が可能だ。

金賢姫と金淑姫の日本語教師

 北朝鮮は、めぐみさんと八重子さんが1981年から1984年まで2人で共同生活をしたと主張している。八重子さんが日本人拉致被害者と結婚したのが別居の理由だ。2年後の1986年、男性が病死。同じ年、八重子さんも元山で休息をとった帰り、馬息嶺で軍部隊の車両と衝突して事故死した。
 日本側の情報は異なる。日本人拉致被害者が多く住んでいた平壌南郊の中和郡忠竜里の招待所で、2人は1983年秋から1985年秋まで共同生活をした。時期が微妙にずれているのだ。途中で2人が別々に住まわされることもあったようだが、八重子さん結婚後も一緒に住んでいたのは不自然だ。同じ招待所に住んでいた帰国被害者たちは、1986年に平壌北郊の太陽里の招待所に移住させられる。そこでも奇妙な証言がある。招待所の運転手から「平壌市内の百貨店(楽園百貨店)で八重子さんが買い物をしているのを見た」と告げられていたのだ。目撃した直後の1986年10月のことだったという。八重子さんが事故死して2カ月以上が過ぎている。
 八重子さんの生存を印象づける証言はまだある。その頃、彼女が「義挙者」と結婚した噂も伝わっていた。金英男氏のように、韓国人拉北者で対南工作機関に関与していた人物だった可能性もある。「八重子さんは『敵工地』と呼ばれるところに行ったと聞いた」というのが、彼女に関する最後の証言だ。金正日政治軍事大学を卒業した元工作員のA氏にソウルで会う機会があり、敵工地について尋ねてみた。彼はしばらく考え、こう答えた。
「おそらく(※朝鮮語で)敵工局と言ったのを、日本人だから発音が似た敵工区と聞き違え、敵工地と記憶していたのかもしれない」
 敵工局とは「敵軍瓦解工作局」の略で、文字通り、韓国軍を瓦解させるための対南心理作戦を行う部署を指す。
 八重子さん、つまり李恩恵が、平壌北郊の東北里の招待所で金賢姫工作員に「密封教育」を行ったのは、1981年7月から1983年3月までの20カ月。そこにめぐみさんは登場しない。金賢姫氏には金淑姫という同僚の女性工作員がいて、彼女も別の日本人から日本語を学んでいた。教育を終えた後の1984年6月頃、金賢姫氏は金淑姫と一緒に、その日本語教師にこっそり会いに行ったことがある。場所は金正日政治軍事大学から近い平壌市内。その女性が、当時20歳だっためぐみさんだった。1人で住んでいた理由は分からないが、気まずい雰囲気だったので「何か歌を歌いましょう」ということになり、めぐみさんは日本の国歌を歌ってくれたという。中学1年生の時に覚えた寂しく厳粛な響きがある日本の国歌を、故郷の想いを込めて歌ったのかもしれない。
 北朝鮮が2人の共同生活の時期を無理にずらし、事実に反する調査結果を示したのは、金賢姫氏の証言を否定するためではなかろうか。乗員乗客115人の命を奪ったKAL機事件は、米国が北朝鮮を「テロ支援国家」に指定した韓国に対する過去最大のテロである。工作機関に利用された八重子さんとめぐみさんが生存していたら、北朝鮮に致命的な証言が飛び出しかねない。その他の被害者の安否情報が矛盾しているのも、対南工作に関わった可能性が高いためと考えざるを得ない。日本人拉致は韓国の問題でもある。
 朝鮮戦争時に越北し、労働党中央の対南工作に長く携わった脱北者のシン・ピョンギル氏は著書『金正日と対南工作』でこう指摘する。「日本を工作拠点にした迂回浸透工作が積極化・多用化されたのも、この時期の対南工作の、もう一つの特徴的様相だった」。さらに、こう続ける。「拉北漁夫たちを包摂し、彼らを内陸地域(韓国)工作の拠点として活用するための工作も活発に展開された」。韓国政府が把握する拉北被害者は516人。拉北者家族会が独自に得た情報では、少なくとも約150人の生存が確認されている。しかし、今年8月に実施される南北離散家族再会事業で彼らが家族に再会できる可能性は限りなく少ない。

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1974年に北朝鮮で「再教育」された韓国人拉致漁民たち(「拉北者家族の会」提供)


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※以上は韓国誌用の記事だったのでA氏の実名は明かさなかった。A氏は元南派工作員の金東植氏で、日本の民放局がインタビューしたことも一度ある。以下の内容は、紙幅の関係で原稿から省いた金氏の証言だが、まだ確認されていない拉致被害者に関する情報なので、ここで紹介することにした。

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日本人拉致被害者を目撃

 金氏が受けた敵区化教育は、平壌北西の順安区域にある「招待所」で行われた。そこで韓国出身の講師と寝食を共にする、いわゆる「密封教育」を受け、韓国人になりすます訓練を重ねた。70年代に入り、韓国をまったく知らない若い工作員が増え、彼らの教育のため拉致が頻発する事態を生んだという。金氏は90年に済州島海岸から韓国に侵入し、ソウルに潜伏する大物スパイを北朝鮮に脱出させることに成功し、第1級勲章を受章。2度目に侵入した際、警察と銃撃戦の末に逮捕された。
 逮捕から20年近い歳月を経て書かれた金氏の著作物に、この招待所に滞在中に日本人拉致被害者と思われる講師を目撃したと、簡単に触れられている。極めて重要な指摘をマスコミは見逃し、金氏に接触した日本政府関係者以外、まだ誰も確認作業をしていない。当時の状況を詳しく尋ねた。
順安地区には120という地区名に1から21までの家屋番号がついた招待所があった。地区を貫く1本の表通りがあって、それぞれの招待所は、この道から一つずつ分岐する小道の奥にあるので外からは見えない。私がいた招待所は入口から近い『120-5』。ちょうど大学の同期生で日本工作課工作員のチョ・ソンリョルが『120-14』で密封教育を受けていて、彼は『120-2』で日本人講師から日本語も習ったと言っていた。仮名だろうが『田中』という名前だったという。状況からし拉致被害者だと思う。この招待所には住んでいなかったが、その人物の妻も日本人らしい。通りの一番奥にある『120-21』はもっとも大きな招待所で、そこも日本人講師専用の招待所だった。
 招待所地区の入口付近に売店と2階建ての特別招待所があり、それぞれに割り当てられた招待所以外では、そこにしか立ち寄ることができない。そこで2回、その日本人を見たことがある。同期生のチョと立ち話をしていた姿、それから雨の日に私が車で移動中、傘をさす工作員に付き添われて歩いている姿を見た。互いに見てはいけない存在なので、彼は車を見ず顔をそむけたので、横顔しか見えなかった。身長は170センチ代前半、メガネをかけ、髪の毛を少し伸ばしていたのを覚えている」
 金氏に拉致被害者たちの写真を見せると、日本政府関係者に「何度も見せられた」と言って首を振った。年齢は62年生まれの金氏より少し上に見えたという。田中と呼ばれた日本人講師は誰だったのか。

 

アフガンのウイグル人とハザラ人の犠牲

モスク爆破テロの背景

 アフガン北東部のクンドゥス市にあるモスクで8日、金曜礼拝中に爆発が起き、少なくとも46人が死亡、140人以上が負傷した。死傷者の数は米軍撤退後もっとも多く、シーア派少数民族のハザラ人が標的にされた。イスラム過激組織「イスラム国(IS)」系のメディアに伝えられた犯行声明によると、実行犯はウイグル人シーア派だけでなく、中国の要求に応じてウイグル人を国外に追放しようとするタリバンも標的にしたという。

 中国の王毅外相は今年7月、天津市タリバン幹部と会談した際、米軍撤収後のアフガン安定化のため支援を約束する一方、タリバンウイグル人過激派組織との関係を完全に断つよう求めていた。これを受けタリバンは9月初め、ウイグル人戦闘員らはすでに国外に去り、今後は外国を標的にするために領土が使われることはないと公言した。だが、米政府系メディア『ラジオ・フリー・ヨーロッパ』が得た情報では、その後もウイグル人たちはアフガン北東部のバダフシャン州に住んでいた。ところが10月初めになり、東部のナンガルハル州などに移住させられたという。中国の英字紙『グローバル・タイムズ』(10月10日付)も、タリバン政権はウイグル人の中国送還に応じていないが、中国との国境から近い地域に居住していた彼らを、他の地域へ移住させたか国外追放にした事実を認めた。

 こうした動きをタリバンと対立するIS側が察知し、バダフシャン州に比較的近いクンドゥスでのテロにつながったようだ。タリバン政権に揺さぶりをかけ、現状に不満を抱くタリバン戦闘員をリクルートする狙いがあったと思われる。

アフガンに定着したウイグル人

 そもそも、アフガンにいるウイグル人はどういう存在なのか。

 中国からの「東トルキスタン」(新疆ウイグル自治区)分離独立を訴える「トルキスタン・イスラム党(TIP)」が創設されたのは1997年。同時期にメンバーの一部がタリバン政権下のアフガンに逃れ、アフガンを聖域としていた「アルカイダ」と結びついたとされる。同時多発テロ後の2003年末、中国はTIPを「東トルキスタン・イスラム運動(ETIM)」の名でテロ組織に指定し、米国のブッシュ政権も「対テロ戦争」で利害が共通すると判断してリストに追加した。中国はETIMのテロ活動を理由に、新疆ウイグル自治区における住民の人権侵害を正当化してきたが、明確な証拠はほとんど示していない。トランプ政権のポンペオ国務長官は「ETIMが存続している確証が10年以上前から得られていない」として、2020年に指定から解除してしまった。

 国連は2020年の報告で、アフガン国内にいるウイグル人戦闘員の数を数百人と推定している。しかし専門家の多くは、彼らに組織的な戦闘能力はないと分析しているようだ。90年代後半以降にアフガンに渡ったウイグル人の多くも、米軍との戦闘で死亡したものと考えられ、ETIMは存在すら確認できないのが実情だ。今は彼らの子どもたちの世代を中心に2000人ほどがアフガンに暮らし、アフガン政府が発行した身分証明書に「ウイグル人」あるいは「中国難民」として登録されてあるという。ウイグル語はウズベク語に近いらしく、生活の場も限られてくるのではないか。アフガンのウイグル人接触できたラジオ・フリー・ヨーロッパの記者は、タリバン政権が彼らを中国に追放するのではないかと恐れていたと伝えた。

 アフガンは北東部の3州(西からクンドゥス州、タカール州、バダフシャン州)でタジキスタンと約1400キロの国境を接している。タジキスタンの東には中国の新疆ウイグル自治区がある。もし新疆のウイグル人たちがタジキスタンを通ってアフガンのバダフシャンに定着したのであれば、脱出ルートを遮断するためにも、ウイグル人を他地域に移住させる必要があったのかもしれない。

暗雲漂うタジキスタン国境

 しかし、ウイグル人強制移住させた時期、タリバンはタカール州とバダフシャン州に数千人規模の戦闘員を配置したとされ、国境を接するタジキスタンとの緊張を高めていた。タジキスタン側でも新たに2万人の追加部隊が国境周辺に配置された模様だ。どうやらアフガンとタジキスタンの因縁の対決が、タリバン政権の誕生で顕在化しているようなのだ。

 ソ連崩壊後に独立したタジキスタンは、1992年から5年間の内戦を経て、エモマリ・ラフモン大統領率いる「タジキスタン人民民主党(PDPT)」主導の政権が樹立され、現在に至っている。ラフモン大統領は第1野党の宗教政党の活動を禁止させるなど、独裁的な権力を強めているが、ロシアや米国からの支援もあり国政は比較的安定している。そのラフモン政権がタリバンを認める条件として提示しているのが、アフガン国内のタジク人を尊重する政策の実行、つまりタジク人の政権参加だ。タリバン内政干渉だとして強く反発している。タジキスタンと同じ民族のタジク人はアフガン人口の25%を占め、パシュトゥン人(50%)に次ぐ第2の民族だ。両者の対立こそ、40年も続いたアフガン紛争の元凶でもある。

 80年代にソ連軍と戦ったアフガンゲリラのムジャヒディンには7派あり、その中でも主要3派は、米国の軍事支援を受けたタジク人の「ジャミアテ・イスラミ(イスラム協会)」、サウジアラビアなど主に中東の支援を受けたパシュトゥン人の「ヘズビ・イスラミ(イスラム党)」(ヘクマティアル派と分派のハリス派)に分かれていた。ソ連崩壊後は派閥争いの内戦を繰り返し、パシュトゥン人主導のタリバン政権「アフガニスタン・イスラム首長国」と、パンジシール渓谷にたてこもるタジク人主導の「北部同盟」に分裂。タリバンを支えたのがアフガンの2倍以上パシュトン人が多く住むパキスタン北部同盟を支えたのが同族のタジキスタンという構造が背景にある。

 問題は、タジキスタンからアフガンに逃れてラフモン政権打倒を目指す、いわゆる「タジク・タリバン」が勢いを増していることだ。バダフシャン州の国境地帯を制圧したタリバンが、タジキスタンが反政府勢力の司令官と名指ししている人物を同地域の治安担当者に任命したことも、緊張を高める一因になっているようだ。もしタリバンが反政府勢力をタジキスタン領に浸透させたら、紛争に発展する恐れもある。タリバンウイグル人を移住させたのは、中国の顔色をうかがったというより、国境地帯の不安要素を除去するための事前の措置だったのではないか。

絶えないハザラ人迫害

 以上のような情勢の中でISがテロを起こしたとしたら、浮かばれないのは、なんの関係もないハザラ人たちだ。彼らに対する迫害は以前にも触れたが(https://beh3.hatenablog.com/entry/2021/09/03/120040)、筆者には個人的に忘れられないことがある。アフガンを初めて取材した1986年春、パキスタン北西辺境州・北ワジーリスタンのミランシャーにあったムジャヒディンの拠点施設を訪ねた時のことだ。ヘズビ・イスラミ(ハリス派)の出撃拠点だった施設はかなり大きく、豊富な資金であふれるばかりの武器があった。隣にはクェートの支援で建てられたレッド・クレッセント病院があり、ボランティアのエジプト人医師たちが重傷を負ったムジャヒディンたちの治療に追われていた。

 この施設にソ連「傀儡」政府軍の捕虜が多く囚われていた。施設の地下広場に100人くらいが連れ出されたのだが、なかには東洋的な顔をした者もいて、中央アジアで徴兵されたソ連兵かもしれないと思った。そして撃墜したヘリのパイロットの捕虜もいるというので、特別に話を聞かせてもらう機会を得た。3人の操縦士たちは足首を鎖でつながれ疲れ果てた様子だった。そのうち東洋的な顔をした捕虜に「なぜ政府軍に参加したのか?」と尋ねると、彼は瞬きもせず筆者を見つめ「なぜなら私はハザラ人だからだ」と英語できっぱり答えた。ハザラという人たちの存在を初めて知り、理解のできない不条理を感じた。

 ハリス派の最高司令官は当時40代だったジェラルディン・ハッカーニ(2018年死亡)といい、アラビア語と英語が堪能な人物だった。ハッカーニとは何度か話したことがある。ムジャヒディンたちの信望が厚く、指導者のハリス導師とハッカーニ司令官を慕いアラブ各地から義勇兵が集まっていた。なかにはチュニジア系のフランス人までいたが、彼はアラビア語の礼拝を指導する立場にあると言っていた。レッド・クレッセント病院で知り合ったエジプト人医師によると、ハリス派を支援しているのはサウジアラビアの若い富豪で、ソ連空軍基地があるパクティア州のホスト空港に近い最前線のジャワル山中にコンクリート製の要塞を作り、ムジャヒディンと一緒に前線で戦っているという。それがオサマ・ビンラディンだと知るのは、ずっと後のことだが、ハッカーニとビンラディンの絆がどれほど強いか想像がつくと思う。

 ソ連崩壊後の混乱でタリバン運動が広がる中、主要な武装勢力になったのも、パキスタンとのパイプが太いハッカーニ率いるグループ。後のタリバン政権の主役でもある。ハッカーニがいたからビンラディンアルカイダがアフガンを聖域にできたのであり、あのコンクリート製の要塞もアルカイダの拠点、通称「アラブ・キャンプ」に変貌する。米軍がもっとも警戒した「ハッカーニ・ネットワーク」も彼が率いる最強のテロ組織であり、現在のタリバン政権にも同組織幹部が主要な役職についている。

 ハザラ人を虐殺したクンドゥスのテロはISの犯行だ。しかし、タリバンも同じ迫害を繰り返してきた一団であり、ハザラ人たちの安全を彼らに期待するのは無理だ。生まれながら戦争しか知らないアフガン人たちに通用するのは、無知で野蛮な力の論理ばかり。タジキスタンとの緊張が高まれば民族紛争に拡大するおそれがあり、アフガン情勢はますます混迷を深めることになる。

 

 

 

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捕虜になった政府軍操縦士。中央で腕を組んでいるのがインタビューに答えたハザラ人パイロット。1986年撮影

 

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ヘズビ・イスラミの施設に囚われていたアフガン政府軍捕虜。1986年撮影

 

 

アフガン女性の遠い夜明け

 

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 古いスクラップ記事を整理(処分)していたら、民族衣装を着たアフガン女性たちが自動小銃を手にカブール市内を行進する珍しい写真がでてきた。1988年5月9日発行の『NEWSWEEK』に載った「アフガン化する戦争」という記事に合わせた写真で、直前の4月末に行われたアフガン共産主義革命10周年を祝うパレードでの一幕だという。ソ連は5月15日から撤退を始めると発表したばかり。アフガン政府軍だけでムジャヒディン勢力と戦えるか疑問視されるなか、女性たちも国を守るため立ち上がったとアピールする狙いがあったようだ。キャプションには「村の女性たち」と書かれてあるが、ハイヒールをはいているので、開放的な都市生活に慣れたカブールの女性たちと思われる。

 ソ連軍の撤退が完了するのは翌89年2月。約10年間で延べ62万人のソ連兵がアフガンに駐留し、約1万4000人が死亡している。記事には「ここに我々の家はない。アフガン人は自分たちの問題を自分たちで解決すべきだ」というソ連兵の言葉が紹介されている。同じ状況が米軍のアフガン撤退で繰り返されたわけだが、ここでも取り残されたのは女性たち。民主主義を受け入れたアフガン女性たちが女性の権利を求めてデモをしても、タリバンに通用するはずがない。事態が悪化しないよう祈るばかりだ。

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ソ連の援助で建設された近代的なカブールのアパート団地。Louis Dupree著『Afghanistan』より

 

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ソ連支配の象徴になったアパート団地はムジャヒディン勢力の無差別発砲で廃墟になった。1995年撮影

 

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セーブ・ザ・チルドレン」が運営するカブールの保護施設で暮らしていた女の子たち。1995年撮影

 

 

 

戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊦ 謎の部隊「特丙種予科練109分隊」

日本海軍にも朝鮮の神風特攻隊員がいた
韓国誌『週刊朝鮮』2010年8月9日号(筆者の韓国語記事から翻訳)

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映画『愛と誓ひ』から

 1941年12月7日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争。開戦当初は破竹の勢いで快進撃を続けた日本軍だったが、翌年6月5日の北太平洋ミッドウェー海戦を機に、戦局は悪化の一途をたどり、1944年7月には本土「絶対国防圏」とされたマリアナ諸島も陥落した。日本軍はそれでも徹底抗戦を唱え、決戦の場をフィリピン、そして沖縄へと移していく。航空機による体当たり攻撃という悲劇的な戦法が登場するのも、この頃だった。

陸軍の特攻隊員は18人

 特攻隊が初めて編成されたのは米軍のダグラス・マッカーサー司令官がフィリピンのレイテ島に上陸した1944年10月20日のことだ。海軍の「神風特別攻撃隊」の体当たり攻撃が始まると、圧倒的な軍事力をほこる米軍の間で動揺が広がる。そして、海軍に遅れをとった陸軍でも「特別攻撃隊」が編成され、同年11月12日に最初の部隊が出撃した。以来、陸海軍の特攻攻撃は敗戦の日まで続き、4600人もの若い命を奪うことになる。
 そのなかに少なからぬ朝鮮人の特攻隊員の姿もあった。これまで明らかにされたのは、フィリピン戦で5人、沖縄戦で12人、富士山付近に飛来したB29に体当たり攻撃をした者も含め合計18人になる(そのうち1人は攻撃に失敗して米軍に救助された後、帰国していた事実が『朝鮮日報』1946年1月10日付で確認される)。彼らはみな陸軍の航空隊員であり、海軍の特攻隊員は一人もいなかった。
 日本陸軍朝鮮人を対象にした特別志願兵制度を実施したのは、日中戦争が勃発した翌年の1938年。大陸での戦争長期化が避けられなくなり、兵力を補完するため植民地下の朝鮮人を連れだした。同時に、操縦士への近道だった陸軍少年飛行兵学校へ入隊する朝鮮の若者も急増していた。
 一方、海軍は陸軍に5年遅れ、太平洋戦争中の1943年8月に朝鮮と台湾で特別志願兵制度を同時に実施する。しかし、陸軍の少年飛行兵学校にあたる海軍の飛行予科練習生(予科練)は日本人以外の入隊を認めなかった。陸軍の特別攻撃隊で戦死した朝鮮人の隊員が複数いたのに対し、海軍の犠牲者がいなかったのはこのためだ。

1945年に映画『愛と誓ひ』を製作

 しかし、その定説を覆す映画が数年前に発見されていた。映画のタイトルは『愛と誓ひ』。朝鮮総督府の指導で戦時中に設立された国策映画会社「朝鮮映画」が、日本の映画会社「東宝」の支援を受け、朝鮮人の特攻隊員を美化するために作った国策映画だ。映画の存在は半世紀以上も知られていなかったが、数年前に日本でフィルムが発見され、その複写版が現在、韓国映像資料院に所蔵されている。
 映画の監督は戦後ヒューマニズム映画の巨匠、今井正、そして『家なき天使』と『自由万歳』を監督した崔寅奎の二人だ。海軍報道部の指導で製作された映画は、戦争末期の『映画年鑑』(未刊行)に「半島での海軍志願兵募集映画」と紹介されてあった。
 当時のソウル市内の映画館でこの映画が封切られたのは、解放3カ月前の1945年5月のことだ。そのころ沖縄では無数の特攻隊員たちが海の藻屑と消えていた。しかし、海軍が朝鮮で特攻隊員の育成を計画していたとしても、予科練の入隊を認めていないのだから朝鮮人の特攻隊員が生まれるはずもない。海軍が新進気鋭の監督だった今井正と崔寅奎に朝鮮人の特攻隊員を美化する映画を作らせた理由はなんだったのか。

「私は予科練だった」

 今年(※2010年)3月、日本の福岡で「愛と誓ひ」の試写会が開かれ、筆者もパネリストとして参加した。その会場で出会った予科練出身者の人から、映画の背景を知る手がかりを得た。韓国にも予科練を出た人がいるというのだ。韓国南東部の大邱に住む元予科練のM氏は、戦前の東京で生まれ育ち、解放後に初めて祖国の韓国に戻った。戦争中に予科練に入ったのは、操縦士になるのが憧れだったからだという。
 予科練の教育課程は甲種、乙種、特丙種(乙種志願者の中で年長者を対象)の3つに分かれていた。M氏は1944年12月1日、「最後の予科練」と呼ばれる乙種24期に入隊している。
 M氏によると、乙種24期の入隊試験の直前、海軍は募集事務を簡素化する「合格者の戸籍謄本省略」(海軍省令111号)を決定していた。朝鮮で予科練志願兵の募集が実施されたことは一度もないが、M氏は東京で試験を受け、合格後に戸籍の提出義務もなかったため、日本人と同じ資格で入隊した極めて珍しい例となった。
 だが、そのM氏から意外な話を聞かされた。戦争末期、予科練朝鮮人と台湾人だけで構成される部隊があったという。昨年、日本の予科練同期生からその事実を知らされたM氏は、名簿の一部を入手した後、彼らの消息を確かめようとした。
「残念ながら一人も見つからなかった。名簿には本名でなく日本名が記載され、住所も昔の地名が書かれていたので難しかった。それに加え、半数以上の居住地が北朝鮮地域になっていたので、調べようがない。韓国に住所がある人のなかで面事務所(※町役場)で生存を確認できた人もいたが、結局会ってもらえなかった。韓国(※朝鮮)戦争直前に(※右翼団体の)『国民保導連盟』に連行され処刑されてしまった人もいる」

人材を厳選…極秘で訓練

 朝鮮人と台湾人で構成された予科練の部隊名は「特丙種予科練109分隊」といった。「丙種」とは、海軍の現役下士官の中から予科練に編成される人たちを再教育する課程を指すが、1943年3月に特乙種が導入されると同時に廃止されている。その丙種を、朝鮮と台湾の下士官だけを対象として復活させたのが「特丙種」だったという。海軍特別志願兵制度により、朝鮮の鎮海と台湾の高雄にあった海兵団で訓練を終えた2500人のうち、それぞれ50人ずつ優秀な人材を選んで構成された。M氏と同じ1944年12月1日に予科練に入隊した彼らの所属先が、極秘扱いの部隊「特丙種予科練109分隊」だ。
 109分隊の元教官だった人物が生存していることが分かり、謎の部隊について尋ねることができた。今年89歳になる元教官の金子敏夫氏はこう証言する。
「横須賀の海軍省人事部に呼び出され、特丙種予科練109分隊の教育を命じられたのは、終戦2カ月前の6月10日だった。予科練の土浦海軍航空隊(茨城県土浦市にあった予科練の施設)に帰っても、司令官以外には他言は一切無用と念を押された。彼らは鹿児島の海軍航空隊に入隊して教育を受けたのだが、鹿児島が急襲され、部隊を土浦に移動させることに決まった。ところが、私が海軍省に呼び出された日、今度は土浦の航空隊が空襲されてしまい、既存の予科練部隊はすべて疎開することになった。その10日後、誰もいない土浦にやってきたのが、彼ら109分隊だった」

109分隊出身が韓国軍の最高幹部に

 金子氏は、海軍省に呼ばれた時、彼らを一般の志願兵とは違う幹部要員として教育するよう命令を受けたという。焼け野原となった土浦の施設で109分隊だけの教育が始まるのだが、2カ月で終戦を迎える。このため部隊の存在は、5、6人の教官以外に誰にも知られぬまま忘れられた。
 航空機操縦の技術教育は予科練課程の終了後に行われる予定だったので、彼らは終戦まで操縦桿さえ握ったことがない。だが即戦力の操縦士になるのは時間の問題だった。もし戦争が長期化していたら、特攻隊員として戦場に送り出された可能性は非常に高い。
「愛と誓ひ」の製作が始まったのは1945年初めと思われ、それは109分隊が誕生した時期と一致する。壊滅寸前の海軍は本土決戦に合わせ、朝鮮人特攻隊員の量産を試みたのかもしれない。
 金子氏ら教官たちと台湾出身者たちの間では、終戦後も交流がしばらく続いたが、朝鮮出身者たちとは連絡がつかなかった。ただ一人、朴正熙政権時代に軍の最高幹部だった元隊員から手紙が届いた時があるという。しかし、激変する韓国の政治情勢の中で彼からの連絡も途絶えた。金子氏はその人物の名を最後まで明かさなかった。

 

戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊤ 名匠が撮った『愛と誓ひ』の真相
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戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊤ 名匠が撮った『愛と誓ひ』の真相

朝鮮人特攻隊映画を撮っていた今井正の「戦争」

新潮45』2010年4月号

戦後の左翼ヒューマニズムを代表する巨匠が経歴から抹消した戦争協力映画『愛と誓ひ』、ついに発見

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映画『愛と誓ひ』から

 戦後の左翼ヒューマニズムを代表する社会派映画の巨匠、今井正。青春を謳歌した『青い山脈』や、沖縄戦の悲劇を描いた『ひめゆりの塔』など、平成三(※1991)年に没するまで五十篇近い名作を残し、昭和の映画界に絶大なる影響を与えた。『また逢う日まで』で岡田英次久我美子が演じたガラス越しのキスシーンは、映画史に残る名場面として今も語り継がれている。

 その今井正が、終戦間際の昭和二十(※1945)年五月に特攻隊を賛美する国策映画を作っていたという。しかも、映画の主人公は日本人ではなく、植民地支配されていた朝鮮人。事実なら、人間愛を追求してきた監督の思想が根底から揺らぎかねない。

 しかし、今井正に関する資料の中に、該当する映画の説明は見当たらない。戦前の映画誌『映画旬報』も、戦況悪化にともない昭和十八(※1943)年末に廃刊となり、太平洋戦争末期に製作された映画の情報は残されていなかった。そして、誰より今井正本人が、朝鮮人特攻隊の映画について沈黙し続けた。

 ようやく探し当てた資料は、二百字詰め原稿用紙に手書きで書かれた一枚の戦前の文書。未刊行に終わった戦争末期の『映画年鑑』の編集用資料(※「戦時下映画資料」第3巻/東京国立近代美術館フィルムセンター監修)のなかに、その映画は紹介されていた。

 映画名は『愛と誓(ママ)』。京城(現在のソウル)にあった朝鮮映画が東宝の支援で製作し、演出は崔寅奎(チェインギュ)と今井正の二人になっている。映画の粗筋にも簡単に触れられていた。

<新聞の編集局長に拾い上げられた半島の浮浪児が、特攻隊員の家庭へ訪問 記事をとりに行きその感化をうけ、海軍へ志願の決意を固めるといふ半島における海軍志願兵徴募映画。>

 紛失したとばかり思われていた映画のフィルムは、東京国立近代美術館フィルムセンターに一本だけ保存されていることが分かった。ただ、同センターは個人的な視聴には応じていないため、内容を確認することができない。ところが、朝鮮の監督との共同製作だったこともあり、数年前、フィルムは韓国映像資料院に貸し出され、DVD化された映画を同資料院で鑑賞することが可能になったという。幻の国策映画を観にソウルに向かった。

豪華キャストの特攻映画

 メディア関連産業の育成を目的に建設されたソウル都心の巨大な複合施設、デジタル・メディア・シティー。韓国映像資料院が入居する文化コンテンツセンターも、その一角にあった。盧武鉉政権時代、植民地時代に製作された映画の収集に力を入れ、中国や日本に散逸していたフィルムを数多く発掘してきた。今井正の映画も、そうした作業の一環で、同資料院によって収集された。

 視聴室のコンピューター画面に映し出された映画のタイトルは、『愛と誓ひ』だった。海軍省および朝鮮総督府の後援、大本営海軍報道部の指導と書かれたクレジットが続く。一時間十四分の映画は、朝鮮の民謡が歌われる場面を除きすべて日本語で演技されているので、同資料院により韓国語字幕がつけられていた。

 物語は、海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊員として出撃が決まった朝鮮人士官の村井信一郎少尉が、恩師でもある京城新報社(実在した日本語新聞社は『京城日報』といった)の白石局長を訪ねる場面から始まる。

 白石局長が「こういう戦局だ。健闘を期待していますよ」と神妙に語りかけると、少し朝鮮語訛りがある村井少尉が、「やります!」とだけ軍人らしく答える。そこに現れたのが、白石局長が養っている金英龍という名の浮浪児。いかにも物足りなさそうな少年英龍が、海軍へ志願するまでに至る心の葛藤を描いた映画が『愛と誓ひ』である。

 戦意高揚の国策映画とはいえ、戦争末期の逼迫した雰囲気で作られたとは思えない、計算されたストーリーと映像展開が続き、映画としての出来栄えは決して悪くない。名匠と呼ばれるだけあり、三十代前半だった今井正の演出に手抜きは感じられなかった。軍の指導があったのは言うまでもないが、監督の思い通りに作り上げた作品という印象を強く受けた。

 奇抜だったのは、特攻の特撮シーンである。米艦隊の空母に突っ込む村井少尉、そして空母が爆発炎上する場面を再現するため、円谷映画さながらの精巧な模型まで登場した。当時の映画事情を考えれば、実際の戦闘場面と勘違いした観客もいたのではなかろうか。

 そして、新聞で「半島の神鷲 村井信一郎少尉命中」と大々的に報じられると、少年英龍は白石局長の命令で遺族の取材を行うことになる。村井少尉の父親を演じるのは、黒澤明監督の『七人の侍』や『生きる』に出演した名優の志村喬。息子の死について問われ、「一人の信一郎が、百人、千人の信一郎になる。これがわしらの願いですからな」と淡々と答える語り口は、戦後のスクリーンで見慣れた志村喬そのもの。

 そのほかにも、戦時中の朝鮮のスクリーンを席巻した金信哉(キムシンジェ)が未亡人を演じ、白石局長夫人役にも、モダンガール女優として大人気を博した竹久千恵子が出演していた。日系米人ジャーナリストのクラーク河上と結婚して渡米した彼女は、開戦から半年後に日米交換船で帰国。戦時中に出演した珍しい映画となった。さらに、白石局長を演じたのは二枚目スターだった高田稔。昭和四十年代に小学生だった読者でキングギドラの怪獣映画を観た人なら、自治大臣役を演じた晩年の姿に記憶があるかもしれない。

 それにしても、戦争末期にこれほどの豪華キャストで朝鮮人特攻隊の映画を作っていた理由はなんだったのか。

 前述した資料にも指摘されていたように、この映画は朝鮮の青年に海軍への志願を促す目的で作られた。慶尚南道の鎮海にあった実際の海軍部隊に少年英龍が入営する場面もある。ラストシーンには大空を飛ぶ飛行戦隊を背景に、こんな字幕が映し出された。

<神鷲は今日も 敵を太平洋の底に沈めつつある これに続いて敵を破るも それは君達だ、 君達がやるのだ!>

 海軍は、陸軍に五年遅れ、昭和十八(※1943)年(※10月)に朝鮮で特別志願兵制度を実施している。翌十九年春には朝鮮で初めて徴兵制が実施され、同年十月には、フィリピンのレイテ島沖に太平洋戦争で最初の特攻隊が出撃した。以来、特攻隊員は救国の神鷲として報道され始めるのだが、その中には少なからぬ朝鮮人特攻隊員の姿もあった。

 拙著『朝鮮人特攻隊』(新潮新書)でも明らかにしているが、彼らは「半島の神鷲」として英雄扱いされ、朝鮮での戦意高揚に少なからぬ影響を与えている。しかし、いずれの兵士も陸軍の特別攻撃隊に属していた。志願兵制度の導入に遅れた海軍の神風特別攻撃隊には、まだ朝鮮人の飛行隊員が育っていなかったのだ。朝鮮の紙面で次々と報じられていた朝鮮人特攻隊員を、海軍首脳部は黙って見守るしかなく、その焦りが『愛と誓ひ』の企画につながったとも考えられる。

 海軍が大掛かりな特攻隊員の育成を考えていたのか知る由もないが、少なくともこの映画を観た朝鮮の青年が、神風特別攻撃隊に憧れを抱いたことは想像に難くない。高校在学中に共産主義者になったというヒューマニスト今井正は、朝鮮人を特攻隊員にさせる映画を作ることに、なんの躊躇いも感じなかったのか。

二人三脚で作った内鮮一体映画

 今井正は東京広尾の住職の子として明治四十五(※1912)年に生まれた。寺の跡取りになるのが嫌で、親元を離れて茨城県の旧制水戸高校に進学。小林多喜二の『蟹工船』を読み耽り、一年生の時に学内の社会主義研究会のメンバーとなるが、特高に逮捕され、一年間の停学処分を受ける。復学すると密かに共産主義青年同盟に参加し、学内民主化に向けた大衆闘争を試みるも、またしても逮捕されてしまう。だが、チョビひげの取り調べ検事に「どうしてもしっぽを出さない」と言わせるほど徹底的にシラをきり、退学処分は免れた。高校時代の活動家としても破天荒な経歴が、社会派の映画監督、今井正を生み出す原点となった。

 映画界に入るきっかけは、東京帝大文学部美術史科在学中に撮影所に助監督募集の広告を目にしたことだった。採用されると大学をさっさと退学し、京都太秦のJOスタヂオ(直後に写真化学研究所とその別会社のPCL映画製作所、宝塚系統の配給館と東宝ブロックを構成し、昭和十二年に合併して「東宝」となる)に入社した。軍靴の音が高くなりだす昭和十(※1935)年四月のことだった。

 入社二年目にして監督にスピード昇進した今井正だが、映画界をとりまく環境は息苦しくなる一方だった。昭和十四(※1939)年に施行された悪名高い「映画法」により、映画の製作や配給には許認可が必要となり、検閲が厳しくなっていたからだ。

 そんな暗い世相の中で製作を始めたのが、朝鮮と満州の国境地帯に出没する匪賊(抗日パルチザン)の来襲を防衛する国境警備隊の活躍を、西部劇風に描いた『望楼の決死隊』だ。戦後の高度成長期で大ヒットした森繁久彌の「社長シリーズ」を生み出した伝説的なプロデューサー、藤本眞澄(後に東宝社長)の、「アメリカ映画のアクション物のような作品を作ろうじゃないか」という発案で製作された。下敷きにされた映画は、アフリカ戦線の外人部隊を主題にしたゲイリー・クーパー主演の『ボー・ジェスト』だったといわれる。

 今井監督とスタッフが鴨緑江沿いでロケハン中の昭和十六(※1941)年十二月、太平洋戦争が勃発。風雲急を告げる厳冬の朝満国境地帯(現在の北朝鮮慈江道満浦市)でアクション映画の撮影が始まった。主役の警備隊長を演じるのは『愛と誓ひ』で白石局長を演じた高田稔。その夫人役は、なんと原節子である。韓国映像資料院で観た『望楼の決死隊』には、原節子がピストルを手に匪賊に立ち向かう、目を疑うような場面まで登場した。終戦を挟み、その六年後に公開された『青い山脈』で今井正が描いた原節子とは、まるで別人だ。

 永遠の処女というイメージが定着している原節子だが、戦前の彼女は、それほどお淑やかではない。昭和十二(1937)年の日独合作映画『新しき土』で主演に抜擢され、ベルリンに招かれてナチス宣伝相のゲッペルスと面会したことがあるほど、政治的にも注目されていた女優だった。

『望楼の決死隊』の撮影中にも奇妙な行動をしている。極右団体に所属していた義兄、熊谷久虎が撮影の中止を求める手紙を、今井正に手渡していたのだ。南方で領土を確保しなくてはならないときに、日本国民の目を北方にそらそうとするのはユダヤ人の陰謀だという、突拍子もない内容だった。本場仕込みの反ユダヤ主義にかぶれていた原節子には、今井正など呑気な活動屋にしか思えなかったのかもしれない。

 ただ、零下三十度にもなる辺境でのロケは困難を極めたようだ。そんな不慣れな場所での撮影に協力したのが、朝鮮のスタッフだった。共演した役者には、村井少尉婦人役を演じた金信哉、そして監督補佐として崔寅奎も参加していた。今井と崔がつながるのは、この映画からだった。

 崔寅奎とはどんな人物だったのか、韓国の映画評論家で日本統治時代の朝鮮の映画に詳しい金鍾元(キムジョンウォン)氏に尋ねた。

今井正とほぼ同年代の崔寅奎は、映画だけでなく、機械にただならぬ関心を持っていた人でした。生れは平安北道。自動車の運転を習い、十五歳の頃に大阪に渡って、運転の仕事を続けながら京都の撮影所に応募したのですが、映画会社への入社は叶いませんでした。帰郷した後、新義州鴨緑江河口付近にある朝鮮の都市)で兄が設立した会社に勤めていた時のタイピストが、彼と結婚する金信哉です。

 しかし、映画の夢を捨て切れず、兄に高麗映画社を設立させると、映画の興行に積極的に乗り出します。映画の製作に進出するのは、一九三七(昭和十二)年に兄の映画社を京城に移転してからでした。朝鮮初のトーキー映画『春香伝』の録音技師だった李弼雨(イピルウ)の助手となるのと同時に、妻は女優としてたちまちスター入りし、わずか二年後に『国境』という映画で監督デビューするのです」

 映画にかける情熱は今井正に勝るとも劣らない。その名声を一気に高めたのが、昭和十六(※1941)年製作の『家なき天使』だった。京城の浮浪児を救うキリスト教の牧師に焦点をあてた、啓蒙精神あふれる朝鮮語による映画で、東京で文部省推薦映画となるほどの話題を呼んだ。しかし、内務省のクレームで一部がカットされたうえ、改訂版は日本語吹き替えになって上映された。

 とはいえ、崔寅奎の名は内地の映画界にも知れ渡ることになる。その直後に企画された『望楼の決死隊』で、内地と半島で最も注目されていた新人監督の今井正と崔寅奎が合流するのは、必然的な流れともいえる。しかも、崔寅奎のデビュー作『国境』は、鴨緑江の国境地帯で暗躍する密輸団を描いたアクション映画だった。

『望楼の決死隊』の封切りから約二年後に製作された『愛と誓ひ』で、二人は再び合流するのだが、そこでも『家なき天使』で登場する浮浪児がシナリオで生かされることになる。朝鮮を舞台にした戦時中の今井正の二つの作品は、崔寅奎との二人三脚で情熱的に作り上げた、まさに内鮮一体を象徴する映画だったわけだ。

当事者としての苦悩

 当時の朝鮮では、内地の映画法に倣って「朝鮮映画令」が敷かれ、大小の映画社は、新たに設立された朝鮮映画製作株式会社(朝映)に統合され、一元的に映画が製作されていた。朝鮮総督府警務局課長が『映画旬報』(昭和十八<1943>年七月号)に載せた寄稿文には、朝映設立の意義が「朝鮮同胞の皇国臣民化が皇軍の精強に関わる」ためだと強調されていた。その朝映が製作した代表的な国策映画が、朝鮮での徴兵制実施を記念する『若き姿』(豊田四郎監督)と、海軍への志願を促す『愛と誓ひ』だったのだ。

 崔寅奎はこの他にも、朝映で『太陽の子供たち』という映画を製作しているが、今のところフィルムは見つかっていない。いずれにせよ、彼が戦争協力のための親日映画を積極的に作っていたことは、動かしようのない事実である。

 ところが、解放後に作られた崔寅奎の映画は、ガラッと雰囲気が変わる。祖国独立をテーマにした、いわゆる「光復三部作」を立て続けに発表し、愛国者として世に認められるのだ。なかでも抗日運動家の活躍をアクション映画風に描いた『自由万歳』は、独立期の傑作と評価される。植民地下の京城ではありえない日本軍との銃撃戦を疑似体験した観客は、さぞかし胸がスカッとしたことだろう。

 親日派から愛国者への転身に成功した彼は、(※戦前の)代表作『家なき天使』の製作意図について、こう書き残している。

<なにが原因で朝鮮の街には乞食ばかりあふれているのか? 映画を通して日本の為政者に抗議するのが私の真意だった>(『三千里』一九四八年九月号)

 しかし、朝映で作った映画については、一言も触れなかった。そんな彼に、思いもよらぬ不運が襲いかかる。朝鮮戦争でソウルが北朝鮮に占領され、北に拉致されてしまうのだ。

 北朝鮮は国連軍の反撃を受けてソウルから撤退する際に、国会議員を含めた韓国の指導者を一万人以上も連行している。しかし、前出の金氏によると、北朝鮮は彼を親日派として処罰するためではなく、宣伝映画製作の人材確保が目的で連れ去ったのだという。植民地時代の映画界の内情を知る人は限られており、証拠になるフィルムも紛失していたので、不都合な過去は知られずにすんだ。

「崔寅奎が戦争協力映画を作っていたという話が出回るのは、韓国でもほんの数年前です。もし彼が北に拉致されていなければ、韓国映画界を代表する監督になっていたのは間違いありませんが、そうなってから過去が発覚していたら、より大きな衝撃を社会に与えたかもしれません」(金氏)

 彼が北朝鮮で映画監督になったという情報はない。おそらく戦争中に命を落としたのだろう。

 消息を絶った崔寅奎とは対照的に、戦後の今井正は、激変する時代の波を乗り越えていく。

 終戦直後、東宝共産党員の巣窟と化していた。ストライキを口実に会社側が大量解雇を言い渡すと、組合員は世田谷の砧撮影所にバリケードをはりめぐらして徹底抗戦のかまえを見せ、ついに米軍の戦車や装甲車、航空機まで出動する、前代未聞の事件に発展した。「来なかったのは軍艦だけ」といわれる東宝争議(昭和二十三<※1948>年の第三次争議)である。

 この頃の今井正の立場が、どうもはっきりしない。すでに共産党への入党もすませ、争議にも参加していたのだが、組合側の主張とは一線を画した。ブルジョワ好みの『青い山脈』を撮る今井正は軟弱だと批判されたのに対し、本人は会社を追い詰めても得策ではないと判断していたようだ。だが、来るべき「レッド・パージ」で職を奪われることを予期していたのか、解雇される前に東宝を辞め、恵比寿あたりで屑鉄屋を始めてしまう。朝鮮戦争に使われる屑鉄の値が急騰していたのでボロ儲けになった。

 争議をよそに飄々と暮らす様を新聞に書かれた今井正は、記者を「大きな口を動かすだけで、ひっくり返すと腹がない蛙」に例え、怒りを露わにした。その文中で、自ら製作した戦争映画についても、数少ない言及をしていた。

<私は学生時代に左翼運動をやり、何回か引っ張られた後転向した。そして戦争中に、何本からの戦争協力映画を作った。私は、そのことを、私の犯した誤りの中でも最も大きい誤りであったと深く恥じている。>(『映画手帳』昭和二十五<1950>年十二月号)

 今井正の頭から離れなかったのは、話題作となった『望楼の決死隊』ではなく、日本ではほとんど知られていない『愛と誓ひ』だったはずだ。東宝の記録(※『東宝70年作品リスト』東京封切り基準)によれば、この映画が東京で封切られたのは、戦後が秒読み段階に入った七月二十六日から一週間。焼け野原と化した街に観客がいたのかどうかも疑わしいが、時代に翻弄された当事者であるからこそ、監督としての悩みは深かったに違いない。

 しかし、戦時中に作ったたった一つの作品で、今井正を評価することなどできない。人は時代とともに育っていくものだし、その時代の空気をスクリーンで表現するのが彼の仕事だった。戦後に逆転した価値観が自己批判をもたらしたとしても、『愛と誓ひ』がなければ、その後の今井正はなかったかもしれないのだ。

 

戦争協力映画はなぜ作られ、隠されたのか㊦ 謎の部隊「特丙種予科練109分隊
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カザフ人女性アナール・サビットが新疆を脱出するまで

 新疆ウイグル自治区で起きているウイグル人ほかテュルク系少数民族を標的にした人権蹂躙は、数々の証言や研究者の報告から、疑いを挟み込む余地はない。新疆の人口は中国の人口の1・5パーセントにすぎないが、2017年の新疆での逮捕者数は中国全体の21パーセント近くを占めていた。この数年間でおよそ100万人もの人々が、300から400ある施設に拘禁されたと考えられている。固有の文化や言語を奪い、民族のルーツを根絶やしにするための、組織的で徹底した弾圧が今も続いている。
 以下に紹介するのは米誌『ザ・ニューヨーカー』(2021年4月12日付)に掲載された「Surviving the Crackdown in Xinjiang」という長文の記事を要約したもの。日本語の用語などを使って分かりやすく訳しておいた。記事は、新疆を脱出したカザフ人女性で現在カナダ在住のアナール・サビットの証言に基づき構成され、同誌ウエブサイトで公開されている(オーディオ版の聴取も可能)。証言には強制不妊手術などショッキングな内容こそないが、何の越度もない普通の人が犯罪者に仕立て上げられ、「囚人」として収容される理不尽さが伝わってくる。新疆で広範囲に実施される住民の監視は、すでに広く知られている。その実態に改めて触れ、背筋が寒くなる思いをした。ジェノサイドとは、特定の民族共同体の破壊を必ずしも意味しないが、彼らが拠り所とする生活を意図的かつ強圧的に破壊する行為は、広い意味でジェノサイドと言って差し支えないのではなかろうか。
 記事を読みながら頭から離れなかったのは、数年前に古本屋で買ったジョージ・オーウェルの小説『1984年』で描かれた監視社会だった。小説ではテレスクリーンという監視システムで住民は当局の完全な監視下に置かれるが、AIを導入した中国の「一体化統合作戦プラットフォーム」は、これを上回りかねない。中国で続く人道に対する罪に目を瞑るなら、いつのまにか自分たちの社会も、高度にシステム化された監視網が住民を統制する専制政治を許しているかもしれない。

Surviving the Crackdown in Xinjiang(要約)
『THE NEW YORKER』(2021年4月12日付)
By Raffi Khatchadourian

 新疆ウイグル自治区北部の奎屯(クイトゥン)で育ったカザフ人女性、アナール・サビットは、小さいころから中国語を身につけ、中国共産党の教えを素直に受け入れてきた。同自治区の現在の人口は約2500万人。そのうちウイグル人が45%、移住してきた漢人も42%になるのに比べ、彼女と同じカザフ人は5%の約140万人にしかならない。それでも彼女は中国人民であることを疑うことなく育った。高校卒業後の2004年、上海の学校でロシア語を学び、投資会社に就職することもできた。両親は隣国カザフスタンに移住したが、彼女は自分の将来を考え中国にとどまり、カナダのバンクーバーで働く機会にも恵まれる。
 なにもかもうまくいっていた2017年の春、カザフスタンから父の訃報が届き、故郷の奎屯に向かった。遺品を整理する母の手伝いをするためだった。7月半ば、母親と一緒にカザフスタンに行くため、ウルムチのディウォプ国際空港に向かったのだが、空港で彼女だけ足止めされてしまう。出入国管理の対象者になっているため、出国できないというのだ。

 新疆をとりまく環境は、2009年に区都のウルムチで大規模なデモが起きて以来、悪化の一途をたどっていた。当局は女性のベール使用やウイグル語のウェブサイトを禁止し、モスクなど歴史建造物を破壊する暴挙に出た。ウイグル人天安門広場に自動車で突入して多数の死傷者が出た2013年の事件は、自治区でのモスク破壊の報復だったという。事件の数カ月後、雲南省で刃物を振り回して死傷者を出した事件も同様の背景があったとされる。中国は一連の事件を「中国の9・11テロ」と呼び、習近平は「道を横切ろうとするネズミがうろたえるよう、みんなでテロリストを『打ちのめせ!』と叫ぼう」と訴えた。
 チベット自治区党書記として辣腕を振るった陳全国が、新疆ウイグル自治区党書記に抜擢された2016年以降、住民の弾圧と監視はエスカレートする。チベットで導入された「便民警務所」(交番)がいたるところに設置され、住民を「信用できる」「普通」「信用できない」の三つに分類し、手あたり次第に拘束しだしたのだ。2017年6月の1週間だけで南疆(自治区南部のウイグル人集住地域)の4つの県で1万6000人が拘束されたという情報もある。アナール・サビットが空港で足止めされたのは、まさにそんな時期だった。

 空港で拘束されたアナール・サビットは奎屯の警察署に連行され、取り調べを受ける。「これは何かの間違いに決まっている」と信じようとしたが、「アリが餌食に群がるように、不安が自分の体を食いちぎっていくようだった」と彼女は当時の心境を振り返る。取調室には金属の錠で手足を固定する「タイガーチェア」と呼ばれる鉄製の椅子が置かれてあった。疲れ果てた様子のウイグル人男性が椅子につながれている姿を目撃し、思わずぞっとした。数日後には、椅子につながれたまま「毛沢東万歳!中国共産党万歳!」と叫んでいる年配の男も見た。
 取り調べでは何度も同じ質問をされた。答え方に少しでも食い違いがあれば、執拗に問いただしてくる。
「あなたは多くの問題ある国を訪ねている」
 それは業務上の訪問だと説明しても、取調官は聞く耳をもたない。

 中国は2005年から監視カメラによる住民監視システム「天網」(スカイネット)を全国に展開してきたが、習近平政権になり、システムをより強化した「鋭眼」(シャープアイズ)に人工知能(AI)を搭載した顔認証技術を連動させ、新疆ウイグル自治区を巨大な実験場として利用した。ウルムチの住宅には住民の情報を読みとれるQRコードがはりつけられ、すべての自動車にGPSによる位置追跡を可能にさせた。携帯電話の個人情報ばかりか、自宅に設置されたワイファイからもパソコンで利用した情報が確認されてしまう。さらに、無料の健康診断「全民検診」を通して、血液型、指紋、声紋、虹彩、DNAなどの身体情報がすべてデータ化された。こうした住民の厖大なデータベースを統合した監視ネットワーク「一体化連合作戦平台」(一体化統合作戦プラットフォーム)により、アリのはいでる隙もない監視体制が作りあげられた。
 住民は36のタイプに分類される。携帯電話の使用が極端に少ない、裏口からの出入りが多い、電気の使用量が多い、顎鬚が長すぎる、人との交流が少なすぎるといった行動が確認されると不審人物とみなされる。なにより海外の渡航歴がある住民は、有罪を前提とした監視の対象となる。アナール・サビットが出入国管理対象者になっていたのは、単にこのためだ。

 逮捕の翌日、アナール・サビットは病院に連れていかれる。血液検査、尿検査、心電図、レントゲン撮影、指紋、DNA採取、虹彩スキャン、そしてマイクで声紋もとられ、一体化統合作戦プラットフォームにアップデートされた。
 逮捕から19日後、ようやく容疑が晴れて釈放。3カ月過ぎれば出入国管理対象からも外れ、旅券が返還されるという。釈放3カ月後、実際に旅券は返還された。母のいるカザフスタンに行くため、はやる気持ちで空港で出国手続きをすると、係官が目の色を変え制止した。まだ出入国管理の対象から外れていないというのだ。再び警察署に連行された彼女は、結局、「学校」に行くよう命じられた。学校とは再教育施設のことを指す。

 アナール・サビットが連れていかれた施設は、高い壁に取り囲まれ、その壁の上にはコイル状の鉄条網が敷かれていた。施設の入口に「奎屯職業技能教育培訓中心」(奎屯職業技能教育訓練センター)と書かれていたのを彼女は覚えている。入所するとすぐ全身検査が行われ、蛍光色のストライプ模様が入った制服に着替えさせられた上、写真入りのIDタグがつけられた。この施設では中国語以外の会話が禁止されていた。中国語を理解できない人たちは、誰とも喋れず沈黙するしかない。
 就寝時間は午後10時。だが照明は一晩中消されなかった。就寝中に喋れば、スピーカーから耳をつんざくような音で警告が発せられる。泣くことさえ注意されるので、監視カメラの反対側を向いて涙ぐむしかなかった。トイレなど部屋を出入りする際は看守に「報告!」と告げて許可を得る。看守の扱いは手荒だが、逆らえばタイガーチェア送りだ。彼女たちは囚人以外の何者でもなかった。
「処刑延期の幻想(delusion of reprieve)」という言葉がある。アウシュビッツに送られたユダヤ人たちが、「そんなにひどいことにはならない」「いつかは救われる」と最後まで信じようとしたように、絶望的な状況におかれた人たちが抱く根拠のない幻想だ。だが、アナール・サビットの幻想は日を追うごとに薄れていった。「私は悪いことをしたのではないだろうか?」「中国を裏切ったのかもしれない?」と自問自答するようになった。

 施設では、ある噂が広まっていた。当局が収容者数の割り当てを満たすため、手あたり次第に住民を捕まえているというのだ。道で喧嘩をしていた人、酔っぱらい、仕事を怠けていた人が「過激派」として捕まっていたからだ。施設には次から次と収容者が送り込まれ、その多くは満杯になった拘置施設から移送されてきた人たちだった。彼女たちにとり、再教育施設は恵まれているという。彼女たちはその拘置施設に目隠しで手錠をかけられたまま連行され、食事はろくにとれず、部屋は小便や血で汚れていた。アナール・サビットと同じ部屋の女性も拘置施設から移送されてきたのだが、長い間、錠をされていたため、手首と足首にくっきり痣が残っていた。
 再教育施設では女性も軍人のように規律を守らねばならない。ある日、女性たちは髪の毛を切るよう命じられた。カザフ人やウイグル人の文化では女性の長い髪は幸運を意味し、子どものころから一度も切ったことがない人さえいる。彼女も髪の毛を切られる時、身を切るような辛い思いをした。ところが、女性たちの髪が商品として流通しているという疑惑が持ちあがっている。米国は昨年、収容施設で集められた女性の髪の毛が輸出されているとして、中国産の13トンの輸入を禁止している。また、女性の多くが収容後まもなく若白髪が目立つようになり、月経が止まった人もいる。ストレスや粗末な食事、あるいは強制的に打たれる注射が原因だったのか、はっきりしていない。

 自分の意思では何も変えることができない施設での生活。それは2018年の9月、なんの前触れもなく終わりを告げた。初めて空港で拘束されてから1年以上が経過していた。アナール・サビットは叔父の家に預けられ、保護観察処分となる。だが、その後も監視の眼から逃れることはできず、なるべく目立たないよう健気に生活を続けた。そんな従順な姿勢が認められたのか、当局の紹介で貿易会社に就職する機会も与えられる。
 そして旅券が返還される時、再教育施設での経験を口外しないという念書に署名を迫られ、戸惑うことなく署名した。彼女はしばらくして、カザフスタン行きの鉄道のチケットを購入した。もし出国審査の係官のモニターにアラームが表示されたら、再教育施設に逆戻りだ。彼女は祈る気持ちで係官を見つめていた。アラームは表示されなかった。その代わり、当局の担当官から携帯に電話がかかった。「カザフスタンで分離主義の考えをもつ人たちに出会ったら後で報告しなさい」。彼女は「はい」と答えた。
 国境を越え、カザフスタンに入国した時、彼女は言いしれぬ安堵感に包まれた。巨大な牢獄、新疆ウイグル自治区を脱出し、人間としての尊厳を取り戻した瞬間だった。
 

 

 

殉教の中国イスラム、ジャフリーヤ

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『殉教の中国イスラム神秘主義教団ジャフリーヤの歴史』(張承志著・植村坦編訳 亜紀書房 1993年刊)という本がある。著者の張承志氏は北京大学歴史学部を卒業後、日本の財団法人東洋文庫で研究員を務めていた頃、同書を執筆した。

<一八世紀の終わりころ、一七八一年、馬明心が蘭州で殺害され、彼のサラール人教徒たちが蘭州で起こした反乱も全滅した。それ以来、一三〇年にわたって差別、弾圧、禁止を受けつづけたジャフリーヤという教派は、二〇世紀初頭、清朝の滅亡と民国の成立を迎えるころ、以上にみてきたような各地に広がったと伝えられるほど、中国イスラムスーフィー派の最大の一派になっていたのである。>

 中国イスラム、そしてジャフリーヤとは何なのか。この目で確かめてみたいと思った。北京を訪ねた時、帰国した張氏に連絡すると「あまり協力はできない」と消え入るような声で電話は切られた。同書に中国政府を批判する内容はなかったが、少数民族イスラム教に関する記述が当局を刺激したのかもしれない。

 同書の内容を頼りに、中国西北の黄土平原にある甘粛省を訪ねたのは90年代半ば。省都の蘭州から約300キロもポンコツのバスに揺られ、まだ外国人の立ち入りが認められていなかった張家川回族自治県にたどり着けた。乾燥した大地に埃が舞いあがり、いかにも貧しい町に見えた。

 町にある「清真西大寺」というモスクの中に入った時、思わず立ちすくんでしまった。信者たちが叫ぶような大声で「ラーイラーハ イッラッラー」(アッラーの他に神はなし。ムハンマドアッラー使徒である)とアラビア語シャハーダ信仰告白)を唱えていたからだ。中国のイスラム教の中でも特異な歴史を持つ「ジャフリーヤ(哲海忍耶あるいは哲赫林耶)」と呼ばれる教派のモスクだった。

 ジャフリーヤとはアラビア語で「高い声」という意味で、修行の際に大声で経典を詠むことから名づけられたらしい。清の第6代皇帝、乾隆帝の治世だった18世紀、馬明心という人物が遠くイエメンに渡り、16年間イスラムの教理を学んだ後、甘粛省に戻ってジャフリーヤを創始したとされる。教派の教えはあっという間に広まり、既存のイスラム教派の脅威になると、乾隆帝は旧教(既存教派)を保護し、新教(ジャフリーヤ)を禁じる決断を下す。禁教とされたジャフリーヤ教徒たちの反乱は、一時、蘭州城を包囲するほどの勢いだった。だが、教祖の馬明心が殺害され求心力を失ってしまう。その後の容赦ない弾圧でジャフリーヤは全滅し、奴隷として現在の新疆ウイグル自治区に送られた者も多かったという。

 それでも馬明心は人々の心の中でシャヒード(殉教者)として生き続けた。彼らは人知れず殉職者たちの墓、「拱北(ゴンバイ)」に寄り集い、「隠れキリシタン」のように密かに信仰の糸を繋いだ。清が滅亡して中華民国が成立するとジャフリーヤは禁教を解かれるが、すぐに国民党と対立。共産党勢力と共闘する道を選ぶ。これも束の間、中華人民共和国の「反右派闘争」の渦の中で再び厳しい弾圧の対象になってしまう。改革開放が進んだ80年代半ば、蘭州で馬明心の拱北の再建が認められ、ジャフリーヤは教祖殺害から約200年ぶりに、ようやく名誉を回復することができた。彼らを訪ねたのは、それから10年しかたっていない時期のことだった。

 張家川の清真西大寺でアホン(阿訇=宗教指導者)を務めていた老人に筆談でジャフリーヤについて尋ねると、後日、信者たちが近郊にある拱北に案内してくれた。ジャフリーヤの第7代ムルシド(導師)、馬元章の墓だという。彼らの祈りを見ていると、イスラム教なのか先祖崇拝の儒教なのか区別できない。絶えることのない弾圧を生き延びる人々の知恵が、祈りの中に隠されていた。

 

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拱北で祈りをささげる張家川のジャフリーヤ信者

 

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清真西大寺コーランを学ぶジャフリーヤ信者たち

 

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拱北で供養するジャフリーヤ信者たち





 

 

堕ちた転生活仏カルマパ 「中国化」が消すチベットの痕跡

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公安関係者の付き添いのもと、名刹ガンデン寺を巡礼するカルマパ17世。1994年撮影

“発見”されたチベット転生活仏 

中央公論』1995年2月号

 活仏は死ぬと同時に生まれ変わる。つまり輪廻転生するのだが、四宗派に分かれるチベット仏教において、このカルマの思想は根幹をなしている。現在チベットで輪廻転生する代表的な活仏は、100人を優に超すという。そのなかでも霊的、世俗的指導者として、最高権威を継承してきたのが、観世音菩薩の化身ともされるダライ・ラマである。しかしダライ・ラマ14世がインドに亡命して以来、すでに30年の歳月が過ぎ、また中国と協力する道を選んだパンチェン・ラマ10世が亡くなって4年たつ。中国に併合されたチベットでは、権威ある活仏の不在という事態が続いている。
 ところがラサ西方のトゥルン地方に、近ごろ異変がおきている。ここにはダライ・ラマ系列とは別の、カルマ・カギュー派の総本山、ツブ(ツルプ)寺がある。この寺に新たな転生活仏、カルマパ17世が誕生してから、従来のチベット仏教の勢力図が塗り替えられようとしているからだ。カルマ・カギュー派はチベットで最も歴史ある宗派だが、後に興ったダライ・ラマゲルク派によって、その座からひきずり下ろされたという経緯がある。中国承認のもとでのカルマパの即位は、その感情的対立を表面化させ、チベット人の団結を阻害するためだとも言われている。
 先代カルマパが亡命先のアメリカで死去したのは、もう10年以上も前の話で、転生者の条件とされる遺書はその時発見されなかった。しかし、ないはずの遺書が突如確認され、カルマパ17世の捜索がチベットで始められた。その結果、遊牧民の子、ウゲン・ティンレー少年が発見されたというのだ。
 チベット滞在中、少年カルマパがゲルク派名刹を精力的に巡礼しているのを目撃した。カルマパ一行には僧侶より中国の公安関係者がめだち、観光地に変化しようとしているこののどかな寺に尋常でない警戒態勢が敷かれていた。しかし当の本人はあどけない顔つきであたりをキョロキョロするばかりで、事態をどれだけ把握しているのかはなはだ疑問である。またガンデン寺の若い僧侶たちのなかにはカルマパの訪問に全く関心を示さず、用意された式典の最中も寺の裏でふてくされている者を多く見かけた。カルマパの誕生を内外にアピールさせるための見せかけの巡礼で、主役のチベット人は蚊帳の外、という印象は否めない。主不在の続くチベットでは宗教も変質していきている。寺に行っても、やたら金を要求されるようになったし、ダライ・ラマ肖像画も少しずつはぎおとされるようになってしまった。(記事を転載)

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ダライ・ラマが属すゲルク派の代表的寺院ガンデンは、文革時に徹底的に破壊されたが、90年代に入り修復が進んだ。カルマパ巡礼は異例の出来事だった

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カルマパ亡命の真相

 カルマパ17世を取材するためチベットを訪ねたのは1994年暮れ。まだ青蔵鉄道はなく、青海省のゴルムトまで電車、そこからチベットのラサまでバスで行かねばならなかった。自治区の那曲という所で一気に高度が上昇するため、頭が割れるように痛くなる。個人で気楽に旅行できる時代だったが、北京からチベットまで3~4日かかる長旅だった。
 転生ラマ(活仏)制度は、高僧の死後、生まれ変わりとなる「転生霊童」を捜し出し、後継者として徹底した英才教育を施すことにより宗派を維持する、チベット独自の名跡の制度だ。輪廻転生があろうとなかろうと、人々の信仰は厚い。カルマパを指導者とするカギュー派最大支派のカルマ派が14世紀に確立し、他の宗派にも広がった制度だという。チベットを統一したゲルク派の転生ラマがダライ・ラマ法王だ。カルマパ(カルマ黒帽ラマ)は数ある転生ラマの中で、ダライ・ラマパンチェン・ラマに次ぐ名跡であり、チベット社会では絶大な影響力を持つ。

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ダライ・ラマ14世の亡命を伝えるタイム誌の表紙

 1959年のチベット動乱でダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、先代のカルマパ16世も多くの僧侶を伴ってチベットを脱出し、インド北部シッキムにあるカルマ派のルムテク寺に移った。それ以来、カルマ派の神秘的な教義は欧米で人気を博し、国外で教勢を強めていった。カルマパ16世没後、転生者をめぐり混乱が続くが、1992年にチベットでウゲン・ティンレー少年が発見されると、中国はただちに少年をカルマパ17世として認定。インド・ダラムサラにある亡命政権ダライ・ラマ14世も追認した。
 一方、中国と協力する道を選んだパンチェン・ラマ10世も1989年に不可解な死を遂げ、転生霊童捜しが始まっていた。ダライ・ラマ14世は1995年、当時6歳のニマ少年を認定するが、これに中国が反発。別の少年を担ぎあげ、ニマ少年の消息は不明となる。筆者がチベットを訪ねた時期、中国とチベット亡命政権の双方が認めた権威ある転生ラマは、カルマパ17世しか存在しなかった。霊童カルマパが最大宗派のゲルク派寺院を精力的に巡礼し始めたのは、ダライ・ラマに代わる宗教指導者を必要とした中国の思惑による。
 ところが1999年暮れ、カルマパ17世がヒマラヤを越えインドに亡命する事件が発生し、中国は面目丸つぶれとなる。この事件で中国政府の強硬姿勢は一段と強まり、2007年に発令された「国家宗教事務局第5号」(チベット仏教活仏転生管理弁法)で「チベットのすべての転生は政府の承認がなければ無効」とした。
 たしかにカルマパ17世の脱出はダライ・ラマ14世のインド亡命を彷彿とさせた。だが、チベット仏教に詳しい人たちの間では、脱出劇は理解に苦しむものだったようだ。インドには、すでに別のカルマパ17世がいたからだ。
 カルマ派が転生者探しで最初に接触したのは、ティンレー・タイェーという少年だったが、派閥争いの結果、新たにウゲン・ティンレーが発見され、カルマパ17世の認定につながったという。ところが、2年後の1994年、ティンレー・タイェー少年がインドに脱出したため、宗派の一部は彼をカルマパ17世に認定し、本格的な英才教育を施し始めた。チベット仏教の名だたる教師はほとんどインドに脱出し、中国ではカリスマを備えた宗教家カルマパに成人できない。この焦りがカルマパ17世(ウゲン・ティンレー)の中国脱出につながったといわれ、実態はお家騒動のようなものだった。カルマ派では今でも2人のカルマパがいる異常な事態が続いている。

スキャンダル続きの転生霊童

 インド政府は、ダラムサラに定着したウゲン・ティンレーを、ダライ・ラマのように優遇しなかった。国内外の移動を制限し、シッキムのルムテク寺を訪ねることさえ認めていない。インド警察は2011年、ウゲン・ティンレーの居所を抜き打ち捜査し、現金100万ドル以上を押収。そのうち約16万ドル相当が中国元だったことから、現地メディアは彼を「中国のスパイ」と呼びだした。現金は信者の寄付を集めておいたものだが、インド当局は外貨不法所持の疑いで起訴に踏み切る。
 インド政府がウゲン・ティンレーに不信を募らせた最大の理由は、亡命後も中国が彼をカルマパ17世と呼び続け、ダライ・ラマのように「分裂主義者」と非難することがなかったからだ。インド政府がウゲン・ティンレーをカルマパ17世と認めたことは一度もない。そして、2017年に訪米したウゲン・ティンレーが、カリブ海ドミニカ国の国籍を取得したことで、インド政府の不信は決定的となる。インド再入国の条件としてドミニカ国旅券でビザを取得することを求め、帰国を事実上認めていない。彼は主にニューヨーク州ウッドストックにあるカルマ派最大の寺院「カルマ・トリヤーナ・ダルマチャクラ・センター」に滞在し、布教活動を続けているようだ。
 だが、米国滞在中の彼には醜聞がつきまとう。今年5月、ウゲン・ティンレーに性暴力を受け妊娠したと主張する元信者の女性の訴訟が、カナダの裁判所で公にされた。女性はニューヨークの寺院で尼僧になる修行中、ウゲン・ティンレーに性暴力を受けたとされる。出産後に養育費など70万ドル以上が支払われたが、女性は配偶者として認めるよう訴えている。裁判は来年4月に始まる予定だ。
 女性にかかわるスキャンダルはこれにとどまらない。元信者の女性が同様の被害を受けていたとして、ユーチューブなどで相次いで告発しだしたのだ(#UNMASK KARMAPA)。その手口は、オウム真理教麻原彰晃が「タントラ・イニシエーション」と称して女性信者にセックスを強要したのとどこか似ている。事実なら、ウゲン・ティンレーは宗教家としての資質を改めて問われることになる。カルマ派では彼のカルマパ擁立が既成事実となっているため、難しい舵取りが迫られるだろう。

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主なきポタラ宮

容赦ない「中国化」

 ダライ・ラマ14世(86歳)亡き後のチベット統治に取り組む習近平政権にとり、カルマパの権威失墜は願ってもない話だ。ダライ・ラマ14世は折に触れて転生ラマ制度の廃止を訴えているが、中国は「秩序を損なう」と猛反発している。中国は、宗教を政府指導で管理し、国外の組織や個人の関与を一切認めない。特にチベットウイグルは領土問題がからむため、不穏な動きを根絶やしにする周到な準備がされてきた。
 青蔵鉄道の開通などでチベットに空前の観光ブームがもたらされたが、豊かになるのは移住してきた漢民族ばかり。聖地は遊園地のような見世物に転落した。北京五輪直前の2008年3月に起きた「チベット騒乱」は、踏みにじられた僧侶たちの最後の抵抗だったのだろう。騒乱後の4月、四川省成都に行き、同省の甘孜(カンゼ)チベット族自治州にある寺院の事情を探ろうとしたことがある。だが同地域に向かうルートは検問が強化され、外国人が利用できる交通手段はなかった。
 少数民族を管理する共産党「中央統一戦線工作部」(中央統戦部)の締め付けも厳しさを増している。新疆ウイグル自治区で広範囲に実施された住民データベースに基づく監視システムが、チベットの寺院でも適用され、僧侶を「要注意人物」や「愛国者」などに分類して行動を監視しだしたという。チベットでは宗教ばかりか、憲法で定めた共通語「普通話」の普及を妨げていることを理由に、チベット語の教育も制限されだした。国外の転生ラマが惚けている間、アスファルトを踏みつぶしながら進む大きなロードローラーのように、「中国化」したチベットの総仕上げがされている。

 

 

死の陰の谷「ワハン回廊」

ヒンドゥークシュ

 ソ連侵攻後のアフガンを取材していた1980年代後半、アフガンゲリラ「ムジャヒディーン」に同行して北部の山岳地帯を訪ねる機会があった。パキスタン北部から国境を越えるとヌーリスタン州のクナール渓谷が現れ、その谷底を流れるクナール川沿いのバリコットという場所に、ソ連軍の部隊が駐屯していた。陣地の様子を一目見るため、欧米の記者と筆者の5人で現地に向かった。
 クナール渓谷までの道は、苦難の連続だった。まず、真夜中に国境近くを流れる濁流の川を渡らねばならない。両岸に張ったワイヤーに小さな木箱をぶらさげ、夜陰に紛れ一人ずつ渡河。雪解け水で水量を増した川が轟音をたて流れていた。その後は、星の明かりを頼りに道なき道を徹夜で登る。山の斜面にはソフトボールくらいの石ころが一面に広がり、何度も足を踏み外した。足首をかなり痛めたが、きつい登攀は翌日も続く。結局、脱水症状で脱落者が続出し、取材どころではなくなってしまった。
 ヒンドゥークシュ山脈を甘くみたツケは大きかった。取材は断念し、谷底を流れる川をひたすら目指すことに。氷のように冷たい砂まじりの水にありつけたのは夕方だったと思う。そこで一夜を明かし、パキスタン国境警備隊に捕まるのを覚悟で川沿いの道を進んだ。

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国境を警備するパキスタン軍兵士。チトラル川で1986年撮影

 パキスタン領に戻ってからヒンドゥークシュの山々を改めて眺めると、こんなところで戦争をしている人間の愚かさを思うほかない。なかでも、100キロほど北にあるヒンドゥークシュ最高峰、ティリチミール(7690メートル)の雄姿は圧倒的だった。まるで紺碧の空を突き刺すように聳立している。ティリチミールの北に連なるノシャック(アフガン最高峰、7492メートル)からアフガン領になり、このあたりを起点とし、東西に細長く伸びる渓谷の道を「ワハン回廊」と呼ぶ。7世紀に唐僧の玄奘三蔵、13世紀にマルコポーロがこの道を通って中国に向かったことで知られる天空の道だ。ノシャックの初登頂は1960年に京都大学学士山岳会が成し遂げたというが、ワハンはまだ、世界に残る数少ない秘境だった。いつか旅してみたいと願ったが、かなわぬ夢となった。

謎の石仏

 ワハンはアフガン北東のバダフシャーン州に属し、東西に約320キロ、南北の幅が約10キロから65キロの狭隘な土地だ。この国の背骨となるヒンドゥークシュ山脈東部の北辺に位置し、南側でパキスタン、北側でタジキスタン、東の果てで中国と約90キロの国境を接する。ワハン回廊は、「世界の屋根」と言われるタジキスタン側のパミール山地とヒンドゥークシュ山脈の合間を氷河が削りとった巨大な渓谷だ。回廊は一本の道ではなく、二つの渓谷が重なるようにつながり、土地のほとんどが標高4000メートルを超す。風が強く、気温は1年のうち340日が氷点下になるという。渓谷を西流する川は中央アジアの大河、アムダリア(母なる川)の源流であり、東流する川は中国新疆ウイグル自治区カシュガル地方でシター川と合流する。アジア大陸の分水嶺ともなるワハン回廊の周辺地域は、東の中国から崑崙山脈、南東のパキスタンからカラコラム山脈、そしてヒンドゥークシュ山脈の三つの大山脈が三つ巴となった結び目のような場所であるため「パミール・ノット」と呼ばれている。
 東端の中国との国境は標高5000メートル近くの山が立ちはだかり、行きどまりだ。玄奘マルコポーロはワハン回廊からタジキスタン側を北上し、中国のカシュガル地方に抜けたようだ。つまり、現在の中国とアフガニスタンを直接結ぶルートは事実上存在しない。
 玄奘は『大唐西域記』にこう記している。
<この渓谷は東西千余里、南北百余里で、狭い所は十里足らず、雪山が塀のようにかなたをめぐっている。寒風はすさまじく、春も夏も雪が舞い、昼となく夜となく風が吹きすさんでいる。地は塩分を含んだ上に、石塊が多いから耕作はできず、草木も稀で、まったく住民の跡を絶った死の谷である>(前嶋信次著『玄奘三蔵』<岩波新書>から引用)
 玄奘によると、ワハン回廊のもっとも高い所に「大龍池」という大きな湖があり、湖畔に大鳥が生んだ亀のような大きな卵が転がっていたという。この湖は現在のゾルクル(Zorkul)湖だったとされ、今も玄奘が見た時と変わらぬ手つかずの自然が広がっている。引用した『玄奘三蔵』の著者は、同書で気になる記述を残している。
<川はワッフまたはワックといい、土地の名をワッハーンと呼んでいる。ここもトカーラの故地で、東西に千五百里もあるのに、南北の幅は四五里、狭い所は一里をこえぬ細長い国であった。住民は碧い眼をしたアリヤン系の容貌をしていたが、礼儀を知らず、みすぼらしい風采だった。都を昏駄多城といい、先代の王の建てた寺があった。岸壁を切り開いて造り、石刻の仏像を安置してある。その頭上の金銅の円蓋は種々の宝石で飾って荘厳なものであった。>
 仏教(他の宗教も)に興味があるわけではないが、玄奘が見たのは、いったいどこの寺のどの石仏なのか……。

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Louis Dupree著『Afghanistan』より。ワハン回廊の奥に見える山はソ連領のパミール。著者が1966年に撮影したものとみられる

 

ワハン観光は再開されるか

 現在の「死の谷」の住人は、タジク人、ワヒ人、そしてキルギスタンからパキスタンまで移動していたキルギス遊牧民たち。南方から来たパシュトゥーン人勢力のタリバンが、ワハン回廊に初めて足を踏み入れたのは7月初め。すでに政府軍兵士はタジキスタンに逃げ込み、蛻の殻だった。回廊の真ん中あたりにある最後の村、サルハデ・ブロギルまで何の抵抗も受けず進んでいったという。そこから先は遊牧民がたまに現れるだけで、タリバンは早々と引き返したようだ。
 ワハン回廊はどの国の領土にも属していなかったが、中央アジアの覇権をめぐる大英帝国ロシア帝国の対立「グレートゲーム」の結果、アフガニスタンの領土に組み込まれた。19世紀後半、南下するロシアと英領インドが衝突を避けるため緩衝地帯を必要にしたためだ。アフガン北部はアムダリア川が国境になったが、ワハン回廊はロシアと英領インドが地つなぎになってしまうので、へその緒のような奇妙な領土をつくりだした。東端の中国との国境も1896年までに画定し、現在の国境線ができあがる。この国境線を中華人民共和国アフガニスタンが認めたのは1964年になってからだ。
 1979年にソ連アフガニスタンに侵攻して以来、途切れることなく紛争が続き、禁断の地・ワハン回廊は人々から忘れ去られた。そのワハンに、日本のテレビ取材班が入り込んだのは同時多発テロの直前の2001年夏。女優の鶴田真由さんがワハンを行く驚きの内容だった。番組は同年12月25日に「ネイチャリングスペシャル 地球最後の秘境ワハーン アフガン・パミール高原を世界初取材」と題してテレビ朝日系列で放映され、テレビの前で釘づけになったのを覚えている。なぜ女優が軽々とワハンに行けたのか理解に苦しんだが、おそらくやり手の現地コーディネーターが関わったのだろう。
 パキスタン北部からワハン回廊に入るには、標高4977メートルのアーシャッド峠を越えるしかない。旧シルクロードの一つで、キルギス遊牧民が使っていた古来からの交易路でもある。取材班一行もこの峠を越えてワハンに向かっている。当時のワハンはタリバンと対立する北部同盟の影響下にあったので、彼らの許可も事前に得ていたようだ。回廊をすべて踏破したわけではないが、日本のテレビならではの奇抜なアイデアだ。
 米軍侵攻後、ワハン回廊は『ナショナルジオグラフィック』はじめ欧米のメディアが取材しており、秘境を求めるツーリストも訪ねるようになった。もはや秘境とはいえないが、もしタリバンが観光を認めれば、中国側から観光客が押し寄せる新たな事態も予想される。秘境が秘境であるためには、カメラマンたちが行かないのが一番いいのかもしれない。

 

「白人の地上軍」は勝てない 繰り返される失敗

 朝鮮戦争で中国と交戦した米国にとり、(冷戦下の)アジアでの共産主義の台頭は新たな脅威になりつつあった。政情不安の南ベトナムでは、ベトコンが急速に影響力を強め、米国の支援なしに国を維持することさえ不可能な状況だった。米国にとり南ベトナムの政治的価値は低かったが、ここで防共の砦を守らないと東南アジア全域が共産化するという「ドミノ理論」が幅を利かすようになり、自らフランスの後任者を名乗り出ることになる。
 しかし、ベトナムは港湾、鉄道、幹線道路などが未整備で、仮に北ベトナムのベトミンと戦争になれば、兵員動員数やインフラ整備で朝鮮戦争とは比較にならない巨額の予算が必要とされるばかりか、南ベトナム国民のほとんどがベトコン側につくことも予想された。米国がなにより恐れたのは、中国人民解放軍の参戦という悪夢の再来であり、常識的に考えたら、戦争という選択肢はありえなかった。
 ところが当時のケネディ政権は、朝鮮戦争型の共産勢力の南侵に備え、南ベトナム軍を訓練するため61年に軍事顧問団の派遣に踏み切る。南ベトナム軍のゲリラ掃討作戦を実施する軍事物資の支援も増強し、密林上空から枯れ葉剤を散布する「ランチハンド作戦」も始まった。同年末に約3千人だった駐留米軍顧問団の規模は、2年後には1万6千人に増やされている。顧問団という象徴的な存在とはいえ、米軍のプレゼンスが戦争の抑止力になると信じられたが、無能な上に腐敗しきった当事者の南ベトナム政権が気がかりだった。そこで考えられたのが「北爆」である。北ベトナムへの紛争拡大が、必然的に南ベトナムへの米国の介入強化をもたらし、戦時体制が維持できるようになると判断したためだった。こうしてインドシナ紛争の「アメリカ化」が現実のものとなっていく。
 1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で米駆逐艦に対する魚雷攻撃事件が発生。後に、事件は米軍が仕組んだものだったことが明らかになるが、ケネディ暗殺後に大統領に就任したジョンソンは、翌65年3月26日に大規模な北ベトナムへの北爆「ローリング・サンダー作戦」を開始させる。北爆は全面戦争を想定したものではなく、圧倒的な空軍力で北ベトナムを屈服させ、爆撃の停止を交渉の条件にするつもりだった。その証拠に、北爆実施の直前まで、米軍の地上戦闘部隊の派遣すら決めていなかった。
 このためベトナム駐留米顧問団のウィリアム・ウェストモーランド将軍は、北爆発進基地となるベトナム中部のダナンにある空軍施設の安全維持を目的に、海兵隊2個大隊の派兵を要請する。派兵は爆撃の1カ月前に認められ、3月8日に海兵隊3500人がダナンに上陸。米軍の戦闘部隊が初めてベトナムの地を踏んだ。それは、後にベトナム戦争の負の象徴となるウェストモーランド将軍が、名実ともにベトナム駐留の米軍司令長官になったことを意味した。
 共産主義を防ぐ砦、ベトナム…。遠いアジアでの戦争の「エスカレーション」に誰も異議を唱えようとしない中、米政府内でたった一人、介入に強硬に反対した人物がいた。トンキン湾事件捏造を含むベトナム戦争に関する米政府極秘文書、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」が71年にニューヨークタイムズ紙に暴露された際、ベトナム政策の失敗を指摘していた国務次官ジョージ・ボールの意見書の存在も明らかにされるが、そのボール次官は、北爆後の65年7月1日付のジョンソン大統領宛のメモ「南ベトナムにおける妥協的解決」で、こう述べている。

<規模をいくら増やしたところで、密林地域に人口が密集する内戦状態にあるアジアの国のゲリラ戦で、「白人の地上軍」への協力を拒み、はるかに多くの情報が敵側に提供される中で勝つ見込みなどない。>

 その根拠として、ボール次官は「9千人の海兵隊で守られていたダナン航空基地に侵入された上での奇襲攻撃は、地域住民の協力なしに実現するはずがなかった」と指摘した。ボール次官の主張は退けられ、米政府はベトコンの戦闘能力について十分な情報を得ていたにもかかわらず、「白人の地上軍」の優越さからアジア人の敵を侮り、破局へと突き進んだ。
(拙著『韓国軍と集団的自衛権』から)